カナダから帰還しました

2022年11月9日

皆さまこんにちは、中野です。

このブログも完全に冷温停止していましたが、ゆるゆると再開していきたいと思います。

1年間のサバティカル(研究休暇)として、カナダはバンクーバー(ヴァンクーヴァー、が正しい表記ですがまあこれで)のブリティッシュ・コロンビア大学(University of British Columbia、以下UBC)のアジア研究所(Institute of Asian Research)に滞在しておりましたが、このほど帰還いたしました。本当であればカナダから書き込めばいいのに、戻ってきてからの投稿です。いやー、充実してたので。研究上・生活上でさまざまな方々のお世話になりながら、とてもすばらしい経験をさせていただきました。その中身についても少しずつここで開陳していきたいと思います。

なぜバンクーバーだったか。それはですね。日本国憲法制定史を調べていて、ハーバート・ノーマンに興味をもったからです。

E. Herbert Norman (1951, Ottawa)
E. Herbert Norman (1951, Ottawa)

ハーバート・ノーマンはカナダの外交官であり、同時に日本研究者でもあります。宣教師ダニエル・ノーマンの第3子として軽井沢に生まれ、15歳まで日本で育ちますが、その後トロント大学、ケンブリッジ大学、コロンビア大学、ハーヴァード大学で学び、博士号を取得。そのまま研究者にはならず、外交官としての道を歩みます。

この人がどうして日本国憲法ないし戦後占領政策に関係するのか。少なくとも2つのルートが考えられます。1つはマッカーサールート。もう1つは鈴木安蔵ルートです。

ノーマンは終戦後すぐ、9月の半ばにはカナダ代表団の一員として日本に来ますが、その学識を高く買われてGHQで働くことになります。これ以上の日本専門家はいない、ということで、マッカーサーのノーマンに対する信任はそうとう厚かったそうです。

鈴木安蔵とノーマンの関係は、カナダ大使館の書記官時代にノーマンが鈴木安蔵を訪問したのが最初で、彼らは1941年に尾佐竹猛らを中心に立ち上げられた「憲法史研究会」でも顔を合わせています。1945年9月23日(日)*に、都留重人に伴われて鈴木安蔵宅を訪れた* 都留重人宅に滞在中のノーマンは、訪問してきた鈴木安蔵に、大日本帝国憲法の根本的改正の必要性を説いたと言います。

* この日付と事情、通説と違いますが、なぜそうなのかはおいおい説明しますね(→このことは日本カナダ学会の学会誌掲載の論文になりました)。

細かく書くと長くなりますが、そういうわけで、ハーバート・ノーマンの考えが、マッカーサーを通じて日本の戦後占領政策に影響したかもしれないし、鈴木安蔵を通じて新憲法の内容に影響したかもしれない。そのように考えられるわけです。面白いことに、そこは右派の人たちも同様に考えているようです(この講演原稿はこちらから)。

ノーマンは、ケンブリッジ時代に共産主義団体と関係したということで「赤狩り」の厳しい追及に会い、1957年、大使として赴任していたエジプトのカイロにて自殺してしまいます。UBC図書館には、そんなノーマンの残した手紙や原稿、メモ、新聞記事のクリッピングなどが収蔵されており、ノーマン自身がかつて所有していた蔵書も数百冊収められています。