私家版・無意識の論理(1)
えー,Tatarさんのおかげで「無意識の論理」の話が盛り上がりかけなので,火種を絶やさないうちに綴っていきたい。自分でもどういう展開になるかわからないインプロビゼイションで行こう。
われわれは,意識的思考はけっこう論理的かなと思っているが,案外そうでもない面もある。意識的思考が全部キッパリ論理的であったなら,論理学の試験などというものは成立しないだろう。みんなちょっと考えれば答えがわかるから。ついでに白状すると,私は安井先生の論理学の試験で100点満点中5点だったことがある。全く勉強していなかったからだが,やっぱり知らなければできないものである。
▼さて,科学哲学者・戸田山和久先生の『論文の教室――レポートから卒論まで』はいろんな意味で名著だと私は思うが,その中に「間違った推論」の例として,たしかこんなのが出てくる(本が手元にないためうろ覚えで申し訳ない)。
前提1 雨が降ったら,地面が濡れる。 (A→B)
前提2 いま,地面が濡れている。 (B)
結論 ∴雨が降ったのだろう。 (∴A)
この推論は,何だかとても自然な推論(三段論法)に見えるけれども,論理学的にはきっちり間違いである。正しい三段論法は,次のような型に沿ったものでなければならない。
前提1 雨が降ったら,地面が濡れる。 (A→B)
前提2 じっさい,雨が降った。 (A)
結論 ∴地面が濡れている。 (∴B)
こういう三段論法の型を専門用語で「モーポネ(笑)」と言う。「モードゥス・ポーネンス modus ponens」の略である。あるいは,別の正しい型は,
前提1 雨が降ったら,地面が濡れる。 (A→B)
前提2 いま,地面は濡れていない。 (¬B)
結論 ∴雨は降らなかった。 (∴¬A)
こちらは「モートレ(笑)」すなわち「モードゥス・トレンス modus tollens」と呼ばれる。
ハアそうですか。ほなサイナラ。と思われるかもしれないが,お楽しみはここからだ。だって不思議に思わないか? 間違っているはずのいちばん上の三段論法,もう一度書くけれど「何だかとても自然」ではないか? てかこういう考え方をすることも普通にあるだろう。あるいはどこが間違いかわからないという方もおられるほどではないか?
おわかりと思うが,「正しい(妥当な)」推論の「正しさ」はとはいかなるものぞ。それは,100%の正しさのことである。いついかなる場合でも,それは100%正しいのである。ここに挙げたモーポネとモートレに関して,例外がありえないことを確認されたし(妥当な推論は他にもあるよ)。雨だとか何だとか天気の話じゃなくても,つまり「A」という空欄と「B」という空欄に何を入れても,この推論の正しさは100%例外なしなのである。
別の角度から言えば,これら100%正しい推論というのは,無味乾燥というか,意味ないというか,何じゃそらあたりまえやないかという印象をどうしても与える。これは「論理的真理」すなわち「トートロジー」のもつ性質から来ている。「論理的に」(「経験的に」でなく)正しいことは,同じような言葉の反復(同義語反復=トートロジー)と同じだ。「Bachelor is an unmarried man」てなもんである。
▼いちばん上の推論で,最後の結論のところで微妙に「だろう」をつけているのはズルかったかな。これはプラクティカルには,目の前の状況から過去の状況を推論するやり方であり,「あたりまえ」とはちょっと言えない気のする推論である。地面が濡れている理由は,雨が降ったということも確かにありうるが,別の可能性もいろいろと排除できないのだ。例えば(見えている範囲だけ)誰かが水をまいた可能性もある。水道管が破裂してあたりが水浸しになっているとか。それでもやはり,いろいろな可能性の中からたぶんこれだろうという選択肢を見つけられる(と思う)ことは,現実問題としては往々にしてある。
いちばん上の「間違った」三段論法のようなのは,現実的な判断として論理的真理=トートロジーよりも役に立ちそうなのが不思議だ。実は,こういうのこそ,「発見的 heuristic」と呼べる方法ではないのか。つまり確実性を犠牲にはするけれども,トートロジーには全くない種類の「発見」がそこにはあるのではないか。
でもって,こいつこそ,チャールズ・サンダース・パース老師の言う「アブダクション」(演繹,帰納に次ぐ第3の推論形式)にほかならなかったりするのである(今年100周年であるアインシュタインの「光の粒子説」(1905)もアブダクションの実例らしい。知らんかったー)。
実際,社会科学でのコンピューター・シミュレーションという方法も,そういう形式をとる場合が多い。コンピューターでは初期条件Aを入れて回せばBという結果が自動的に出てくる。これを現実社会の「(時間発展)モデル」と捉え,その際出てくるBという結果を,現実社会そのもののありように近似するように,Aを調節してやるのである。すると,この考え方で最終的に得られたAこそ,現実社会そのものの「初期条件」と見なしうるものと言えることになる。結局これはBが与えられていてAを探すという場合。これは推論として論理的な真理を構成するものではない。しかしそれでもわれわれにある洞察をもたらすのだ。
世の中にはどうしようもない間違い,箸にも棒にもかからない間違いというのがある。例えばモーポネやモートレの否定形を考えればよい。すなわち,100%間違いであるような推論だ。こういうのは「矛盾」と呼ばれる。なので,「正しい」か「間違い」か,という括りでいけば,「発見的」(といまわれわれが呼んでいる)推論は「間違い」と一緒くたになる。うーむそれはどうだろう。アブダクションみたいなのをこういう箸にも棒にもかからない間違いと同列に「間違い」とするのは,何だかやっぱり抵抗のあることである。それどころかむしろ,ベイトソンなんて「アブダクションを行うことのできぬ世界では,思考はまったく停止してしまう以外にない」(『精神と自然――生きた世界の認識論』)とまで言っているのである。
「発見的」推論は,100%正解でも100%間違いでもない,80%以上ぐらいオッケー的代物である。正しいときもあるし,まあたぶん間違っているときもあるのである。それはつまり,「可能性」「蓋然性」という次元での推論だ。こういうところにかの有名な「様相論理」というものが要請される必然性があるのである(様相論理とは,真偽の二値に加えて「可能的に」「必然的に」といった記号を用い,通常の論理を複雑化・精緻化したもの)。
▼さて,ではわれわれは「発見的」推論ないしアブダクションというものをいかなるものと考えるべきか。そこが次の問題だ。「発見的」推論は,上の例では,モーポネやモートレの一部を反転することでできている。妥当な推論の前提と結論を入れ換えたり,否定形に置き換えたりすることによって成立する推論である。ある意味でこれは単なる思考の混濁なので,「間違い」と言えばそれはそうだが,そこそこ蓋然的だし,何やら発見的でもある(しつこくてすまない)。この種の入れ替えこそ,マッテ-ブランコらの言う「対称性の原理」で説明のつく問題ではないかと思うのである。(つづく)
ディスカッション
コメント一覧
兄ぃ。
日誌にも書いておりますが、スキゾフレニーの言葉の研究(趣味)が関心事の一つなのですが、パースは重要なんですね、やはり。有馬道子氏が『パースの思想-記号論と認知言語学』(2001 岩波書店)を書かれているのですが、1986年に有馬氏は『記号の呪縛-テクストの解釈と分裂病』(勁草書房)を出されているのです。そこに、マテ=ブランコを導入して読み直してみたいなと思っているのです。そこで、スキゾ研究で論理や言語に関するものを探してみたりしています。何かイイのあったら教えてください。
上記に関して、誰かネタをパクってくださる方、パクってやってくださいまし。代わりにどなたか研究してください。さて、この議論に何か寄与があるかも知れない文章を引用しておきます。『戦争が遺したもの』(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二 新曜社 2003)の390頁より。
鶴見:「私はアメリカで、一度だけホワイトヘッドの講義を聞いているんだ。ハーヴァードのチャペルでね。彼はもう年寄りでよろよろしていて、最後に何かひとこと言って、終わってしまった。それが彼のハーヴァードの最後の講演だった。何を最後に言ったのかと思って、あとで講義録のコピーをとって、確認してみたんだ。そしたら、その最後の一言は”Exactaness is a fake”っていうんだよ。
上野:「おおー(笑)」。
鶴見:「それはすごいことなんだよ。そのころのハーヴァードの哲学科というのは、カルナップやクワインが講義していて、論理実証主義がさかんだったんだ。つまり論理的な明確さ、exactanessを追求していたんだ。それに異論を立てたんだ。
上野:「最後っ屁というやつですね。」
鶴見:「精密さというのは、一つのつくりものにすぎない。人間がもっているほんとうのものは、ぼんやりしたものなんだ。それこそが、しっかりした、たしかなものなんだ。そういう人生観だね。」(後略:おもしろい議論が続く)
この部分は小生の日誌で小谷野敦氏に言及する際にも引用します。やたらに「科学」や「論理実証」を強調されるので。それにしても超越的仮象について、語ってる分野が多い気がするのですね。またチョムスキーの理論も、すごい「神」ハケーンと余りかわらないかと思う。実証主義的に研究された方は、中身の空疎な仮説にすぎないと言われる。だとすれば、修正に修正に重ねる姿は、あのクリチックの物言いをまねれば、西洋哲学史はニーチェ以前、「プラトンの注釈にすぎない」と重なるかもなーと思ったりして。(いつか、言語学もチョムスキーの注釈に過ぎない、と斬られて実証性のあるモノへ回帰してほしいものです。極論すれば、生成文法や普遍文法もユングの原型論と何かちがうのか?とも思う、その抽象性や演繹性において、「あの世」あります、そこから生まれてくるものは・・・と言ってるのと変わらない?オカルトのオ臭いの強さのちがい。チョムスキーカルトは多いかも知れないが)「科学的」に見えてしまう、モノを扱っているだけかなと。余談になってしまいました。山本七平がイザヤ・ベンダサンの筆名を使ったように、ヤーコブ・ベイトソンという名前を見かけたら、小生だと思ってください。ベイトソンも精読せねばなりませぬ。
補足します。
高橋源一郎のマテ=ブランコブーム?
アカデミックダウザーとしては、兄ぃにマテ=ブランコに依拠した何かしらの論文なり業績を作ってみることを生意気に進言させていただきます。はてなをはじめてみて、高橋源一郎さんの人気を感じます。鎌倉で出会いたい・・・
近況・日記(高橋源一郎公式HP)
http://www.plays.jp/diary/gen1rou/index.html
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・競馬でもマツケン
『文学史』を書き、明日の予想を書き、マテ-ブランコを読み、太宰治の『津軽』を読む。『津軽』って、こんなに面白かったっけ……。三十年ぶりに会った乳母、たけとの再会シーン(の終わりのところでの、たけのセリフ)の凄味に驚く。天才だ。昼頃、息子を連れて散歩に出かけたが、市内の人手多すぎて疲れた。ガーネットS、3連単で200万馬券。◎メイショウボーラーが勝ったのはいいとして、離れた最低人気のエンゲルグレーセが2着。成績を見て、買える人はいないはずだ。悔しいので、もう一度、エンゲルグレーセの資料を見ていて、ショック。生産者が「マッケン牧場」……マッケン……マツケン……マツケンサンバ? オーナーも「三」島さんだし。納得(するなよ)。
..2005年1月9日(Sun)
・年賀状。でも遅すぎ
午前中に、高橋悠治の『音の静寂 静寂の音』の書評を朝日新聞に書き、さらに明日の予想。マテ-ブランコを眺め、『文学史』を書き、それから、ようやく年賀状を書く(って、今日、何日だよ)。 ..2005年1月8日(Sat)
・マテ-ブランコを読みはじめる
まだ風邪気味。しかも、耐えがたい歯痛。4時、歯医者。明日の予想原稿、MTVの原稿、中沢新一に教えてもらったマテ-ブランコの『無意識の思考』が届いたので読みはじめる。すごい……。 ..2005年1月7日(Fri)
覚書として、こちらにも兄ぃのコメントを書いておきます。典拠は
自由大学・鎌倉アカデミア(根)
http://d.hatena.ne.jp/tatar/20050208
三色スミレの成長日記~LA PENSEE SAUVAGE http://d.hatena.ne.jp/tatar/
「茂木さんの「プラクティカルと、底が抜けた思想の結婚からこそ、何か面白い子供が生まれるのではないか」っていう話は,まさに,マッテ-ブランコのバイロジックの中身を言い当ててますよねぇ。これも続きを書かないと。」
です。
「私家版・無意識の論理」の思索を深める際に、立ち返る一つの場所として、残しておきます。
続き、待ってます。
[本]無意識の思考
カンフーハッスルの覚書は下です。 ここでも、ふれたことのあるマテ=ブランコの『無意識の思考』がちょっとしたブーム。高橋源一郎さんも最近読まれている。 I…
中沢新一のフォーラム
中沢新一のフォーラムのご案内です。
○タイトル
遺伝子組換え作物の ―― その萃点を探るための座
○と き
平成17年3月19日(土) 午…
米盛裕二『アブダクション』を読む
「アブダクション」(abduction)は、19世紀末から20世紀初頭まで活躍したアメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パース(1839‾1914)の認…