社会分析学Web @中野昌宏研究室 https://socioanalysis.net 青山学院大学 総合文化政策学部(SCCS)から投げる直球。 Wed, 26 Aug 2020 15:43:10 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.5.1 https://socioanalysis.net/wp-content/uploads/cropped-mitsuwa72-32x32.png 社会分析学Web @中野昌宏研究室 https://socioanalysis.net 32 32 WordPress5.4.1によるパーマリンク変更 https://socioanalysis.net/2020/05/20/013334/233345/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=wordpress5-4-1%25e3%2581%25ab%25e3%2582%2588%25e3%2582%258b%25e3%2583%2591%25e3%2583%25bc%25e3%2583%259e%25e3%2583%25aa%25e3%2583%25b3%25e3%2582%25af%25e5%25a4%2589%25e6%259b%25b4 Tue, 19 May 2020 16:33:34 +0000 https://socioanalysis.net/?p=233345 今回のWordPressのアップデートではなかなか厳しい仕様変更があり、頭を抱えています。

パーマリンクというのは、個々のページ(記事)のURLのことですね、簡単に言うと。これまでは、記事の投稿日時https://socioanalysis.net/年/月/日/時分秒/ を一意のURLとして用いてきましたが、これを変更しないとうまく動作しなくなりました。

wordpress 5.4.1 からの障害について

これドンピシャです(泣)。

今までのURL命名規則だと、厳密にはこれは一意ではないと。たしかに、違う年月日でも偶然全く同じ時刻に投稿すると、「時分秒」のところはかぶるかもしれないですね。現実にはありえないですが。そこをWordPressでは厳格化されたようです。いやーそこまでしないでほしいというか、記事を投稿するときにURLがかぶったら警告出してくれればいいだけじゃないのかなぁ。

とはいえ、この方針は変わらないっぽいらしいようで、しかたがないので、こちら側の設定で命名規則を変更せざるを得ず、上記に「記事ID」を加えて、 https://socioanalysis.net/年/月/日/時分秒/記事ID/ としてみました。こうすれば古いURLに来ても、「続きを読む」のもうワンクリックでたどり着けるようです。とりあえずこれで回避することにします。

もっと完全な対処をするには、古いURLを参照されたときにも正しい記事を表示するために、「リダイレクト」ということをしないといけません。「古いURL→新しいURL」に変換してあげる作業ですね。

で、これを一括でやるプラグインがかつてはあったようですが、いまはどうもないようです。いや、似たようなことができるものはあるのですが、用途が違うというか、古いルール→新しいルールにガバっと置き換えられるものではなくて、個別の記事について一つ一つリダイレクト指定をしないといけないようです。ちょっとそれはつらい。

以後、直接リンクを貼りたいときは、新しいURLを参照するようにお願いします。とともに、何かよい対処法がありましたらご教示ください。

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第9条の起源 https://socioanalysis.net/2019/05/03/220338/136478/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e7%25ac%25ac9%25e6%259d%25a1%25e3%2581%25ae%25e8%25b5%25b7%25e6%25ba%2590 Fri, 03 May 2019 13:03:38 +0000 https://socioanalysis.net/?p=136478 という小見出しがついた、高柳賢三先生(1957年内閣憲法調査会会長)の一節を、2019年の憲法記念日に際してご紹介します。最後の段落だけでもよかったのですが、その前段にもいろいろと資料への言及がありますので、そこも含めて味わってください。〔 〕内は私の補足です。

 先に一言したように、貴族院でわたくしが新憲法の政府案の第9条を初めて読んだときは、これは連合国の日本非武装化政策をより永久化するためのものであろうと素朴的に想像していたが、この想像は全くまとはずれのものであったことが判明した。
(1)米本国政府は日本の降伏前から、日本民主化のため、明治憲法にどのような改正が必要化について具体的に研究していて、その成果はSWNCC 228(国務・陸・海・調整委員会228号)という文書となった。そしてこの文書は、参考のため総司令部に送られていたことは、先に述べた通りであるが、この文書中には、第9条に該当するようなものは全然ふくまれていない。むしろ軍隊の存在を前提とし、ただ英米流の文民統制(シビリアン・コントロール)の原則を確立することを目標としていたのであった。従って、第9条は米本国政府に発するものでないことは明らかである。第9条の発祥地は華府〔ワシントン〕でなく、東京である。
(2)戦争放棄に関する規定を新憲法に入れるという方針は、1946年1月24日マ元帥と幣原首相との会談に起因するものといえる。1月24日のこの会見は、わが国では、幣原首相が肺炎治療のため、マ元帥から贈られたペニシリンのお礼のためであったと伝えられているが、マ元帥によれば、幣原首相は、憲法に関してこの日の会見を求めてきたのである。この会談には通訳もなかったし、またマ元帥の側近ホイトニー准将も立会ってはいないので、2人きりの会談であった。そうして、この会見直後、マ元帥がホイトニー准将に語ったとされることがホイトニー著 “マッカーサー”〔1955。『日本におけるマッカーサー――彼はわれわれに何を残したか』毎日新聞社外信部訳、毎日新聞社、1957〕のうちにやや詳細に書かれている。また、マ元帥のわたくしへの手紙〔1958年12月15日付〕のうちで、マ元帥は “戦争放棄を新憲法に入れるという幣原の提案を聞いて、初めは吃驚した。幣原はわたくしが職業軍人であるので、その提案がどう受取られるか気づかっているようであったが、わたくしがこれに承認を与えると幣原は安心した顔付きになったのが極めて印象的だった” といっている〔この記述はホイットニー『マッカーサー』や、それを借用しているマッカーサー『回想録』とも共通〕。また元帥は米国上院での証言中、感激し立上がって幣原氏にだきついたといっているが、幣原もマ元帥がだきついてきたので吃驚したと、その無二の親友大平駒槌氏に語ったことが、大平氏の息女のとったメモのうちに記録されており、この点は一致している。とにかくこの会談で、戦争放棄のことを新憲法のうちに入れる方針がきめられたことはたしかである。2月初旬、総司令部民政部に対し、モデル草案の起草を命ずるに際し、マ元帥は、起草方針として3原則を示したが(マッカーサー・ノート、マッカーサー3原則)、その第2項に第9条の原型となった戦争放棄の原則がかかげられている。この3原則を渡された際、主な起草委員の一人であったラウエルは、ホイトニーからこの第2項は、“日本政府の提案である” といわれたが、“幣原” の提案とはいわれなかったと陳述している。この第2項はホイトニーによれば、マ元帥と幣原首相の会談の内容を、マ元帥が書いた “ラフ・ドラフト” であった。そしてここに注意すべき点は、この第2項には “自国の安全を保存するためにも” という字句が見いだされることである。なぜかかる字句が入ったのかといえば、幣原首相との会談中 “自衛戦争の名の下に侵略戦争が行なわれた” というようなことを幣原首相がマ元帥に語ったことが、影響したのではないかと推測される。民政部の法律家〔ケーディスと判明している〕がこの第2項を条文の形に直すときに、この字句は除去された。これは、自衛のためにも戦争ができないというのは、いかにも非合理であると考えられたからである。かくして日本政府に渡されたモデル案には “自己の安全を保存するためにも” の字句はなくなっていた。3月6日、日本政府案要綱が公表された後、また政府案の発表された4月17日前の4月5日に、マ元帥は対日理事会の第1回総会に出席して各国代表にたいし演説した。その演説で、マ元帥は占領政策の実施についてのかれの心構えといったものを語っているのだが、その際に右要綱中の戦争放棄条項にふれ、この日本政府の提案は、各国において十分検討に値するものである。なぜなら戦争放棄は “普遍的かつ同時的” でなければならないからという趣旨のことを述べている。つまり日本政府のこの提案は、日本だけで実現できるものではなく、各国ともこの提案に従うことによって、初めて実現しうるものであることを彼は説いているのである。
 第9条の発祥地が東京であり、1月24日のマッカーサー・幣原会談に起因する点は疑われていないが、その提案者が幣原かマッカーサーかについて、日本でもアメリカでも疑問とされていた。調査会における大多数の参考人は、幣原ではなかろうマ元帥だろうと陳述したが、青木得三、長谷部忠など少数の参考人は幣原だと陳述した。そこで念のため、わたくしからマ元帥にこの点をたしかめたが、マ元帥は、従来の言明どおり、幣原だとハッキリと述べ、かつ右に述べたようなそのときの情況をつけ加えた。しからば、幣原はどうかというと、1946年4月以降多くの内外人に向ってしばしば、あれは自分の提案だという趣旨を語っているので、この点についてマ元帥の陳述を裏書していることになる。またこれより先、同年2月初旬に、モデル案の起草を命ぜられた際に、ホイトニーがラウエルに “日本政府の提案” といったというラウエルの陳述、その他の証拠も、その傍証となっている。ところが、幣原首相に近かった多くの人達は、当時幣原がそんなことはおくびにも出さなかったことと、2月22日の閣議で第9条の提案者がマ元帥であるかのごとき発言をしていたので、提案者は幣原ではないと推測したのも無理からぬところである。しかし調査会の集めえたすべての証拠を総合的に熟視してみて、わたくしは幣原首相の提案と見るのが正しいのではないかという結論に達している。じかに幣原氏から自分の提案だと聞いた調査会の参考人長谷部忠氏は、閣僚諸氏は幣原さんにごまかされていたのだったという趣旨のことを述べているが、この長谷部氏の陳述は、当時の事情を背景として考えると、的外れの推定ではないようにわたくしには思われる。

(高柳賢三『天皇・憲法第九条』有紀書房、1963、74–77)

 

多少解説します。

第1条と第9条はバーター(取引)なんだよと言われているのですが、それを裏づける資料があるかと言われると、一つの資料でというのは難しいのですが、いちばん説得力のあるのはやはり「平野文書」かなと思います。これがいちばん深く合理的・理論的な説明を与えてくれます。むしろこれ以外に、なぜこうでなければならなかったのかという「理屈」が書いてあるものがないです。

アメリカが日本政府に憲法改正を急がせた理由は、1946.02.26に発足予定だった極東委員会に関連する国際情勢です。天皇の戦争責任を追及し、かつ天皇制システムそのものを危険視する国が多かったためです(オーストラリア、ニュージーランド、ソ連など)。天皇が最高責任者なのですから、その戦争責任を追及するのがまぁ当然でもあり、アメリカ本国でもその世論のほうが強い。つまりこのままほっとくと天皇制の存続がヤバいという情勢でした。

アメリカは、実質的に自分たちが占領統治するわけですよね。そこでコストをかけたくないわけです。天皇を除いて全国に軍政を敷くのはたいへん。しかし、天皇を残して間接統治すれば比較的ラク。何しろ日本人は天皇の言うことなら何でも聞くんですから……。そういう計算が実は前々からなされていました。つまり、天皇制存置はアメリカの既定路線。問題は「そんなアホな」と言うであろう極東委員会をどうやったら説得できるか、ですが……。

1946.01.24 幣原・マッカーサー会談(人呼んで「ペニシリン会談」)
1946.01.25 マッカーサー、天皇の戦犯除外につきアイゼンハワーに書簡
1946.02.01 毎日新聞による日本政府案スクープ(暴露)
1946.02.03 マッカーサー・ノート(1. 天皇存置 2. 戦争放棄 3. 封建制廃止)
1946.02.04〜12 GHQ案作成作業
1946.02.13 いわゆる「押しつけ」の儀(於・吉田外相邸)
1946.02.21 再び幣原・マッカーサー会談
1946.02.22 会談内容につき閣議報告(→芦田均日記に記録)。受け入れ方針決定。天皇に上奏

このタイムラインの中で、いったい何が起こったのか、自分だったらどう考えて何を提案するか。ここでお示しした資料を全て眺めつつ、皆さんもぜひ想像・推理してみてください。

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青山学院管弦楽団 第113回定期演奏会 https://socioanalysis.net/2018/10/19/155901/71316/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e9%259d%2592%25e5%25b1%25b1%25e5%25ad%25a6%25e9%2599%25a2%25e7%25ae%25a1%25e5%25bc%25a6%25e6%25a5%25bd%25e5%259b%25a3-%25e7%25ac%25ac113%25e5%259b%259e%25e5%25ae%259a%25e6%259c%259f%25e6%25bc%2594%25e5%25a5%258f%25e4%25bc%259a Fri, 19 Oct 2018 06:59:01 +0000 https://socioanalysis.net/?p=71316 つい先日から私が顧問をしている青山学院管弦楽団(青学オケ)ですが、来る11月3日(土祝)18時より、東京オペラシティコンサートホールにて、秋の定期演奏会を行います。

なぜか私も2曲め・リストの「前奏曲」の末席を汚すことになっております。ちなみに顧問が舞台に乗る、というのは青学オケ史上初だそうです。皆さんちょっとした歴史の証人になりにいらしてください。

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公開ゼミ「知ってた? 日本国憲法――成立史と国際的意義」 https://socioanalysis.net/2018/05/07/150945/2602/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e5%2585%25ac%25e9%2596%258b%25e3%2582%25bc%25e3%2583%259f%25e3%2580%258c%25e7%259f%25a5%25e3%2581%25a3%25e3%2581%25a6%25e3%2581%259f%25ef%25bc%259f-%25e6%2597%25a5%25e6%259c%25ac%25e5%259b%25bd%25e6%2586%25b2%25e6%25b3%2595%25e2%2580%2595%25e2%2580%2595%25e6%2588%2590%25e7%25ab%258b%25e5%258f%25b2%25e3%2581%25a8%25e5%259b%25bd Mon, 07 May 2018 06:09:45 +0000 http://nakanos.sakura.ne.jp/socioanalysis/?p=2602 下記のイベントを開催します。入場無料、予約不要です。ミニコンサート(クラシック系)やちょっとしたサプライズもあります。青学の方も、そうでない方も、よろしければどうぞお運びください。

日時: 2018年5月19日(土) 開場13:30 開演14:00 終演17:00(予定)

場所: 青山学院大学青山キャンパス 17号館6階 本多記念国際会議場

プログラム:

第1講 「知っててほしい日本国憲法の成立経緯」
中野昌宏(青山学院大学総合文化政策学部教授)

第2講 「日本国憲法と国際人権・刑事法」
高山佳奈子(京都大学大学院教授) × 中野昌宏(同上)

音楽演奏:

管弦楽の集い Pax(パークス) & 合唱グループ Libertas(リベルタス)

お問い合わせ:

中野研究室 / PDF版チラシはこちら

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自民党は憲法をどうしたいのか(2) https://socioanalysis.net/2017/12/24/204728/2537/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e8%2587%25aa%25e6%25b0%2591%25e5%2585%259a%25e3%2581%25af%25e6%2586%25b2%25e6%25b3%2595%25e3%2582%2592%25e3%2581%25a9%25e3%2581%2586%25e3%2581%2597%25e3%2581%259f%25e3%2581%2584%25e3%2581%25ae%25e3%2581%258b%25ef%25bc%25882%25ef%25bc%2589 Sun, 24 Dec 2017 11:47:28 +0000 http://nakanos.sakura.ne.jp/socioanalysis/?p=2537 9条改憲の危険性や、いわゆる「緊急事態条項」の危険性はしばしば指摘されていますが、私が個人的に自民党の改憲草案でいちばんひどい(逆に言えば、彼らの意図がわかりやすい)と思うのは、「憲法尊重擁護義務」の部分です。この件はあまり語られていないようですので、これについて指摘したいと思います。

現行日本国憲法の第99条には、次のようにあります。

第99条(憲法尊重擁護の義務)
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

多くの人が誤解していますが、現行憲法において、憲法を尊重し擁護する義務があるのは天皇や公務員たちであって、一般国民ではないのです。たとえば民間企業内などで人権侵害がある場合は、それが直接憲法違反になるのではなく、そうした企業に行政が指導をすべき(しない場合憲法違反)、ということになる理屈です。

これを自民党はこう変えたいと言います。

第102条(憲法尊重擁護義務)
1 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。

どこがどう変わったのでしょうか? 

まず第1項で、先ほど確認したように、「国民」が今まで負わなかった義務を追うことになりますよね。「全て国民」って、「全ての国民」のことですかね。また第2項で、「天皇又は摂政」が義務から外されています。

これね、どういう意味だと思います?

絵に描いてみると、次のようになります。「憲法を守らないといけない人」を黄色く塗ってみました。上が現行日本国憲法、下が自民党改憲草案の、憲法尊重擁護義務が課される対象範囲です。

現行憲法99条
現行日本国憲法

自民党草案102条
自民党改憲案

現行憲法は、国民主権の観点から、国民が主体となって国家機構に権力を預けるいっぽう(授権規範)、その強大な権力・権限を一手に握る国家機構に一定の歯止めをかけるもの(制限規範)です。憲法の力の源泉は、「憲法制定権力」とされる「国民(の権利)」に由来していて、つまり一般国民が国家権力の範囲を制限するという、下が上を縛るかたち、すなわち「立憲主義」の体制を戦後日本国はとってきました。日本だけではなくこれがグローバルスタンダード・普通の「近代国家」の体制です。このタイプの憲法を「近代的意味の憲法」あるいは「立憲的意味の憲法」と言います。

それに対し、自民党の目指す国家体制では、天皇の権力を制限するものは論理的に何もありません。むしろせっかくあったのに取っ払って、リミッターが外された状態です。上が下を縛るかたちに大きく変更です。プラス、自民党草案では天皇は国家元首と明記されるんでしたよね(「第1条 天皇は、日本国の元首であり、……」)。つまり自民党草案は、国家元首の権力をいっさい制限しない憲法、という謎憲法……というか「近代憲法とは言えない何か」になっています。

となると自民党の言う改憲って、国民主権から、天皇主権(国家主権)への移行のことですよね? ボトムアップ体制から、トップダウン体制への移行ですよね? いわば、まさに、大政奉還ですよね? 逆市民革命ですよね? これは体制変革なのですから、れっきとした革命です。

それでなくても安倍自民党は「日本会議」と人脈的・思想的に結びついていて、その政策は「戦前回帰」志向であるとの批判をしばしば受けています。それも一面の真実だと思いますが、上の観点から見れば、彼らのしたいことは戦前などよりももっと以前に戻そう、王様のいたような時代に戻そう、「近代国家をやめよう」と読めます。

伊藤博文ですら「そもそも憲法創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」と言っているのに……。つまり明治憲法=大日本帝国憲法もいちおう立憲主義を建前としているのに、その建前すら否定してしまうのです、いまの自民党は(昔の自民党は、「立憲主義って何それ?」なんてことはさすがに言いませんでした)。ということは、総合すると、自民党の狙いは、戦前どころか明治憲法以前に戻すということ。いくらなんでも異常です。

自民党がこういう前近代的・復古的な発想になってしまうのは、近代的な概念である「基本的人権」を彼らが認めたくないからです。「人権」を認めないというよりは、人権が「基本的 fundamental」であることを認めない、と言ったほうが正確かもしれません。が、まぁあんまり変わりません。どちらにせよ、彼らにとっては人権は「基本的」(誰もが生まれながらにもっているもの、という意味で)ではなくて、「国が下々に与えてやるもの」だからです。いわば「国賦人権論」。「国」が最高の位置じゃないとどうしてもイヤなんですね。

そのことは、片山さつき議員のちょっと知られたツイートがきわめて明瞭に表しています。個人の見解というより、「私たち」が主語ということは、党の見解と見てよいでしょう。一時炎上したこともありましたが、今もって消されていないので、現在も維持されている考え方のはずです。

国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。……(2012年12月7日)

天賦人権論」とは、「人間は生まれながらにして不可侵の権利を持っている」、つまり「人権は、ファンダメンタルだ」という説。18世紀のヴァージニア権利章典がその嚆矢。一般国民が「憲法制定権力」であるのも、「基本的人権」があるからですよね。これは、謎の「天」とかキリスト教の神様とかが人権をなぜかくれるという話ではなくて、人類が血で血を洗う歴史の中で「最低限そういうことにしておかないとヤバい」と気づき、それを権力機構の中に書き込むことで、やっと獲得されたものなんだという話です。「人には生まれながらに権利がある」とはこれはこれでフィクションではあるのです。あるのですが、そうなってないとヤバいわけです。

たとえば勤労、納税、教育が現行憲法の指定する義務ですが、さまざまな理由で勤労できない人、納税できない人などは現実にいるわけです。こういう人たちに「あんたにはちょっと人権はあげられないなぁ。まず義務を果たしてから言いな」とか自民党政権は言うわけです。実際、生活保護受給者とかにそういう扱いしてますよね。臣民が奉仕することでやっと国から「人権」がもらえる。――こんなの人権ですかね。御恩と奉公じゃ、まるでかまくら時代じゃないですか。

人権って、そういうものじゃないでしょう。「義務を果たさなくていい」なんて別に誰も思ってなくて(大半の人はちゃんと納税してます)国が義務とか言う以前に、国家成立以前に、最低限「誰にでも生きる権利くらいはある」というだけの話です。そしてたとえば「戦争」は、人々のそういう最低限の基本的な権利(cf. 平和的生存権)を暴力的に奪い去っていくわけです。国家はむしろ、そういうことから国民の生命財産を守らなければならない。

「人権」がありとあらゆる価値の中で「底」なのです。この底が抜けると本当にヤバい。

ここ、97条ですよね。97条は自民党草案で全削除。「ストーンと」削除(礒崎陽輔談)。自民党はまさにこの「人権が基本的である理由」を憎んでいるのです。それは「国家」よりも上位の普遍的な価値を規定するものだからです。彼らはそれをヨーロッパ特有のものだなどと言いたいようです。はぁ。日本の神様はそんな血も涙もない存在なのでしょうか。そんなわけはないはず。

要は、「ボトムアップの民主主義はやめる。トップダウンの君主主義に戻す。庶民はガタガタ言うな」というのが「行きすぎた個人主義」とか言ってくる自民党の本音だということが、この改憲草案にはっきりと、きっぱりと、明晰・判明に表れているということです。という批判がすでにあるのに、まったく撤回するそぶりもありませんから、やはり客観的にそうなのです。

安倍自民党政権をどう評価するか。かずかずの公約違反に始まり、アベノミクスもよくわからん、特定秘密保護法・安保法制・共謀罪などの統制的で不備の多い政策、閣僚の不正腐敗、モリカケ問題などに見られる行政の私物化など、どれも個々に重大問題ではあります。がそれ以上に、われわれはすべてを一続きのものとして、整合的に理解する必要がありますよね。緊急事態条項も、これを憲法に書き込めば厄介な「制限規範」を一気に無効化できるからです。とにかく「オレの自由にさせろ」で一貫しています。

自民党の政策の多くは、上述のような復古的で父権的(パターナリスティック)な体制への憧れから発しています。「日本会議」のイデオロギーですね。では自民党以外に選択肢があるのか。それは当然あるでしょう。自民党の中にも別の解があるのかもしれません。

われわれ有権者がどの政党を支持するかを決めるにあたっては、異常なことですが、「政策」レベルで論じるだけでなく、「政体(政治体制)」レベルで検討する必要があります。どんな政体をわれわれは選択すべきなのか。立憲主義の意義と重要性をはっきりと理解し、述べているのはごく少数の政党、少数の候補者のみです。ですから日本を封建制国家に戻したくないと思う人にとっては、選ぶことはそう難しくはありません。

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自民党は憲法をどうしたいのか(1) https://socioanalysis.net/2017/10/29/213511/2488/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e8%2587%25aa%25e6%25b0%2591%25e5%2585%259a%25e3%2581%25af%25e6%2586%25b2%25e6%25b3%2595%25e3%2582%2592%25e3%2581%25a9%25e3%2581%2586%25e3%2581%2597%25e3%2581%259f%25e3%2581%2584%25e3%2581%25ae%25e3%2581%258b%25ef%25bc%25881%25ef%25bc%2589 Sun, 29 Oct 2017 12:35:11 +0000 http://nakanos.sakura.ne.jp/socioanalysis/?p=2488 衆議院選挙が終わり、「改憲勢力」が3分の2を占めたことで、これから憲法論議が始まるはずです。憲法には所定の改正手続きがあり、いい改憲なら別に問題ないのですが、安倍政権下での改憲は国民の権利を縮小しかねないという声がずいぶん前からあがっています。

その決定的な根拠となるのは、2012年の自民党改憲草案です。自民党の本音、本当にやりたいことはここに書かれています。撤回もされていませんので、この本音は基本的に現在も生きていると考えるべきです。ただ、これは法律の条文ですから、一般に読み解くのは簡単ではないでしょう(この草案の条文については、私の「意見」ではない範囲で、私の授業内でも一部取り扱います。きちんと研究したい人のために、詳しい条文の分析はたとえばこちらが便利です)。

その点、同時期の自民党内「創生「日本」」というグループ(実質上の安倍派)の動画はそのエッセンスをわかりやすく伝えていると言えます。まずはこれをごらんください。たった2分半ほどです。つけてある字幕が毒々しいですが、そこは割り引いて……。

なお、上は小畑さんという方が編集されたものですが、オリジナルは公式のもの、こちらです。これも削除されておらず、現在も広く公開されているものです。創生「日本」の他の動画もYouTubeで多数見ることができます。こういった方向性が基本的に安倍さんを中心とするグループの考えであると思ってよいでしょう。

国民主権、基本的人権、平和主義、この3つをなくさないと、本当の自主憲法にはならない」と長勢甚遠・元法務大臣がはっきりと発言していますね。小・中学校で勉強する日本国憲法の3大原則を削除せよとは、かなり驚くべき発言ではないでしょうか。その理由たるや、「人権がどうだ、平和がどうだ、と言われると、怖じ気づくから」だそうです。彼らは国防軍や尖閣の軍事利用にも言及していますし、要は「怖じ気づかずに、お国のために戦え」ということでしょうね。

彼らにとっては、日本国憲法はGHQによる「押しつけ憲法」であり(事実とは異なります。また別の機会に)、それに基づく体制は「戦後レジーム」という悪い体制、ということになっているのです。

平和主義(9条)の問題ももちろん重大なのですが、まずそれ以前に国民主権と基本的人権をなくすとはどういうことなのか、ピンときますでしょうか。国民主権がなくなるということは、国家主権になるということですよね。いまと違って、国家が一方的に国民を統治する、というスタイルに変わるということです。

これはものすごく大きな変更。復古的な体制変革、反動革命です。「政策」レベルの問題ではありません。「政体」レベルの問題です。したがって、現在の自民党の立場を「保守」と見なすことには大いに問題があります。

具体的に考えてみると、この変革によって、個人にとって国家の命令は絶対、ということになります。「死ね」と言われれば死なないといけないし、「家屋敷を差し出せ」と言われれば差し出さないといけません。いま――近代以降――は私たちは「基本的人権」=人間として最低限の権利によってプロテクトされていて、国家権力と言えどもむちゃくちゃは言えない(言う権利がない)ことになっていますが、そこは担保されなくなるということです。国が私たちの家屋敷を取り上げても、私たちには文句を言う権利自体がなくなります。現にいま沖縄で起こっていることですよね。

近代憲法とは、国民主権を前提として、国家権力(かつては王権)の暴走を防ぐために、国家権力にはめる「たが」です。「王といえども法に従わねばならない」(「法の支配」と言います)というリミッターが近代憲法なのです。こうした憲法を制定したうえで、これに基づいた政治を進める考えを「立憲主義」と言います。

ですから、リミッターを外して好き勝手にやりたいという自民党は、「立憲主義を理解していない」「戦前回帰を狙っているのではないか」と言われるのです。

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頑張らない選挙情報 https://socioanalysis.net/2017/10/18/191157/2479/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e9%25a0%2591%25e5%25bc%25b5%25e3%2582%2589%25e3%2581%25aa%25e3%2581%2584%25e9%2581%25b8%25e6%258c%2599%25e6%2583%2585%25e5%25a0%25b1 Wed, 18 Oct 2017 10:11:57 +0000 http://nakanos.sakura.ne.jp/socioanalysis/?p=2479 学生には「もっと政治に興味を持ってほしいなぁ」と思うのですが、なかなか難しいです。

と、思っていたら以下の記事を見つけました。

「投票しろ!だけ言うのは無責任」26歳が作った“頑張らない”選挙情報サイト

Buzzfeed / Japan Choice より

逆転の発想というか、たしかにこういうものがあれば、という代物です。

本体はこちらです。

Japan Choice

今度の選挙に、ぜひご活用ください。

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カナダから帰還しました https://socioanalysis.net/2017/09/16/225330/2461/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=post-2461 Sat, 16 Sep 2017 13:53:30 +0000 http://nakanos.sakura.ne.jp/socioanalysis/?p=2461 皆さまこんにちは、中野です。

このブログも完全に冷温停止していましたが、ゆるゆると再開していきたいと思います。

1年間のサバティカル(研究休暇)として、カナダはバンクーバー(ヴァンクーヴァー、が正しい表記ですがまあこれで)のブリティッシュ・コロンビア大学(University of British Columbia、以下UBC)のアジア研究所(Institute of Asian Research)に滞在しておりましたが、このほど帰還いたしました。本当であればカナダから書き込めばいいのに、戻ってきてからの投稿です。いやー、充実してたので。研究上・生活上でさまざまな方々のお世話になりながら、とてもすばらしい経験をさせていただきました。その中身についても少しずつここで開陳していきたいと思います。

なぜバンクーバーだったか。それはですね。日本国憲法制定史を調べていて、ハーバート・ノーマンに興味をもったからです。

E. Herbert Norman (1951, Ottawa)
E. Herbert Norman (1951, Ottawa)

ハーバート・ノーマンはカナダの外交官であり、同時に日本研究者でもあります。宣教師ダニエル・ノーマンの第3子として軽井沢に生まれ、15歳まで日本で育ちますが、その後トロント大学、ケンブリッジ大学、コロンビア大学、ハーヴァード大学で学び、博士号を取得。そのまま研究者にはならず、外交官としての道を歩みます。

この人がどうして日本国憲法ないし戦後占領政策に関係するのか。少なくとも2つのルートが考えられます。1つはマッカーサールート。もう1つは鈴木安蔵ルートです。

ノーマンは終戦後すぐ、9月の半ばにはカナダ代表団の一員として日本に来ますが、その学識を高く買われてGHQで働くことになります。これ以上の日本専門家はいない、ということで、マッカーサーのノーマンに対する信任はそうとう厚かったそうです。

鈴木安蔵とノーマンの関係は、カナダ大使館の書記官時代にノーマンが鈴木安蔵を訪問したのが最初で、彼らは1941年に尾佐竹猛らを中心に立ち上げられた「憲法史研究会」でも顔を合わせています。1945年9月23日(日)*に、都留重人に伴われて鈴木安蔵宅を訪れた* 都留重人宅に滞在中のノーマンは、訪問してきた鈴木安蔵に、大日本帝国憲法の根本的改正の必要性を説いたと言います。

* この日付と事情、通説と違いますが、なぜそうなのかはおいおい説明しますね(→このことは日本カナダ学会の学会誌掲載の論文になりました)。

細かく書くと長くなりますが、そういうわけで、ハーバート・ノーマンの考えが、マッカーサーを通じて日本の戦後占領政策に影響したかもしれないし、鈴木安蔵を通じて新憲法の内容に影響したかもしれない。そのように考えられるわけです。面白いことに、そこは右派の人たちも同様に考えているようです(この講演原稿はこちらから)。

ノーマンは、ケンブリッジ時代に共産主義団体と関係したということで「赤狩り」の厳しい追及に会い、1957年、大使として赴任していたエジプトのカイロにて自殺してしまいます。UBC図書館には、そんなノーマンの残した手紙や原稿、メモ、新聞記事のクリッピングなどが収蔵されており、ノーマン自身がかつて所有していた蔵書も数百冊収められています。

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マッカーサー 対日理事会演説より https://socioanalysis.net/2016/05/03/115921/2414/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2583%259e%25e3%2583%2583%25e3%2582%25ab%25e3%2583%25bc%25e3%2582%25b5%25e3%2583%25bc-%25e5%25af%25be%25e6%2597%25a5%25e7%2590%2586%25e4%25ba%258b%25e4%25bc%259a%25e6%25bc%2594%25e8%25aa%25ac%25e3%2582%2588%25e3%2582%258a Tue, 03 May 2016 02:59:21 +0000 http://nakanos.sakura.ne.jp/socioanalysis/?p=2414 今日は2016年の憲法記念日です。日本国憲法が「公布」されたのは1946年11月3日、明治節の日でした。そして「施行」されたのが1947年5月3日。したがって、今日は日本国憲法「施行」69年目の記念日で、まだ70年目ではありません。でも施行日そのものを含めると70回目ではあるかな、と。どう数えるかの問題ですが、それなりに節目かもしれません。

さて、その憲法記念日にちなんで、一つテキストをご紹介します。1946年4月5日(GHQ案を受けた日本政府案がまとまって割とすぐ)に、マッカーサーが第1回対日理事会(Allied Council for Japan、極東委員会の東京出先機関です)で行った演説の抜粋です。原文はこちらにあります(が、画像だけでテキスト化はされていません)。以下の和訳は、憲法調査会小委員会『日本国憲法制定の由来』(時事通信社、1961年、pp. 258–260)からの引用です。ではどうぞ。

第1回対日理事会で演説するマッカーサー
第1回対日理事会で演説するマッカーサー

(前略)

 提案されたこの新憲法の条項はいずれも重要で、その各項、その全部が、ポツダムで表現された所期の目的に貢献するものであるが、私は特に戦争放棄を規定する条項について一言したいと思う。これはある意味においては、日本の戦力崩壊から来た論理的帰結に外ならないが、さらに一歩進んで、国際分野において、戦争に訴える国家の主権を放棄せんとするのである。日本はこれによって、正義と寛容と、社会的ならびに政治的道徳の厳律によって支配される国際集団への信任を表明し、かつ自国の安全をこれに委託したのである。皮肉家は、かかる行為を夢の如き理想への示威的な、しかも小児的な信仰と見るかもしれないが、実際家は、これをもっと深い意味に見るであろう。実際家の見るところでは、社会進化の行程において、人類は国家をつくる際、その構成員である自分達を支配する統治権を国家に与えるために、人間本来のものであるある種の権利を投げ出さねばならなかった。その政治体に譲り渡した権利の第一番のものは、隣人との争いの解決に、力をもってするという、人間としての原始的な権利であった。社会の進化につれて、団体または州国家は、同じ方法でいっしょになって集合国家を作り、本来の権利を投げ出して、集合意思の表示である統治権力に服従することにした。こんな方法で、北米合衆国は出来上がったのである。国家の統治権をつくるために、個々の州は本来の権利を放棄した。最初は州が各個人の人格を認め、その保護者となり、後には国家が各州の独立権を認め、その保護者となったのである。

  日本政府は、今や国家の政策としての戦争が、完全な失敗であることを知った人民を支配しているのであるが、この日本政府の提案は、事実上人類進化の道程における更にもう一歩の前進、すなわち国家は戦争防止の方法として、相互間に国際社会道徳上、または国際政治道徳上、さらに進んだ法律を発達させねばならぬということを認めたものである。文明の進歩および存続は、疑いもなくかかる前進の一歩が絶対必要であることを、良い時期に認めるか否かに専らかかっている。いいかえれば、国際紛争の判定者としての武力が全然無益のものであることを、各国家が認めるか否か、力による脅迫、国境侵犯、秘密行動、および公共道徳蹂躙などから必然的に由来する猜疑、不信、および憎悪などを、国際関係から除くか否か、戦争の場合、その恐るべき大殺戮の重荷を主として担う大衆の厭戦心を具体化するだけの道徳的勇気を持った世界的大指導者が出現するか否か、地上の各国民が支持しかつ従属するより高い法律があり、日本のような国が安心してその独立をそれにまかしうるような世界秩序ができるか否か、にかかっている。そこにおいてのみ、初めて永遠の平和への途があるのである。

  ゆえに私は、戦争放棄の日本の提案を、世界全国民の慎重なる考察のため提供するものである。これは途を――ただ一つの途を指し示すものである。連合国の安全保障機構は、その意図は賞讃すべきものであり、その目的は偉大かつ高貴であることは疑えないが、しかし日本が、その憲法によって一方的に達成しようと提案するもの、すなわち国家主権の戦争放棄ということを、もしすべての国家を通じて実現せしめ得るなら、国際連合の機構の永続的な意図と目的とを成就せしむるものであろう。戦争放棄は、同時かつ普遍的でなければならない。それは全部か、しからずんば無である。それは、実行によってのみ効果づけられるのである。言葉だけでなく、平和に尽力する万人の信頼できる、明白にして偽りのない行動でなければならない。意志遂行のための現存の用具、すなわち構成各国家のもちよる武力は、各国民がなお国家主権の交戦権を併存のものとして認めるかぎり、よく行っても一時的の手段でしかあり得ない。

  近代科学の進歩のゆえに、次の戦争で人類は滅亡するであろう、と思慮ある人で認めぬものはない。しかるになおわれわれはためらっている。足下には深淵が口を開けているのに、われわれはなお過去を振り切れないのである。そして将来に対して、子供のような信念を抱く。世界はもう一度世界戦争をやっても、これまでと同様、どうにか生き伸びうるだろうと。この無責任な信念の中に、文明の恐るべき危機が横たわっているのである。

  われわれはこの理事会において、近代世界の軍事力および道義の力を代表しているのである。戦争という高い代価を払ってあがなった平和を固めかつ強めることは、われわれの責任であり仕事である。ゆえに、ただいま私が簡単にその梗概を説明した決定的条件を国際部面において処理する上に、国際間の思想と行動を理性の支配のもとに引き戻し、世界に貢献するという高い水準において、必然、相当の役割を果すことができよう。それによって、世界人類の教養ある良心から、満腔の共鳴をうけるような平和維持のため、世界をして、さらに一歩、より高き法則に歩みよらせることが、われらにできるよう祈りを捧げるものである。 

(『日本国憲法制定の由来』、pp. 258–260)

この演説が非常に興味深いのは、社会学などで言う「ホッブズ問題」(人間がたくさんいると「万人の万人に対する闘争」状態になってしまうので何らかの解決策が必要だが、ではどうすればよいか、という問題)の安定解として、マッカーサーはカント的永遠平和、要はまあ国連安保理を中心とした集団安全保障体制的なものを理想とするのですが、その具体的成功例として、アメリカ合衆国そのものの成立を挙げているところです。つまり、個々人が本来もっているはずの権利を一部放棄して国家に服従するのと同様に、各州が本来もっている権利を一部放棄して連邦に服従することで、安定的体制を維持している、というのです。現に合衆国が実在するのだから、世界人類にとっても同様の解決は不可能ではないというわけです。

いっぽう当時の首相・幣原喜重郎は、側近平野三郎による聞き書き「平野文書」において、同じことの実例を、300年続いた徳川体制であるとしています。こちらは現存ではなくて壊れてしまった体制ですが、理屈としてはこれらは全く同じ理屈であり、2人が意外に思想的に深いところで共鳴しているのがわかります。

ホッブズ問題は、ゲーム理論に言う「囚人のジレンマ」を表現している、としばしば言われます。相互に相談できない状況(非協力ゲーム)で、協力するか、しないかを選ぶ。そのままだとみんな協力しないで殺し合いになる。この設定にはまり込んだらそういう結末しかありません。しかし、その設定そのものから抜け出ようぜ、というのがマッカーサーと幣原の言う「ただ一つの途」であり、9条であると言えるのではないでしょうか。これは結局、非協力ゲームを協力ゲームにずらそう、という話だと思います。

※フォン・ノイマンの『ゲーム理論』という本は1928年に出ていますし、有名なモルゲンシュテルンとの共著『ゲーム理論と経済行動』も1944年です。マッカーサーと幣原、2人とも軍事・外交というゲームの中でずっと生きてきた人たちですから、ある程度知っていてもおかしくはないですね。

戦争放棄・戦力不保持という奇策は、単なる理想論とかお花畑とかではなく、逆に捨て身の賭け(「死中に活」)であると同時に、理論的にもそこに答えがないのならどこにも答えはないだろうというような、究極の選択肢だったわけです。このインパクトを日本国民が理解し、全世界に主張し広めていかないと、守るだけでは実はダメだということも再確認できます。最近「クールジャパン」というのが盛大に履き違えられていますが、これこそクールなアイディアでしょう。

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【2016.04.23】Ensemble for Peace――平和と自由を愛する合奏団 https://socioanalysis.net/2016/04/18/234600/2390/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2580%25902016-04-23%25e3%2580%2591ensemble-for-peace%25e2%2580%2595%25e2%2580%2595%25e5%25b9%25b3%25e5%2592%258c%25e3%2581%25a8%25e8%2587%25aa%25e7%2594%25b1%25e3%2582%2592%25e6%2584%259b%25e3%2581%2599%25e3%2582%258b%25e5%2590%2588%25e5%25a5%258f%25e5%259b%25a3 Mon, 18 Apr 2016 14:46:00 +0000 http://nakanos.sakura.ne.jp/socioanalysis/?p=2390 例によって告知系です。

来る4月23日(土)に、明治大学アカデミーホールで「金子兜太さんと平和・憲法を語る集い」が開催されます。その中で、私も参加しているEnsemble for Peaceという楽団が演奏を行います。

昨年12月20日に新宿路上で「第9フラッシュモブ」というのをやりました。FacebookとTwitterで連絡を取りあって、ほぼ初対面の人たちでベートーヴェン第9の第4楽章の一部を演奏したのでした。事後には「こういうのはフラッシュモブって言うの?」的な意見もあり、その後「フラッシュモブ」という表現は控えるようになりましたが。思いのほか拍手やアンコールの声も多く、評判も上々でしたので、「せっかくだから、もっとやろうよ! 続けていこうよ!」ということになりました。それがEnsembre for Peaceの発祥です。

今回の演目は、シベリウスの交響詩「フィンランディア」。合唱つきで演奏します。今後こういう活動の輪を拡げていければなぁと思っています。

追記 演奏終了しました。こんなふうになりました。参加したい人いませんかね。

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