「反日」という表現について

2018年8月21日

日本の憲法記念日が過ぎ,中国の「五・四運動」記念日が来た。

ご案内のようにこのところ,日中関係がぎくしゃくしている。そしてそれについてまたしても星の数ほどのブログがそれぞれの意見を述べている。

そこへ私がつけるコメントはあまりないわけだが,待っていてもやはり誰も言わないようなので言いたくなったことが2点。

  1. 「反日」という表現は何かアヤシイのではないか
  2. 「謝る」ということは可能なのか(実は不可能である)

今日は第1の点を肴にしたい。


「反日デモ」という表現は少なくとも日本のすべてのメディアによって採用されている。ように見える(弱腰か?)。しかし,これは何だかちょっとムズムズする表現である。

いったい「反日」とは何だろうか。

何が言いたいかというとつまり,「反」はいいとして,「日」のほうはどのへんまでを指しているのか,そこは問題にならないかということだ。例えば「日本政府の公式見解」なのか,「日本というナショナリティ全体」なのか,「すべての日本人」なのか,あるいは……。

例えば私などは「日本」という抽象的なものをまるっと愛する一日本人だが,現在の日本政府の政策には賛成できかねる点があるからそのように言う。するとそうした私を「反日だ」と言う人がいる(もちろん私はそうは思わないのだが)。

おそらく皆さんすでにお気づきのことであろうが,ここのところを混同することに危険性がある,というのがこのエントリーの第一の趣旨である。

▼合法であるかぎりの「デモ」自体は,要するに普段意見を言えない人たちが自分の意見を言う,ということ以上でも以下でもないわけだから,「反日」であろうとなかろうと,これは言論・表現の自由ということで,私としては何の問題も感じない。

いっぽう投石や破壊行為は,端的に違法な行為である。だからそんなものを弁護する理屈はちょっと見つからない。「愛国無罪」など問題外で,愛国だろうとなかろうと有罪に決まっている(つまり愛国かどうかということと,有罪か無罪かということは無関係であり,これを混同することを「カテゴリー・ミステイク」と言うのである。いやそれは言いすぎか)。多くの日本人はたぶんそこはそう考えているだろう。私もその一人である。

報道によると,中国のある学生は記者のインタビューに答え,「われわれは過去を反省しようとしない日本政府の姿勢を糾弾しているのであり,十把一絡げに日本人全てを攻撃しているわけではない」という意味のことを語っていた。この学生は十分理性的である。投石をした部類ではないだろう。この学生にとっての「反日」は「反日本政府」の意味である。

他方,「日本人だったら誰でもいいからボコってやれ」というようなのもいる。こいつらはまあ親兄弟が日本人に殺されたとか,そういう人の話を身近に聞いているとか,どうせそんなところであろうが,こいつらにとっての「反日」は「反日本(全体)」の意味である。

で,これらを分ける必要がある,という記事は散見するわけである。当然だ。が,分けないで一緒くたにするやり方のことをできるだけ簡潔に記述するとすれば,それは「部分と全体の混同」ということになるだろう。

▼例によって論理学っぽいややこしい(注・「難しい」わけではない)言い方をすれば,「日」なる概念の外延のサイズは,話者によっていろいろである。「日本政府」は「日本」のごく一部であって,全部ではない。「日本文化」も「日本」の一部であって全部ではない。「日本人(全員)」というのも「日本」の一部であって全部ではない。結局「日本の○○」と名のつくものは「日本」とイコールではない。

日本政府や日本文化や日本人を攻撃する人間というのは,部分と全体を混同しないその仕儀から推して節度のある人間であり,冷静沈着に議論できる環境さえ整えば,こういう人たちとは十分話し合いができそうである。しかし一方,「日本」がらみならば何でも憎いという種類の反日家たちも存在する。この連中は知ってか知らずか,彼らが本来憎むべき対象の範囲を拡大している。こういう人たちとは話が通じないことが多い。

とはいえ実は,「部分と全体の混同」という混同のしかたは,割とフツー(つまり普遍的)なのである。混同という事態自体(発音するとヘンですな),むちゃくちゃに・ランダムに起こるのではなく,そのパターンがだいたい決まっているのである。

例えば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という俚諺がそれを証(あかし)立てている。本来坊主が憎いだけなのに,憎さが嵩じるとそれにまつわるすべてが憎いというふうに思われてしまう。「連想」の効果がこういう混同を生む。し,それはすべての人にとって起こりうる。

あるいは,部分をもって全体に代えるというやり方は,「換喩」という比喩表現にも活かされてもいる。「30の帆が近づいてきた」という表現は,30隻の帆船が近づいてきたことを含意している(注・「換喩」についてはさまざまの異説が流通しており,実はそれほど整備されているものではない。詳しくは別の機会に)。

こういうのは実は,例えば差別の問題へとつながっていく精神のメカニズムである。「無意識の論理学」が社会科学にも要求される所以である(そう言っているのは今のところ私だけかもしれないけれど。とちょっとブルーになる)。

▼こう言うと,「そっかぁー,混同しちゃーいけないんだー。混同しないように注意しよっと」と思うあなたは健全ではあるが,まぁちょっとお待ちいただきたい。考察は続く。

「ネット右翼」と呼称される人々がいつも糾弾しているのは,「反日」的なものや国家や人物などである。糾弾するにあたっては,まず「反日」というレッテルを当該の対象に貼らなければならない。この際,彼らがよく「部分と全体の混同」という手法を活用しているのを見かける。

例えば私やその他の幾人かの人々は,単に現在の日本政府の政策が現実の国益にかなうとは思えないために反対しているだけであって,日本をまるっと否定したり,「日本なんか大嫌いだ」とか「日本なんかなくなっちゃえ!」とか言っているのとはわけが違う。むしろ日本というネイションの改善のための道筋を志向しているのである。改善のためにはまず現状を批判しなければならないではないか(こういうのを左翼と言うのかな? 今日「左翼」なる概念がいかなる外延を有するのか定かではないが。ナショナリスト左翼かな?)。

にもかかわらず,ネトウヨ的見地からは,政府=日本の一部に反対すること自体が「利敵行為」と映るらしい。だから,日本なるものの一部に反対する者は,日本そのものに反対する者とイコールとなる。

なるほど! そう考えるとわからなくもない。しかしそれで北朝鮮の回し者だとか何だとか罵られるのはとりあえず納得いかないものがある(いや別に,現実には罵られたことはないが。と思うが)。

「利敵行為」か。では国民は政府のすべての言動につねに唯々諾々としていなければならないのだろうか,という疑問は残る。右翼だって政府の弱腰を叩くこともある。先日の小泉首相の「おわび演説」に憤っている右翼系(っぽい)ブログも見かけたし。

このへん,やはりちょっと一貫性に欠けるという意味で彼らの言い分の方がおかしいと思われる。「お上の言うことを聞かないやつは反日」と言う一方で,「『おわび』なんかしやがって小泉はけしからん」とは言えないはずである。でもそう言わないと一貫しないだろう。

かといって,「それ,おかしいよ」と私が言っても言ってる私は彼らにとって「反日」分子なので聞いてはもらえない。

というデッドロックにはまっているのが実情かと思われる。

▼「部分と全体の混同」について確認すべきポイントは,この混同には普遍性があること,だからネトウヨだけでなく私らもそういう混同を多かれ少なかれ日々しているということ,したがってそれを「混同してるよ」と指摘しても相手の混同は簡単には解消されない,ということである。

ただ,指摘しても混同が解消されない理由については尋ねてみる価値がある。結論から言えば,彼らは混同することに積極的にヨロコビ(享楽)を感じているということである。理由はカンタン。「敵」が定まれば,あとはそいつを思っきり叩けるから。アメリカのテロ戦争と同じ話である。

だいいち,「利敵行為」なる考え方をしている時点で,はなから相手との対話を望んでいないのが伺えよう。彼らにとって相手は当初から敵なのだから,そもそも話し合いのできる対象ではない。このへんの「敵」という,本日第二のキーワードについては,政治的なものの概念
カール・シュミット『政治的なものの概念』
などが説得的であるわけだが。

シュミットによれば,「政治」という次元は独立した一個の次元であるがゆえに,政治的次元における「友(味方)/敵」は,功利的次元での「利得/損失」や,美学的次元での「美/醜」や,倫理的次元での「善/悪」と混同されてはならない〈何か〉である。

自分は美しく,敵は醜い。自分は善であり,敵は悪である。こういう思考は,シュミットによれば,混濁しているのである(まさに「カウボーイ新十字軍」のアメリカそのものだ)。政治的敵が自国に経済的利得をもたらすなどということは,軍需産業について考えてみれば,かなりありうる話である。

シュミットの主眼は,政治的「敵」であるべきものを経済的「取引相手」に還元してしまう自由主義を批判することにあった。まさにこの自由主義批判において,今日あらためて元ナチス御用学者であった彼が再び衆目を集めることとなっているのはまあ奇妙といえば奇妙な話ではある。

しかし彼の説を聞いて,皆さんこう思われるのではないだろうか。相手が生まれてこの方・および未来永劫にわたって「敵」であるとはかぎらないではないか。「昨日の敵は今日の友」「雨降って地固まる」ということはありうるではないか。

この批判はシュミット批判としては通俗的なものだろうが,実は私も根っこのところでそう思う。ただしシュミット自身をよく読むと,彼も政治的能力とは「『敵』を決定できる能力」のことだと述べている。ということは,敵が誰なのかは太古の昔から決定されているものではないということになる。敵か味方かの境界線は,能力ある政治家によってそのつど引き直されるものなのであろう。

▼しかし現実に見られるのは,「こいつが敵だと経済的利益があがりそうだからこいつを敵と決めよう」という,やっぱり自由主義である。

基準が何もないなかで誰を敵とするかを決める,というシュミットの掲げる政治的決断主義が,実は文字どおりには貫徹しえないものであって,そこにはどうしても他の次元の基準,特に経済的基準が忍び込んでしまうのではないか。

そもそも,どうして「つくる会」の教科書が検定をパスしたのだろうか。それを考えてみよう。

ご存じの方も多いと思うが,教科書検定の基準には「隣国条項」というものが82年に付加されている。簡単に言うと「教科書をつくるときにはアジア諸国に配慮すること」という内容である。最近「中国や韓国に変に気を遣うのはおかしい」とか言う人があるが,こう言っている方々は80年代のことなど失念されているのであろう。通説を教科書に載せるのは別に「変」ではないし,隣国の皆さんにもむしろ「気を遣う」のが本来なのである。というか,じゃあ何で日本はアメリカに「気を遣」ってはるばるイラクくんだりまで派兵などしたのであろうか,そのコストの方がはるかに大だというのに。そちらの方を説明していただきたいものである。

「つくる会」の教科書は,すでに中国・韓国からの憤激をあれだけ買っているとわかっているのに,どうしてこの隣国条項をスルーして検定をパスし続けるのであろうか。いかなる条件が整えば,歴史学界における専門的歴史家の標準的な歴史認識を排除してまで,素人ショーヴィニスト(排外主義者)集団の自己中心的な見解が現行政府によって追認されるという事態が生起するのであろうか皆さん。

単に一部の政治家が,純粋に国民に愛国教育を施したい一心で東奔西走したというのだろうか? いや,そんなことはないだろう。日本が戦争を起こせる国になることによって,誰かが利得を得るはずだ。まず明らかなのは武器を売りたい経団連。そしてそれにつながっている企業と人々。そして一部政治家たちはそこから何かを得ているのだろう。この問題でのポイントはイデオロギーではなく,カネだと思う。おそらくは。でなければこうは動かないだろう。

以上の部分についてはみな憶測である。本当のところをご存じの方があればご教示ねがいたいものである。

▼北朝鮮はまあともかく,中国や韓国の「愛国教育」などを根拠に彼らを「敵」と呼ぶことは,あるいはできるかもしれないが,今日それが日本国にとって得策なのかどうかははなはだ疑問である。敵視されているから敵視し返す,という延髄反射的なやり方は,(ゲーム理論はそれを正当化したとしても,)この閉塞した状況の打開には役に立たないに決まっている。敵視されている理由について誰か何か考えないのか,バカ,と小声で言いたいところである。