「ゲーム脳」とマスコミと営利主義と大学とトンデモ

2020年5月20日

いつもながら論点多くて申しわけない。みんなつながった問題だと思うので。

シラバスを書いたり,風邪でダウンしてたり,今どき『冬ソナ』を見ていたりしたため,新規投稿が遅れてしまった。何か書かななーと思っていたところ,「アメリカ学研究所」所長のwatoroさんからトラックバックをいただいた。「世界一恥ずかしい大学,金沢大学」とか。オイオイ辛口だねーと思いつつ(工学部に友人がいるしね),読んでみると,確かにこれはひどそうだ。いや金沢大学じゃなく,森昭雄氏の「ゲーム脳」うんぬんが。

watoroさんは,ちょっとは茶化しているところもあるけれど,大学でこんなトンデモがまかり通るのかとたいへんご立腹の様子である。こういう義憤に満ちた人の存在は,やはりありがたいものである。でもまあ,少し余裕をもってつらつら考えてみようではないか。

「ゲーム脳」なるものについて今まで何も考えたことはなかったが,watoroさんの記事を斜め読みした段階で,この森昭雄という教授は,脳波を調べることでこのゲーム脳の理論を出しているらしいことがわかった。ん? 普通脳の局所的な活動部位を調べる場合はPET(簡単に言うと,放射性物質を血液に混ぜといて,脳内の毛細血管中の放射線量を検出すると,血が集まっているところが濃く映るわけでしょ。そこが活動部位。PETというのはそういうのを見る装置)か何か(あるいはfMRIかな)を使うのが普通ではないのかな。と思って「森昭雄 PET」で検索してみると,お医者さんの立場からラカン派精神分析を使っている斎藤環さんのインタヴューに行き当たった。「PET」が含まれるこのページの前後も通してお読みいただきたい。

なおよく読んでみたらwatoroさんのもと記事にも,PETや,それを実際に利用されている東北大・川島教授のことがしっかり紹介されているのでぜひ参照のこと。

というわけで,私としても森昭雄「ゲーム脳」説についてのコメント終わり。

ていうか私自身もゲームは好きだが,やりたいときには徹夜してでもテッテ的に,飽きるまでやるのがおすすめ。そのあとすっきりして仕事がはかどること請け合いである。我慢してもモヤモヤするだけで解決にならない。

それはともかく,ここは営利主義をめぐって大学やマスコミの抱える問題点を考えたい(何で)。

▼斎藤さんインタヴューでも,インタヴュアーから「何でこんなトンデモがもてはやされるのだろう」という疑問が呈されていた。まずこの疑問から出発しよう。

この話は,結局,「ゲームばっかやってるとアホになるんちゃうか」という不安,ないし罪責感,ないし生活実感を煽るやつがいて,「待ってました」と皆さんがそれに食いついた,というだけの話である。これがもし「食べてすぐ横になると牛になるよ!」というアオリでは皆さん釣られなかったのである(たぶんそっちの方がホントなのにね)。

ここに介在する媒介者として「マスコミ」を捉える。

マスコミは,売れる記事を書きたいわけで,したがって究極的に目指すところは,皆が喜ぶ記事を書くことだけだ。科学的に正しく・かつ面白くないことよりは,科学的には間違っていても(それはどっちでもよくて)とにかく面白いことを書くだろう。このような,儲かりゃ何でもいい,という姿勢,これを「営利主義」と呼ぶことにする。

営利主義的マスコミの媒介によって,われわれ一般大衆は,見たいもののみを見,聞きたいもののみを聞くことになる。われわれ大衆は,われわれ自身の知りたいことをわれわれに知らしめてくれる媒介者=マスコミを産み出し,われわれ自身のイイタイコトを増幅してもらいながらそれをもう一度自分の耳に入れる。

何じゃこりゃ,である。

この「自慰の大いなる円環」は,「ポピュリズム」という別名がついた情けないフィードバック機構であって,ちょっとした思いつきを増幅するアンプリファイアとして機能するものだ。

だから,「何でこんなトンデモが……」という問いへの答えは,「それこそが,皆さん『誰か言ってくれないかな~』と思っていたことだったから」というものになるだろう。こういうのは流行るべくして流行るものである(これ以上に掘ろうとするならば,やはりおなじみ「不安」「罪責感」といった精神分析用語に頼らざるをえない)。

だから,watoroさんとは違って私の意見では,森教授は「社会に害悪をまき散らす馬鹿者」というよりは,単なるアンプだ。そういう説をある意味でもともと皆が待っていたからこそ,すなわち売れるからこそ,この説がマスコミによってまき散らされたのだと思う。神輿が悪いのではなく,神輿を担いでいる連中が悪いと私は思う。

他方,「科学」の仕事,したがって「大学」の仕事は,おそらくは,この不毛の円環に関知しないところで仕事をすべきである。売れようが売れまいが,「ホントのことだから」というだけの理由で,発言すればよい。また,営利主義的でないジャーナリズム/メディアが存在するとすれば,それはここに言う「科学」と同じ機能を果たす可能性がある,とも言える。われわれはこういう種類のものをもっと大事にすべきである。

というか,自慰の大いなる円環からはみ出る別の原理が何かあった方が,生存戦略上も望ましいと思われる。何となれば,われわれの円環と異なる円環をもった集団と,現実の中で対峙することもありうるだろうから。その場合においては,われわれの幻想,われわれの妄想に自ら耽溺しないことこそが,我が身を助く方法の第一の基礎である。北朝鮮に対峙するときであってすら,安倍晋三・中川昭一的陰謀論に惑溺しないことが重要なのである。っていうと怒られるのか。別にいいけど。要するに,円環の中に閉じこもったままでは,現実の敵を知ることができない。己を知り,敵を知ることこそ,百戦を前にした者のなすべきことである。

斎藤氏はこの意味で,脳科学の権威たる人物が研究上正しいとされる見解をきちんと発言すべき,と述べている。実はあとで述べる1点だけ留保したいけれども,全体としてそれはそうだろう。私が「大学というものは学生さんのニーズに応える(のもいいけれど,それ)だけではダメだ」と言うのもまた,同じ意味においてである。ただみんなを喜ばせることが最大の使命,なわけではない。桂三枝を教授に迎えて喜んでいる場合ではないのだ。これが枝雀なら個人的には許すけど。そういう人事は,確かにいろんな人が喜ぶかもしれないが,学問上必要だったり教育上よろしいからといった理由から実現したのではなかろう。皆が喜ぶから実現したのであって,学問とか教育とかは二の次三の次である。これは営利主義にとってむしろ必然の帰結である。

だいたい理事会が「この人教授にしたいから,よろしくね」とか上から言ってきたら,学部ごときが厳正な資格審査なんてできるだろうか? そもそも審査する権限はあるのか? もしここに「営利主義」が介在するならば,ちゃんとした審査などまず無理だろう。ドイツには「カネを出すものが命ずる」という諺があるそうだ(ホント? 情報求む)が,財務省→文科省,文科省→大学という「あなたの財布,私が握ってます」的権力関係ががある以上(そういえば安倍・中川→NHKもそんな話だなあ,「予算のご説明」なんて),「大学の自治」などというまばゆい理念は,これまでも空語であったけれども,これからもそうであり続けるほかはない。そう,大学人が自治を声高に主張するのは,それを今まで一度も所有したことがないからにほかならない。by ジジェク(うそ)。

「まともな」研究,「まともな」ジャーナリズムは,社会にとって,為政者にとって,耳障りなことを言うこともありうる。社会や為政者が,そこでそれを「聞かなかったことにする」べきなのか,ホンマにそうなのかどうか吟味すべきなのか,答えはおのずから明らかであるように私には思われる。

▼ところで,「精神分析」をまるごとトンデモだという人がいる。これにどう反論するのがいいのかをいろいろ考えてみたのだが,どうも歯切れが悪くなってしまう。これには内在的な理由(後述)があって,反論する労力に比べて実りが少なそう,ということもあるが,こちら陣営の方は皆さんそういう感じなのだろう。だからこちら側からの反論があまり見られないのである。

臨床経験のような一回性の経験を,実証科学者に納得させるのはある意味はじめから不可能である。実証科学者は検証テストにかからないものを「非科学的」なものとして括るわけだが,精神分析の経験は確かにそこに入らないだろう。なぜならそれは厳密な意味では「再現性をもたない」から。実証科学における「再現性」というのは,同じシチュエーションで同じ刺激が与えられれば同じ反応を返すだろう,という仮説と,その検証テストというプロセスに含意されていると思うが,とてもとても微妙で繊細な人間的事象を測るにはこの概念はちょっと力不足すぎる。

だいたい人間というのは,同じ言葉を言われたからといって,いつでも同じ返事を返すわけではない。というか同じシチュエーションを2度経験すること自体人生においてほぼないし(『冬ソナ』以外では),同じ「意味をもつ」シチュエーションを人為的に2度組み立てることすらできないだろうし,百歩譲ってそれができたとして,同じ反応を返し続けるのかといえばそれはどうだろうと思われる(昔の心理学の「刺激-反応モデル」というのは実際そんなものであったが,「パブロフの犬」モデルだけで人間様を語られたのではたまらないのである)。

それにもかかわらず,臨床経験においては異常性というのは変にパターン化しやすいことは不思議である。私のような精神分析界の崖っぷち人間であってすら,スクール・カウンセラーという形,つまり本来の分析とはぜんぜん違う形でではあるが,苦しんでいる人たちの話をたくさん聞いてみればわかるのだからなおのこと不思議である。何でわかるのかな。どこかで誰かが書いていたが(何の情報にもなってなくてスマン),いわゆる「健常」であることは多様性を帯びているが,「異常」であることは逆に画一的な様相を呈するものであるようだ。異常と健常の境界線などない,と言われることもあるが,そう言われるととりあえずあんたもここに座っていろんな人の話を聞いてみたら,と言ってみたくなる。どうせ話は膨らまないから言わないけど。

検証テストに開かれていない仮説は科学ではない,とする実証主義者には,逆に「一度しか起こらなかった事実,これは事実の範疇に入らないのか?」と突っ込んでみることはできよう。彼らにとっては一度しか起こったことのない事実,例えばごく私的な経験は,自分にとって真実であっても,確認のしようがないのだから「科学的な」事実ではなく,夢かうつつかわからない幻影にすぎないのだろう。私的な経験ばかりを主たるフィールドにしている精神分析家に言わせれば,そんなこと言われても困るし,そういう野次は全くもって非建設的で意味のないものにすぎない。「検証できようができまいが,事実は事実じゃボケ」という精神分析の方が,実証科学以上に客観主義的な面があるというのは何とも逆説である。

▼トンデモかトンデモでないか,という境界線,メルクマール,クライテリアというのがなかなか難しい。このことこそ,上に触れた「内在的な理由」の重要ポイントである。皆さん非科学的な言説を排除しようと一生懸命であるが,あんまり一生懸命になるのも変である。なぜ変なのか。

「正常」と「異常」の境界線はどこに引けるのか。私はどこにも引けないと思う。にもかかわらず,確かに「正常」と異常」の区別はありうるのである。というふうにしか思えないのである(いろんな人を見ていると)。

いやいや,私にとってもこれは不思議なのである。だから,何でそうなのかを研究しているのである。

同様に,「まともな科学」と「トンデモ科学」との間に境界線を引くことは極めて難しい。にもかかわらず,トンデモ科学はやはりトンデモ科学なのである。

これはどういうことなのか。

精神分析がなぜトンデモ科学ではないのかと言われると,「だって,文献たくさん読んでみればわかるじゃん」とか言うしかないのである。

精神分析の言葉で少し解説すれば,これは「現実吟味(前もどっかに書いたね)」という問題であって,ある体系的信念が妄想であるか否かを判定する資料自体が,当該の体系的信念の外にあるものではない,という原理的な困難が,精神というものには必ずつきまとうからなのである(初期のフロイト(『科学的心理学草稿』)は神経系モデルでこの問題を考えていた。それの入力というのは神経系の外部から来るわけではないという指摘。それってオートポイエーシスやん,とかちょっと思うでしょ)。

「自分の信じている現実が,丸ごと自分の妄想でないかどうか,いちお心配してみるテスト」というのも,あながち無駄ではないのである。そればっかりでも困るが。それがないと,「自慰の大いなる円環」がまたぞろ現れることになる(ふー,やっとつながったかな)。

世の中には突飛な理論というものがたくさんある。ラカンのそれも,一見するとその候補だろう。しかし,ある程度読みこめば,それが「ホンモノ」かどうかは見当がつく。ボキャブラリーが変わっていることは本質的なことではないから。あるいは学生さんの卒論を見ていると,資料の集め方が手当たり次第だが,それは読書量が足りないからで,一定以上の量を読んでいれば,どれが重要な文献でどれがそうでないか,タイトルや目次を見ただけで瞬時に見当がつくものである。こういう「見当がつく」などという芸当,われわれにとって日常的な経験というのは,われわれ自身にとってすら説明しがたいものである。まして実証科学の人にはとてもわかりにくい(少なくとも,「頭で」わかることができない)現象であろう。

科学と擬似科学の区別というものも,結局はそのようなものなのである。「これこれというものが科学で,これこれのものが擬似科学です」などときちっと「定義」することなど,できないのである。むしろそんなのは,「何だかわからないけど瞬時に判定できる」ものであろう。トンデモ科学をどうにかして特定しようと躍起になっている皆さんの涙ぐましい努力(だって古今東西の名だたる科学者・科学論者が寄ってたかって,いまだかつてどれも「(実証)科学的」といえるレベルで成功してないんだよ! この事実自体が面白いでしょうが)を見るにつけ,このえも言われぬ滑稽さは,もろ精神分析の中心的主題であると感じる今日この頃なのである。だって,彼らが「トンデモ」さんの特徴として抽出した諸々のポイントは,きっかり精神分析が「パラノイア」さんについて抽出した特徴以外の何ものでもないのだから(上のリンク参照)。

あと,擬似科学批判を一生懸命している人は,「それをしないとどんどん信じる人が増えてしまう」と危惧している人である。反対に,私などは,「そんなことを必死でしなくても,ヘンなものは広まりゃしないよ,取り越し苦労だよ」と考えるほうである。実際「ゲーム脳」にしても,学問の世界では何の波風も立っていない状態である。もし仮に何か新しい妙な理論が広まったとしても,それが正しいか間違いかという問題とは別個に,それには何らかの魅力があるわけで,その魅力は何かということも興味深い問題とも言える。「ゲーム脳」についてはぜんぜん面白くないけど。

▼一つ言えることは,トンデモ科学者の方々――「孤立研究者」とも呼ばれることがあるようだが――は,文字どおりその研究を,仲間とのディスカッションなども全くせず,たった1人きりでしているということだ。妄想が病的であるのは,それをその人1人しか信じていない(その人は,他人の言うことを全く信じていないか,他人は悪意をもって自分を騙そうとしているなどと考えている)場合である,と言うことはできないだろうか。

例えばオウム真理教でそうだったように,妄想が集団によって維持されている場合には,個々人についてはそれぞれ病的とは言えない。「尊師ってすごいよね」「そうだよね,すごいよねー」などと互いに確認しあっていたのだろうし,そういう文脈の支配している集団に入れば,麻原を崇拝することはとても「常識的」で「自然」なことだろう。仮に何かの理由で外部から批判されても,「われわれは迫害されている,この迫害に負けないでみんながんばろう!」などと,より集団の結束を堅くしても別におかしなところはない。そして,こういった集団に入ったり出たりすることには正または負の負荷がかかるだろう。だからマインド・コントロール(これをわれわれは「転移」と呼んでいる)を解くのは難しい,とかいう話も至極あたりまえのことで,驚くべきことは何もない。

これに対し,妄想を1人で信じ通すにはたいへんな努力,エネルギーと根本的な動機が必要であることは想像に難くない。何しろ家族から何から全員が実はニセモノ(ロボット)で,そいつらが言うことはみんな自分を惑わそうとしているんだ,騙されないぞーとか,そういう妄想に生きるなんて,しんどすぎる。しかし,当人には,その妄想の方が現実よりもラクなのである。そしてわれわれはそういうケースのみを(輪郭ははっきりしないけれど)「異常」と呼ぶのである。

逆に見れば,本当に先端的な学説を切り開いてきた人物は,この意味での「異常」と紙一重のところにいた,とも言える――結果的に「異常」でなかったと認めれられることにはなったとしても,生前当時の当人の精神状態は限界まで追い詰められていたかもしれない,もしくは本当に「異常」の範疇に入るレベルだったかもしれない。ニュートンが分裂だったとか,カントールが発狂とか,そんな話はゴマンとある。それはある意味では当然のことなのである。彼らは「1人で」何かに気づいてしまったのだから。あるいは「1人で」気づくことのできる精神の強靱さをもっていたのだから。学問への寄与という点では,その人物が正常か異常かはどちらでもよいことである。

精神分析のように,今日研究者の層や経験と議論の蓄積が一定以上あるものについて,その起源から現代の研究に至るそのすべてをトンデモだと言うには,なかなかに厳しい,いや過度に厳しい規準をもってこざるをえないと思うが,どうか。

▼えー,長い回り道だったが,話を大学に戻そう。大学の機能は,営利主義やポピュリズムの円環とは別の原理で動くことが必要で,なおかつ正気を保つために,複数の人間の共同作業の場である必要がある。こういう場に森教授のような人が入っているのは,確かにあまりよくはないとは思う。理由は,共同作業,議論,討論,というか同一手法の研究すらできなさそうだし,そういう人に限られたリソースを取られるのは「効率性」に反するから。こういう人を排除することこそが,大学における研究と教育の「効率化」にほかならないとも思う。

ただし,watoroさんの言うように,そういう人を一人残らず排除するということはなかなか難しい。また,孤立研究者なのかホンモノの最先端の人物なのかを見分けることは,審査している人たちは実は当該分野そのものズバリの専門家ではなく隣接分野の専門家なのだから(当該分野のポストが空いているから募集してるわけで),やはり難しいと思われる。かつて東大で中沢新一さんが不採用になった例の件もある。自分と見解の合わない研究者を「レベルに達していない」とこきおろすことも,「あんなのは学問じゃない」などと難癖をつけることもできる。

また別のパターンとして,研究はすばらしいけれど人格に問題がある人を入れるのか入れないのかというのも悩ましい問題だ。ヴィトゲンシュタインが文科省向けに中期計画の報告書を書いてくれるとは思えない。クリプキに教務委員を任せて大丈夫とも思えない。組織としては,やっぱり困る。だけれども,こういう人をどこかで雇わないのは人類の損失である。

とにかく,どういう人を入れてどういう人を入れない方がよいかは,一般企業でそうであるように,むっちゃくっちゃに難しい問題なのである。

私個人は,そのへんはしょうがないと思う。皆それぞれ自分の立場で信ずることを言うだけ。みんな,あーでもない,こーでもない,こいつはいいと言ったりダメと言ったりするけれど,そういう人の言い分は信じるしか方法がないから。

▼いやー。確かに現在の大学に問題はある。しかしどう直すのがよいのか,われわれだっていろいろ考えてきた。しかし,どう直しても別の問題が生ずる。いまより悪くなるような致命的な問題が。よい案があったら教えてほしいくらいだ。それ教授会で言うから。

長々と書いてきたものの,大学については,結局,どうしていいのかわからん,という結論であった。南無阿弥陀仏。

時事,研究

Posted by 中野昌宏