「反日」補足

2018年7月9日

あとで読み返すと何だか締まらないエントリーを書いてしまったので(眠かったんだもん),補足したい。

  • 要するに第一に言いたかったのは,「反日」という表現は,「日」というところで「部分と全体の混同」を誘導するものになりかねない,ということだった。
  • 一方で,かといってねじり鉢巻きで「部分と全体を区別しましょー」と叫んでも,ちょっと虚しいかも,ということも言いたかった。
  • なぜかと言うと,一つにはこの混同するという機能は人間の精神に普遍的なものだから。
  • もう一つには,混同するには混同するだけの理由があるから(つまり「敵」をつくりたいからね)。混同「したい」人がいるんだから,そういう人に分けてねと言っても虚しいというハナシである。

まあそんなところである。以上まとめ。

しかしまとめだけだと寂しいので,関連資料をつけました,というのが今日のエントリーである。


Unconscious Logic: An Introduction to Matte-Blanco's Bi-Logic and Its Uses (New Library of Psychoanalysis)▼先日来(特にtatarさんによって)ご案内のマッテ=ブランコの複論理 bi-logic の考え方においては,「対称原理 principle of symmetry」というのがあり,これが「部分と全体の混同」を導くものに対応する。ので,今日は(気が向いたので)エリック・レイナー Eric Rayner 氏の解説本から関連部分を紹介してみたい。参考まで。たとえあまり参考にならないにしても。

なお訳の方針は「原文の意(こころ)だけを汲み構文はばっさり無視する」という「ざっくばらんな意訳」である。ややふざけた表現を含むが,かりにも天下国家を論じる人間ならそんな小さなことに目くじらを立てないでいただきたい。

全体と部分の等置

全体としての対象「B」とその部分としての「b」についての考えは,Bはbを含み,bはBに含まれる,というような空間的あるいは時間的関係に関わっている。こういった考えや諸前提は,当然非対称な論理を使用している。しかしひとたびこれが対称化されたときには,思考は「Bはbを含み,bはBを含む」という形になるだろう。対象「B」内部の空間は消えてしまうだろう。かくして対称性が支配しているもとでは,全体的対象はその部分と同じものとして経験されることになる。

一見したところでは,こんなことはアホで間抜けな頭の体操と思えるに違いない。しかしわれわれの感情的な考えは,この手の「部分=全体」等置に満ち満ちている。心理学的に見て最も重要なのはこの事実である。この等置は精神病において最もあからさまであって,精神病状況においては例えば,鼻のでき物から悪の精神全体が湧いて出てくるかのような感覚をもつ者もいる。この種の等置の別の例を挙げよう。通常,人[男]は自分のペニスを,自分の身体の特定部位にある部分として認識できる。しかし健康な夢においては(精神病においては覚醒時も同じだが),ペニス/身体全体/自己がそれぞれ区別されず,みな同じものであり,入れ替え可能であることは,ごくありふれたことである。

より目立たないかたちでだが,いかなる神経症にもたぶんそういう等置は起こっていて,それは例えば不能の感覚が,ペニスの特定機能の不具合として経験されるのと同時に,身体全体の弱さとしても,あるいはまるまる自己の無能力としても経験されるというような場合に表れている。普通の状況で言うなら,「部分=全体」等置は試験に落ちたときによく見られる。普通の人なら「オレ今回落ちちゃったよ I have failed this time」と言うだろう。神経症的で抑うつ的な人は「オレはまったくの落第人間だ I am an utter failure」と言うだろう。これが精神病的な人なら,「私は落第[そのもの]だ I am failure」と言うだろう。対称化の働くレベル(意識レベル・前意識レベル)について,それぞれの度合いの違いに着目されたい。もう一つ別の例は,子どもが何かちょっとした悪さをしたときに,子ども自身はいい子なのに親が「悪い子ね!」と言う場合にも見て取れよう。

極端に二極化された,オール・オア・ナッシングな状態というものは,極めて頻繁に生起する。のちになってはじめて,他の諸経験が非対称的に関連づけられ,人は自分自身に「あの状況ではオレは弱くてダメで落第だったけど,でもオレっていつもそうってわけじゃないんだよね~」と言えるようになる。これは,情動性が健康であっても病理的であっても,いずれの場合にも重要な現象なのである。

Eric Rayner, Unconscious Logic, Brunner-Routledge, 1995, pp. 32-33.

時事,研究

Posted by 中野昌宏