ダフ屋の経済学

2018年8月21日

前のエントリーの続き。

たとえば中世イタリア商人の場合を思い起こそう。なかなか東方の文物を自分で買いに行くわけにもいかないので,世の消費者の代わりにこれらを買いに行ってくれるかぎりでは,これは「仲介業者」であろう。他方,子どもが買おうとしているそばから割り込んできて買い占め,子どもたちに高く売りつけようとする輩は「ダフ屋」と呼ばれるのが相当である。

仲介業者であれダフ屋であれ,どうして値をつり上げることが可能なのかというと,財が希少である(その財の生産量が少ない――東方の胡椒にしろ,プラチナチケットにしろ)ために買い占めが可能で,したがって市場を独占ないし寡占状態にできるからである。独占/寡占ができれば,価格は(需要水準の範囲内で)かなり自由に設定できる。誰も欲しくないものであるならばともかく,誰もが欲しいと思うものならば,かなりの高値がつけられる。震災時の便乗値上げ(大根一本1000円……)などを思い起こせばよいだろう。

ということは,こいつらを独占禁止法でしばくことはできないだろうか。あるいは都道府県の迷惑条例,「物価統制令」などが取り締まりの根拠となりうる。まあ, ぜんぜん期待はしていないが。

と思うその観点では,ウィキペディアの「ダフ屋」の項目の記述には,かなり疑問がある。「ダフ屋を取り締まることが独禁法に抵触するかも」云々。これは,一般的な,あるいは専門家の皆さんの見解なのだろうか? だって,ダフ屋が独占を通じて価格をつり上げているのに,それを禁じるはずの独禁法で守られているというのは。そんなのはとても納得できない。

ところで,それだけの価格がつくというのは,ほんとうにその商品にそれだけの価値があるからだ,と考える人もいるだろう。タカラトミーがつけている定価のほうが実は低すぎる評価なのであって,実勢価格こそが真の価格である,と。

これも一つの解釈だ。だがそれは,「価格が適正であるのは,完全競争市場においてのみである」という考え(まあこれも大した考えではないが)とは相いれない解釈である。

どのみち,そもそも近代経済学には「価値」という概念は厳密に言えばないのだから,「正当な」「適正な」価格というものも定義しようがない。価格は需要と供給の「均衡」によってのみ決定されるが,それが正当なものなのかどうかについて,判断する根拠は本来何もない。上にも触れたように,唯一「その価格が完全競争下で決定されたか否か」という点が問題になりそうだが,完全競争という状態自体が絵空事であり,どうせ近似的なところでしか判断はできない。

たとえば「バブル」という語にしても,それは「実体経済」「ファンダメンタルズ」という,厳密には定義できない概念を根拠に言われるにすぎない。「実体経済」を根拠に何かを言う人々は,すべからく経済の実体性を信じていなければならないはずだが,近代経済学者はそれを信じていない(理論の整合性上信じることができない)。だから,「バブル」と発言する権利も本当はない。厳密に言えば,「バブル」と言ってよいのは経済を構成する「価値」に実体があると信ずる者,すなわち労働価値説の立場に立つ者だけである。まああんまり厳密なことは言うと嫌がられるからいいけど。

私個人は,経済学者がどう言おうと,常識的道義的に,製造・流通コストが低いものにものすごく高い価格をつけるべきでないと思うし,子どものおもちゃを投機の対象にすべきでないと思うし,メーカーでも消費者でもない,何も産み出さずただ中間で甘い汁を吸う輩――大人としては大した利益も出ないと思うが――が出るべきでないと思う。

もっと言うならば,実体経済(笑)から離れた金融経済において不生産階級が1日に儲ける金額が,生産階級であるワーキングプアが1月に稼ぐ金額の数百倍もあるというような異常な事態は,あるべきでないと思う。理由は単純で,ある人間の労働が,別の人間の労働の何百倍もの価値があるとはぜんぜん思えないから。どっちも一所懸命に働いてるわけで,それほどの差は個人の能力差には還元できないし。何の差かと言えば,要するに錬金術度(笑)の違いでしょ? 

しかし,もともと経済に「べきである/ない」はいっさい通用しないのだ。そこが哀しい現実ではある。

雑文

Posted by 中野昌宏