「公的なもの」の供給をどうする

2018年7月9日

大学における英語教育の記事にはけっこう反響があった。「ダメ人間」呼ばわりなど我ながら大人げなかったけど。改めてもう少し議論を深めてみよう。

もしも大学における教育を,私的な財・サービスの取引と考えると,「消費者」は大学間での競争を歓迎するであろう。まあそれはそれでいいこともありそうである。

ただ,市場では「よい製品」が売れるとは限らない,という点にはつねに注意する必要がある。あるいは「よい製品」は市場価格に比してコストがかかりすぎるために,市場ではフツーに負けてしまうことも考えられる。

経済学で「公共財」と呼ぶ財/サービスというものがある。こういうのは市場原理からは供給される動機(誘因 incentive)がない。だってそれは定義上儲からない財だからだ(「非競合性」「非排除性」というタームでググッてみよ)。私人にはそんなものを提供する動機はないのだ。逆に言えば,もし「公的なもの」が供給され(てい)るとするなら,その動機は消費者のニーズ云々からはいちおう切り離されていないといけない,つまりダイレクトではいけないのである。

たとえばベタベタな公共財の例として,「公園」や「道路」を思い浮かべるとよい。自分がその土地の所有者だったとしたらどうだろう。マザー・テレサとかでなければ進んでそこを市民の憩いの場にしようとはたぶん思わないだろう。普通は建物を建てて自分が住んだり人に貸したり,駐車場をつくってお金を取ったりして自分の生活の足しにするだろう。

しかし,国家や地方自治体は私人ではないので,国民や自治体民のために必要であると考えられる「公園」や「道路」を設置(供給)することも現実にありうる。し,ないと困る。ような気がする。緑の多い東京からすべての公園がなくなったりしたらけっこうしんどいと思うがいかがか。

ここでのポイントは,たぶんそういう行政のエライ人だろうが,当該の公共財が「必要」であるのかないのかを判断する立場の,生身の人間が誰かいる,ということである。

この人が君子であるならば,市民は「公園」によって(金銭的でないところの)便益を得るだろう。ところが,わけのわからん土建屋とかヤ○ザとかがこの人につけこんだり脅したり圧力をかけたりということもまたできてしまう。最近では「公共事業」と言うとその瞬間マイナスイメージが漂うが,そのイメージはここのところの構造的な欠陥を衝いているのである。「公的なもの」の供給は,このように,諸刃の剣なのだ。

▼このところ話題になっているNHKも,「公共放送」の供給者である。というか,「のはずだった」。私としては割と近しい(と私の方では思っている)知人が2人もアナウンサーになっているので,今回のような「事件」は彼らにまことに気の毒だと思うが,告発者である長井さんという方も勇気があるというか,どうするんだろうというか,彼やその家族の身が心配である。ともかく勇気は讃えたい。

ちょうどきっかり10年前,阪神大震災のまさにその折,NHK神戸放送局から寝グセ頭で中継した彼が,就職前に言っていた言葉が思い出される。彼は自分のNHKへの志望理由をこう説明したのだ。いわく,

民放というのは,営利企業である。営利企業というのは,営業し利益を得ることを目的とした組織である。ところで民放各局の主要な収入源は,広告収入である。民放は広告を放送することによって,スポンサーから対価を得ているのだ。ということは実は,民放の仕事の本義は,番組をではなく,コマーシャルを放送することにあるのだ。逆に番組は,視聴者が怠りなくコマーシャルを見るべく,コマーシャルの合間に流されるエサにすぎないのだ。

言うまでもなくNHKはまったく逆である。NHKは(少なくとも建前としては)受信料で成立している(そんなわけないけど)。NHKこそは,真に国民に「必要な」番組を制作し,提供する唯一の組織なのである。

とまあ彼はこう言ってのけたのだ。忘れもしない,下鴨神社横の「からふね屋」(もうないみたい)で。

これを聞いて,私はいたく納得した。皆さんはいかがだろうか。作田先生がここで言われていることに近いようだ。もちろん,営利企業たる民放各局の意義がこの理屈で全否定されるとは思わないし,面白おかしい番組はそれはそれで必要なものである。私自身たいへん好きである。しかし,だからこそというべきか,一方でNHKのような純「公共放送」もやはりなくてはならないものだと得心し感じ入ったのである。種類の違うもの,意義の違うものはいろいろあったほうがきっとよいだろうから。

別の比喩をもってくれば,私は(リアルワールドで)つねづね申し上げているのであるが,この民放とNHKの違いは,定食屋と「料理の鉄人」の違いに似ているのである。つまり両者の違いは,定食屋は客が欲しているものを出すにすぎないのに対し,料理の鉄人は客が欲したことも(想像したことも)ないような,しかし結果的に喜ばしいものを出す,ということに対応している。もちろんこれは定食屋さんより料理の鉄人の方がエライということにはならないはずだ。料理人が全員鉄人でもちょっとオカシイでしょ。それに創造的な作品の中にはハズレがたくさんある。そうではなくて言いたいのは,やってる仕事の種類が似ていて違う,ということである。この手の比喩はいくらでもあって,例えば職人vs.芸術家と言ってもいいだろう。決まりきったパターンを正確に反復する仕事も必要であり,同時に二度とは作れない一回的なものを生み出す仕事もまた必要だ。

▼話を高等教育に戻そう。上にも述べたように,「公的なもの」の供給は消費者ニーズとは別の原理から動機づけられていなければならない。「公的なもの」とは,単純にすでに消費者の頭の中にある欠如(want)の一対一対応物ではない。もし「学生のニーズ」を100%反映する大学ができたとしたら,それは従来の「大学」とは趣旨の違うものになるだろう。それはおそらく職業訓練校とか自動車教習所とかそろばん教室のようなものになるのではないか。ロースクールも,ハイブローだけれど職業に直結するという意味ではこれは職業訓練校である。しつこいようだがそういうのをバカにするのも間違いで,フランスにはuniversitéとは別に職業別のgrandes écolesとか,ENAみたいな特殊な職業訓練校というべきものが存在する。やっぱりそれはそれで必要なのだ。

しかし,それはいいとして,われわれがこのところ抱いているのは,マジで日本から「大学」がなくなる,という危機感なのだ。誰も考えたことがないことについて考えることのできる空間と,それを支える人々と,その営為から紡ぎ出されるえも言われぬ「何か」は,「必要」なのか否か。われわれは「必要ある」と答える(だからそういう職業選択をしたわけで)。しかし世間はけっこうあっさり「必要ない」と答える。われわれは圧倒的な少数派だ。これは困った。

本当は,「大学」は,次世代の国民を教育するための「公共」サービスであるはずである。大学に行った人だけが利益を得るわけではなく,大学に行った人も行っていない人も,国民全体が直接・間接に恩恵を得るのだという思想が教育という「公的なもの」政策のベースには必要だ。逆に,大学に行った人と行かなかった人とのあいだに文化資本の蓄積とか貧富の差の増大があってはそういう思想は崩れてしまう。そして「受益者負担」とかいう貧乏くさい言葉が流布するようになる。ホンマに「貧乏」なのと精神が「貧乏くさい」のは違うつもりなので念のため。

なお,「教育」が必要だと世間をして思わしめなかった大学人にも責任があるのではという声も聞かれる。まあ一理はある。上の世代のことは私は責任とれないけど。これから責任負いますけど。しかし文系の場合は,しばしば政府当局にとってはうるさい批判をしてくる「サヨク」どもにすぎず,学者が政府に嫌われるのは能力とか立場の問題ではなくむしろ構造的な問題である。だから政府がそういう自分をいつまでも飼い続けてくれると考える方がおかしい。それだけは確かである(ちなみに竹中さんは学者というよりは……)。でもって,われわれは政府に嫌われてもいいから大衆にウケないといけない,というジレンマにハマらざるを得ない。でないと今後は生活が不安定になるから。でこれというのは市場主義にまたしても落ちるパスなのである。残念。

▼皆さん大学に授業料を払うので(しかもこれから青天井につり上がるだろうので),元を取ろうと考えていらっしゃるようだが,それはなかなか難しいと思う。私は皆さんが大学に払う授業料は,大学という施設の利用権の対価と,学位(学歴)の対価だと割り切るようおすすめする。個々の授業に一つ一つ単価があると考えると,ムカついてやっていられないと思う。面白い授業だけ出てそいつはそれなりに勉強し,面白くない授業は徹底的に手を抜いてノートを借りて済ませばよいではないか。出席は代返をできる限り利用すること。代返の利かない授業は,これはしょうがない,あきらめるしかない。その時間そこに座ることが単位をもらうという「仕事」の一部と考えればまあ我慢できよう。教員の教科書を無理やり買わされることもあるが,それも金銭でカタのつく話,単位をカネで買おうというのだからもともとそういうものだとあきらめもつく。

要は,自分が大学を(カネを払った分だけ)好きに利用するのであって,その逆ではないということである。自分が客であるということをゆめゆめ忘れないよう,「能動性」を発揮してほしいわけだ(この発想は関西人ゆえなのか?)。使いこなしてこそ,くだらなすぎてどうしようもない大学ですら有用(ないよりはまし)になる。逆にそうしようとしなければ,ダメ大学はダメ大学のままである。宝くじは買わなければ当たらない。前回,そういう気の全くない受動的な人,ただサービスを待っているマグロ状態の人々を「ダメ人間」呼ばわりしたのはこの意味でである。

なお,「授業がめんどくさい」という不届きな教員に対しては,「じゃあ授業は要りませんから単位だけくださいよ(先生がまともに授業をしていないことは教務には黙っときますから)」などと,相互の利害の一致するような悪魔的提案をしてみるテストをすすめる(ものの言い方というのもあるから上手にやってね)。まあどうせ教員もそこまでする(授業そのものを闇に葬る)ほどの覚悟はない小心者だからそういう姑息なことをするのであろうが。それにしてもこれからはそんなのがチクられたら教員もただでは済まない(と思う)ので,なにかと学生側が優位に交渉できると思う。

ちなみに授業料値上げに関して言うと,どっかで読んだ記事にあったことだが,「これから授業料をだんだん下げてゆく予定のない国」は,日本以外には,たしかブルキナファソルワンダとマダガスカル?だけだったと思う。記憶に自信がないのでウラを取ってほしいが。ええ,これらの国々をバカにする気はないけれど,先進国(笑)としてこういうのと同じでいいのかっていう話ではある。ともかく赤旗なんかはそれでなくても日本の授業料は世界一と言っているし,だいたい少子化への強い追い風になってしまうのは明らかなので,政策当局者はよく考えてもらいたいものである。

時事

Posted by 中野昌宏