京大の異変,あるいは“パワハラ系上司”の無能について

2018年6月1日

ご案内の方も多いかと思うが,このところ,私の古巣である京都大学の大学院「人間・環境学研究科」というところがピンチなのである。その大学院の下位に位置づけられる「総合人間学部」も含めて。
松本紘・京大総長が,突然これらを解体して「国際高等教育院」に改組する(あるいはそれに近いことをする)と言っているそうだ。
現場に何の相談もなく,とのことだ。

部外者としては状況がなかなかつかめないわけだが,次のブログの記事
高山佳奈子(京大職組委員長)のブログ「人間支部からのお知らせ」
あたりがいろいろと網羅してくれているようである。ぜひご一読いただきたい。
いいよね,「人間支部」って。他の支部はどんな動物の支部なんだろう……。

いや真面目な話,私は「改革」そのものに反対する者ではない。改革とは基本的に結構なことである。徹底的にやってもらいたい。
ただし,トップダウンで勝手にガラガラポンなんていうのは「直接民主制」をベースとする大学一般(営利企業とは機構とか思想とかぜんぜん違うんですよ,単純に比較しないでくださいね)に全くなじまないやり方である。
「研究をやめて教育に専念せよ」というのはいまさらという感じがしてアレだが,90名分の人事権をタダで取り上げるなどというところ,なかなかのワルであると見た。これでは「改革」うんぬんも美辞麗句の類にすぎない。
いずれも労働条件の不利益変更になるはずだが,訴訟になったら勝てるのか? ひいては京大自体に損害を与える背任行為なのではないのか。
と思うのだが,おそらく総長の背後にはもっと恐ろしい黒幕がいるから大丈夫なのであろう(はい,イヤミです)。

こういう豪腕を,世間の皆さまはどういう思いで見ていらっしゃるのであろうか。
総長が「改革の旗手」であり,反対している教員や学生たちは「抵抗勢力」なのだろうか。「既得権益」を固守しようとしていると見えるのだろうか。
そう見えるかもしれないと思う。と思うが,皆さん,それ間違ってますよ。

▶お気づきかどうかわからないが,同じような構図が,石原慎太郎や,橋下徹の周囲に現出している。
彼らは,「豪腕」である。常人にはできない「改革」を強行する。
それを人々は「リーダーシップがある」としばしば表現する。
しかし,私が彼らを見ていて思うのは,「なんとも,政治がヘタだなあ」ということである。
そう思いませんか? あまりそういうことを言っている記事を見たことがないのだが。
でももともと彼ら作家と弁護士であって,政治家じゃないんだよね。言うまでもなく。

彼らがやっていることはつまり,権力を利用して「少数の」反対者をブルドーザーで轢き殺すということである。
議論も根回しもないから意思決定はものすごく早い。
自分が権限をもっているのだから,反対している相手を説得する必要など別にないわけだ。
選挙で選ばれたんだから,当然だよなあ? オレが「民意」なんだゼ。
泣くのは少数の人間だけだ。より多くの人々が喜べばそれでよいのだ(この考え方が「功利主義」ですよ奥さん)。

「少数の人間」とは誰か。石原が選んだターゲットは,閉経後の女性であり,都立大学の教職員,とくにフランス語教員であり,在日外国人であり,水俣病患者などである。
橋下が選んだのは,文楽関係者,オーケストラ関係者,市の清掃局と交通局関係者,生活保護受給者などなど。
これらのカテゴリーに属する人々は,明らかに,それに属さない人よりもかなり少ない。
(運よく)これらに関係のない人たちは,こういう人たちが押しつぶされていくのに無関心であるか,下手をするとそれを「いいことだ」と喜んでいる。
明日は我が身なのに。

▶私が思う「政治」とは,できるだけ多くの人が満足できるように,皆さんの利害を調整する仕事である。
あっちに行って頭を下げ,こっちに行って話をつけて,八方を丸く収める。
全員が満足できる解は,もしかすると存在しないのかもしれない。
それでも,各所に負担がかからないようにとか,損害が出ないようにと努力はするだろう。
誰だって現在の生活が脅かされるのは困る。困る人が1人でも出ないようにしないと。それが「リーダー」に託された使命だ。ノーブレス・オブリージュ(死語)だ。

と私なら思うが,そのような倫理は,彼らは持っていないようである。
まあそれは思想信条の自由であるが,そんな人に「リーダーシップがある」とは,言ってはいけないのである。よい子が信じてしまうから。

本当にリーダーシップがある人には,人は勝手についていくのである。これを専門用語で「人望」という。
「あの人に頭を下げられたらしかたない,彼の顔を立てて,ここは泣いておくか」と当面の不利益も飲み込める。
単純に不利益を飲むのではなく,長期的にはそのほうがよいと思えるからだ。お互いに。
信頼関係を作っておくと,自分が困っているときには,向こうのほうが折れてくれるかもしれない。
だから,必ずしも全員が満足できていないのに,丸く収まるのである。これを専門用語で「協調」という。
そして,禍根を残さず死人を出さずに全員が生きているほうが共同体のパフォーマンスは上がるのである。

「俺が言うことが民意だ。さあお前いますぐ腹を切れ」という社会では,つねに誰かが泣き寝入りをしなければならない。その対象(いわゆる負け組ね)が自分であるかどうかは運次第だ。というかそんな呑気なものではなく,これこそがフランス革命時のジャコバン派の恐怖政治なのだが。
結果的にどうしても泣き寝入りする人が出ることが避けられないかもしれない。が,全体の最善のために調整する努力をはなから放棄するような人間には,最初から権力を任せるべきではないのである。

▶どうもこのところの日本では「勝ち組か,負け組か」みたいな言説があまりにも浸透しすぎている。
負ける奴は努力しなかった奴だ,本人が悪い,とうそぶいている人も多い。
そうだろうか。努力しても結果が出ないことは山ほどあるし,運が悪くて財産を失う者もいる。
その逆に,たいして努力もしていないのにうまいことやっている人間もいる。
どうしても誰かを叩きたいならそういう不労所得とか権利収入とかで食っている輩であるべきで,Winner take allで敗者には死刑宣告,というようなことで経済が盛り上がる道理などないのである。

「自己責任論」などをしたり顔に言っている人たち自身も,その実は首の皮一枚なのだ。
ひとたび「権力」にすべてを許すと自分の命の保証すらなくなる。いま自分が生きているのは「たまたま」だ。
いやいや長いものには巻かれておけば大丈夫,とか思ってます? 彼らそんなに甘くはないです。潰そうと思う人間を自由に潰せる人たちなので。
そういう恐怖政治を現出させないためには,権力者に「力に頼るな」と釘を刺しておかねばならない。あるいはそもそも権力を濫用できないようなシステムにしておかねばならない。

要は,権力者は「力」で治めるのではなく,「徳」で治めてもらいたいということ。「覇道」ではなく「王道」で。
残念ながらいまのところ,人類は権力者に「王道」を自発的に選択させるようなシステムを知らない。「民主主義」も「資本主義」もダメ。権力の暴走の歯止めにはならない。「立憲主義」(つまり憲法)も,外的な歯止めではあるが微妙だ。

だから当面は,選挙でできるだけ善良な(みんなのことを考えてくれる)人物を選ぶよう,選挙権者が努力するしかない。候補者がどういう人物か,しっかりと能動的に情報を収集すること。
とはいえ完全情報じゃない(その人について全てが明らかなわけではない)のだから,いつもうまくいくとはかぎらない。選びそこねることもかなりある。
じゃああとできることといえば,権力者に善良な行動をとってもらえるよう祈ることだけだ。
というわけで,とりあえず世界のために祈ろう。

▶さて,松本総長は,最終的にどちらをお選びになるのだろうか。覇道か,王道か。
この騒動が,実はそういう問題ではなく,「京大での教養共通教育についての前向きな議論を巻き起こすための(敵を欺くにはまず味方から的)作戦」であるのならよいのだが。あるいは結果的にそうなれば。
しばし行く末を注視してゆきたい。