内田先生への手紙――時間論としてのアナグラム論
先日内田樹先生のブログにコメントを書き込んだら,本文に私めへのご返答が載っているのを発見した。ご自分が「サイン・イン」できなかったからとのことだが,コメント欄より目立ってちょっとうれしい。TypeKeyさまさまである。
……誰だ「そんなに目立ちたいのか」とか言っている輩は。研究者というものは,自分の議論を目立たせる必要があるのだぞ。そのうえで,中身がなければないで皆さんそっとしておいてくださるのである。とにかく目立たなければ食いついてもいただけないのである。
ちなみに内田先生,ユーザ名とパスワードのうち,むしろユーザ名の方を間違っている可能性もありますよ。私もそれで3日間悩んだことがありました。今は解決していますが。
さて,私としては内田先生がアナグラム論――ソシュール晩年の,あの誰も相手にしない議論――へのご関心を吐露された際,「禿しく同意」の意を表すためにコメントしたのであった。これについて私見を述べることによってお応えしたいと思うが,如何せん「禿しく同意」の脈絡はまだ続いているようである。が,「禿しく同意」というコメントだけではつまらない。長めに書くのでトラックバックとさせていただこうと思う。
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内田樹先生,
前略 コメントへのコメント,ありがとうございました。そうです,Y田先生の同僚です。というかむしろ,実はY田先生のおかげで就職できたという経緯がありますので,「同僚」というより「心の舎弟」と言うべきです。
ええまあ,そんな個人的なことはどうでもよいのです。
そんなことより,先生のおっしゃる時間論としてのアナグラム論ですが,私も大いに賛成なのです。だけでは面白くありませんので私なりの観点をつけ加えてこの主題を手前味噌な方向に膨らませてみたいと思います。
私はジャック・ラカンの研究と称して(あっ口が滑りました)こちらに来ていますが,ラカンにおいてとても気になっているのが彼の理論と「論理」もしくは「数学」の関連です。つまりは,後期ラカンということです。このブログでも論理の話を得意気にいくつかしてはいますが,それは実は,論理が全てだと考えているからではなく,むしろ逆に論理の限界は必ずある,ではどこにあるのか,ということを突き詰めたいと常日頃考えているからです。そのためにこそ,論理や数学を勉強する必要を感じています。
おそらく,論理というものの彼岸にこそ,時間はありうるのだろうと思うのです。というのも,通常の意味での論理というものはおよそ無時間的なものの典型であるように思われるからです。A=AというのとA≠Aというのは端的に両立不可能と言われます。確かに両方が「同時に」成立するとするのは矛盾です。
しかし,「時間」というものが滑り込んでくるならば事情は異なります。まずA=Aが成立し,次にA≠Aが成立し,ということが交互に起こるのが工学に言う「振動」であります。ラカンは「スカンシオン(区切り,とかいう意味)」と言いますね。もし回路の中を電子が無限のスピードで動くなら,回路を回るのにかかる時間はゼロですから,振動は起こりえません。例えば光速であっても,有限のスピードで動いているからこそ振動は起こりえます。
そしてこういう仕掛けを使った「発振子」を使うことで,時計は「あたかもそれが空間であるかのように」時間を刻むのです。つまり発振子ないし時計という機械によってはじめて,「空間化された時間」が成立するのだと。
となれば,先生おっしゃる「空間的に表象できない」類の時間とは何か。それは時計によって刻まれる前の時間であり,まさに発振子が発振子となる原初的な局面での時間,ということになるでありましょう。
問題は,「空間的に表象できない」ような時間なるものを,どのようにして取り出せるかですね。そうするには,すでに座標空間がきれいに書かれた空間を想定することなく,まず座標空間を描くのは誰で,どうやってなのかを考えねばなりません。座標空間のないところに座標空間ができる経緯を描いてみないといけない。
こういうことを考えていくとほとんどギリシャの自然哲学みたいになってきます。生成消滅論ですね。秩序がないところに秩序ができるのはどういうわけなのか。どのようにしてなのか。これはまったく3000年来のアポリア中のアポリアです。
他方,できあがった座標空間のなかでだけものを考えているかぎりは,「時間」に関する議論は(いかにそれらしく見えても)すべて空振りだとあえて断言してみましょう。そこで言及されている「時間」なるものは,すべて空間に似た形式によって手なづけられた時間,というようなものにすぎないからです。
ラカンの場合は,「論理的時間~」という論文(あとローマ講演などでも)で囚人のジレンマを例に挙げながら,原初的な時間を取り出します。論理的に破綻した推論から,エイヤっとジャンプするという。彼の弁では本気か冗談か「集団的論理学」とか言ったりしていて,何ぶんダジャレ王の言うこと,話半分で聞くわけですが,やはり他者がいないことには時間が出てこないゼという論は正当なものだと思えます。
まあこういった話をしていると,どうにも抽象的というか,頭でっかちというか,散文的な話になりがちですよね。でも,実はそんなに具体性のない話ではないはずで,われわれは日々そういう生を生きているはずです。例えば話が暴走したときに入れるツッコミとして
「そういう問題やないやろ」(関西弁の場合)
という言い方がありますよね。これは狭い論理の枠内に凝り固まった思考を,ぶっ飛ばしてくれます。ちまちま考えていると答えの出ない問題でも,大局的に見ればおのずと答えは決まっている。そういうことは多々ありますね。ビュリダンの驢馬みたいなのがよい例ですが。私は「善性」のことはまだよくわからないのですが「禅性」のほうは(ああつまらないオヤジギャグ),やっぱりいまの議論に絡んでいると感じています。
ところで私は文学とか映画とか,そちら方面の教養がないのでどうしても理系っぽい話に持っていこうとするのですが,認知科学や脳科学そのものについては先生はどのようなご見解をお持ちなのでしょうか。先回のコメントはその点も少し気になってのことだったのです。あるいはご著書のどこかにすでにお書きになっていますでしょうか? シニフィアンたちの離合集散・順列組み合わせがなぜか意味を不断に生成するわけですが,認知科学などではコンピューターを使ってそういうことを(アナグラムなんかも)考察することがあると思います。先生はこれについてどんなふうにお考えなのでしょうか。
かくいう私は茂木健一郎さんがやっている「クオリアML」で暴れて,アインシュタインTシャツをもらった前科があります(自慢。しかしもうずいぶん前にこのMLはやめてしまいました)。それはそうと,コンピューターというツール自体の限界はさておき,やはり研究者の思想の問題で,できあがった座標空間から一歩も出ない研究が多いように思います。いえ,私としてはこの分野,何か見つけてくれるんじゃないかと期待しているだけに,現状に不満なのです。コンピューターは思考できるか,とか何とかいろいろ議論の焦点がありますが,そういう議論をフォローするにつけても,「だから,そういう問題やないやろ」とか言いたくなるのは私だけかと思いまして。
言いたいことはいろいろありますが,ダラダラ長くなるのも何なので,今回はこれくらいで失礼します。今後ともよろしくご厚誼のほどお願いいたします。
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もちろんのことだが,内田先生以外の方のコメントも大歓迎である。ぜひよろしく。
ディスカッション
コメント一覧
昌兄ぃ(兄貴より、こちらでいかさせていただきます。)兄ぃは内田先生のHPで「無色の緑色の観念はすさまじく眠る」って奴にふれられていたのでせうか。小生、大学のゼミのテーマが「構造主義研究」だった故に反応せずにはいられないのであります。小生のプレゼンは「ソシュールとヤーコブソン」でありました。(ヤーコブソンは命日が小生の誕生日であり、「神秘的なつながり」を感じています。つながりはそれだけじゃないのですが・・・。)アニキギャクの「禅性」についてですが、井筒俊彦先生の『意識と本質』(岩波文庫)を想起しました。特に、「意識と本質」や「禅における言語的意味の問題」。「禅」に関しても、現象学、イスラーム思想、ギリシャ哲学、中世哲学、リルケ、マラルメ、仏教哲学、などなど、該博な知識で御考察されております。「そういう問題やないやろ」問題も、禅などにおける、論理的思弁の彼岸の「無分節」や「鏡を割る」ことにつながるのかなぁと思いました。徹底的な論理思考がパカっと割れて「無分節」、無「本質」に触れることとか。内田先生がトーマス・マンに触れられていたので、トーマスつながりで、「トーマス・マートンの禅の定義を私は思い出す。禅とは「主体と客体の彼方なる純粋有の存在論的意識であり、あるがままの存在を直接無媒介性において、じかに捉えることである」とマートンは言う。」(140頁より。最初、トーマス・マンと誤記したのは、アナグラムにつながる?)自動筆記状態で書き連ねるのを我慢し、前に触れたウクライナについて。昨日、ウクライナ美女に会い、選挙や政治について聞きました。しかし、危なすぎてここでは書けません。マフィアやニューリッチの話しなので。ただ、野党、与党を超えた覚醒した人々で革命するんだと言っていたので、「僕は君とウクライナの為に祈るよ」と言っておきました。revolution(革命)→to love ruin(廃墟を愛すること)(『ソシュール入門』 町田健 光文社)
いやほんと,いつも書き込みありがとうございます。Tatarさんとサシで勝負してるみたい。ホントVシネになってきた。「まとコメ」(まとめてコメント)もたまにはお許しを。ちなみに,pとかbrタグとかは使えますよ。念のため。
> 「無色の緑色の観念はすさまじく眠る」
いやこれじゃないです。これって出典は何でしたっけ。井筒先生の本も読んだことがないです。これまたすみません。勉強します。
論理には袋小路があります。典型的にはトートロジーとか矛盾です。禅は,そこからまろび出る一つの技術なのではないかと思っています。日本に帰ったらぜひ勉強したいと思っているのですが。
でマートンさんには「そういう話やないやろ」とか言ってみたい。西田哲学的方向に行っても,うーんどうなんだろう。「主客未分の直接無媒介性」とひとこと言ったら,もうそれ以上言えることはなくなってしまうのではないでしょうか。
プラティックな〈技術〉を言葉で表現すること自体に,どうしようもない限界があるわけです。まあそうしないとどうしようもない場合(哲学書のなかでとか)にそうするわけですが,内田先生のように身体操法なんかを議論するには,言葉を突き抜ける何かに言及しなければならず,それは言葉で言及できるのかという問題もあり。
ちょうどマイケル・ポランニーが「自転車の乗り方」を「知っている」というのはどういうことか,について論じたような困難がここにはありますね。何かきっと,特殊なテクニックがいるんですよ,こういう議論をするには。
構造主義の〈構造〉だって,論理的というか数学的にできてるとすれば,きっちり自己完結はしていなくて,袋小路がやっぱりあって,そこから何かもう一段階別の構造へとワープできるようになってると思うんですよねー。急にSFみたいですね。むしろベイトソンなのですが。
ラカンにも引き継がれているヤコブソンの「隠喩」と「換喩」は,本当に「使える」理屈なのですが,脳科学方面での失語症研究では「あんなものもう古いよ」みたいに言われたりしているみたいですね。どうなんでしょう。言語というもののつくりから考えると今もってたいへん本質的な指摘と思うのですが。
ウクライナの裏事情については,まあ,また今度。
昌兄ぃ(勝負じゃないです。兄ぃに稽古をつけていただく、遊侠きどりのしがない三下でやんす、あっしは。) 「無色の緑色の観念はすさまじく眠る」の出典は、チョムスキーの「Syntactic Structures」(1957)ですね。まず、井筒本からの補足で、兄ぃと同じように、井筒先生もおっしゃていて、「それが根本的に静的であって力動的でないことがなんとなく気にかかる。中略。禅が禅として生きていないのだ。つまり似て非なるものである。」とあります。禅の定義としては、文句のつけようない、でもそれは禅じゃ全然ないかも?てなことをおっしゃっております。「プラティックな〈技術〉を言葉で表現すること」問題ですが、語り得ぬ物に沈黙しないテクネーとあいなる?のかわかりませんが、「暗黙知」「わざ言語」って奴も、小生が関わった運動で考えてみても、サッカーやバスケットボールでも、言葉じゃ説明できない部分、やってる奴らだと、「あの時アレするとよくね?」「そうそう、だよね」のやりとりに象徴されるものは多々ありますね。(内田先生は、気づいた頃には売れっ子になられて、読みたいが追いつかない。。。朝日新聞で我らが鎌倉市民の高橋源一郎さんが評を書いてもっと売れたのでしょう。高橋さんの書評や評論で何冊、本を買ったことか。。。)ベイトソンには通じてないのですが、論理階型理論をベースにしたダブルバインド理論のことにふれられているのでせうか。
ヤコブソンの「隠喩」と「換喩」も、夢の研究における「置き換え」や「圧縮」と関係あるとされていると思っているのですが、アラン・ボブソン『夢の科学』(講談社ブルーバックス 2003)のキャッチでは「フロイトは間違っている!
脳の活動状態をリアルタイムでみられるようになって、夢の研究は大きく進歩した。最新脳科学で探る夢の正体は、フロイトがいうような、抑圧された欲望が現れているのではなく、睡眠中に自己活性化した脳の正常な精神活動である。」とあります。フロイトが間違っているか否か別として、言語の構造と無意識の構造の関連はないとはいいきれないのでは、と思っていますが、どうでしょう。脳科学の最近の研究で、「あんなものもう古いよ」ってのはどの辺の文献でせうか。言語の本質、「喩」。というか、「そうとしか言えない」って現象はやはり多い。曖昧を大事に。と同時に曖昧に向き合う。難しいです。鎌倉なので、禅寺に通うか、迷う。西田先生を降霊して、座禅を組むとか。精神分析関連著作で、I・マテ-ブランコ 著/岡 達治 訳 『無意識の思考 ――内的世界の基底と臨床の空間 』(新曜社)が出ているのに気づきました。いかんせん高価です。(ここのブログでのやりとりが「わざ」に関わると思います。私ははじめて、書き込みをしまして、タグについて知りました。兄ぃの業績を参照して、前提条件を共有しながら、このテーマなら何か返ってくると予測する、また知らないキーワードは調べる-学習するなどなどの過程。面白い稽古です。)支離滅裂かもしれません。三下の粗相をフォローしてやっておくんなさんし。
すいませんコメント遅くて。しかし,困ったな。面識ないのに,義兄弟の杯を交わしてしまった。こちらは何と呼べばいいのか(笑)。だいたい兄ぃにチョムスキーの出典教える三下って,もはや「教えることは何もねぇ」ってとこかな。ていうか,そのキャラでブログ立ち上げてみませんか? 面白おかしく。エキサイトとかはてなとかで。
引用されたボブソンさんの見解自体が,「フロイトはもう古い」的議論ですよね。そう言っている人にかぎってフロイト自身の著作を読んだことがないわけです。いつものパターン。だから学界的にはあまりインパクトはないんです。要は古いか新しいかじゃなくて,本質的かどうかなんですよね。フロイトのニューロンモデルは当時としてはなかなかイケてたという評判ですが。
なおベイトソンはもうちょっと広い文脈ですが,サイバネティクス関連ですね。これがラカンとどうつながるかは,「ねこまっさかさま」さんの「2004-12-18 すべては薄明の中に」という記事が秀逸です。ぜひご覧あれ。右のリンク集からたどりつけます。
そういえば鈴木晶さんも鎌倉市民ですよねぇ。思い起こせば私は鈴木さんのHPのリンクから内田先生のHPを知ったのでした。当時はまだブレイク前で。
マテ=ブランコさんも岡達治さんも知りません。若い人なのでしょうか。ともかく情報ありがとうございます。チェックしたいと思います。
すみませんが明日からクリスマスまでは出かけますので,このブログは放置プレイです。たぶん27日くらい以降に反応できると思います。
昌兄ぃ。
切った、ハッタリ、ブリコラ渡世。出たとこ勝負の丁半勝負。返す、茶碗が兄貴の盃。シーニュのツギハギ、宵の追いはぎ。
カマス一発、最後のカッパギ。掘った墓穴に手向けるスミレ。三色スミレのトリコロール。ミーはお仏蘭西ザンスのボン・サンス。ノン・サンスからアンタンシテ。場下がせがむ、あんたシテ。せがむ場下を拒むパシオン。博徒で臨むアカデミズム、討議は口上、ライク香具師。
悔しさ胸に愚連隊。ヤポンよりグラシアス、トゥー兄ぃ。(と、アナグラムを含む、仁義的口上を切ってみました。Tatarなので「たあ坊」でお願いします。)
まずは、ブログの立ち上げですが、いずれオッタテます。また鎌倉市民の登場ですが、深田甫先生(慶大名誉教授、独逸文学、ただいま小町通りで蔵書をうっぱらう古書喫茶の「遊吟舎」オーナー)に「まだ若いのだから、若い内に沢山(im)pressしなさい」とお言葉を頂戴したので、expressもしくは排泄及び射○は控え、ガマンガマンと言うことで、ここいらですこし、おもらし程度に・・・(なぜか品が無くすみません)
ちょっとエール程度にコメントをと思っていたのが、そんものをこえーることになっています。
フロイトは古いとか、フロイトは終わったとかはもうイイと、才能=業績は終わらない、何かを終わらせることはあっても、と思うわけです。「フロイトに帰れ」のラカンを読み直す-読み替える、当然だと。ソシュール-ヤコブソンもそれに併置させるのも当然だと。で、そこに待ったをかけるマテ・ブランコが意識と無意識のシーソーの上から言う訳です。オイラの『The Unconscious As Infinite Sets』 (Maresfield Library)は読んだのかと。『無限集合としての無意識』と訳されるであろうそれで提出されるのが「bi-logic」(複論理と中沢新一著『対称性人類学』講談社メチエ2004 で訳されている)なんです。シーソーこそが「bi-logic」なわけですが。
で、兄ぃは文献案内で「レヴィ=ストロースについては,その無意識の数学的とも言える「構造」観が,ラカンの「無意識は言語のように構造化されている」との文句に反映されているように思えます」とおっしゃられるわけです。ですから、「無意識の数学的」部分をブルバキ現代数学とカントール創始の「無限集合」で再考したらマンセーなことあんかもなと感じてるのです。フロイト-ラカンとフロイト-マテ・ブランコのラインの平行とキアスムからオモロイことあんだろと確信してるのです。
マテ・ブランコはスキゾ分析からその理論を提起したわけですが、スキゾ分析と言ったら奴らが想起される訳ですね。枕本2冊をモノした奴らです。だから、いろんなもんを読替、組み替え、もっともっとだなと。ソシュール-ラカンのラインが結局、クラインの土壺?だろうとなかろうと、その読替、組み替え、の道具にイグナシオ・マテ・ブランコとポップにシリアスな思想を展開した奴らの評価するイェルムスレウを投入だなと思います。
実物を見てないので何とも言えないのですが、兄ぃの「生成の論理としてのフェティシズム――無意識の構造の形式化可能性」を妙木浩之「心の中の「無限」無意識の数学:マッテ・ブランコの精神分析・1-2」imago 1992 10月号 12月号 とマッテ・ブランコ「分裂症における基礎的な論理─数学的構造」(廣石正和訳、現代思想 1996.10)と前述の書をふまえて再考なり再検討していただきたいなと思うのです。(気鋭のラカン研究者として-鈴木晶先生のHP参照&晶先生の妻約一人の記述に好感・・・場下の一人や二人と・・・)
サイバネティクスは虎キ○のクリチックで「トランス」でありんすな本をお書きになってる方の本で随分と前に知ったものです。詳細は未知なので勉強します。
『無意識の思考』はアマゾンで詳細わかります。「matte blanco」でググッて見たください。ちなみに、マテ・ブランコのHPにレヴィ・ストロースとブランコの理論の比較検討した論文が伊語であり、無理矢理翻訳サイトにかけて大意もしくは粗意をとってるところです。
長くなってしまいましたが、作家の村上龍氏も「放置プレイ」がお好きだそうで、その際の内容は、「待たされる私の頭の中がドーパミンやアドレナリンでびっしょり」から類推してください。仏蘭西でご家族一緒に素敵なクリスマスをお過ごしください(祈)。From アンチ・クライスト@鎌倉