年貢の納めどき

2019年8月9日

とうとう帰国間近と相成った。まさに年貢の納めどきである。連日,契約解除の手紙書きと,「帰国売り」の日々。そろそろ完了のはずだが嫌気が差している。相手はフランスなのだ。一筋縄で行くわけがない。

ネット環境も,うちはneuf telecomを利用していたが,これも昨日止まった。もっとぎりぎりまで使うはずだったのに。解約の手紙でははっきりと26日(締め日)までと指定していたのに,そんなことにはおかまいなしのようである。まあいいか。早めにモデムを送り返してきっちり解約して帰ろう。というわけでこのブログの更新も,以前にまして滞ろうというものである。

さて9月11日。それはかつてはあのテロの代名詞であったが,今年の日本ではまた違う節目になるはずだ。海の向こうからだが,ダイヤルアップででも言いたいことがあるぞ。


▼私の言いたいことは簡単である。

まず,「構造改革」という言葉に騙されるなよ,というのがメイン。

「構造改革」という言葉の歴史については,「世に倦む日日」というブログに詳しく指摘されている。これはもともとマルクス主義の言葉だったという話である。「構改派」とかのアレである。それはそれで参考になるので特に若年の皆さんに勉強してほしいわけだが,私の要点はそこではない。

私の要点は,「改革」というのは,ゲームのルールを変えるということであって,それは何で変えるのかというと,強者/弱者のバランスが悪くて,ゲームが全体として何だかうまくいっていない感じがするからである(だといいなあ)。

「改革」をすれば,それによって得をする者と損をする者が出てくるのが道理である。そしてその「改革」に際しては,得をしそうな者と損をしそうな者とのあいだで綱引きがなされるのもまた当然のことである。

しかしもし,強者がさらに強くなり,弱者がさらに弱くなるような「改革」が行われるとすれば,これはあまりよろしくないことではなかろうか。

「改革」によって,「今まで不当に甘い汁を吸っていた連中」が損をし,「今まで不当にキツい目にあっていた人々」が得をするようにもっていく,のが本来ではないだろうか。

しかも「改革」の綱引きは,強者と弱者のあいだで行われるだろうから,じゃあどっちが勝つんだと言えば,たぶん強者がはなから有利なのである。本当に国民全体がハッピーになるような「改革」になるのかどうかは,慎重に吟味されなければならない。

▼ここで「強者/弱者」というのは,まずは経済的な意味でのそれ,つまり「金持ち/貧乏人」とかいわゆる「勝ち組/負け組」ということでもあるが,もう一つ,「都市部/地方」というアスペクトも見逃せない。

JRのときに赤字ローカル線がどんどん廃止になったように,どう考えても不採算な地方の郵便局も,やはりバタバタつぶれるのではないか(うちの大学の近所で言えば「敷戸簡易郵便局」とかはどうなんだろう)。それはつまり採算を全体としてとるのではなく,個々の経済主体レベルでとらねばならないからではないか。

そうなると,東京はますます便利に豊かになり,地方はますますさびれてゆくということを決定的に意味しないか。むしろ地方の生活を快適にし,都市での生活を相対的に厳しくすれば,現在のような一極集中も緩和され,結果的に都市で暮らす人々も混雑から解放されるのではないのか。

だいいち郵便というのはネットワーク・システムだから,個々の局がどうのこうのという問題ではない。末端(ていうか端末?)がなければシステム全体が不備を抱えるということになる。そんなことが国民にとって当然のようによいことなのだろうか。

特殊法人に手をつけずに郵便事業を民営化するなんて,「効率化」などとは言えないのではないのか。

▼これによって誰と誰が得をするのか,まず考えなければならない。

かつてブッシュとネオコンが「テロとの闘い」を推進するのは,アメリカの石油利権のためではないという分析があった。それはそうかもしれない,アメリカという「国家の」利権という意味では。しかし,個人的な利権というものがある。アメリカの国益に反したとしても個人的な利益になるのなら,国民を煽ってイケイケどんどん,自分は陰でウハウハ,という輩もいて当然なのではないか。

もともと銀行族の小泉純一郎が郵便事業に恨みをもつのは当然だし,アメリカにそれを民営化しろと言われたら「やりますやります」と言うのも理解可能だ。銀行屋さんたちの支援も得られそうだ。しかしそれは小泉個人の利益になるからで,国民全体にとって利益になるわけではないことははっきりさせておくべきではないのか。

作田啓一先生が,このタイミングで鴻池議員を批判している記事を見た。私としてもまったく同感である。こういう輩には「私益」しかない。

国営の巨大な簡易保険があることが日本の金融をいびつにしている,世界中探してもこんな国はない,だからこれを民営化すべき,という指摘があるが,では郵便配達を民営化している国が世界中探してもほぼ見つからないのはどういうことなのか。そんなことをしたら「いびつ」になってしまうのではないのか。

国債を大量に保持している資本を民間に渡せば,それが市場原理に任されて何だか竹中大臣的には幸せかもしれないが,暴落の危機も予想できることだし,逆に外資がどっと押し寄せて「日本株」をあらかた取得してしまうかもしれない(というかそれが狙いでアメリカは郵政民営化の圧力をかけ続けてきたのである(知ってました?))。そういう「敵対的買収」に対して,小泉首相はさっさと「本丸」を明け渡すつもりなのではないのか。誰のために? もちろん,自分のために(と私は疑っている)。

わが国においてすらかつてないほど「国益」という言葉がもてはやされているが,国際社会から見れば一国の国益など「私益」もいいところだ。それに比べれば簡保などは国家が用意した貧乏人のためのセーフティーネットであったのだから,これをつぶすのはまさに国家がもたらす「公益」を,まさに減ずることを意味しないか。日本社会の公益を守るのでなければ,国家はいったい何のためにあるのか。

▼私の考えでは,基本的に,儲かっているところから吸い上げ,儲かっていないところに還元するのが〈システム〉の役割である。つまり国家の役割だ。例えば累進課税制度はそのようなものである。そうでないと,社会が「モノポリー」のようになる。つまり勝ち組/負け組が分離するとともに固定された世の中になる。この傾向がずいぶん強まっているということが指摘されて久しい。モノポリーのように前近代的な(だって生まれたときからある程度身分が固定されるんだもん)社会が楽しそうだと私はあまり思わない。一億総中流社会の方が楽しそうではある。

資本の論理というものは,表面的には完全に公正な取引だけでできているように見えるものである。働いたから,賃金をもらうわけだ。公正だろう,ある意味では。しかし,正のフィードバック(強い者がより強くなり,弱い者がより弱くなる)がどうしても利いてしまうのはそれはいいのか。とりあえず少しはそこに負のフィードバック(強い者は弱められ,弱い者が強められる)の仕組みを入れてやるのが本来の「公益」,本来の「改革」だと思うがいかがか。

弱肉強食を旨とする新自由主義で「改革」,というのは,けっこう鼻持ちならない話だと思うが,これも貧乏人のひがみだろうか。

▼これって書き逃げになるおそれがあることを思い出した。しばらくネットワークの外部に出ることになるかもしれないので。コメントにも返事できないと思われるので,書き込まれる方はご寛恕のほどを。