ポツダム宣言のご紹介

2023年5月10日

はい。全国のお茶の間の皆さん、こんにちは。さ〜て、本日ご紹介するのは、あの安倍晋三首相も詳らかにはご存じないという、あの、「ポツダム宣言」です。たいへん有名ですよね〜。

本物は、国会図書館のサイトですごくきれいに整理されていて、英語版日本語版(外務省訳)と誰でも無料で読めるわけですが、英語だったりカタカナだったりで、いろいろと微妙に読みづらくありませんか? ネット上に現代語訳も転がっているのですが、なんとなく違和感が……。

そんなあなたのために、お作りしました! さあどうぞ! ご自由にご参照ください!

方針として、一読しての頭に入りやすさを重視しました。ですので、少し口語寄りの意訳っぽいものと言えるでしょうか。日本語の語感を重視しているので、訳語の統一という点では雑です。眠気には勝てません。これは間違ってますねということについてはご指摘ください。

ポツダム宣言(現代語訳)

※英語版を底本とし、外務省訳その他を参照した。

  1. 合衆国大統領・中華民国政府主席・英国総理大臣は、数億の自国民を代表して協議し、今回の戦争を終結させる機会を日本に与えるということで合意した。
  2. 合衆国・英帝国・中華民国の強大な陸・海・空軍は、西方から自国の陸・空軍による数倍もの増強を受けて、日本に最終攻撃をかける態勢を整えた。この軍事力は、日本が抵抗をやめるまで、同国に対し戦争を遂行する全ての連合国の決意によって支援・鼓舞されている。
  3. 世界中の怒れる自由な人民の力に対するドイツの無益で無意味な抵抗の結末が、きわめて明瞭なひとつの先例として日本人民に示されている。現在日本に対して結集しつつある力は、抵抗するナチスに対し行使され、全ドイツ人民の土地・産業・生活様式を必然的に荒廃させた力に比べて、計り知れないほど強大なものである。われわれの決意に裏打ちされた全軍事力を投入することは、日本軍の不可避的かつ完全な破壊と、必然的に日本の国土の徹底的な壊滅とを意味するだろう。
  4. 愚かな打算で日本帝国を滅亡の危機に導いた、自分勝手な軍国主義的助言者によって引き続き支配されるのか。あるいは理性の道を進むのか。日本が決断すべきときは来た。
  5. 以下がわれわれの条件である。われわれがここから逸脱することはない。他の選択肢はない。われわれはいかなる遅延も認めない。
  6. 日本人民を欺いて世界征服の暴挙に出る過ちを犯させた者の権威と影響力は、これを永久に除去する。われわれは、無責任な軍国主義が世界から駆逐されることなしには、平和・安全・正義の新秩序は生じ得ないと主張するからである。
  7. 上のような新秩序が建設され、日本の戦争遂行能力が破壊されたことの確証が得られるまでは、連合国の指定する日本領内の諸地点は、われわれの目指す基本的目標を達成するため、占領されなければならない。
  8. カイロ宣言の諸条項が履行され、日本の主権は、本州、北海道、九州および四国、そしてわれわれの特定する小島嶼に限定されなければならない。
  9. 日本の軍隊は、完全に武装を解除されたのち、各自の家庭に帰り、平和的・生産的な生活を営む機会を与えられる。
  10. われわれは、日本人を民族として奴隷化したり、国家として破壊したりすることを意図していない。しかし、われわれの捕虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重な処罰を課す。日本政府は、日本人民のあいだの民主主義的傾向の復活・強化へのあらゆる障害を除去しなければならない。言論、宗教、思想の自由、ならびに基本的人権の尊重は確立されなければならない。
  11. 日本には、その経済を支えるような産業、公正な損害賠償の請求を可能にするような産業を維持することは許されるが、戦争のための再軍備を可能にするような産業は許されない。右の目的のための原材料の入手(支配ではなく)は許される。結果的に日本は、世界貿易関係諸国への参加を許されることとなる。
  12. 前記の諸目的が達成され、かつ、日本人民の自由に表明された意志によって、平和的傾向をもつ責任ある政府が樹立されたときには、ただちに連合国の占領軍は日本より撤収するものとする。
  13. われわれは、日本政府がただちに日本軍全軍の無条件降伏を宣言し、かつ、その行動において同政府の誠意の適正・適切な保証を提供することを、同国政府に対し要求する。これ以外の日本の選択は、迅速かつ徹底的な壊滅あるのみである。

はい。全体の構造としては、1〜4までが脅し(または事実)、6〜13までが降伏の暁の要求、という形式にまとまっております。後者のほうは「shall」が多用されており、これは威厳を伴った要求・指示のたぐいです。まあ恫喝、といえば恫喝なのでしょうが。しかし内容はどうでしょうか。民主化がメリットとなる庶民にとっては、ありがたい条項も多く含まれているのではないでしょうか。

連合国側のストーリーというのは、「自分勝手な軍国主義的助言者 self-willed militaristic advisers」が、無垢な一般国民を騙して世界征服に向かわせた、というものです。微妙に天皇を除外して「助言者」の責任にロック・オンしているのが読み取れなくもない。ここ重要ですよね。当時の帝国政府は、「無条件降伏」によって天皇が断罪される、すなわち国体が護持できなくなることを最も恐れましたから。

で、逆に言えば、一部の責任者に責任を負わせつつ一般国民は免責しないと、戦争終結後の統治ができない、ということではあります。もちろんかなり積極的に、アツくなっていた一般国民も多くいたでしょう。しかし一億人全員を処刑するわけにはいきませんし(東久邇宮内閣は「一億総懺悔」論とともに一瞬で退陣しました)、そういう人たちも大本営発表によって冷静な判断のための情報を制限されていたわけで、これはフィクションであれなんであれ、責任を免除して/割り引いてあげようというのがひとつの落とし所です。

第6項以降が連合国の具体的要求ですが、とくに目を引くのが第11項、「日本国政府は、日本国国民のあいだの民主主義的傾向の復活・強化に対するあらゆる障害を除去しなければならない。言論、宗教、思想の自由、ならびに基本的人権の尊重は確立されなければならない」というくだりです。のちの日本国憲法の骨子みたいなのが含まれていますよね。狂信的な軍国主義国家が、言論と情報の統制によって作られたことへの反省がここには込められています。つまり連合国は、明らかな文言をもって日本に「自由」と「民主化」を強いたわけですが、「自由」を「強いる」というのがちょっとパラドックスというか、アクロバットかもしれません。ここに文句を言う人もよく見かけます。

でもよく考えると、「強いられた」のは誰か。強いられた対象は「旧政府」であるはずです。つまり連合国ないしアメリカは、日本政府に対して、「お前ら、自国民に自由を保証してやれよ!」と強いているのです。だから一般国民は、単純に重石がとれたのですから喜んでおけばよいのです。国民は責任主体から外されているので、何も「押しつけ」られていません。という意味で、大きな絵で見ればそんなにパラドクシカルなお話ではないのです。

これに対して、憲法についてもそうですが、連合国ないしアメリカから日本が何かを強いられたというその事実が腹立つ、という「愛国者」の方も散見されます。が、それは腹立つか立たないかという感情論、あるいはナショナリズムの問題だし、だったら日本社会は自由じゃないほうがいいんですか、自由であるべきではないんですかということになります。まあ実際、自由とか民主主義は西欧のものだから日本の伝統になじまない、と平気で言う人もいますが……。いまや21世紀、人権や自由や民主主義は抜き差しならず普遍的な概念になってしまっているのではないですかねぇ。いまどき不自由非民主主義の社会でどうやって「グローバル人材」(略して「グロ人」)を育てようというのでしょうか。

また、第12項もよく参照されます。「日本国国民の自由に表明された意思によって、平和的傾向をもつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍はただちに日本国より撤収するものとする」。ポツダム宣言を受諾「させられて」はじめて民主化した日本国なのですから、それは「日本国国民の自由に表明された意志」によると言えるのか否か、つねに議論になります。とくに自民党の十八番(おはこ)である「押しつけ憲法論」が想起されます(これについてはまた今度)。しかも、もう70年も駐留されているのにまだ米軍は帰ってくれません! これはいったいどうしたことなのでしょうか。まさか「平和的傾向を持つ責任ある政府」が樹立されていないとでも……と言いつつ、今の日本政府だと確かに不合格かもしれないですね……。

長くなりました。ここで結論を言いますと、確かにポツダム宣言の内容は恫喝であり「押しつけ」であり屈辱的なものだったのかもしれません。が、それは旧帝国支配層にとって特にそうだったということであって、戦後日本国に生まれ育ち、ここまで自由と民主主義を曲がりなりにも享受してきた私たちとしては、それなりにありがたいことだったのではないでしょうか。現状に問題点があるのは当然ですが、もしこの経緯がなかったら、われわれの日常生活はいったいどうなっていたことでしょうか。

われわれがこの経緯に対して、もし何か恥じるべき点があるとすれば、それは「日本人は、自分たちの手で自分たちを民主化(したがって近代化)できなかった」という事実にあるでしょう。日本の近代化は外圧によってなされた。しかも敗戦という極めて苦い経験のなかで、多くの血の犠牲の代償を払ってなされたのです。この歴史的事実をどう評価・総括するか。それは現代のわれわれの課題です。