日本人の英語と大学での英語教育
ガイジン暮らし。日本人としてはやはり外国語の壁というものを強く意識する。日本語は起源からしても韓国語以外に近しい言語のない,孤立した言語である(違いました?)。こればかりは事実だからしかたがない。
さてフランス人の人々は,こちらを日本人と見るや,そしてフランス語がうまくないと見るや,英語に切り換えてきやがる。フランス語修行中の身としてはありがた迷惑である。こういうのは10年前のパリではありえなかった光景である。という意味でこれはこれで感慨深い現象なのであるが,と同時に,連中が「日本人なら英語か?」と考えていることも事実として見て取れるわけである。そうなのか?
蓋し,英語教師の末席を汚し放題に汚している私が言うのも何であるが,日本人の英語も捨てたものではないと思うのである。
例えばよくあるパターンとして,ご主人の仕事の関係でパリに住んでいる奥様方は,突如与り知らぬ事情でパリに送り込まれてきただけなわけで,誰もがフランス語が堪能というわけにはいかない。当然皆さん苦労されている。何しろ日々の買い物がある。学校への子どもの送り迎えがある。学校の先生や,子どもの友達のお母さんとどう意思疎通しよう。というわけで,フランス語がぜんぜんできないのはやはり困ると語学学校などに通われるのが常である。
しかし,まさにその学習の過程においては,フランス語非武装のままマルシェに出陣せねばならないことも多い。そういう奥方たちがどうやって「何とかしている」のかというと,やはり英語を使うのである。
そして,これが,意外なことに,かなり高度な要求も含め,たいていは何とかなるのである。
私の妻も,フランス語についてはまったく丸腰で半年以上を経過したが,店やマルシェでの買い物はもちろん,生きていくうえで必要なことはすべて身振りと英語で乗り切ってきた。英語といってもそれほど流暢なものではない。必要最小限のことを言うまでである。あとは指を差して,これと,これを,これだけ(指を出す)ください,みたいに言う。これでたいていのものは買える。
刺身を食いたいとき,魚屋のおっちゃんに言ってみよう。英語でもいいし,覚えたてのフラ語でもいい。
「ナマで食べれるのはどれですか」。
そしたら教えてくれる。「これと,これ」。
なんだか情けないようでも,それで逆境を十分生きのびて行けるのだから(しかもフランス料理の国で刺身を食うなんて贅沢までできるよ),胸を張ってよいのである。そういう人には「生きる力(笑)」があると言えるのだからである。
文部科学省は「生きる力(笑)」が重要とか何とか言っている。これに照らせば,よく批判される日本の英語教育は現状ですら十分役割を果たしていると私には思われる。だって全くの一般人の英語力(語弊ありますかね)でも海外で生きて行けるということなのだから。突然の外国住まいを強いられたとき,多くの人が何とかやって行けるだけの力をつけている(そりゃ苦労はするだろうけどさ)という動かぬ事実から見れば,現在の英語教育はすでに十分イイのではないか。まさに大学の英語教育として目的を達しているのではないのか。そう思うわけである。
▼コミュニケーションのコツは,しつこく食い下がることだろう。こちらが一生懸命だと,向こうも一生懸命聞き出そうとしてくれる。こちらがうまく言えなくて「えー,あー」とか言っていても,こういうこと?こういうこと?と類推してくれる。重要なのは,コミュニケーションをとろう,とりたいという「姿勢」にほかならないのであって,その姿勢さえあれば細かいやり方は人間ぼちぼち覚えてゆくものなのである。
日本では「協調性があること」が学校などで評価される最大の人格的価値であるが,フランスでは「自己主張ができること」「自分の意思をはっきり言えること」が人格的価値の最大のものなので,まあそもそもガイジンに不利にできているわけだが,そのハンディを克服するためにも「伝わるまでしつこく言い続ける」くらいの根性でちょうどよいわけである。
コミュニケーションというものはえてしてそういうものである。さしあたり店と客の関係であれば,向こうも何か買ってほしいわけだから,向こう側にもコミュニケーションをとろうというインセンティブは働く。
逆に,役所や郵便局などのような,こちらの話など別に聞きたくもないという連中を,こちらの思う通りに動かそうなどと無理なことは考えないほうがよい。そんなことができるのはたぶん日本だけである。その分野は主として「運」が支配する分野である。運悪く相性の悪い相手に当たったら,さっさと引き下がって,別の担当者の列に並ぶのが吉である。これまた一つのおばあちゃんの知恵,「生きる力(笑)」の一つである。
「~語が話せる」などというある種の特殊技能などは,むしろ枝葉末節なのだ。とりあえず話せるだけでは,中身があるとは限らないから。そういう困った人も確かにたくさんいる。このエントリーは,だから,日本人の英語も……というよりは,日本人の「生きる力(笑)」も……という話なのかもしれない。
▼TOEICの点数を上げるための授業を大学でやらんなんという昨今的現実には疑問を感じてきたが,今回フランスに滞在してその思いは強まった。日頃英語を使う必要のない人に,いったいネイティブレベルの英語を教えようというようなことをする必要があるだろうか? 別にないだろう。TOEIC対策授業が役に立つのは,仕事で英語を使うような一部の人間にとってだけだ。むしろ多くの人間には,急に海外赴任が降って湧いても何とかなる程度の実力をつけることこそが,大学でやれる最も的確なサービス提供ではなかろうかと思われる。だいたいそれ以上のことができるためのリソースは,ふつう大学にはないだろう(外大は知りません)。
繰り返すが,ネイティブがペ~ラペラしゃべるのを完璧にヒアリングできないとダメ,とは今の私には思えない。TOEICの点数が高いのはそれはいいことだろうが,そんなことにあんまり意味はない。まくしたてられたら「こっちはガイジンだぜ。ゆっくりしゃべれよ」くらい言えばよいではないか。強気に行こうよ。雰囲気に呑まれてはいけない。それでゆっくりしゃべってくれないようなヒドい相手の話は,そもそも聞かなくてよろしい。相手がネイティブでないときは,さらに条件はイーブンである。相手のほうがデキたとしても,自分もかつては苦労した身ということで,こちらの心をたいへん深く察してくれるものである。そういう体当たりをやってみたことのない者こそが,「使える英語」とか言っているのではないか。
もし本当に「使える英語」というメチャクチャ高度なものを教えるつもりなら,その事業は,マスを相手にしている中学・高校・大学には向いていないのではないかとも思う。どうせのこと,外国語なんて一対一で話さないと話せるようにはならないだろうから。しかしだからといって,学校で英語の時間が全くないのもまずいだろう。あんな何の役に立っているかわからないような授業でも,なければないで人生は全く違ってくる。いや大げさではなくて。現に「そこはかとない」役に立ち方をしている。そしてそういうものこそ,「教養」の名にふさわしいもののはずである。
ともあれ抜本的に状況を変えたければ,やはり幼稚園,小学校からの英語教育ということになるだろう。というのもこちらでできた知人を例に引けば,南米出身なのに英語とフランス語を完璧に話す者が多い。もちろん母語であるスペイン語は構造がフランス語に似ているということもあるが,聞けばやはり小さいころにバリバリたたき込んでいるらしい(しかも小さいからあまり苦痛がないらしい)。「日本語は欧米言語と構造がぜんぜん違うみたいだからたいへんだね」とか何とか話しているうち,「日本人は小学校時代には英語の時間が全くない」と私が言うと,「それだ」と喝破されてしまった。当の外国語の構造が母国語と非常に異なる場合は,早期に習得しないとしんどいのである。言語習得には「臨界期」(それを超えると習得はしんどいんちがう?という時期)というものがある(らしい。反論もあるようだが)。もしこれが本当なら,大学で「使える英語」なんて遅すぎるのである。遅めに高いハードル持ってきてどうする。というわけで,早めに低いハードルを(から順番に)持ってくるのがたぶん正解なのであろう。
▼というかそもそも「大学で習った英語が役に立たない」という「批判」はどこから来るのだろうか。これは「批判」というよりも,私は実はこれは「苦情」とか「文句」の類だと思う。
だいたい,勉強「させられた」としか思っていないから,恨みだけが残るのだ。苦労させられた割には,それで得たわずかのものが役に立たなく感ずる。「もっと役に立つことを教えてくれればよかったのに」。こういう「文句」は,よく子どもが言う「文句」に似ている。「おかあさんは,僕をもっと賢く生んでくれればよかったのに」「私をもっと美人に生んでくれればよかったのに」などなど。
そういうことを言う人間は,やはり,ダメ人間なのである。だいたい自分が勉強したことだぞ。それに文句を言うのか。それに,上に述べたように,大学で得たわずかなものを,現場で必死に駆使し,駆使できている人々がたくさんいるのに,ダメ人間たちはすべてを大学や教師のせいにして,自分が自分のためになすべき努力を省略しようとしている。こういう人間は,ひたすら受動的で他罰的で,したがって幼児的な人間である。「ここにエサを早く入れてください」とばかりに,自分は口を大きくあけて待っているだけの,雛鳥のような人々が最近はデフォルトになりつつあるようで困る。
(ラカンをやっているので思うわけだが,実は例のアラン・ソーカルなどもこの手合いである。自分が理解できないのはすべて相手のせいだというわけだ。本来は,自分の国語力を呪うのが先決なのである。)
「賢者は愚者からも学ぶが,愚者は賢者からも学ばない」(たしか論語)という警句をご存じか。あんたは努力もなしに,魔法みたいなパワーを手渡してもらえると思っているのか。自分が自分で得た知識を(それがいかにわずかであったにせよ)自ら活かそうとしないでどうする。やる気さえ出せば何とかなるだろうに。ツァラツストラはこのように語るのではないだろうか。
皆さん大学時代に勉強したことは「すべて忘れた」とおっしゃるケースが多い。しかし,この英語の例に見られるように,生命の維持に必要な事情がある場合には,その薄れた記憶が賦活されることも大いにありうるのである。私だって学校でしか英語は習っていないぞ。自慢じゃないがフランス語なんて初級を2回も落として中級のほうを先に取ったんだぞ。それでも必要なら何とかしようと思うか思わないかだ。それが「生きる力(笑)」というものなのである。
ディスカッション
コメント一覧
兄ぃー。兄ぃー。やっぱ、オイラ兄ぃの弟でまちがいねぇーや(泣)。(この辺は浅田次郎の『天切り松闇語り』を参照)
あっしが、英語を話さねば、ならない状況に出会ったのは、中学2年の14歳の時。外国語は日常にある生活ではあったけれども。相手はフィリピン人だった、英語を学びはじめて約一年。それでも何とかコミュニケーションできた。そこで得た経験を元に折に触れ、のたまっているが、「英語なんてしゃべれなくても、しゃべろうとする意志で気持ちは伝わる」である。
さて、言語習得における「臨界期」の問題は、第一言語習得において適応されるものであって、第二言語習得(Second Language Acquisition=SLA)と混同してる人、大杉栄。第二言語習得はまだまだこれからの研究だと思われます。
次ぎに小生の考える英語教育について。①旅行でつかえる程度の英会話はまあ必修 ② ①+ビジネス英語 英語が必ず必要な仕事につく人 ③ ①と②を包括し、英語で論文が読み書きできて、なおかつ外国の学会でプレゼンできる程度の英語。(作家、翻訳者になる人は言われなくてもやるので別に良し) 以上の三つを適宜組み合わせて対応。必要ない人はまったく学ばなくても良い。別なことにエネルギーをそそいで、超人をめざすべし。
外国語を学ぶ動機は不純であれば不純であるほどよい。「恋」をきっかけにするのが良いのはグルも定説だと言っている、かもしれない。とりあえず、どこの言葉でもいいが、「こんにちは」と「愛してる」は覚えておきたい。「さようなら」は要らない。そもそも「さようなら」なんてないのだから、「私」と「あなた」ただそれだけ、ってオマエはモハメド・アリか!(わかる人かなり通)最後に「日本語の起源」について、小生の盟友に執筆してもらい、小生が加筆・修正・編集をおこなったウィキペディアの「日本語の起源」の項を御笑覧いただければ、詳細はわかっていただけるかと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90
結論を言えば、兄ぃの言われるとおり、「朝鮮語に近しい孤立語」が定説だと、研究者はグルになって言ってると思います。とにかく、本記事に禿同って使ったことないけど、こういう時に使うのでしょう。
・「日本語の起源」読みました。やはりそんな感じでしょうね。でも詳しくて勉強になります。ときどき誤字脱字の類があります……。誰に言えばいいの?
・「臨界期」の問題は,じゃあバイリンガルの場合はどうなりますか。例えば父がフランス人,母が日本人みたいな。やっぱり第一言語の臨界期までに第二言語を入れてやるのは当人にはラクなのだろうと思うのですが。
・外国語を学ぶ動機については禿同。ピーター・フランクルも言ってました。「恋」というか,「愛」ですね。精神分析では「転移」です。これが最高。「義務」とか「根性」はどうしても負けてしまう。
・「翻訳」というのは,日本語と,別の言語という2つの別々の体系の橋渡しをすることですよね。それって,外国語を普通に使うだけとは原理的にかなり違う能力なのです。
てな感じ。
兄ぃ。お読みいただきありがとうございます。誤字脱字、ご指摘いただけるとありがたいです。コピペに加筆・修正で粗い編集なもので申し訳ないです。(ペコリ)
バイリンガルも個人差、地域差で色々揺れがあるので、コレと言った定説はまだでしょうが。若いほど、バイリンガルになれやすいことはたしか、しかし、還暦すぎてからでも可能な事例もある。ちなみに、『屋根の上のバイリンガル』(沼野充義 白水社)は名著です。兄ぃのおかれている状況?研究で海外にいるという点において。
全て「転移」で転がっている小生であります。愛国心、って国に転移を求めるのでせうか。なんか気持ちが悪いのですが、渋谷にいるパンツを見せて座っている女子高生を愛するように、みんなを愛していくことが愛国心につながると言われるピン(やらしい)と来るのですが。みんな仲良く、レヴィ=ストロースと言うことで。
「翻訳」については、日誌で、映画「ロスト・イン・トランスレーション」で触れたいと思います。では、「無意識の論理」に仁義を切りに行きたいと思います。では。
>ネイティブレベルの英語を教えようというようなことをする必要があるだろうか?
>現在の英語教育はすでに十分イイのではないか。
確かにいっぱい聞けるいっぱい喋れる信仰が行き過ぎている気がしますね。聞いて喋る英語をマスターしようなんて猛烈に時間とエネルギーが必要なわけで。幼い頃からやり出さない限り全員語学専攻にしないと。
その点読解は容易に身に付く上非常に強力なツールなんだし、コストパフォーマンス的に言って現状の英語教育がとってきた道は間違いでなかった、とは確かに言える気がします。
それをみんな忘れて手放しにやれ文法なんていらないだとかやってしまうと、読解はできないは別に(あるいは“逆にさらに”)喋れもせんはで「生きる力」は減る一方、こりゃ間違いないと思いますね。
ただ読解のスキルを含めて、英語のスキルが開く扉に比して日本の英語教育が余りにも貧弱なのは確かだと思います。やはり早い年齢からの英語教育ですね。
>「大学で習った英語が役に立たない」という「批判」はどこから来るのだろうか。
>これは「批判」というよりも,私は実はこれは「苦情」とか「文句」の類だと思う。
う~む(笑)。確かに一理あるとは思いつつも、やっぱり文句をつい言ってしまうクチです…。
まぁ私は理系ですから、ちょっと話はずれてしまうかもしれないのですが、僕の大学(地方旧帝大)での授業は、散発的に爪の垢をほじくるような、どうでもいい知識を教授するだけの物で、重要な知識はどうするかというとアメリカの教科書の訳書を買ってきて自分で勉強してしまうんですね。
システマティックに学生をどうこう教育しようという訳でもないし、かといって興味をそそる授業を狙ってこちらの視野を広げてくれるわけでもなく。
(ちなみに重要知識をアメリカの訳書で仕入れなければいけないのは、日本の教科書はどうやら“よく刈り込んである(=何を言っているのかわからない)”事が美徳とされているみたいだからです)
こんな事を言ったら「この幼稚園児が!」って怒られてしまいますね。でも生物学には心躍るトピックがいくらでも有るはずなのに、延々と5流雑誌にも載らないようなトリビアを90分間(それも手抜きで)聞かされたら、やっぱり二度と出ねぇこんな授業って思ってしまいます。
つまり、私が「文句」(笑)を言いたいのは、先生方は既得特権を持ちすぎなんじゃないかと。もちろん熱心な先生もたくさんおられるし、そういう先生方の授業はすばらしいし、もちろんたとえ直接でなくともかけがえのない財産になっていくわけなんですが、中には(残念ながら結構たくさん)「お前それはやりすぎだろ」という先生や、正直「一応苦労して入る大学なのにこんな授業かよ」と思ってしまう先生もおられたりして。
学生としては「クッソー、お前らなんかに給料&税金を払わされてるとは! うぅ、悔しい!」と思う事も結構あるわけで。
ですから、学生側から先生の評価が出来るシステムを作って欲しいと思うんですよね…。NHKや社会主義と同じように(?)、自分たちで自分たちの処遇を決めているんじゃ、やっぱり無能醸成システムなんじゃないかと。
私立大学に勤めている親父の話では、私立では学生の減少のために少しは圧力がかかっているらしいですが、旧帝大なんかは名前で学生が来るからってんで好き放題やってる人がかなりいるらしく。
で話は変わるんですがうちの大学ではアンケートを取り出したんですね。授業が終わると学生が先生を評価するんです。つまらないとか分かりやすいとか10個ぐらいの項目を5段階評価ぐらいで。
でも評価と言っても“単位を簡単に出さない先生の評価が不当に下がる”との理由で、給料などには一切反映されず、年度末に上位5名かなんかが公表されて終わりなので、意味ないんです。
そこで“優”評価を1点として、年度末に好きな先生に-1点、または+1点を投票しなくてはいけないというシステムはどうかと思ったのですがどうでしょう?
これなら不真面目な奴は投票権が少ないから、不当に評価が下がる事はないと。
であんまりマイナスがでかい先生はクビ!真面目な先生方にとっては仕事をやらない人やトンデモ人間を排除する“合法手段”が出来ていいんじゃないかと思うんですが駄目ですかね?
あれ?改行は反映されないんですね… すみません。
watoroさん,
コメントありがとうございました。「アメリカ学研究所」の方ですね。まず改行ですが,brとかpとかのタグを入れれば反映されます。上の投稿には私が入れておきましたので次からよろしくお願いします。
えー,で確かにwataroさんのおっしゃるようなトンデモ先生って存在すると思います。ていうかします。真面目な先生(私とか)から見れば迷惑千万。クビにしたい。クビ大に行ってもらいたい。のは事実です。その点おっしゃるとおりでまずは「すいません言いすぎでした」と謝っておきます。
ただ,「何がイイ授業か」というと,これをちゃんと測るシステムを作るのはとても困難なのです。授業アンケートは最近はどこの大学もやっていると思いますが,単なる人気投票だと,やっぱり「学生におもねる」ことが評価につながってしまいます。つまりは別にためになるわけでもないのに面白おかしい話をする人が評価が高くなる。他方硬派な授業は,本当はいい授業であっても淘汰されてしまいます。本気で走るより,流して走ってる方がいいことになってしまう。
つまり,予備校の授業で言えば,駿台みたいではなく代ゼミみたいになるわけです(言いたいことわかります?)。私もそういう類の塾でバイトしていたこともあって,まあそういうのは単なる営利企業だからそんなもんなんでしょうが,公的な教育でそれやると禿しくまずいと思うわけです。
一方で,でも確かに自分で自分の処遇を決めてたら,改善されるパスがないんですよね。要は誰がイイ授業と判定するかの問題で,教師側だけでもダメだし,学生側だけでもダメなんです。そのへんのことについてはまた今度書きますね。
あとまずいのは,前にも書いたように,授業の準備をする時間が本当にとれないことです。これには私もほとほと困っています。文科省が上から余計な仕事を降らすからですよ。変な書類ばっかり作るより(誰も読まんのにね),もっと学生の方を向いて仕事をしたいとわれわれはつねづね思っとります。
みなさま
小生の伯父がもう何年かすると、定年を迎える私大の教授であります。授業評価についての愚痴を散々聞きました。兄ぃが言うとおりで、バカが評価できない側面は多いにある。wataro様が言われる側面も多いにある。そんなトリビア聞きたくない(研究報告)と言ったような。アメリカの制度のマネなんだから、表層じゃなくてしっかり組み込まないといけないが、それがなかなかできない現状もある。研究だけの先生、教える先生、事務もする先生、別に先生にかぎらなくても良いのだが。
大学で得たものは、人脈と学士号。これは普通なのだろうか?こんなんだったら自分で勉強すればイイってのがホトンドだった。評価システムも教員に傷つかないゴッコだったし。研究者は研究に専念し、それを巧く咀嚼して教えられる先生、そしてそこからもっとを求める人が研究への道、そこまでの人は人生を楽しく巧く生きる知恵、教養、スキルを身につけたらいーんじゃないかと思う。学術書類を裁く資格でも作ったらいーんじゃないかい。司法書士、行政書士があるように。教育が「国」の行く末を決めるのに、その行く末を考えたり、決めたりする人たちがカスだったらしょうがないですけどね。常に亡命を念頭に置きつつ、どこまで抗えるか、いっちょやったる、てなことですかな。憂国鼎談になるのか。
いや、まあこれは伯父から聞いた言葉ですが、こっちだって学生を選びたいと、だから、評価に値するかどうか決める方も、ある程度選別さえるといいでしょう。教育内容をマネジメントできる人も必要で、講義名と内容がそぐわないなんてこともありますし、書き始めたらキリがないので失礼します。
追伸:別に学生運動にくみしていたものではないですけど、学生側から詰め寄る、つるし上げる、抗議するなど何か具体的な行動をされることをオススメします。レーニンを引くまでもなく、無関心と同じなら権力者(既得権益を握る者)に服従しているのと同じです。一応やったものとして言わせていただきます。ただ批判するのは容易い、何かを変えるために動くコストは多大だ。後者を選ばない場合、批判だけをしてガス抜きして、いかに損しないで勉強するか、だと思います。批判に多大なコストを費やすのが一番マズいですから。
先生,
>公的な教育でそれやると禿しくまずいと思うわけです。
うーむ、確かに。確かに思い返してみれば、「なんだこの糞つまらない授業は!」と散々文句を言ってた授業が、後になってみるとありがたかったなというのはあるんですよね。
これからもそうして歳を取るうちにどんどん名誉回復していく授業が増えるのかなぁ。
>本当はいい授業であっても淘汰されてしまいます。
ある先生と同じようなお話をしていたんですが、「お前の言いたい事は分かるけどな、そしたら大学の意味が無くなるやん」と言われてしまった事を思い出します。
いかに「酷い授業(人)」を減らし、現行の環境でしか生まれ得ない「素晴らしい授業(人)」を削がないようにするかですよね。
ただやっぱり社会や学生からのフィードバックをいれていくパスウェイを導入しないと、衰退していく一方ではないかとは思うんですよね。
実際、ここだけの話ですが、僕が在学していた学科や今の修士課程などの現状は、ひいき目に見てもこのまま放置しておくわけにはいかんだろというレベルなんです。
だって授業がめんどくさい(授業中にはっきりそうおっしゃられる先生もちらほら…)からって、授業と称して毎朝会議(実験検討会)を見学させるんですよ。後ろにパイプイスを並べて。
分野ごとに1000ページを超える教科書があって、1ヶ月に何報も論文がでる世界ですから、いきなり違う分野の実験検討会を見せられたって、逆立ちしたってわかりっこないんです。
最低限どういう分野か説明などすべきなのに、そんなものもゼロ。シンプルに怠慢なんですね。
こういう怠慢は外部からのフィードバックで撲滅するしかないんじゃないかと。
>授業の準備をする時間が本当にとれないことです。
うーん、上で述べたような事が起こる原因は、これも大きいのでしょうね。
理系だけに当てはまる事かも知れませんが、教育と研究をもっと分離して…つまり教育専門の教官を導入していく事も考えなければならないのではないかと思ったり。
今の理系大学なんかはあまりにも研究、研究者養成にウェイトを置きすぎていて、社会に出て行く人材育成という観点が不足しすぎていると思うんです。本当は社会に出て行く人の方が多いのに。
僕がいた学科でも去年、ようやく「うちの修士にこないなら卒業研究配属は認めない」と“言ってはいけない”事が教授会で決まったそうなんですね。逆に言えば今まではそうしてきたと。
つまり“うちの研究室の兵隊にならないなら、わざわざ教育なんかするかよ”という職務放棄が蔓延しているんですね。
外部からのパスを遮断してきた歴史が産んだ、こういった大学の私物化を今後も放置していくと、日本の大学教育はいつか死んでしまうだろうと俺は思います。
まぁそういう私物化トンデモ先生を完全に駆逐してしまうと“大学らしさ”というか“アジ”というか、無くなってしまう気もしますが(笑)。
大学大絶滅時代の影響が旧帝大などにも及べばいいんですがね。いじわるじゃなくていい意味で。
すみません、愚痴をいっぱい書いてしまいました。日頃の恨みが…(笑)
第一理系と文系とでは随分違うでしょうしね。
申し遅れましたがリンクありがとうございます。
アクセス解析で発見した時、「大学の先生がリンクして下さった!」と思ってかなり興奮してしまいました(笑)。
Tatarさま,
>つるし上げ
ははは(笑)。それぐらいガッツがあればいいんですがね。先生と喧嘩して、胸ぐらを掴まれて文字通りつるし上げられた事ならあるんですが(笑)。
やっぱり今の学生には就職が至上命題なので、リスクを冒してまでどうこうしようという気が起こらない、こういう意識は昔と大分変わっているのでしょうね。
私個人としては、まぁ社会の一員として、大学の改革に働きかけていくというやり方で…と思っています。
このヘタレが!と怒られてしまいますね(笑)。
ただ、一回喧嘩して研究室をクビになって、割と大変な目にあったので残りの大学生活は平和に送りたいのです(笑)。
wataro様
平和に、平和にやりましょう(笑)。小生の場合、学部が新しい学部で、新しいコンセプトでという面があってそれが全然機能していないのにイラだっていました。とある機会に自分の学部の学長と他学部の学長をパネラーに招いて、シンポジウムをし、私がコーディネーターに入りました。そこで、オリジナリティのなさを露呈させて、他学部となんら変わらない、むしろレベルが劣るかも知れないのを公の場にさらしったってことはあります。
具体的に話してくださいを何度も強調して、答えられないのを承知で理論的な話を延々とさせました(笑)。理系の学長だったからとは思ってません(笑)。学際系だったもので、何かと可能性はありつつもうまくいかない現実はありました。リアルに屁を垂れてイヤがらせ位はありでしょうか?失敬。
みなさま
遅くなってすみません。ちょっと所用で出かけてましたので。
ええと,要は「公的なもの」とは何ぞや,「私的なもの」とは何ぞやという話です。長くなりそうですのでエントリーを改めて議論したいと思います。よろしく。