ブラひも,あるいは自己と非自己の境界について

2011年3月3日

今回はとても難解な哲学的テーマを扱いたい。敷居が高いかもしれないので苦手な方は読み飛ばしていただきたい。

さて今日の最初の話題は「ブラひも」である。「ブラひも」とは何だろうか。それは,「ブラ(ジャー)」の「(肩)ひも」である。

このわかりやすい,明晰判明な事実が,フランスではえてして忘れられがちである。ここフランスでは,それはむしろ,ほとんど空気のような存在なのだ。そしてその事実自体がわれわれを当惑させる。

灼けつく太陽,急な夏の到来。スプリングコートを脱いだ女たちが,濃いサングラスとともに次に身に纏うのは,できるだけ肌を出せるタンクトップやキャミソールである。もちろん,ヒップハガーのジーンズとのあいだに覗くのは,白いまたは黒い下腹部だ。いろいろな理由があるが,老若を問わず,またスタイルを問わず,稚内(わっかない)よりはるか北に位置するパリの女性たちは,こよなく太陽を好むのだった。

日本でも女性の「ヘソ出しルック」(何か古い言い方のような――なぜか「ホンダミナコ」という名前が連想される――まあそういう世代ではある)は流行っていると聞く。しかし,全体としてのこちらのような眺めは,日本では決して見られないだろうとぼんやり思う。それはいったいなぜなのか?


▼ひとことで言うと,思うに,彼女らは日本人とは「皮膚感覚が違う」からである。ここで言う「皮膚感覚」とは,自己の境界の感覚という意味である。すなわち,大雑把な言い方をすれば,「皮膚」の内側は「自分」であり,「皮膚」の外側は「自分でないもの」である。逆に,自己と非自己の境界線を,さしあたり,体表面に位置する「皮膚」と呼ぶわけである。

その感覚が「違う」というのはどういう意味か。それは,「見せていい場所」と「見せてはいけない場所」との区別のしかたが違う,ということだ。フランス(おそらくヨーロッパ全域)の場合,日本と異なり,「ブラひも」は「見せていい場所」に分類される。したがって多くの女性はブラの上に直接キャミソールを着用しており,そのため肩ひもはたいてい左右にわたり4本が観察可能である。もっとも肩ひもが2本しか観察できない人々も存在し,そうした人々のたわわな2つのふくらみの山頂には,小さな突起がそれぞれ確認できる(書いてて恥ずかしい)。

われわれ男子としては,パリに暮らすかぎり,「セクシーに非ずんば女に非ず」とでも言わんばかりのパリズィエンヌたちのこうした開放的な身なりに,あくまで確率論的にではあれ,目のやり場に困る事態を早晩迎えることとなる。しかししばらく見ていると(あんまり見るなよ。でも見てても別にヘンではない,向こうにしても「見せていいところ」だから),何かヘンだな,と思えてくる。例えば上の服と全く色の合わないブラひもだとか,透明のビニール製のブラひもだとか(何か汗かきそう),ブラの周りの肉だとか,山頂部のシルエットにしても腹のシルエットにしても,ご自身の体型についての配慮があるわけでなし,ともかくそれはセクシーとかいう問題じゃないだろうと思われる姿が散見される。

このように,「セクシーさへの配慮」というよりも,要するに「テキトー」というか「無頓着」な様子が見て取れるのだ。「自由」を愛するパリっ子たち全員がこの糾弾の対象になるわけではもちろんないが,「見せる=魅せる」ということは「見えてもいいや」ということとは違うんだよ,と懇々と説教したくなるような(日本語で),一部の心ない人々が街を闊歩しているのが実相なのである。まあ何割がそうなのかというのはちょっと何とも言えないにせよだ。

▼フランス人のこうした無頓着さは,実は,ファッション以外の領域にもいたるところに見いだせる。近年日本で「最近の女子高生は人前で化粧をする」とか,「ジベタリアンと呼ばれる人種がいて,彼らは地面に座り込んでものを食べている」とかいった報告が,しばしば「旧人類」の驚きと呆れをもって表現されることがあったが,こちらフランスでは「いい大人」ですらそういうことを平気でするのである。私は先日バスに乗っていたときには,座席でアイラインを引いているおばさんから眼が離せなくなった。「揺れたらどうするんだ! おばちゃん,やめとけ!」と心の中で幾度も叫んだが,もちろん当人に聞こえるはずはない。ハラハラドキドキ見ていると,ついに彼女は揺れるバスの中で,何食わぬ顔で首尾よく仕事を成し遂げたのだった。このうえは「ブラボー!」のひとことを心の中で彼女に贈った次第である。ああよかった。

よく考えたら,周知のように日本人は家の中で靴を脱ぐが(もちろん世界的に少数派),こちらの人は脱がない。これもやはり,「ウチ」と「ソト」の境界線を引く場所が違っていることを示している。日本人は靴を脱いで上がれるところ(ウチ)は,自分の身体の延長といった感覚があるからそこには座るし寝ころぶ。逆にソトでは寝ころばない。チョコッと座る人が出てきた程度である。

これに対してフランス人は,まあ印象論なのではあるが,物理的=身体的レベルではウチとソトの境界が曖昧だ。ウチの範囲が圧倒的に小さいとも解釈できる(自分の身体=体表に囲まれた範囲がウチ,もしくはそれよりも小さめ,例えば自分の精神のみがウチ)し,逆に圧倒的に大きいとも解釈できる(どこに寝ころんでもOK。というのは言い過ぎだがどこにでも座りはする)。

これが彼らの衛生観念と関連してくると思われる。多田富雄氏の指摘を待つまでもなく,免疫システムというのは自己と非自己の区別を行うところから出発するものだ。日本人から見れば汚い(=非自己に属する=不快な)ものも,フランス人にとってはそれほどではない。道に犬の糞がたくさん落ちていても,犬がかわいい(=自己に近い=快をもたらす)から許す,というような。

しかし逆に,精神的にはウチとソトはきわめて厳格に線が引かれる。フランス人の友人が,「友達になるってことは,家族になるってことなんだよ」と言ったその言葉が印象的であった。家族および友人はウチ。それ以外はソト。自分にとってウチに属する人とは濃密につきあう一方,ソトに属する人をそう簡単に信用しない。このように人づきあいにおいてはフランス人はかなり保守的であるように見える。蛇足ながら,他方で外国人労働者の権利を擁護する左派リベラルみたいな知識人もうようよいるため,一般人の保守性と知識人の進歩性との齟齬が原因で,問題含みな移民社会ができあがっているようにも見えるわけである(とりあえずいろんな人を入れているが,その反面差別や不公正が日常化しているという意味で)。

▼日本人(主に旧世代)の感覚では,化粧は人前(ソト=パブリックな場所)ではなく,こっそり(ウチ=プライベートな場所)でするものである。なるほどこれは所変われば品変わるイデオロギーにすぎないが,さりとて,日本社会においてはやはり常識という名の文化的基盤の一部にはちがいない。

この,Private/Public という区別も,やはり自己と非自己の境界に関連している。自己は,自身の維持活動(食って,寝ること)を通じて,それ自体プライベートな領域を括りとる。その領域の外側,すなわち自己に属さない領域にあえて自己が「出る」「現れる」ことが,パブリックな場所に立つということである。そのように「私」と「公」を捉え,生物学的次元での自己維持の営みからまろび出つつパブリックな場所にたたずむことこそ,人間の本義たる「活動」(これはすぐれて「政治」的である)と捉えたのがハンナ・アレントという人物であったと私は理解している。

他方,フェミニズムのスローガンに「個人的なものは政治的である」というものがある。が,上述の私の解釈に従えば,これはやや誤解を招くもののように感じられる。これを掲げるフェミニストたちは,好意的に見て「一般には個人的と見られている諸般のことどもを,きっちりと政治的な議論の俎上に載せましょう」と言っているはずであり,単純に「個人的なものと政治的なものの区別などありえない」と言っているのではないはずである。しかしながら,フェミニストの中には後者の解釈(以下,「区別しない主義」と呼ぶ)をとる人々もいるようで,そこは少し違うだろうと突っ込んでおきたい(なお一部のフェミニストはアレントにアクチュアリティーを見いだすけれども,実はアレント自身はけっこう古い考えの人であったと思うのだがいかがか)。

「見せる=魅せる」という仕儀は,自己/非自己の境界を意図的に攪乱するという,人目を惹くに効果的な,しかも主体的な方法のことである。従来なら「見せてはいけな」かった部分をちょっとだけ見せるとか,あるいはもう見せていいことにするとか。そしてその一方で,それをモードの文法の変化という枠組みで「説明」するというやり方。これはなかなか高度な技である。これに対して,「見えてもいいや」というのは,端的に「公私混同」を導くものである。パブリックな場所で,あまりにだらしない格好をしているというのは,「公序良俗」に反するとさえ言えるのである。言いすぎの感もないではないが。

▼なお自己/非自己の境界を攪乱・侵犯する(アラン・ソーカルのニセ論文のタイトルを思い出しますな),ということが,ほとんどつねに「性的」な「快」に接近することであることは強調してもしすぎることはない。性交は(あーあ,ついにこんな話になってもうたぞ),男性にとっては身体の一部が他者の身体に嵌入することだし,女性にとっては体内に異物を招き入れることである。フロイトは,性感帯は身体の「穴」周辺にあると言ったが,それは必ずしも生殖器には限定されない。例えば「食べる」ことは口内に異物(非自己)を入れることだし,「糞便」というのは体内にあるときは紛れもなく異物であるとともに,体外に排出されたあともかつての自己の一部と観念されうる。自分の身体の中に何かが入り込むというファンタジー,もしくは自分の身体の一部が外にとび出てしまう(もしくは切除されてしまう)というファンタジーは,いずれもかなり気持ち悪く,恐ろしく,激しく心を揺さぶる(したがって逆に,快につながりうる)感覚を産み出すだろう。フロイトはこうした体内/体外の敷居のことを「性感帯」と呼んでいるのである。そして逆に,その部位に関わる刺激が,「性的」と呼びうるものなのである(だから,このフロイトの用語は通常の語義よりだいぶ広い範囲をカバーすることになる)。

ところで,どこかで内田樹さんが映画『エイリアン』シリーズはフェミニスト映画だと喝破していたが,その解釈は以下に述べる意味で正しい。すなわちこれらの映画では,内田さんの指摘のとおり,「エイリアンが体内に入り込み,身体を食い破って出てくる」というプロットは妊娠および出産(当然そこに含まれる「性交」も確認しておきたいところ)のメタファーにほかならず,これへの嫌悪がこのシリーズを一貫して流れる通奏低音である。ということは,このシリーズのメインテーマは「性的な快への嫌悪(抑圧)」であるとともに,「性そのものへの嫌悪(抑圧)」であると言えることになろう。つまり,「区別しない主義」的フェミニスト映画,という意味で内田さん的解釈は妥当である。

しかしながら逆説的なことに,この映画がもたらすハラハラドキドキというものは,身体に入ってくるエイリアンの恐ろしさに源泉があるのだろうし,しかももしその恐ろしさがなかったら映画が全く面白くなくなるだろうから,ということは,映画そのものはやっぱり「性的な快」のおかげで成り立っているという(妙ちきりんな)ことになるだろう。言い換えればこの映画は,見ている者がエイリアン(つまり,抽象的に言うと「性」)を嫌悪すると同時にそれに魅了されねばならない映画である。

最終的にエイリアンがやっつけられて,エイリアンと人間の区別もない,何もない,ペンペン草も生えない世界が到来し,映画は幕を閉じる。この最終的な世界は,「涅槃」と呼ばれるものに対応している。「涅槃」は,みながそこを目指す地点だけれども,到達されてしまうと面白くも何ともないホントに何もない世界である。そこでは自己も非自己もない。私も公もない。個人的なものも政治的なものもない。男と女もない(シガニー・ウィーバーのあの頭,「女優」って感じじゃないでしょう)。なーんにもない。

であるからして私は,仮に区別しない主義的フェミニストが「男も女もない世界がいいなー」と考えているのだとしたら,つまり境界そのものがない世界を理想としているのなら,「あなたはそんなペンペン草も生えないような世界を,ホントに理想とするのか?」と小一時間問い詰めたいという立場に立つ者である。

▼これに関連して,今般東京都などで「過激なジェンダー・フリー」への攻撃があるが,これについては私は微妙な立場にいる。私は憎っくき蒙昧派知事の統べる東京都とはまっっっっっっっったく違う意味で,「ジェンダー・フリー」肯定派には与さない人間である。

私がジェンダー・フリー論に賛成できない理由は,「もしそれが実現したら,人間は人間の快をほとんどすべて失ってしまうことになるから」という単純な理屈に由来している。現在2つある性を1つにするということは,とりもなおさず世界を現状より単純にすることである。この単純化で何が失われるかを考えてみれば,これはかなり大きいのがすぐに予想できる。ふつうの意味での性的な快がなくなるだけでなく,恋愛の形も著しく平板になる。現在は,男・女の組み合わせと,男・男,女・女,その他ややこしい組み合わせもいろいろと可能であるが,そういうのは全部なくなるわけだ。しかも男→女という恋愛と女→男という恋愛もきっと質が違うのに,それも消える。そうすると,そういうのに取材した小説,歌,映画,その他諸々の形式をとる芸術すべてが貧困化する。大げさに聞こえるかもしれないが,文化というもの全体が,まるごと,成立の危機に瀕すると言って過言ではないのである(ことほどさように,性ということと芸術ということとは,かくも深く結びついている)。

そんな社会はちょっといただけない。もちろん現在の社会にいろいろ問題はあるだろうけれど,道行く人のブラひもを観察しながらどうとかこうとかくだらないことに思いを馳せられる社会の方が,そんな気すら起きないであろう(他人の着衣などに何の関心も起こらないであろう)公正で平和な社会よりも,私は好ましいと思える。というか,多くの人にとってそうだろうと私は勝手に思う。

▼だいぶ前になるが,エコール・ノルマルにジュディス・バトラーがやってきて講演をした(呼んだのはカトリーヌ・マラブーだろう。今となってはむしろこの人の存在の方が気になるところである)。『ジェンダー・トラブル』のフランス語版が出た記念ということだった(何という遅さだ!)。そこでは案の定ラカン派精神分析に関する質問がいろいろ出された。バトラーはそれらに対し,「私はラカン派だろうと何だろうと,精神分析には与さない。精神分析というものは一般に,主体や家族のあり方を決めてしまう鋳型として機能してしまうものである。そういうのはよくない」と一刀両断だった。

つまらない。精神分析に対するこうした苦言は,もう私は聞き飽きた。だいたいこの人にとって「主体」というのは,生まれつき「自由」をもっている存在,自分というものを思いどおり・自由に構築してゆける存在なのだろうか。そんな主体には「サルトル」とかいう名前でもついているのではないのか。そうではなく,人間生まれ落ちたときから,自分で選べることと選べないことがあるのが当然ではないのだろうか(例えば,人は自分の「性」を選べないだろう。「生」(生まれるか生まれないか)も選べないだろう。「死」は選べた方がいいのかどうか議論中であるがたぶん選べない方がデフォルトである)。

もしも精神分析という発達理論(て言い過ぎだが)がなかったら,そもそも「最初は何でもなかった」人がどうやって(割としっかりした感じの)「主体」となるのかとか,自分の自由とは何なのかとか,その他諸々の事象についてどのように思考すればよいのだろうか。少なくとも精神分析を「既成の社会の鋳型にすぎない」と一蹴するやり方は,そのよろしくない精神分析の対案を出すことに全くならないし,したがって何ら建設的な面をもたない批判のしかたである。「Et alors ?(だからどうした?)」というような。

▼いわゆる「ポストモダニスト」たちや,フーコー派の人々(正確には私はこういう人たちは「似而非」フーコー派だと言いたいけれども。フーコーがそんなバカなはずないでしょ)は,「こんなふうに見えているけれど,実際は違うんですよ」という論法,すなわち「暴露」という論法をつねに,金太郎飴のように,とってきたように思う。例えば「〈男は男らしく,女は女らしく〉っていうのは無根拠なイデオロギーなんですよ」というようにだ。じゃあ,どうすりゃいいのか? そんなイデオロギーはなかったことにしましょう,というのが彼らのお決まりの解決である。彼らにとって「無根拠」というのは「あるべきでない」ことだから,そんなものにしがみつくのは「何かの間違い」なのである。

しかし,そうした「構築された」イデオロギーが無根拠だなんてことは最初から自明であろう。むしろ,例えば「男性性」とか「女性性」といった無根拠な観念が何でか知らないけれど現実にドミナントになっている以上,そんなご無体な現象が何で起こらんとあかんのか,何で無根拠な観念が現実に優位にならざるをえないのか,われわれはその必然性を解読しなければならないのではないか。ここを「偶然」と考えて思考停止するのではなく,さしあたり「必然」と考え,その中身を解読し,その根本原因を究明し,それを取り去るのでなければ,社会から「よろしくない」イデオロギーを本当の意味で取り払うことは金輪際できないだろうに。

しかもである。確かに「暴露」というやり方は,「王様は裸だ!」という宣言としてある程度有効だろう。しかし,けしからんイデオロギーが退場したあとに何をわれわれが構築すべきか(例えば,もっと好ましいイデオロギーをだったりね)については,結局何の教訓ももたらさないのだ。脱構築の脱だけあって構築がない,というのは,やっぱり脱構築ではない。私にとって,バトラーのコメントもそのような種類のものである。

▼そもそも精神分析というものは,自己と非自己の境界線がいかにして立ち上がるのか,という問題を扱いうる,ほとんど唯一と言ってよい理論なのである(もちろん,本質的に内容がかぶっている別分野の理論はある)。だから,精神分析を抜きにして「主体」なる言葉を使うなんてことは,21世紀にもなる今日においてはありえないのである。「主体」は元祖・無根拠なのだから。

という意味で,この分野で精神分析よりも根底的で強力な理論装置があるのならもってきてみろ,とあえて言い放っておこう。たぶんすごい量のお叱りが来るであろう(釣り?)。