クラスとメンバーの政治経済学

2018年8月21日

一見平等にしつらえられている社会だが,まあ皆さん先刻ご承知のとおり,実際のところはそうでもない。力の強い者が強く,弱い者が弱い。ただそれだけ。

ではどういう者が強く,どういう者が弱いか。これが問題だ。

「金持ちは強く,貧乏人は弱い」か。当たらずといえども遠からずだろうが,正解として十分ではない。それは私の考える回答の特殊ケースにすぎない。

あるいは「人民は弱し,官吏は強し」(星新一)なのだろうか。私に言わせると,これもちょっと一面的な特殊ケースの部類である。

要するに,こういうことなんじゃないだろうか。


集団(組織)は強く,個人は弱い」という。

当たり前みたいだけど。だってそうでしょ?

ヤクザが怖いのは,バックに「組織」がついているからである。顔や出で立ちや背中の漫画がいかついからではない。こっちが集団で向こうが一人だったら,逆にボコることもできなくはないはずだ。向こうは一人でありながら,一人でないところが怖いのだ。そしてバックに強大な組織がついているかどうかが,ヤクザとチンピラを分けるのである。

一般人に比べて政治家が怖いのも,まったく同じ理由による。政治家の背後には後援者や有権者など「人のネットワーク」がある。一人の政治家を敵に回すことは,その背後にいる人々全員を敵に回すことと同義である。官僚についても話は同じ。官僚機構全体を敵に回すのはいかにも恐ろしい。もう生きていけないだろう。

個人が企業や国を相手に訴訟を起こすのは難しい。勝ち目が薄いからだ。特に貧乏な個人としては,勝てなければ裁判費用を払うことができないので,長い年月苦しんだ末に結局破滅するしかない。逆に企業や国は,勝つために金銭の許すかぎりの優秀な弁護団を雇うことができる。当然勝つ見込みが大きい。個人がこういった大きな相手と戦えるのは,明らかに相手に非があるような場合だけで,そのほかの場合は「泣き寝入り」が基本戦略となる。

「金持ちは強く,貧乏人は弱い」が部分的に正しいというのも同じ理屈だ。金持ちは自分の仲間や兵隊(私兵)を雇える。すなわち集団として戦える。かたや貧乏人のほうは言わずもがなである。

法人企業と現代資本主義▼というアイディア自体は,師匠からのパクリである(なんとまああからさまな告白)。この本の書評をいろいろ見てみても,その冒頭に掲げられた記述の重大な含意に触れていないようなのでここで再度指摘するが,その要点は次のようなことである。すなわちアダム・スミスの想定する資本主義というのは「個人」が主役であったが,現代「法人資本主義」(この語自体は奥村宏氏のオリジナル)においては,当たり前だがその主役はもはや「法人」なのだということだ。

このことが何でそんなに重要か。スミスの時代には個人は市場で競争してみんなハッピーだったかもしれないが,現代においては個人はもはや市場では戦えない,ということなのだ。

そんなことはない,とおっしゃる向きもあるだろう。最近はフリーランスのカタカナ職業とかの人がやたら増えている。個人でベンチャーを起業する人も少ないが増えている。ホリエモンのおかげで個人投資家が増えちゃって。まあ事実そうなのであるが,こういった人たちは,波風のないときはよいとしても,たまたま何かの拍子に大企業や国と利害が対立したときには,実は構造的に弱い立場の人々なのである。

時代の気分としては,組織に埋没してやっていくよりも,「個」の資格で仕事がしたいと思うのは人情だと思う。実はかくいう私もそういう考えで今の職業を選んだ。またそういった考えを述べる先輩がいたので,それに触発されもした。私が院生だった当時,助手をされていたT田先生のお父君は,陶芸家だったそうだ。ということは,アーティストだから,その仕事には「個」の名前が刻まれる。一つ一つの作品が,ほかならぬT田○○という人物の作品として,産み出されてゆくのだ。もちろん,いい仕事なら名声を勝ち得るだろうが,悪い仕事なら厳しく批判されて評判を下げてしまう。自己責任である。リスクはある。がそれだけに/それにもかかわらず,やりがいのある仕事ではあろう。

これに対して,企業その他の組織ないし集団に属して仕事をする場合には,手柄は個人のものではなく,集団のものである。開発者なりの固有名が公の場面で前面に出ることは稀である。そのかわり,消費者からのクレーム等々からは個人は守られる。集団が集団として責任を負う構造になっているため,個人の責任は直接には問われない(もちろん集団内では問われることになる)。この「(終身雇用を保証された)チームで仕事をする」というのは「日本的経営」と呼ばれ,時代によって持ち上げられたり貶されたりしてきたが,組織への帰属意識をしっかり持った人々が一丸となるということが,やはり個人には対抗できない大きな力を産むであろうことはいつでも確かだ。

私はここで,どちらがいいと言うつもりはない。というよりも,どちらの種類の仕事もこの世には必要であり,どちらの種類の仕事にも就く人々がいなければ社会は成り立たないのは明らかである。

▼先ほど「時代の気分としては」と書いたが,現代資本主義が矛盾を抱えているなと思うのはまさにそこである。つまり,資本主義はもはや個人が丸裸で参入できるようなものではないのに,もてはやされている「競争」観はなぜか個人レベルのものだからだ。

従来の資本主義ではセイフティー・ネットとして機能したはずの中間集団が,「利権構造」とか「非効率性の源泉」か何かのように語られている。「終身雇用制」も否定され,個々人が大学院を出たり資格を取ったりして,つまり個人的能力を磨いて,一つの会社にずっと勤めるのではなく労働市場で流動化するのが望ましい,と。優秀な人物には高給を,ダメな人物にはリストラを,それが効率化につながる,と。このように個々人が自助努力・自己責任でがんばんなさい,というメッセージには事欠かないが,じゃあ改めて聞くけど「企業」って何なの,と言いたくなる。

Companyとは,利潤も苦労も分かち合うべき「仲間」のことではないのか。企業が以前のように儲からなくなったからといって,「キミね,最近会社の業績が芳しくないんだよね。ついては,やめてもらえないかな。キミが辞めてくれたら他のみんなに給料払えるし」とか言われたら,やってられない。集団が集団になるのは,それが一人一人で戦うよりも強くなれるからである。一人の力を1として,従業員100人の会社だったら,100以上の力を出せる集団になれるからである。一人当たり1以上のもらいがあるからだ。

集団に帰属するという生き方には,御家人の御恩と奉公みたいな社会契約の観点から言えば,集団内でわがまま言えないというデメリットと,そのかわり集団に守ってもらえるというメリットがあるはずだろう。さて,現在の不景気で(客観的にそうだよな? 大本営発表は違うみたいやけどな!),おそらく多くの企業は一人当たり1以上の利潤を挙げられなくなっているのだろう。そこで,集団に帰属すること,集団の庇護下に入ることをメリットと感じない人々が増えているのではないか。だからこそ,非正規雇用とかフリーターとかニートとか,そういうのが社会問題にもなってくるのではないか。

もう一つの問題は,個人が「利己心」(スミス)で動くとすれば,しかも自らが属している集団があくまで「仮の宿り」にすぎないのであれば,集団の利益を犠牲にしてでも自己の利益を得ようとする輩がいて当然だということがある。いわゆる「背任行為」である。軍産複合体がらみの利権ほしさにイラクに侵攻したブッシュとネオコンたちも背任だし,わけのわからない理由で靖国参拝を続けてわざと中韓を敵に回している小泉も背任である。あとNHKのカラ出張とかも普通に背任だし。いずれも個人的動機にすぎないことで,集団の利益を損ねてしまっている。すなわちクラス(集団)の利益とメンバー(個人)の利益とは相反することが多々ありうる。

▼とにかく,今の社会は企業中心の資本主義なのだから,「企業」という単位がもっと何というかしっかりしないとダメである。ちゃんと構成員を養えないとダメだし,逆に構成員に帰属意識をもたせられないようではダメである。それは実体をもつ人間の組織なのであって,持続可能なように運営されねばならず,単に屁のような目に見えない「資本」の別名であってはならない。

もう一つ言うとしたら,次のように言おう。集団に帰属するメリットは報酬だけではない。集団に属することにはそれ自体メリットがあるのだ。うちの大学でもいくらかいるけれども,就職不志望という人は,そういうことを認識したうえでそう決断しているのだろうか。わかっててそうしたいなら止めないけど。