「公的なもの」の供給をどうする
大学における英語教育の記事にはけっこう反響があった。「ダメ人間」呼ばわりなど我ながら大人げなかったけど。改めてもう少し議論を深めてみよう。
もしも大学における教育を,私的な財・サービスの取引と考えると,「消費者」は大学間での競争を歓迎するであろう。まあそれはそれでいいこともありそうである。
ただ,市場では「よい製品」が売れるとは限らない,という点にはつねに注意する必要がある。あるいは「よい製品」は市場価格に比してコストがかかりすぎるために,市場ではフツーに負けてしまうことも考えられる。
経済学で「公共財」と呼ぶ財/サービスというものがある。こういうのは市場原理からは供給される動機(誘因 incentive)がない。だってそれは定義上儲からない財だからだ(「非競合性」「非排除性」というタームでググッてみよ)。私人にはそんなものを提供する動機はないのだ。逆に言えば,もし「公的なもの」が供給され(てい)るとするなら,その動機は消費者のニーズ云々からはいちおう切り離されていないといけない,つまりダイレクトではいけないのである。
たとえばベタベタな公共財の例として,「公園」や「道路」を思い浮かべるとよい。自分がその土地の所有者だったとしたらどうだろう。マザー・テレサとかでなければ進んでそこを市民の憩いの場にしようとはたぶん思わないだろう。普通は建物を建てて自分が住んだり人に貸したり,駐車場をつくってお金を取ったりして自分の生活の足しにするだろう。
しかし,国家や地方自治体は私人ではないので,国民や自治体民のために必要であると考えられる「公園」や「道路」を設置(供給)することも現実にありうる。し,ないと困る。ような気がする。緑の多い東京からすべての公園がなくなったりしたらけっこうしんどいと思うがいかがか。
ここでのポイントは,たぶんそういう行政のエライ人だろうが,当該の公共財が「必要」であるのかないのかを判断する立場の,生身の人間が誰かいる,ということである。
この人が君子であるならば,市民は「公園」によって(金銭的でないところの)便益を得るだろう。ところが,わけのわからん土建屋とかヤ○ザとかがこの人につけこんだり脅したり圧力をかけたりということもまたできてしまう。最近では「公共事業」と言うとその瞬間マイナスイメージが漂うが,そのイメージはここのところの構造的な欠陥を衝いているのである。「公的なもの」の供給は,このように,諸刃の剣なのだ。
▼このところ話題になっているNHKも,「公共放送」の供給者である。というか,「のはずだった」。私としては割と近しい(と私の方では思っている)知人が2人もアナウンサーになっているので,今回のような「事件」は彼らにまことに気の毒だと思うが,告発者である長井さんという方も勇気があるというか,どうするんだろうというか,彼やその家族の身が心配である。ともかく勇気は讃えたい。
ちょうどきっかり10年前,阪神大震災のまさにその折,NHK神戸放送局から寝グセ頭で中継した彼が,就職前に言っていた言葉が思い出される。彼は自分のNHKへの志望理由をこう説明したのだ。いわく,
民放というのは,営利企業である。営利企業というのは,営業し利益を得ることを目的とした組織である。ところで民放各局の主要な収入源は,広告収入である。民放は広告を放送することによって,スポンサーから対価を得ているのだ。ということは実は,民放の仕事の本義は,番組をではなく,コマーシャルを放送することにあるのだ。逆に番組は,視聴者が怠りなくコマーシャルを見るべく,コマーシャルの合間に流されるエサにすぎないのだ。
言うまでもなくNHKはまったく逆である。NHKは(少なくとも建前としては)受信料で成立している(そんなわけないけど)。NHKこそは,真に国民に「必要な」番組を制作し,提供する唯一の組織なのである。
とまあ彼はこう言ってのけたのだ。忘れもしない,下鴨神社横の「からふね屋」(もうないみたい)で。
これを聞いて,私はいたく納得した。皆さんはいかがだろうか。作田先生がここで言われていることに近いようだ。もちろん,営利企業たる民放各局の意義がこの理屈で全否定されるとは思わないし,面白おかしい番組はそれはそれで必要なものである。私自身たいへん好きである。しかし,だからこそというべきか,一方でNHKのような純「公共放送」もやはりなくてはならないものだと得心し感じ入ったのである。種類の違うもの,意義の違うものはいろいろあったほうがきっとよいだろうから。
別の比喩をもってくれば,私は(リアルワールドで)つねづね申し上げているのであるが,この民放とNHKの違いは,定食屋と「料理の鉄人」の違いに似ているのである。つまり両者の違いは,定食屋は客が欲しているものを出すにすぎないのに対し,料理の鉄人は客が欲したことも(想像したことも)ないような,しかし結果的に喜ばしいものを出す,ということに対応している。もちろんこれは定食屋さんより料理の鉄人の方がエライということにはならないはずだ。料理人が全員鉄人でもちょっとオカシイでしょ。それに創造的な作品の中にはハズレがたくさんある。そうではなくて言いたいのは,やってる仕事の種類が似ていて違う,ということである。この手の比喩はいくらでもあって,例えば職人vs.芸術家と言ってもいいだろう。決まりきったパターンを正確に反復する仕事も必要であり,同時に二度とは作れない一回的なものを生み出す仕事もまた必要だ。
▼話を高等教育に戻そう。上にも述べたように,「公的なもの」の供給は消費者ニーズとは別の原理から動機づけられていなければならない。「公的なもの」とは,単純にすでに消費者の頭の中にある欠如(want)の一対一対応物ではない。もし「学生のニーズ」を100%反映する大学ができたとしたら,それは従来の「大学」とは趣旨の違うものになるだろう。それはおそらく職業訓練校とか自動車教習所とかそろばん教室のようなものになるのではないか。ロースクールも,ハイブローだけれど職業に直結するという意味ではこれは職業訓練校である。しつこいようだがそういうのをバカにするのも間違いで,フランスにはuniversitéとは別に職業別のgrandes écolesとか,ENAみたいな特殊な職業訓練校というべきものが存在する。やっぱりそれはそれで必要なのだ。
しかし,それはいいとして,われわれがこのところ抱いているのは,マジで日本から「大学」がなくなる,という危機感なのだ。誰も考えたことがないことについて考えることのできる空間と,それを支える人々と,その営為から紡ぎ出されるえも言われぬ「何か」は,「必要」なのか否か。われわれは「必要ある」と答える(だからそういう職業選択をしたわけで)。しかし世間はけっこうあっさり「必要ない」と答える。われわれは圧倒的な少数派だ。これは困った。
本当は,「大学」は,次世代の国民を教育するための「公共」サービスであるはずである。大学に行った人だけが利益を得るわけではなく,大学に行った人も行っていない人も,国民全体が直接・間接に恩恵を得るのだという思想が教育という「公的なもの」政策のベースには必要だ。逆に,大学に行った人と行かなかった人とのあいだに文化資本の蓄積とか貧富の差の増大があってはそういう思想は崩れてしまう。そして「受益者負担」とかいう貧乏くさい言葉が流布するようになる。ホンマに「貧乏」なのと精神が「貧乏くさい」のは違うつもりなので念のため。
なお,「教育」が必要だと世間をして思わしめなかった大学人にも責任があるのではという声も聞かれる。まあ一理はある。上の世代のことは私は責任とれないけど。これから責任負いますけど。しかし文系の場合は,しばしば政府当局にとってはうるさい批判をしてくる「サヨク」どもにすぎず,学者が政府に嫌われるのは能力とか立場の問題ではなくむしろ構造的な問題である。だから政府がそういう自分をいつまでも飼い続けてくれると考える方がおかしい。それだけは確かである(ちなみに竹中さんは学者というよりは……)。でもって,われわれは政府に嫌われてもいいから大衆にウケないといけない,というジレンマにハマらざるを得ない。でないと今後は生活が不安定になるから。でこれというのは市場主義にまたしても落ちるパスなのである。残念。
▼皆さん大学に授業料を払うので(しかもこれから青天井につり上がるだろうので),元を取ろうと考えていらっしゃるようだが,それはなかなか難しいと思う。私は皆さんが大学に払う授業料は,大学という施設の利用権の対価と,学位(学歴)の対価だと割り切るようおすすめする。個々の授業に一つ一つ単価があると考えると,ムカついてやっていられないと思う。面白い授業だけ出てそいつはそれなりに勉強し,面白くない授業は徹底的に手を抜いてノートを借りて済ませばよいではないか。出席は代返をできる限り利用すること。代返の利かない授業は,これはしょうがない,あきらめるしかない。その時間そこに座ることが単位をもらうという「仕事」の一部と考えればまあ我慢できよう。教員の教科書を無理やり買わされることもあるが,それも金銭でカタのつく話,単位をカネで買おうというのだからもともとそういうものだとあきらめもつく。
要は,自分が大学を(カネを払った分だけ)好きに利用するのであって,その逆ではないということである。自分が客であるということをゆめゆめ忘れないよう,「能動性」を発揮してほしいわけだ(この発想は関西人ゆえなのか?)。使いこなしてこそ,くだらなすぎてどうしようもない大学ですら有用(ないよりはまし)になる。逆にそうしようとしなければ,ダメ大学はダメ大学のままである。宝くじは買わなければ当たらない。前回,そういう気の全くない受動的な人,ただサービスを待っているマグロ状態の人々を「ダメ人間」呼ばわりしたのはこの意味でである。
なお,「授業がめんどくさい」という不届きな教員に対しては,「じゃあ授業は要りませんから単位だけくださいよ(先生がまともに授業をしていないことは教務には黙っときますから)」などと,相互の利害の一致するような悪魔的提案をしてみるテストをすすめる(ものの言い方というのもあるから上手にやってね)。まあどうせ教員もそこまでする(授業そのものを闇に葬る)ほどの覚悟はない小心者だからそういう姑息なことをするのであろうが。それにしてもこれからはそんなのがチクられたら教員もただでは済まない(と思う)ので,なにかと学生側が優位に交渉できると思う。
ちなみに授業料値上げに関して言うと,どっかで読んだ記事にあったことだが,「これから授業料をだんだん下げてゆく予定のない国」は,日本以外には,たしかブルキナファソルワンダとマダガスカル?だけだったと思う。記憶に自信がないのでウラを取ってほしいが。ええ,これらの国々をバカにする気はないけれど,先進国(笑)としてこういうのと同じでいいのかっていう話ではある。ともかく赤旗なんかはそれでなくても日本の授業料は世界一と言っているし,だいたい少子化への強い追い風になってしまうのは明らかなので,政策当局者はよく考えてもらいたいものである。
ディスカッション
コメント一覧
まず、竹中はヤ○ザと同じ手合いでよろしいと思う。
公園について、先進国の豊かさの基準で持ち出されることがある。開発途上国は公園なんかより、農業のための田畑の改善が必要だったりするのに、公園が増えれば豊かになることにするとして、公園をつくることが多々ある。人口密度、農地、郊外化などの尺度を無視して、公園ってアンタ・・・。本筋ではないが、公園ががらみで。
定食屋と料理の鉄人の2項はOK.しかし、職人と芸術家の2項は承伏しかねる。しかし、些末な議論になるので、有用ではない。ブリコラとか、柳宗悦の民芸運動なんかの話したって面白くないもん。
兄ぃ曰く「私は皆さんが大学に払う授業料は,大学という施設の利用権の対価と,学位(学歴)の対価だと割り切るようおすすめする。」
小生は、大学で得たものは「学位と人脈」と述べた。金脈は銀、人脈は金。言い得て妙だ。しかし、本質的だと思う。その点において、兄ぃの意見に賛同する。
大学で真面目に勉強するつもりで入ったが、面食らって放浪癖が・・・。と半分冗談にしても大学なんて要らない。と思う。その点で、エリート教育を肯定する。それは、志の高さにおいて選ばれているのであり、学力と金力は一切関係がない。
悪魔、悪人にどんどんなるべきだ。言いたいことはいくらでもある。バカとはつき合いたくないとか、バカにはバカと分からせたいとか、無論、お前もバカだろってところからはじめたいわけで。。。
マダカスカルには、幻の巨大ゴキブリがいて、幼稚園の頃から行くのが夢であり、政策系学部出身というのは肩身が狭い話し、って小生がポリシーメイクした訳ではないけれど。。。今更ゆとり教育見直しより、徹底した詰め込み教育へ移行してしまえばいいんだっ!
ふーむ…。
>定食屋は客が欲しているものを出すにすぎないのに対し,料理の鉄人は客が欲したことも(想像したことも)ないような,しかし結果的に喜ばしいものを出す
想像したこともない料理はオーダーでっきっこないから、「やぁ鉄人、好きなように作ってくれよ」というしかないのですが、問題は圧力をかけなくても鉄人が怠けずにちゃんとやってくれるかどうかですね…。
>NHK
あぁ、NHK!僕はいつもNHKの話になるとカンカンに怒ってしまうんです。こないだもレストランで友達相手に大ハッスルしてしまいました(笑)。
俺がNHKを見ていて一番頭に来る瞬間は(じゃあ見なきゃいいんですが)、レポーターが「○○さんにとって××とはなんですか?」と言う時です。このお決まりのフレーズを聴くといつも「てめー俺の受信料使いながら手ぇ抜きやがって!(受信料払ってないけど!)」て憤慨してしまうんですね。だって大体の場合、この質問は意味のないおまじないじゃないですか。色々頭を使って切り口を提供して、初めておまんま食う資格を得るはずなのに、人に下駄を預けてあとはニヤニヤしてるだけなんです。
あとニュース番組でキャスターが季節の出来事やイベントを報道する時に「○○を楽しんでいました」「興味深そうに見入っていました」とみりゃ分かる事を偉そうに言う時とか、キャスター同士がたまに会話してるなと思ったら「××は○○じゃないんですかね?」「そうですね△△はどうするんでしょう?では、次のニュースです」など小学生でも考えそうな事しか言わない時や、どっかの教授が、聞いた瞬間昏睡しそうな声で、録画なのにカミまくりながらだらだら話すだけの歴史番組を見せられた時とか。
ニュースもどっかの新聞の見出しに載ってたような事しか言わない。
全く、NHKの番組の多くって、儀礼的に作られた儀式的番組というか、見た瞬間どれも激しいデジャブなんですよね。そのデジャブを感じた瞬間、あぁ!今俺の時間無駄にしやがったな!またしてもどうでもいい儀式をみせやがったな!と大憤慨してしまうんです。
うん、あれは番組じゃないな。「今日も番組を作ったな」という幻想を作り出すための儀式だ。
もちろん、NHKにしか作れない、素晴らしい番組だって多々ある。つまらない番組にだって、そこでしか触れられない物を含まれていたりするのかもしれない。だけどそのごく一部を除けば、NHKはもはや「自分は教養ある人なんだ」と思いたい人達が自己暗示をかけるために見るおまじないであると言っても過言ではないのではないかと思うんです。「うへぇ、こんなにつまらないのに俺NHK見てるよ!俺ってなんて高尚な興味の持ち主なんだ!」って。
そりゃまぁNHKが背負った宿命のカラーというものはある。だけどそれを十分踏まえた上で、obviousに直さなきゃいけない事柄 – しかもそれは簡単に直る事柄 – が山ほどあるんですよね。例えば、
1.エビジョンイルをクビにしろ
2.確かに美人じゃなくてもいいけど、せめて優秀なアナウンサーを雇え
3.たまには意味のあるコメントや質問ができるコメンテーターを出せ
4.録画なのに、明らかにトチッた映像を流すな
5.金使ってセットつくるなら、北朝鮮を彷彿とさせるしょぼいヤツで満足するな
6.語学番組とか歴史番組とか、もっと気合い入れて作れ。ていうかやる気あんのか?
7.再放送多すぎ
8.自分で番組作れ
.
.
とか。
「いやでもね、面白おかしい、見栄えの良い物を目指してるんじゃないんだよNHKは。硬派でもためになる番組、真に必要な番組を作ってるんだよNHKは」と言われるかもしれないですね。
でも、“糞面白くなくてテンポが悪い番組でなければ、硬派でためになる番組ではない”のでしょうか?違いますね、“「硬派でためになる」を優先すると糞面白くなくてテンポの悪い番組に成らざるを得ないことがある”ですね。でもNHKや、「自分は教養ある人なんだと思いたいヒト」たちは明らかに前者だと思いこんでいるんです。
つまらなければつまらないほど内容が高尚だと。逆に、つまらなければ内容が糞でも安心しているフシさえある。
アメリカと日本の理系教科書を見比べるとこの傾向は極めて極めて極めて顕著です。
それに、どんなにためになる内容でもプレゼンテーションがくそでは貢献度は低い。つまり、
貢献度 = 内容 X 理解度 X 視聴率 ですから、例えば
民放: 30 X 0.7 X 0.2 = 4.2 に対し、
NHK: 100 X 0.1 X 0.001 = 0.1
のようになり、NHKより民放の方がよっぽど貢献しているのが現状だと思います。
「おいおい内容は数字で比べられないだろ!」と言われればもちろんそうですが、僕が言いたいのは、NHKは「ためになる番組を作っているから」という言い訳にかくれて怠慢の限りを尽くしすぎだと言うことです。それも半端な怠慢の仕方じゃない。NHKはとっくの大昔に裸の王様だ。
それに分かり切っていた事ですが、金がらみの不正も出てきた。まぁ全く驚きませんでしたがね。
そして報道機関の心臓である情報の公正さ、正確さにも疑問符が付いている。例えば「奇跡の詩人」(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kbys_ysm/kiseki_faq/ )
とか。今回の騒動については多くを知らないのであまり不注意なことは言えませんが、正直な話 黄虎男 + NHK の時点で「なるほど、あいたたた…」と思ってしまう。
「鉄人」というアイデアはよかったんですが、我らが鉄人は、甘やかしているうちに日がな一日飲んだくれて、むしろ食品衛生法に引っかかるような料理を出す駄目駄目5流料理人(?)に成り下がってしまった。
一方定食屋の親父はめきめき腕を上げている。そりゃぁ下品な料理も確かに作るかもしれない。でもなかなか栄養価が高くて、しかもうまい料理を作ってる。
(今の)鉄人がいなくなっても誰も困りませんが、定食屋の親父がいなくなったら日本は終わりです。
こういった問題は、たまたまNHKの人が悪人だったとか、無能だったとかそういう事じゃなくて、こういう社会主義的システムが生来的に持つ結末だったんじゃないかとおもうんですよね。
更新や競争やチェックのないシステムは絶対に崩壊する、これは永久機関が作れないのと同じだと思うんです。永久機関が作れればそれに越したことはないが、それは原理的に無理だ。
NHKを作っているのが、大学を作っているのが、道路公団を作っているのが「人間」である限り、現行のシステムは原理的に、熱力学的に必ずや衰退していくんじゃないかと思うんですよね。
そういう系の“収支”をプラスにする努力は、本当に必ず営利主義につながってしまうのでしょうか?営利主義につながらない競争や更新を導入する方法を探っていく事はできないのでしょうかねぇ。
watato様、マンセー!
エビジョンイル斬首。
wataジョンイルで構わない。その代わり、堕落した時点で斬首(笑)。
理想的な民主主義は独裁制ってギャグのような真面目な話しがありますが、結構本気で友人達とは話し合ってりして、専制君主で構わない、それで市民がオモシロく生きられる限り、不満があるレベルに達したら斬首って制度でイイとは言っています。
http://blog.tatsuru.com/archives/000688.php
>兄ぃは必読。
内田樹先生の日記より、首都大学東京(くびだい、と略すそうです。)に関して。キレましょう。カンニング竹山以上に、ネタではなくマジギレで。
職人と芸術家に付言。
職人の仕事は芸術であり、美を見いだせる。(こともある。)芸術家は割と評価された処女作を焼き直し続ける奴もいる。紋切り型の縮小再生産とか。マンネリ化した奴とか。セルフオリエンタリズムで欧米に媚ながら賞を撮る終わった才能を芸術大学の採用し、ありがたがったり(笑、ソナチネが残ればそれでイイんだ。)。
「決まりきったパターンを正確に反復する仕事も必要であり,同時に二度とは作れない一回的なものを生み出す仕事もまた必要だ。」
>
パターン化した芸術家は多い。定のパターンを正確に反復する、その反復の一回的に美は宿る。そもそも「アート」の語源からすれば、職人と芸術の2項は立たない。アーチストとアルチザンの分岐がある。しかし、アーチストには達人、名人の意味がある。ちなみに、策略家、ぺてん師の意味もあり、当然小生は胸を張って、アーチストを名乗りますがね。(半ば、芸術家だとは思ってるところがマズい)
しかし、そもそも「日本」に芸術はあったのか?というか、さっきまで、東洋美術史で、日本画を専攻する奴に会ってたから余計にそう思うのかもしれない。日本美とか日本の芸術なんてものは後付で、絵師なんて職人で、画家じゃないんですから。ホント、狩野派が多いらしいのだが、鎌倉時代には確定した絵のパターンを組み合わせてるだけなんです。男二人で画集を観て、あーだこーだ、言ってる横で、キャバの店長とキャバ嬢がお話し合いをしていたって言う素晴らしい環境。イイですよ湘南は。
話がそれたが、受信料はもう払わない運動で抵抗、収集員に罪はないが、何らかの形で対抗をせねばならない。大学にもいかなくて、イイ。大学で学べることは自分で学べる。石原慎太郎大チェンチェイはそう言っている。首大も要らないのだ。
小生が、兄ぃをヤクザの仁義を持って(本気)、肯定する点は、真面目な大学教員であること、かつては私塾を開くことも考えていたこと、素晴らしい文献案内を提供していること、その他です。(業績は?読んでますが、何かを言えるほどのものがコチラにない。)
支離滅裂だが、wataro様の直球に応えたく、力んで投げようと思ったのはいいが、球が手を放れず、マウンドを転げ回ったと思ってください。
ホッホッホ,皆の衆は基本のところをお忘れのようじゃの。
そもそも「授業料」て,何じゃろうか。別に払わなくていいもんじゃなかろうか。普通は。ヨーロッパでは普通(ほとんど)払わないが。フランスは,1万円ちょっとじゃったか。今度調べとく。
watoroさん激怒のNHKも同じ。「受信料」払わされるわな。だからそれに見合うものを期待してしまうのじゃ。まるで「商品」のようにな。
授業料タダの大学なら,こんなにも文句が出るじゃろうか。
「教育」という事業は,大人の欲望の問題なんじゃ。つまり,子どもが何を習いたいかではなく,大人がnext generationに何を教えたいかの問題じゃ。だから,別に習いたくもないものを教わる子どもの側からカネを取るのはおかしいんじゃ。
もしカネを取るなら,大人どもから取ればいいんじゃ。つまりはこの費用は社会全体が負担すべきなんじゃ。そうすれば大手を振って教えたいことを教えることができる。
そうじゃろ?
だから,「授業料」は,本当は単純に「税金」の一部であるべきじゃとわしは思う。
NHKも,国民に見せたいものを見せたければ,ちゃんと税金使って,ちゃんと見せればよいのじゃ。アホなセリフはちゃんと抜いての。時間の無駄じゃから。
これだけ言うと,ちょっと皆の衆との見解に逆行するように見えるが。重要なポイント,サービスの質の問題が残っとるのぅ。
税金を使ってのサービスじゃから,あんまりヒドいサービスはいかん。子どもの側から見てもやはりな。
これの質が下がらんようにするにはどうすればよいか? さてさて,これは難問じゃて。わしの眼の黒いうちには答えは出んかもしれんの。
まあ一つには,「職人」の話が出たが,その「職人気質(クラフツマンシップ)」じゃ。ホモ・ファーベルじゃ。「ええもん作ったろ」と思う心意気じゃ。これがないとうまくはいかん。何事もな(そういう意味では確かに「職人と芸術家」というのは対立項にならぬな)。
実は学問の世界では,こういう競争はすでに機能しておる。クソ面白くもない授業をする教授連も,こっちの世界では面目躍如じゃ(といいがな)。
いっぽう授業の質については,競争がない。というか,哀しいかな,研究者は授業の専門家ではないのじゃ(驚いたかな?)。人事でも教歴は全く問題にされない。研究面のみが問題にされるのじゃ。だから今までの大学では,授業の技術は重視されてこなかったのじゃ。
これは確かにまずいとはさすがに皆思っとる。だから最近は授業アンケートなどをやっているとか,FD(Faculty Development)に取り組んでますみたいなところが多いのじゃ。けれどもアンケートも,評価の悪い教師に「反省しなさい」と突きつけるためだけのもので,それ以上のものではないんじゃ。逆にのぅ,いい授業をしてもあたりまえで誰も褒めてはくれん。努力するより,試験を甘くした方が人気は出る。「ええ授業したろう」という心意気をもつことは,その意味で,けっこう虚しいことになってしまっておる。それはそれとしてまずいことじゃな。
しかしのぅ,こういうケースのことも考えてくれんかの。例えばヴィトゲンシュタインの授業はどうじゃったか。授業中に自分が考えておってほとんどしゃべらんとか。クリプキなんて廊下に大の字になって寝ておるそうではないか。奇人変人が授業すると,その授業は当然まともなものにならんわの。こんなのは大学で雇えないことになるのかな?
わしが学生なら,クリプキの授業はぜひ聞いてみたいがの。たとえそいつがどんな変人であってもじゃ。言ってることがよければそいつの人格などは知ったこっちゃないのじゃ。そいつの授業が自分にとって聞くに値するかどうかは,各自が判断すればいいのではないかの。中には自分にとってどうでもいい教員がいるのもまたあたりまえじゃ。そりゃいるじゃろう。そいつらに関わりあいになる必要は別にないのじゃ。逆に,面白い教員がいれば,ぜひ質問したり,天気の話でもいいから話しかけたりすべきじゃ。Tatarさんが「人脈」と言っておられたが,この意味で,そのとおりなのじゃ。
授業を聞く学生の方にも,「そいつがホンモノかどうか」を見る眼というものが必要じゃ。真贋を見極めるメディア・リテラシーじゃ。そんなのは4年も学生やっとれば身につくんじゃ。ただし,つねに「見極める」つもりでやっていての話じゃが。
わし自身が教員じゃから説得力ないと思うかの。じゃがな,わし自身は教壇に立った時間より,学生だった時間の方がずーっと,何倍も長いんじゃ。この歳になっても,すっかり学生気分が染みついているのじゃ。自慢にもならんがのぉ。ホーッホッホッホ。
クビ大については,まあいろいろ書きたいこともあった。じゃが,もう十分腹立ちもし,いまは脱力じゃ。石原には都立大を立て直す気は最初からないじゃろう。おそらくまず中身をガタガタにしておいて,「こんな大学意味ないからやめます」という「2段階すっきりリストラ策」と見たがの。もともと都立大は赤色っぽいカラーじゃたしの,どうせ石原にとっては目の敵じゃろ。優秀な先生はだいたい他に移れたようだし,それなら別にいいんじゃないのかの。
兄ぃがお爺ぃになっておられる。
「これの質が下がらんようにするにはどうすればよいか? さてさて,これは難問じゃて。わしの眼の黒いうちには答えは出んかもしれんの。」
じゃ、困る(笑)。
「いっぽう授業の質については,競争がない。というか,哀しいかな,研究者は授業の専門家ではないのじゃ(驚いたかな?)。人事でも教歴は全く問題にされない。研究面のみが問題にされるのじゃ。だから今までの大学では,授業の技術は重視されてこなかったのじゃ。」
これは、先に述べたように、研究プロパーの人材、研究を教育するプロに分ける案をもう一度確認するために書いておく。アメリカってこんな感じではなかったでしょうか。少なくともフェローとかスチューデントアシスタントがいたはず。フランスのシステムはどのようなものでしょうか。
ヴィトゲンシュタインもクリプキも彼らだからであって、単なる変人てか変態も多すぎる。変人なら変人として大学にいるだけの何かを持ってなければならない。トテツモナイ業績をあげるしかない。変人的な教え方。教えるのが変人的ってのはちょっと想像したくない(笑)。(天才は犯罪以外、いや犯罪すら何やってもイイとは思う。)
アンケートの件も先に述べたように、評価する側の資格の問題がある。ポピュリズムじゃちょっとなあ。
大学教育の内部は70年位前から知っているし、最近は言わずもがな。
兄ぃは教える教員でありかつ学ぶ学生でもあるという、教える-学ぶのって(笑)。
ヴィトゲンシュタインとクリプキを意識してしてお後がよろしいようで。
「賢者は学びたがり,愚者は教えたがる」ってな言葉もあったよね。論語かな。だからオイラは学ぶ心を忘れたらいかんと思うですよ。
でね,研究する人と教育する人を分ける案ってどうよ。
「教育する人」(=「研究しない人」)から,みんな,そんなに習いたいのかね。
オイラが学生なら,「教育する人」の話なんか聞く気はほぼないけれど。「研究する人」の話を聞きに大学に来てるのに。
学生 Student は,study(研究)するほうの人なんじゃあないの? ホントは。
「教育する人」の話なんか聞くヒマがあったら,「研究する人」を廊下でつかまえて,気になることでも話したらどうかな。そのほうがオイラにとっては有意義な時間の使い方だと思うけど。
「研究する人」の中にはそりゃ口下手な人もいるだろうよ。授業の下手なべしゃりを聞くだけが能じゃないよ。自分にとって重要な話っていうのは,自分で聞き出さないとさ。
講義なんて,だいたい,ヒントにしかならないんだよ。
ある意味に共約不可能生?ですかね。小生は、兄ぃの側なわけですね。
でも、兄ぃより、学生にちかいところにいての発言なので、代弁的な訳です。
学ぶ気がない奴は大学行かなくてイイと思っているし、評価するなら批評、批判=吟味として行えと、理想主義的なんです。
大分大学がどうなのかは全然知りませんが、学生が学ぶ気があり、兄ぃが教えることに、そのフロイトの解釈はちがうのでは?と言える位のところで本当は講義があってほしい。
ハイデガーの講義を参照のこと。
上記の、兄ぃの発言が小生個人宛ならば、まったくもって意味がないので、それをパブリックに拓くことものとして受容しますが、新書系?専門書系?って感じですかね。
自分個人としては大学の講義なんてどうでもイイ。
廊下どころか学会に行って聞きに行く者なので、それ位にして学ぶ意志がある糞ガキがいるのかどうかっていうこと憂慮する。
首尾一貫して言っているのは、評価するなら学べ、のみ。よって、授業が下手とか技術の問題を見るのではなく、その学問の内容また、その学問の批判的継承を考えられる者のみによって評価がなされるべき。授業評価を続ける限り。
講義だろうか、ゼミだろうか、自分の問題へのヒントにしかならないものであってそれ以上ではない。
なんか実用とかなんとかにこだわるのなら、専門学校行って、本読んで、映画見て、カルチャーセンターでも行って、適当に生きててくださいね、ってことです。
わかりやすい、とか面白いってなら、そういう新書でも読んでればイイ。それで、これはちがう、もっと知りたいって人が研究すればいい。
教育する人=研究しない人、ならば、教育的な本なんていくらでもあって、大学のポストにない人が書いていたりする。(塾の教員評価を意識)
だから、教育したい、なおかつ研究を咀嚼できる人材をさしているのであって、ってもうどうでもイイや。
しかし、在野の学者、在野の知性をバカにしてはいけないことを訴えておきたい。
日本ではそういうリテレートが余り受容されないけど、町の物知りは必要。
大学は研究者育成と市民エリート養成で結構。それ以外はそれ相応のことやっててください。
と言うことで、学者を育てる学生が必要。栄養を吸ってばかりではなく、与える学生も必要。
俺なんてどうだって良いんだ。学ぶ気と学ぶ口はいくらでもある。
大分大学の学生はどう思っているんだ!!!
吸ってばかりで申し訳ないので、兄貴に差し入れってことで
http://d.hatena.ne.jp/tatar/20050123
ラカンとハイデガー、ラカンとヘーゲル、ハイデガーとパース、などなど、ヒントになるようなことを書きました。雑誌「大航海」の最新号のメモです。もし、雑誌を読んでいなければ読んでみてください。
兄貴の文献案内も紹介しました。
「学生 Student は,study(研究)するほうの人なんじゃあないの? ホントは。」
そう思って入ってコケタ。
とうの昔に忘却された前提。学生様=お客様にした奴が悪い。質の高い研究であるかぎり、講義なんてどうでもイイし。
学生も甘えてるかもしれないが、日本の学者も十分に甘やかされて、ぐちゃぐちゃ。やれやれ。
この議論はそもそも間違っているものを前提に正論を当てている限り終わらないですね。
大分大学の学生の意見を求む。
>でね,研究する人と教育する人を分ける案ってどうよ。
理系に関しては100%確実にそうした方が良いでしょうね。でも理系の話じゃないので略と。
文系も…そうしていくしかないかも知れませんね。猫も杓子も大学に行く時代で、大学に職業訓練校的な物を求めて来る学生の数が増えて、で彼らにとっては“研究なんかしるかい、役に立つもん、おもろいもん教えんかい”なワケで、“別に研究なんかしてなくていいからうまい事教えて”ってなるのかも。
100%分けなくても、「教育する人」を大学に導入すればこういう学生らが喜ぶばかりか、“「研究する人」の授業も聞いてみたい!”てな感じに橋渡し的な感じになって、みんなハッピーになれるかも知れないですね。これはナイスアイデアかも。
>「教育する人」(=「研究しない人」)から,みんな,そんなに習いたいのかね。
うーむ、効率的に知識を仕入れたい時は、うまい事知識を流し込んでくれる授業は是非欲しい気がします。もちろんやる気があれば自分で出来る事には違いないですが、他のことにエネルギーが使いたい時はおんぶにだっこで、かみ砕いてプレゼントしてくれる授業があれば、それはそれでありがたいような。
まぁ文系の大学にいた事がないので想像することしか出来ませんが。
>「研究する人」の中にはそりゃ口下手な人もいるだろうよ。授業の下手なべしゃりを聞くだけが能じゃないよ。自分にとって重要な話っていうのは,自分で聞き出さないとさ。
このお話は、1人1人にする分には全く正しいと思うのですが、多数を想定した場合には、学生を擬人化してはいけないと思うんです。
学生に自主性を求めるのは、漁に出て網を張っておいて、「やや、なんで網に入りやがらないんだあの魚どもは。全く最近の魚はなっとらん!」と言ってボートの上で怒っているのと同じだと思うんですよね。
一匹一匹には「お前なぁ、ちゃんと自分から網に入らなきゃいけないんだゾ」と説教してあげていいと思うのですが、群れに対しては怒ってもしょうがないというか、網で囲い込むなり追い立てるなりしてあげるしかないし、そうしてもいいと思うんですよね。
だってそんなの幼稚園みたいじゃないか!と言われてしまうと思いますが、実際に学生は幼稚園児だからしょうがないと思うんです。明らかにみんな幼稚園児なのに、「いや、大学と幼稚園は違うんだ!」というのはダダっ子じゃないかと。幼稚園になっているならなっているで、大学でいかにその幼稚園性を改めてあげられるかを考えなきゃいけないんじゃないかと。
学生におもねってはいけないというのも、おもねる事によって骨抜きになってはいけないのであって、骨太のままおもねる事ができるならそれは素晴らしい事じゃないかと思います。
教科書を見ていると、この点で非常に欧米と日本との格差を感じるんですね。例えば今僕の目の前にある2つの物理の教科書の、“振動”の項の序章を見比べると、
米:「 [凄まじい地震の被害写真] (略) 震源とメキシコシティーの間では大した被害がなかったのに、なぜ、地震波は遠く離れたメキシコシティーにひどい被害を与えたのだろうか。答えは本章で明らかになる」
ほほう、そんな事があったのか。うむ、知りたいですね。先が読みたくなる。
和:「 [写真なんて全書通して一枚もない] 振動は自然界にしばしば見られる現象である。安定に静止している物体は、わずかな乱れが与えられた時に、もとにもどろうとし、それと慣性とによって振動を生じることが多いからである。」
あぁ、もう最初の一行でうんざりです(笑)。
※ちなみに和の方が指定教科書だったのですが、あんまりつまらないので高い金を払ってまで、米の方を探して買ったんです。
確かに、和の方が扱っているような、硬派な内容を軽視するような事があってはいけないとは思いますが、学問への入り口が、断崖絶壁のサバイバルロードじゃなくちゃいかんという法はないと思うんですよね。
どうも日本の先生には、「学生の興味をひく工夫をするヤツは売国奴だ!」的な考え方を持っている人が多い気が…
だから「研究する人」の授業への橋渡しとして「教育する人」の授業を導入するなんてのは、素晴らしいアイデアかも知れませんね。
例えば最近テレビで見て興味深かったのが、ある日本の高校での話だったのですが、授業に“掲示板”を導入したんですね。あの2chみたいなヤツ。
でその画面をプロジェクターで黒板横に投影しておいて、意見があったら携帯で書き込むよう指示して授業をやっていたんです。
「おいおい、どんだけおんぶにだっこよ。こんなに甘やかした授業じゃ、大人になっても自分の意見をきちんと言えないネクラ製造器になっちゃうよ!」と見ているこっちは心配だったんですが、ところがどっこい、意見を書き込む生徒がどんどん増えて、最終的にはいちいち書き込むのがめんどくさくなって、みんな結局口で活発に意見交換するようになったというんです。同じようなケースがイタリアでもあったそうで。
魚を一旦網に追い込んでから、硬派な授業をやらしたら、研究に興味を持つ者が増えて、強いては研究業界の活性化につながるのではと思うのですが。
まぁ僕は理系のことしかわからないので的はずれな事を言っているのかも知れませんが…。
追記:ダメ学生のくせに偉そうな事をたくさん言ってすみません。 まぁ、言いたいことは直球で言うブログ、という事で…
よっしゃ!
理系も文系も変わらん!
大学生なんて幼稚園児以下.
それを全てふまえた上での提案なのです.
教育とは、Education これはラテン語のEducere から来たもの.意味は「引き出す」です.つまり、潜在能力を引き出す.ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センのCapabilityの考え方をおいて、教育者はのぞめ!学生も教え合うことを忘れてはいけない.教授法という学問があるのだ.教授の研究がある限り、教える人が研究しない人と決めるのは、「教育」についての認識が甘い.私だって研究のみに専念したい.が、これはリアリスティックではない.質のイイ研究してればいい?それはあり得ない.そんな土壌ではもうない.日本の学問が縮小再生産しかやってない現状をこちらは、もう70年以上前からの内部資料と公的資料で知っている.つまり、制度を書き換えないといけない.田中康夫の言うところの、親切、熱血指導の代々木ゼミナールですよ.だから、才能を発掘し伸ばす制度に書き換えないとならない.
「どうも日本の先生には、「学生の興味をひく工夫をするヤツは売国奴だ!」的な考え方を持っている人が多い気が…だから「研究する人」の授業への橋渡しとして「教育する人」の授業を導入するなんてのは、素晴らしいアイデアかも知れませんね。」
売国奴って誰?他ならぬそれを言うお前だろ?ってことでしょう.偏差値主義の末路で自分で考えられることができず、指導教官のエピゴーネン、間違えることが怖くてオリジナリティのない研究しかできない.そういう現状を見越した上、大学がただの「箱」に課すのは見越した上で、効率良いシステム、また低コストで「学問」にふれる機会を私はつくりたいと思っている.
付言すれば、京都大学の偉大なる先達たちは「教育とは平凡への強制だ」と言っている.そしてそれを肯定する.なぜならば、平凡でない奴なら、ちょっとやそっとのことでは平凡にならないって訳です.しかし、そんなことが言える現状か!ってことですよ.学力低下ウンヌンかんぬん.
wataroさんは的に当たっていますよ.学生は生意気でないとならない.無論、努力した上でのことですが.
理系、文系関係なし、教育の本義、日本の学問、しいては「文化」の衰退を少しでもくい止めるためにはアーキテクチャーを書き換えるしかない.(俺にやらせろ!とは思ってるが、何分そんな身分ではない.)
全ての消費者は同時に生産者として参加する必要がある.それは批判=批評ができることです.審級の制度がないからね、この國には.外国の学問の支店で有り続けるだろうし.だったらお馬鹿な黄色い(だけじゃない)お猿さんの國を高く売るためのパッケージをつくらないといけないんだな.
学力・金力に基づかないエリート教育の必要性はもう一度強調しておく.
「つなぎ」がいるの.これはもう間違いない.橋渡しの必要性.学問のみならず、どんなに質のイイものをつくっていたとしても、大衆受けしなければ淘汰されるのが必然な経済システムなのだから、その質のイイものを守る政策、制度、システムを作っておかなければダメ.
これは昨日、大学の教員から承認されました.「その通り!」ってさ.
法学者のH・L・A・ハートの第一次ルールと第二次ルールの視点ですね.イイものをつくる、イイものを守る、うまく機能するように制度設計せよ!
[思想]自由大学・鎌倉アカデミア(根)
沖縄・琉球が熱い!!仲間由紀恵さまと基地の移設の問題は特に。最新号の「週間大衆」38−40頁に仲間由起恵さまの「五大○秘伝説」がある。本当に素晴らしい女性なのだ…
世界一恥ずかしい大学、金沢大学。
思わぬところで恥を書いてしまった金沢大学(笑)
お詫びと訂正、ゲーム脳理論に関する2記事について
先日TB致しました記事“世界一恥ずかしい大学、金沢大学。”には重大な誤りが多数含まれていました。この訂正記事をご覧下さいますよう、お願い申し上げます。