アールヌーヴォー:ムダって言うなよ,そういうのを

2018年7月9日

楽器博物館ブリュッセルに行ってきた。ここはフランス語とオランダ語の2言語を話す国の首都。そしてEUの中心。つまり国際都市の代名詞といって過言でない街である。しかし別の顔として,「アールヌーヴォーの都」という側面がある。エクトール・ギマールの建築に関心を持つ私は,やはりそちらの側面に興味があった。

この街でパリにおけるギマールのように著名なのは,ヴィクトール・オルタである。彼の産み出す建築およびデザインというのは,やはりギマールと決定的にテイストが違う。私としては連続性を期待して行ったのに,そして作品群をじろじろ眺めながら連続性をしつこく探したのに,厳然としてそうでないので,小さな驚きを覚えたのだった。

なおこの写真はオルタではなく,ポール・サントノワの旧オールド・イングランド百貨店(現・楽器博物館)。


▼オルタのデザインは,等幅の鉄パイプを曲げていってできているような感じがある。つまり,植物的で曲線を多用しているが,何か幾何学的な,カチッとしたところも残っているように思えるのだ。

これに対しギマールのそれにおいては,「等しい幅の平行な曲線」というのは(あるのはあるわけだが)より少ないような気がする。例えば繊維の筋のついた植物的な柱の先端が末広がりになっていたりする。あの曲線×曲線という,「過剰な」感じが,オルタにはあまり感じられなかった。「確かにすごい,しかしおとなしい」という感じだ。

まずはオルタの作品群をご覧いただきたい。

オルタ美術館・ファサード
オルタ美術館・ファサード
パレ・デ・ボ・ザール コンサートホール
パレ・デ・ボ・ザール コンサートホール
ベルギー漫画センター 1階ロビー
ベルギー漫画センター 1階ロビー
ベルギー漫画センター 3階
ベルギー漫画センター 3階

〈参考〉
Hortamuseum(オルタ美術館公式サイト,4カ国語)
美しきアールヌーボーを探る
(オルタ美術館内部の日本語解説・3編)

▼もう一つ興味深かったのは,旧オルタ邸(現オルタ美術館,世界遺産)には,中国製と思しき調度品がいくつも含まれていたことである。ヨーロッパ人のアジア趣味というのは,往々にして日本と韓国と中国のテイストの違いが全然わかっていないという程度のものでしかなく,そういう人たちはこれら各国の調度品をでたらめに混ぜてしまいがちである。しかしオルタの屋敷には,きっちり中国のものしかなかった。そしてもちろんそれが,部屋自体のデザインに調和するよう配置されていた。「ふーん,オルタのデザインは中国と相性がいいわけか」。そういう印象を持った(ホントのところはどうだかね)。

これに対して,ギマールのそれには,むしろ日本的なものを感じる。ギマール自身はどうだったかよく知らないのだが,日本と明らかに感性がかぶるのはガラス工芸で著名なエミール・ガレらのナンシー派であろう。つまり高島北海との人的交流を通じてだ。あと椅子のデザインで知られるレニー・マッキントッシュがバカ殿みたいな扮装をしている写真がネット上にあって,吹き出してしまう。いちおう彼なりの日本へのオマージュのようだが。というわけでどうやらこの人らは日本へと熱い視線を注いでいる。

ナンシー派美術館所蔵の調度考えてみれば日本風の芸術に欠かせないのが「花鳥風月」。「虫」は入っていないけれど,飛ぶという点ではちょっと鳥っぽいかも。アールヌーヴォーのモチーフと重ならないでもない。自然との調和を旨とする「禅」的な静謐さやテンションみたいなものも,何となくカッコいいと彼らには思われるのだろう。ジャポニスム。オルタも影響を受けているとのことだが,すこーし違う路線なのである。おそらく。

▼オルタもいい。確かにいい。しかし,ギマールの方が「優美」ではないだろうか。そこは好き好きではあるが,私個人的にはそういう結論に達した。ギマールの色づかいは,あれは何とかならんかと思うこともあるが(実際,何とも言えんグリーンだったメザラ邸の玄関扉は,リニューアルの際にシックな木肌色に変更されている。私の紹介ページで両方の色が確認可能)。

ネット上にあるギマール建築物の写真としては,私のものもあるが,何といっても建築史を専攻する加藤耕一さんのブログ「Life in Paris」のそれが秀逸である。撮っているのが専門家だから視点・構図にしてもプロの感性が光るし,私などにはわからないが写真技術もある方のようである。これらに比べれば私のものなど感性・写真技術とも本当に恥ずかしいかぎりであるが,ある意味「カステル・ベランジェの近所に住んでいる人が,子どもの学校の送り迎えのついでに撮った写真」(マジです)なんていうのも貴重かもしれないので,公開しとこうかなという気になったのであった。

ちなみに,従来のラ・フォンテーヌ通りは,最近「ジャン・ドゥ・ラ・フォンテーヌ通り」とフルネームに変わったようである。のほほんと生きていると世間の動向がよくわからないが,道々の標示板が新しく付け替えられていることは,これ最近確認された事実である。フォンテーヌとは泉のことだから,「ラ・フォンテーヌ」が普通名詞ではなく人名であることをはっきりさせたかったのかもしれない。「アリとキリギリス」なんて寓話もこの人の作である。

Rue Jean de La Fontaine▼さて,こういうどうでもいいようなことを大きな問題と関連させるのがこのブログの特徴なのであるが(いつもこういう議論を妻としていると,義妹に「お姉ちゃんたちって,よくそんなにどーでもいいことばっかり長々と話してられるねぇ」と感心されるのである),今回はやはり「ムダとは何か」という問題であろう(あるいは,こういうことを考える時間がムダなのか)。

言うまでもなく,「ムダ」という表現は,価値判断を含んでいる。「なくもがな」のものが,ある,と言っているのである。「税金のムダ使い」「ムダな公共事業」「ムダな抵抗はやめなさい」「ムダ毛」というように使われるのは周知のとおりである。

しかしだいたい,「ムダ毛」って何? 毛に,有用なものとそうでないものがあるのか。髪の毛は抜けるとたいへんで,育毛剤で一生懸命育てるのに,すね毛はないほうがいいのか。女はともかく男もそうなのか。というより,毛は何らかの目的があって生えているものなのか。

なるほど,目的論的な生物学ならここで何か言い分があるかもしれない。人間の体表の毛はだいたい「弱い部分」を保護するために生えている,という説明がある。確かに頭のように超重要な部分とか,あとは多く「穴のほとり」に生えている。一瞬なるほどとと思うが,しかしだとすると,脇の下の毛の存在理由が説明できない(できるのかな?)。

ここではまともな議論に耳を貸す気はない。ここではただ,「ここの毛はあってほしい」「ここはいらない」という,イデオロギー的な価値判断がこの「ムダ」という表現に反映されていることだけを指摘したいのである。

例えば評判の悪い「公共事業」についても同じことが言える。公共事業は,特にハコものは,皆さんよく「ムダ」とおっしゃる。確かに公共事業の多くが,年度内の予算の消化であったり,土建屋さんへの仕事の提供が主目的だったりするかもしれない。しかし市場原理が至上原理,という意味で,「公共事業だからムダ」なのではない。公共事業で問題なのは,「この道路はあった方がよい」か「ここにはいらない」か,その政策判断が常識に照らしてまともとは思えない,という点にあるのである。

そもそも,その判断の主体が誰なのか,ということが問題だ。「常識」の判断とは,一般市民の間主観的な判断,という意味あいがある。とすると,「政策担当者」の判断はこれとはずれる可能性はある。この政策担当者の判断は正しいこともあるだろうし,実は自分が私腹を肥やすためだけのものかもしれない。判断の正しさを担保するものが何もない,というのが問題の核心だろう,おそらく。

ともかく,「ムダ」という文字を見たら,即「誰にとってか」と問い糾すことが緊要である。

▼ル・コルビュジエの,「建物に装飾は要らない」という価値判断が前提にあってこそ,アールヌーヴォーを「建物の構造に関係ないアップリケにすぎない」とこき下ろすことができる。しかし,それが本当に要らないかどうか,誰が決めるのか。

Le Corbusier à Nantes建物に装飾がある場合と,ない場合で,そこに住むわれわれの「印象」は同じだろうか,違うだろうか。「実用性」「機能」という面からのみ考えた場合には,あるいは同じかもしれない(ととりあえず考えてみる)。しかし,「印象」「気分」という面から見ると,明らかに違う。部屋の壁紙が真っ赤っ赤だったらけっこうしんどいだろう。機能の面からは色なんか関係ないはずであるが。

こういうのをわれわれは「気のせい」と言う。しかし,「気のせい」というのは「単なる心の迷い」「実はどっちでも同じ」ということでは全くなく,むしろその「気」がわれわれの現実に具体的な影響を及ぼしている,という事実の謂いにほかならない。「気」のせいで,ないものが見えたりあるものが見えなかったりするのだから。そういうことを考えれば,真っ赤な部屋は真っ白の部屋と比べて,(同じかもしれんと一度は言ったものの)実はやはり「機能」が劣るとは言えないか。

▼あるいは,遊園地に行ってジェットコースターに乗ったり,お化け屋敷に行ったり,ホラー映画とか冒険映画を見るだけでも同じで,「ムダ」ということになってしまうのではないのか,だってわざわざ怖い目にあって,結局安全に戻ってくる/助かるのだから。戦隊ものとか水戸黄門とかディズニー映画なんかその最たるものである。すべてハッピーエンドと決まっているのに,なぜいちいち見ないと気がすまないのか。あるいは,枝雀師匠の「緊張の緩和理論」によれば,笑いもまた,緊張が解ける瞬間にふと現れるものである。とすると,人は笑うためには事前に「ムダに」緊張しておく必要があることになる。結局は解けることになっている緊張があらかじめ必要なのだ。しかしそれでも,これら映画や落語を「見るだけムダ」というのは,野暮である。

要らないものを極限にまでそぎ落とすと言うなら,まず自分自身の生命があやうくなると思う。「人間,生まれないのが最善」(キケロ,シェイクスピア)という言い方もできるから。どうせ死ぬなら,生きるのってムダじゃん!とか(高校の物理で「仕事量」を習ったとき,「朝起きて布団から出て,夜同じ布団で寝たら仕事量ゼロじゃん!」みたいなバカ解釈で友人と笑いあったものである。もちろんこの解釈は間違いなのでよろしく)。実際そう言って自殺する者もいることだろう。しかし,そういう考え方一般は,間違っている,いや,というより,野暮なのである。

また今度,機会があれば野暮なル・コルヴュジエのほうも見学してくる所存。