海外における「正しい」日本食/アイデンティティーの承認をめぐる闘争

2018年7月9日

スシハウヌだ?今晩のニュース23でもやっていたけれど,「国が『正しい日本食』を決める」ということで,そのことに疑問の声があがっている。筑紫哲也氏もそんなご意見のよう。あるいはライブドア・ニュースの記事もそうだった。

海外で「正しい日本食」を認定してもあまり意味がない?

 ニューヨークでは韓国料理店や中国料理店も寿司を出したり、日本的な寿司と同時にフュージョン寿司も出す「スシ・オブ・ガリ」のような店もあり、ちよだ鮨のような純日本的な寿司店もある。まさに百花繚乱状態で、中には変な日本食店があってもいいではないかと思うのだ。

 一番の賞賛方法は模倣すること、というアメリカの諺がある。日本料理をどんどん模倣して新しい料理を開発して食べさせてくれる店というのも一興ではないだろうか。わたしは遠慮しておくが。

言わせてもらうが,いやいや,そういう問題ではないのである。

私の立場を先にはっきりさせておくと,「正しい日本食」とそうでない日本食とのあいだに線を引こうとしてもらうことは,ちょっとうれしいことである。なぜなのか。説明しよう。


▼ご案内のように,海外での日本食の評価は高まっている。パリに関しても,やはり寿司あたりを中心に人気がある。オペラ座界隈はちょっとした日本人街で,ここは日本食に飢えた日本人長期滞在者などが散財覚悟で食べにきたりするところ,すなわちいわゆる「本物」の日本食が食べられる界隈である。あるいはシャンゼリゼからちょっと入ったところとか,いかにも高級そうな場所にもスノッブな回転寿司屋とか(日本人にはすごい違和感があるがこれで間違いない)がある。

フランス人たちも大したもので,結構な数の人々がきちんと箸を使えるようだ(見聞きの範囲内)。ただし自宅に招いて日本食を振る舞ったりすると,「どれから食べればいいの?」とか聞かれる。その質問自体に「?」だったが,一瞬のちに納得した。彼らの食事はコースだから,一皿ずつ順番に食べるのが普通なのである。日本では逆に一つの皿を集中的に食べる「ばっかり食べ」は不作法なこととされているわけで,まあこのへんは異文化間コミュニケーションの微笑ましい一コマと言えよう。

味に関しても,われわれ日本人は「だし」の味に旨みを感じるのに対し,彼らは「脂」の味に感じるらしい。そのため,日本人の好みの味では薄味すぎると感じるらしく,刺身に醤油をドボドボにかけていたりする。見てて「うおー」と思いながら止めないけど。

そういった違いを乗り越えて,しかし日本食は理解され,評価されているのである。これは驚くべきことであると同時に,率直にうれしいことではなかろうか。私は料理はしないけど。

フジラマだ?これに対して,日本食には「偽物」もある。ものすごくある。パリの日本食屋は8割が「偽物」だとの評判だ(調査には基づいていない)。ライブドア・ニュースの記事には「模倣」されるのはよいことではないか,とあるが,「模倣」というよりも日本食ブームへの「便乗」というのが実情である。現実には多少日本食を知っているアジア系の人々が,「日本料理」という看板で日本食屋をやっているということらしい。

で,そのような人々がそのような商売をするのは,ある意味個人の自由であるような気もするが,日本人としてはちょっと遺憾な気もする。それはなぜかというと,フランス人に日本のことを誤解されてしまう可能性が大いにあるからである。大したことのない料理で「おお,これが日本食か。こんなもんか」と思われたら気分が悪い。逆に,仮に大した料理だったとしても,それは日本食じゃないんだから,やっぱり気分はよくはない。というか,フランス人に聞いたら聞いた瞬間,「それ日本食じゃないから」と即ツッコミたくなる気分を,少なくとも私はもっている。

じゃあ,誤解されるのがいやだから,日本を本当には知らない人々(移民の方々ですな)が日本料理の看板で商売をするのを禁じてよいかと言われれば,何とも心苦しいところではある。だが,日本人が外国人に「日本のことをわかってほしい」と思う気持ちというのも,それなりに切実なものであって,今日はあえてそちらを強調してみたいのである。難しい言葉で言えば「アイデンティティーの承認をめぐる闘争」(チャールズ・テイラー)の問題である。

▼「自分はこれこれこういう人間だ」と思っているときに,人がそのように見てくれないのは,程度の差はあれけっこうつらいことである。自分が自分をどう見ているかという自己認識と,他者が見た自分の像とのあいだのギャップは,何とかして埋めたいと思うものだ。そこで葛藤が起こったり,じたばたもがいてみたり,まあいろんなことがある。

人が正当な評価を受けていない場合,たとえば自分の自己評価よりも他人の自己評価の方が低い場合,たとえば自分は自分を正直な人間だと思っているのに他人には嘘つきと思われているとか,冤罪なんかで犯罪者だと思われているとか。そういうときは,つらい。あるいは性同一性障害の場合,自分は心は女性だと思っていても,戸籍上・生物学的に男性であることになっていれば,世間はそのように見るだけでなく,女性的な男性,十分に男性でない男性,中途半端な男性,などと見られてしまうことになってしまう(男女逆のバージョンも想像されたし)。これは当人にとってみれば明らかに正当ではない。

言われなく低く見られること――これは一つの局面として「差別」を含むだろう――の構造の中に置かれてしまったら,その際の苦しみは筆舌に尽くせないものがある。その際,当人には責任があるといえるかどうか。答えはYesでありNoであろう。

「No」であるというのは,こうだ。人間は,あるがままの自分を見てほしいわけだろう。べつに過大評価をされたいわけではない,その必要はない。ただし「あるがままの自分」は自分が知っている自分にすぎないので,原理的には他人から見た自分と自動的に一致するものではない。だから「No」である。

しかし,そのギャップを自分で埋めていく――声を上げていく,相手を説得していく,自分の立場をアピールしていく,その責任は当人が負うのが筋だろう。というか,気の毒ではあれ,ほかにそれを担える者は見当たらない。だから「Yes」でもある。

こんな話をすると大げさに思われるかもしれないが,忘れてはいけない。われわれの誰もが,思春期を通じて,いや大人になってもずっと,こういうことを日々やってきたはずである。そうではないだろうか? あるのは個人差だけである。条件がよくラクだった人もいれば,条件が悪く壮絶だった人もいるだろう。しかし,そこの構造それ自体に変わりがあるとは思えないのである。

La Villetteで紹介されている日本食「キテレツ寿司」▼以上がテイラーの議論のうち,私が首肯できる部分である。私は日本や日本人のことをフランス人にきちんと理解してほしいと願う。だから,誤った情報に基づいて「これが日本か」と彼らに納得されてしまうのは,率直に言ってイヤである。だからそういう人々を「それは違うよ」といちいちツッコんだり,「本物」の日本レストランに引っ張って行ったり,妻が許せば自宅に招いて日本食を食わせたり,日本の風景のポストカード(「正しい」やつね。外人向けにデフォルメされてないやつ)とかいろんな日本の文物を配ったり,まあそれは文化の伝達には貢献しましたよホントに。それもこれも日本に対する歪んだイメージを是正するためである。

ここに私は,自らの「愛国心」を認める。私のもつ「愛国心」とは,このような種類のものである。

この作業を「国」レベルでやるべきなのかどうか,という議論は確かに可能だ。それはちょっと置いておきたいが,少なくとも私が個人でやっていることと同じ方向のことを別の誰かがやってくれることには歓迎すべき側面がある。いずれにせよ「あまり意味がない?」などと言ってもらっては困る。意味ぐらいある。

よろしいか。やみくもに〈自己評価が高い〉ということが,愛国的なことではないのである。

自己批判能力がないために自己評価が高すぎて,「私はこんなに偉大な人間だ。だからお前ごとき虫けらが私を敬わないのはおかしい」などと主張することを,何と呼ぶべきか。夜郎自大。もしくは酩酊。狂気。いずれにせよこのような主張をすることは,恥ずかしいことである。なぜなら,自分で自分を証(あかし)することはできない,というのは論理的に真であるのに,あからさまにそれをやろうとしている愚を犯しているからだ(やるんなら心の中でそっとやりなさい)。他方,愛国者という自己評価をもつ者は,そのような恥ずかしい態度をとるべきではない。愛国者が国辱を行うのは矛盾だからだ(心の中でちょっと思うだけにしときなさい)。

〈私の評価を正確にやってくれ〉と他者に願うこと,実際にそれを主張し,他者の承認を勝ち取ろうとする原動力としてのある感情。これのほうが数百倍「正しい」自尊感情であり,愛国心なのである。ただしこの場合の「正しい」は「論理的に正しい」という意味である。

再び原理的に言えば,他者は他者なんだから〈私の評価〉に「正しく」到達できるわけはない。無理なのだ。そもそもこの意味では「正しい評価」とは何かを,正確に定義することすらできない(こちらは価値判断の文脈。論理的文脈とは分けて考えよう)。しかしそれでも無理やり「折り合いをつける」というのが,「ひとのあいだ」と書いて人間,の生きる道なのである。

▼で,何かね。この「愛国心」というようなものを子どもたちに「教え」ようと言うのかね。

何だかなあ。むしろ,そういう素朴な感情をはなからもっていない人間というものを,私は想像することができないのだが。

もちろん,自己評価の低い日本人はけっこういるだろう(「自虐史観」で)。私もその一人である。しかし,「自大史観」とか「自慰史観」とかよりは,他者から見て百万倍はイケてるスタイルであるからこそ,そちらを採用しているのである。謙虚さは日本人の美徳だしね。

先ほどのテイラーだが,私としては「集団的目標」とかは危険な概念であると考えている。テイラーは,ケベック人としての「アイデンティティーの承認」を,ケベック人たちの「集団的目標」として,カナダ連邦は承認すべきだ,と主張する。ここまでくるとそんな必要あるのかという話である。

これに対して私の「愛国心」は,個人的なものである。私は個人の資格で,「日本とはこういう国なんだよ」ということを実際に外国人に伝えてきたし,これからもそうするし,私じゃないほかの誰かでも同じようにできるし,実際にしておられる方はたくさんおられる。

それは純粋に,べつにフツーに,自分というものを理解してもらいたいという,素朴で人間的な感情に基づく行動である。

特に集団で固まって,みんなが同じ方向を向かんとあかんということを誰かが決める必要はないのである。

ましてや,みんなに「自大史観」を注入して,国家への忠誠心を涵養し,国旗・国歌への敬意を抱かせ,学校で愛国心を評価しようなどということを言い始めるのはトンチンカンにもほどがあるのである。

と書いてきて思い出したが,縷々述べたようにこ~んなに愛国的な私なのに,不思議と国旗と国歌には「敬意」はもてない。いや,「愛着」なら確かにもっている。スポーツとかで国旗が揚がって国歌が流れれば,おお,と思う。しかし国旗とか国歌に対する「敬意」って何だ? 外国人は自国の国旗に「敬意」をもっているんだろうか。もっているとしたらどういう意味においてであろうか。こんど聞いてみよう。

▼「海外で『正しい日本食』を認定してもあまり意味がない?」とか言うが,意味があるかないかという(実利的な?)問題ではなく,宮台氏の言う感情のゲームとして,人が自分を「正しく」認識してくれなきゃ誰でもやっぱりムズムズするのである。

感情のゲームではあるが,その特殊な感情のゲーム自体は,人間が人間であるという事実に内在する〈構造〉なのだと私は思う。人間がそれを失う可能性はまああると言ってもいいかもしれない,しかしそれを失った場合の「人間」は,われわれが今考えているような人間ではなくなるだろう。

この話は何も,政府の言うことには何でも聞かなければならない,などという話――どこかの誰かが言っている「愛国心」――とは本質的に無関係である。

逆に,政府の言うことには何でも反対,という話とも無関係である。にもかかわらずニュース23とライブドア・ニュースはどうもあまりよく考えずこちらの路線に嵌まっているように私には感じられる。

だから,私もいつもは小泉・安倍政権を批判している立場であるにもかかわらず,今回の件にかぎり部分的に,政府のアクションの肩をもってみる今日この頃なのである。