フランスの「アジアン人形」の顔/美とは何か

2019年3月12日

引越等々のせいで更新が遅くなってしまった。今日は久々のフランスネタ(からいつものようにずるずると脱線してゆく予定だが)。

我が家には,娘が知人からもらった赤ちゃん人形?がある。Corolleというブランドの製品で,日本でいうぽぽちゃんとかメルちゃんとかのフランス版といった感じのものである。これを見て皆さんどう思われるだろうか。私は娘がこれをもらった瞬間,何とか「あ,ありがとう」とは言えたものの,「か,かわいいねぇ」とはどうしても言えなかった。

心臓の弱い人のため,写真そのものは「続きを読む」以降に。勇気のある方はぜひ見られたし。


これである。


恐ろしい。現実に人形になってるその事実がホラーである。

ちなみにメーカーの商品紹介ページはここ。本物よりも写りがよろしい。

▼このシリーズの中には,もちろんヨーロピアンな顔だちのものもあるし,アフリカン-アメリカンなのもある。

それにしても,彼らにとってアジア人の子どもはこういう顔なのだろうか。これがどうやら彼らにはかわいいらしい。ホントなのか。眉毛ないし。ゲシュタルト知覚の問題なのか。はたまた先入観の問題なのか。アジア人はしょせん土人ということなのか。くれたのはヴェトナム人(ただしパリ育ち)の女性だったのだが。

ちなみにヨーロッパのかわいい子どものステレオタイプというのもある。やっぱり金髪碧眼だ。その割にヨーロッパ人は日本人が髪を茶色や金髪に染めたりするのを「すごい変」だとか言う。まあ「不自然」という意味である程度私もそう思うが,彼らの言う意味は別なのではないかという気もしてきた。彼らのアジア人観もけっこうコンサバというか何か差別的なのではないかと。

アニメは向こうでも大人気だというのは周知の事実であるが,「日本人はどうして,アニメの登場人物をヨーロッパ人の顔にするのか」と聞かれて絶句したことがある。日本人としてはあれは日本人の顔のつもりなんだがなあ。その場でしばし悶絶したのだが,結局うまく理解はしてもらえなかった。

たしかに日本人顔のなかでも,美形といわれる顔はどこかちょっとヨーロッパ風ではある。彫りが深いとか鼻が高いとか二重瞼だとか。ロラン・バルトもたしか丹波哲郎の顔を引き合いに出して何か言うてたぞ(『表徴の帝国』)。この本,読むだけ無駄だが(エンタテインメントですから),面白いところもないわけでない。

▼かつて,道行く女性の顔を30人ばかりサンプリングして,モーフィングで平均化してみた人がいた。目とか鼻とかその位置とか輪郭とか,顔のパーツそれぞれがこの操作で平均化されるのである。この「平均顔」がなんともいえん和風美人なので,彼は「美人」というのは「平均的な顔」のことなのではないかという仮説を立て,『ネイチャー』あたりに論文を出した(記憶が曖昧)。それが東大の原島博教授である。

いまさらながら,私はこの説はなかなかいいと思う。私の意見なんか誰も聞いてないと思うが。

「平均」値というのは,実在であるけれども現在しないという,つまり平均値は平均という操作の結果どっかにあるのだろうけれど,その平均値そのものがなまの状態でドドーンと目の前に現れたりすることはめったにないという,そういうけっこうややこしい次元のものである。

すると同じ雑誌のその次の号で反論があったとか。その「平均顔」と,「それをちょっと崩した顔」とを作り,今度はそれを道行く人々に見せて,どっちが魅力的かを訊ねたら,「ちょっと崩した顔」を魅力的と答えた人が多かった,と。すなわち,「美人顔=平均顔」仮説は正しいとは言えない,というものだった。らしい(すいません論文そのものは読んでません。誰か教えて)。

これについては,見る人の趣味(審美眼)の方にも分散がある,ということで答えられないだろうか。

平均顔=平均的な顔というのは,個性的であると同時に,個性的でない顔である。つまり,全部のパーツが平均的なのだからその顔は個性的ではない,と同時に,「すべてが平均的な顔」を見るという経験はわれわれにとって稀である,という意味で。それはインパクトがあると同時に,ない。ないと同時にある。意識に引っかかるところがあるようで,ない。ないようで,ある。

「平均顔」と「ちょっと崩した顔」というのを対決させるのは,だから,ちょっとズルいと思う。2つを見比べたら,きっと「ちょっと崩した顔」の方が意識に残るだろう。それは崩した部分だけが個性的で,それ以外の部分が同じだからだ。

だから,完璧な平均顔よりも,そこから少しずれた近傍の方を人々が選択することには十分な理由があると思える。もっと言えば,人々が選んだその選択肢顔を平均すると,完璧な平均顔とまたしても一致するのではないか。

▼まあそんな「美とは何か」みたいなことを考え始めたのは20年前くらいからである。私は小さい頃からずっとヴァイオリンを習っていて,高校や大学ではバンドしたり,ともかく音楽をやっていた。そのなかで,やっぱりよい曲と悪い曲,よい演奏と悪い演奏,などなどがあるんじゃないか,と思ったからだった。

20年前といえば時あたかも「ニューアカ・ブーム」である。若い人のために言うと「ニューアカ」というのは新左翼のことじゃなくて「ニュー・アカデミック」のことである。中沢新一や山口昌男や栗本慎一郎や浅田彰が流行っていた時代。『構造と力』が普段本を読まない人々にも読まれ,「サン・ジョルディの日」にプレゼントされちゃったりしていた頃である(そんな日があったこと覚えてる? みんな)。

いきおい,この時代にはニューアカ思想家は口を開けば「ポストモダン」とかのたまっていた。そしてポストモダンというのは中心の不在とか複数性とか脱構築とかリゾームとかといった懐かしのボキャブラリーで彩られていた。

こういう思想家(より正確にはそういう思想家のファンの人々)は,たとえば芸術作品によい作品といまいちな作品がある,というふうには捉えず,たださまざまの=複数の作品がある,と捉えていたように思われた。だから「ポストモダン」思想は一種の相対主義として機能していた。少なくとも当時高校生だった私にはそのように思われた(ちなみに今も「ポストモダン」を毛嫌いしている自然科学者は存在する。それが「客観的なもの」を信じない「相対主義」だからだ)。

EV.Café(イーヴィー・カフェ)―超進化論彼らはそう言っているにもかかわらず,それにしても,どー考えても,よい音楽と悪い音楽はあるじゃないか,としか私には思えなかった。だって自分が演奏するときに,どんな演奏でもよいわけではないからだ。よい演奏をすべきに決まっている。よい演奏/悪い演奏を区別することは,演奏家にとって,演奏前もしくは演奏中にもっとも神経を注がねばならない事項であることは当然だ。ちなみに,音楽の分野でこの手の思想家たちといろいろと議論(茶飲み話)をしていたのが誰あろう,キョージュこと坂本龍一であったのだった。

おぉ,懐かしい(滝涙)。

著名な「ポストモダン」思想家たちの考えに,「ほんまか? ほんまにそうなのか?」とその頃以来ずっと疑問に思い続けていた。だから当時,私は音楽美学を志したのだった。――あれ? 何で経済学部?

▼そういうわけで,一部不透明な経緯もあるが,「客観的な美とは何か」と問い続けて20年。それだけに主観/客観とか,相対主義とか,そういう言葉にはヘンに敏感に反応するのが習い性となってしまった私である。が結局,「客観的な美」とは,あるんだけど,ないものなのである。

人間の顔については,「平均」という解は,だからイケてるんじゃないかと思う。それは人々が見たことのある顔の延長にあるものだから。見たことあるんだけれど,見たことない顔。平均的な目,平均的な鼻はきっと見たことがあるだろう。個別に。しかし,すべてが平均で揃っている人はあまり見たことないだろう。

しかし,では音楽についてはどうか。「客観的に美しい音楽」というのには,まだ解が(仮説としてすら)ないように見える。1/fゆらぎで作曲→美しい,という話もあるが,実際のところどうなのだろうか。できあがった美しいものを分析して1/fが出る,というのでなくて,1/fで美しいものを作る,というので本当に美しくなるのかどうかは今のところ定かとは言えない。

だいいち作曲家によって作風が微妙に異なっていて,曲を聴けば「あ,モーツアルトだ」とかわかるのはなぜだろう。作曲家の個性,あるいは言ってみれば指紋みたいなものが,楽曲には厳然として残っている。同じ一つのアルゴリズムだけで美しい音楽を生成できるとしたら,クラシック音楽はみんな同じになってしまうはずだから,そうなってないということは,アルゴリズムはたぶん一つだけではないのだろう。

このへんは本当にややこしいところである。と同時に,興味の尽きないテーマである。この道20年の私にとってはね。