自然な人工物/人工的な自然物

2018年12月2日

なぜ私がアール・ヌーボーに関心をもつのか,自分でも最近わかってきた。これはいま私がやろうとしている研究に関連があるのだ(って,あとから気づくことかよ)。

まず「自然物を模した人工物」,言い換えれば「人工的な自然物」というコントラディクション(矛盾)が心をくすぐる。それは,「自然とは何か,人工とは何か,それらの境界とは何か」という哲学的問題を惹起するからである。

(注意。以下ホントに哲学的なので好きな人以外は読み飛ばしてください)


▼だいたいが,人間は「模する」ことが好きな存在である。われわれは美しい風景に感動しながら,それを眺めることに飽き足らず,絵画を描く。やっていることは,風景のコピーを作るということである。何のために? いや,何のためにと言われても。楽しいから。まあそういうことなのではなかろうか。

自然を自然のままに放っておかないで,それをコピーしようとする存在,「もう一つの自然」を創造する存在,それが人間なのではないか。

コピーすることによって,オリジナルの方はともかく,コピーの方は自らの手で操作可能になる。お望みならば,移り変わってゆくオリジナルとは別に,コピーを100年プリントで保存しておくこともできる。コピーをコピーとして,単にモノとして,売ったり買ったりもできる。

例えば,現に「言葉」というのはそういうものである。すなわち,なまの現実を,操作可能な記号の羅列で代用することである。そうした記号はハンドリングしやすい存在となり,他者とのやりとりが可能になる。目の前にコップがないときにも,「コップ」と発音することはでき,コップの概念について思考することができる。

これは実は,「近代」の1つの原点でもある。これが極度に推し進められると,人間はすべてを計測可能なモデルのうちに取り込み,未来を予測し制御しようとすることになる。ハンドリング,あるいはコントロールということが至上命題となる。よく言われるように,「人間」は「自然」を「支配」することになる。言葉のイメージとしては,「自然なもの」が否定され,「人工的なもの」が圧倒的に優勢となる。そうしたエポックを「近代」という名でわれわれは呼ぶのではないか。

ル・コルヴュジエの仕事は,だから,「近代」的である。ムダな曲線,ムダな装飾,そういったものは排除する。なぜならそれはムダだから。ムダのなさ,シャキッとしてること,それはそれで美しいと私も思う。

これに対して,ギマールの仕事は,そういうところに関心がない。ギマールは,「自然の方にだってムダはない」と信じている。臆面もなく自然を模倣しようとする。そこが面白い。

▼「自然界にムダがない」とはどういうことなのか。

ご存じの方も多いと思うが,一時期,生物の形態形成を数学的に論じることが流行した。生物学者は,「どうしてこんなヘンな形ができたのだろう?」と問う。「偶然」とか「ランダム」とかいう答えがまず思い浮かぶが,それじゃあ面白くないし,だいいちとても偶然とは思えない造形を前にして,そんな答えじゃひどいだろう。そうではなく,その答えをもっと必然性の相のもとに探すのに,「フラクタル」というツールが使える,と見たわけだ。

フラクタル図形とは,「自己相似写像」によって作られる図形のことで,自分自身の形を一まわり(例えば)小さくした図形をもう一度自分に織り込む,といったことを無限に繰り返すことで得られる。換言すれば,この種の図形を制作する手順は,「無限」を目に見える形として実現しようとすること,にほかならない。しかも,このようにしてできたフラクタル図形の作風は,不思議なことに自然界の作風にきわめて似てくるのである。

実例はこのあと挙げるとして,この「回答」は最近定説となっているのかいないのか,流行っているのか廃れているのか,私は寡聞にして知らない。が,この直観は正しいと私は思う。この議論の論点は,生物の形態はランダムにできているわけではなく(「ランダムに」ということは,「まんべんなく」ということであり,つまり「均一に」ということである),あくまでも一定のアルゴリズムに従って生長しているものなのだということである。もしそれが数学的にできていないとしたら,いったい何に従ってできているというのか? 何にも従わないでヘンな形状を作るなどということは,逆に難しい(できない)はずなのだから。

つまり,「自然界にはムダがない」とは,「自然界が一定のアルゴリズムに従って形造られている」という意味ではないのか。

▼人間は,「自然なもの」を自らの手で作ろうとしてきた。花の絵を描くだけでもそうした行為の一部である。インテリアに,その他諸々の意匠に,花や植物をあしらった装飾を施してきた。こうした意匠は,それがない部屋よりも,より多くの快を人間にもたらす(ことが多い。ような気がする)。が,それだけではない。人間は,もっと大規模に,もっと潜在的な形で,自然界のアルゴリズムを建物にも適用しようとしてきた。

ダ・ヴィンチ・コード (上)ダ・ヴィンチ・コード (下)例えば有名なものとしては,ギリシャ建築がある。ギリシャ建築は,もっとも美しいとされる比率,「黄金比」(約1.618)を随所に含んでいる。エジプトのピラミッドもそうだ。先般話題になったダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』(邦題は『ダ・ヴィンチの暗号』じゃだめなの?)には,ニューヨークの国連ビルもそうだと書いてあったが,「黄金比を使うのが美しい」というのは建築家にとって常識だから(理由はわかってもわからなくても),入れられるところには入れて当然なのである。

ラカンの精神分析よく知られている黄金比は,実はフラクタルと密接な関係がある。黄金比もまた,例えばフラクタルな渦巻き型の各所に一貫して潜在する比率として再発見することができるし,それ自体,左辺と右辺が入れ子になっている(左辺が右辺を定義し,右辺が左辺を定義するという意味で「無限に」ぐるぐる回っている)方程式を解くことで出てくる解である(新宮一成『ラカンの精神分析』に出てきたでしょ)。だから,黄金比を随所に適用する方法は,近代数学から見れば著しく神秘的で,盲目的な発想から来るものではあるけれども,実はフラクタルにほぼ等価な効果を挙げうる単純ですぐれた方法(結果だけ拝借しているわけだから)なのである。

ギリシャ人が古代において,このような方法を案出しえたという事実は驚嘆に値することである。私は調べてなくて当てずっぽうだが,おそらくピタゴラス一派(オルフェウス教団)が根元であろう。彼らのシンボルである「ペンタグラム(五芒星)」も,随所に黄金比を含んでいることでよく知られている(例えば五芒星の輪郭である正五角形の一片と対角線)。黄金比は,そののち,ダ・ヴィンチなど半科学者のような画家にも応用されることになる。彼らは人体のいたるところに黄金比を見いだし,自らの描く人物像に反映させた。絵画が「自然」に見えるにはどうしたらよいかという工夫からである。

▼ダ・ヴィンチを思い出したところで,『ダ・ヴィンチ・コード』に,自然界に見られる黄金比と,芸術作品に適用されたそれとを解説する主人公ロバート・ラングドンの講義風景があったことを思い出す。この生き生きしたシーンは,私などの散文的な解説より,よほど文系の人々を惹きつけるであろう。

その摩訶不思議な性質についての数学的な解明はさておき,真に驚嘆すべきは,黄金比が自然界の事物の基本的な構成に深く関わっていることだと,ラングドンは説いた。植物や動物,そして人間についてさえも,さまざまなものの比率が不気味なほどの正確さで1.618対1に迫っている。

「黄金比は自然界のいたるところに見られる」ラングドンはそう言って照明を落とした。「偶然の域を超えているのは明らかで,だから古代人はこの値が万物の創造主によって定められたにちがいないと考えた。古(いにしえ)の科学者はこれを“神聖比率”と読んで崇(あが)めたものだ」

「待ってください」最前列の席にいる女子学生が言った。「私は生物学専攻ですけど,自然界でその神聖比率とやらに出会ったことがありません」
「そうかい」ラングドンはにっこり笑った。

(ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』,越前敏弥訳,角川書店,pp. 129-130)

生物学専攻というところがわざとらしいぞ(笑)。ある程度知っているとそう思えるが。

このあとラングドンが挙げる例は,

  • ミツバチにおける雄と雌との個体数の比(雌/雄=1.618)
  • オウム貝の螺旋の直径と,それより90度内側の螺旋の直径との比
  • ヒマワリの頭花に含まれる螺旋の直径と,(以下同上)
  • 渦状に並んだ松かさの鱗片
  • 植物の茎に葉がつく配列
  • 昆虫の身体の分節

である。

なお,黄金比によって形造られた螺旋形は,「黄金螺旋 golden spiral」と呼ばれている。

「なるほど」ほかの学生が言った。「でもこれが芸術とどんな関係があるんですか」

「そう!」ラングドンは言った。「いい質問だ」スライドをもう一枚映す。黄ばんだ羊皮紙に,レオナルド・ダ・ヴィンチによる名高い男性裸体画が描かれている。〈ウィトルウィウス的人体図〉。題名のもとになった古代ローマの著名な建築家マルクス・ウィトルウィウスは,その著書『建築論』のなかで神聖比率を賛美している。

「ダ・ヴィンチは人体の神聖な構造を誰よりもよく理解していた。実際に死体を掘り出して,骨格を正確に計測したこともある。人体を形作るさまざまな部分の関係がつねに黄金比を示すことを,はじめて実証した人間なんだよ」

(同書,p. 131)

そしてラングドンは,

  • 頭頂から床までの長さと,へそから床までの長さの比
  • 肩から指先までの長さと,肘から指先までの長さの比
  • 腰から床までの長さと,膝から床までの長さの比

がすべて黄金比であることを指摘し,こう続ける。「手の指,足の指,背骨の区切れ目。黄金比,黄金比,黄金比。きみたちひとりひとりが神聖比率の申し子なんだよ」。

まあ人体の黄金比についてはちょっと誇張があるだろう。誤差がありすぎるし,人類全員が厳密に同じ体型であるとは誰も思わないだろう(日本人て足短いよね……)。しかし,平均値をとってみれば「いい線いってる」くらいのことならありうることである。

▼こうして考えてみると,人工的なものとは何で,自然なものとは何か,ということが改めて疑問に思えてくる。人工的なものとは,人間の理性が直接捉えられる程度に単純な構造をもつ,ということなのかもしれない。ル・コルヴュジエ的な美しさの基準は,こちらに基づくと言えるだろう。

これに対し,自然物の構造は,不必要に,徹底して,無限に,ある特定のアルゴリズムに従い続ける。その結果,あるときは奇怪な印象を与える形ができあがる。おそらくそういうことなのだろう。ギマールの狙う美はこちらにあったと想像できる。ただし,ギマール自身は,直接フラクタルや黄金比を使って設計したわけではないかもしれない。ギマールや他のアール・ヌーボー作家の作品に,これでもかというほど黄金比が含まれている,という記述を私は見たことは(まだ)ない。私は建築には素人だから当然かもしれないが。

ギマールは建築史の面からはそうとう研究され尽くしているとのことなので,あるいはそんな研究がすでにあるかもしれない。しかしもしそういう研究がまだないとすれば,ギマールの曲線が自然界の曲線とどのくらい似ているのか,コンピューターを使って回帰分析で検討するようなこともできるだろう。いかがですか>ご専門の方。

▼まあそういったわけで,自然とは何か,人工とは何か,ということが,いま私の中では自明なことではない。そう言えば私が出た大学院は「人間・環境学」研究科で,私の学位は「博士(人間・環境学)」なのだった。何だこの「・」は,とよく言われ説明に窮するのだが,そういう名前なんだから仕方がない。命名した方のご見解はともかく,要するに人間と環境を結ぶのは自明な業ではないからだろう。だって普通は「自然環境」と言うものだから。「人間環境」とサラリと言われるとちょっと困るというか。

というわけで,人間が,自分をとりまく環境とどのように「区別」されるのか,そこがいま私の考えている問題だ。

しんどいなあ。気力があったら続きを書きたいと思う。