若者の静かな憤怒

2022年3月7日

前のエントリーについて,偶然にも内田先生のブログにヒントが書かれていて,納得できないことが納得できてきた。間接的にであるが。

そうだった。「等価交換」が現代日本のキーワードなのである。以前も同趣の指摘を拝読したことを忘れていた。

激高老人先生のブログにも,「等価交換」の原理(市場主義の原理,規制緩和の原理,新自由主義の原理,何と呼んでも同じであるが)についての指摘があった。こちらは安部晋三が「ライブドア事件は教育のせい」とか言っている発言を批判するのが本旨であるが,「等価交換」が現今の日本の屋台骨であるとの認識は,共通している。

小泉=竹中構造改革と,ホリエモン率いるライブドア快進撃とは,古い常識と慣習を打破し,弱肉強食の世界こそ理想の世界と喝破しつつ,もっとも効率的な金儲けを志向するという点で,軌を一にしている。ホリエモンが逮捕されても,彼が時代の寵児であるという事実は,実はさほど揺らいでいないのである。

▼研究人生を歩みだしてからずっと貨幣論をいじくり倒してている私に言わせれば,「労働」と「不快」を等置したりとか,「不快」を「貨幣」と呼ぶとか,そういうところに用語の混乱はあるのは確かである。とはいえ,内田先生のご指摘の本旨(そしてそのもとになる諏訪哲二さんの概念化)は確かに傾聴に値する卓見である。

ちなみに「不快」は経済学的に言えば「不(負)効用」のことである。そして,「労働」→「不効用」ではあるが,「不効用」→「労働」ではなく,したがって「労働」=「不効用」ではない。なぜなら「労働」は通常「生産活動」を意味するから。例えば我慢大会で暑いのを我慢しても,それは「不効用」ではあれ「労働」ではない。

また「貨幣」は「価値尺度」であるべきメディアなので,「不快」のような不定形なものを「貨幣」と呼ぶことに無理はある。というか私の観念ではピンと来ない。

にもかかわらず,「不快」と「労働」が取り違えられねばならない必然性は,生活実感の中に確かにあると感じる。それはなぜだろう。ともかく,たぶん取り違えられている。

▼昔私らが学校へいやいや行ったり,受験勉強をしたりしたときには,「努力は報われる」ということがさかんに言われた。し,半信半疑であれ,われわれもちょっとは信じていた。で,ちょっとそのとおりになることもあった。よい学校に入れればよい大学に入れ,よい大学に入れればよい会社に入れ,よい会社に入れればよい収入が得られる時代だった。おおむね。こういう時代には,「いまの苦労は,将来の自分のための投資」と考えられていた。

学生にしばしばエラそうに言うことだが(考えたら私がエラいんでも何でもない),私が学部を卒業するころ(92年ごろ)などはバブルの絶頂期であり,労働市場はいまの学生には想像もできないような売り手市場だった。

下宿で寝ころんでいても,ひっきりなしに企業からの電話がある。「新○鐵ですが,会っていただけませんか」「三菱○○ですが,進路はどうされる予定ですか」「住友××○○ですが,(以下略)」という状態で,まるで私は電話番のようであった。うかうか寝てられないじゃないか。

しかも,「住友××○○」には,大学院進学の意向を伝えると,何だか不機嫌そうな担当者に「本当に他の会社とは会わない,と約束してくれないと。約束してくれますか?」とか凄まれ,気弱な私としては「は,はい,約束しますです」と言わされた。電話を切ったあと,何でオレが,要りもしない電話をかけてこられて,見も知らん奴に説教されて変な約束させられんならんのか,腹が立ってきたが。いま思えば,おそらく勧誘する人物にもノルマのようなものがあったのであろう。「お前の後輩,○人連れてこい」みたいな。

こんななか私は,父に大学院に進学したいと言った。そしたら大反対された。もちろんそれでも強く押したら父は仕方なく折れたわけだが(二十歳越えてる人間に言ってもどうせ聞かんわな),捨てぜりふに

理解に苦しむ……

とか言われた(笑)。

まあそんな時代であった。多くの学生が希望の会社に入れた時代の話である。おとぎ話のようである。

▼いまの学生にとってはどうだろう。希望の会社になんか入れるのだろうか。入った企業の待遇は,十分なものなのだろうか。その企業はずっと彼/女を雇ってくれるのだろうか。途中で潰れてしまわないだろうか。M&Aで吸収合併とかされて,突如人生が狂ったりしないだろうか。ライブドアみたいにうまくやっている(た)会社ですら,ホリエモンよろしく経営者が脱法行為をしていたら一発で路頭に迷うことになりかねない。企業の方は,正社員の生首を飛ばすのはさすがに避けたいので,いざというときに切れる派遣社員や契約社員,アルバイトといった流動的な労働力を確保する方向にある。というか,「正社員」という概念が怪しくなってきているのではないかと思うのだが,どうか。

公務員志望は依然として根強いが,それとて安定神話はもはや崩れている。天下り可能なキャリア組はともかく,試験でがんばってどうにか公務員になれたとしても,国立大学の独立行政法人化みたいにトカゲの尻尾切りにあったり,でなくても定員削減にあう可能性もある。国家公務員の給与も世間が思っているようには高くない(そう思われているのはこれまでの公務員のサービスの質が低かったためと見た)。世間の賃金水準に合わせて人事院勧告が天から下されるだけ。すでに公務員じゃなくても。今の公務員人気は親の世代からの刷り込みが効いているのだろう。たぶんもう一世代下ではこうは行かないのではないか。

「希望格差」じゃないけれど,「いま苦労して,その苦労が何になる」という意識が,彼らの心の奥底にはあるんじゃないだろうか。

言い換えれば,苦労ばかりを強いられている(と少なくとも主観的に感じている)人々は,「いまの苦労」を「いま」取り返すべき,債権者の位置に立っている(つもりな)のではないか。

なるほど。だからヤクザっぽくなってくるのね(殴)。フランスでの暴動も思い出されるし。希望がないから自棄(やけ)のヤンパチなのか。

さてどうなのか。全部疑問文ですな。申しわけない。

▼かつては将来償還できるはずの「投資」であった「苦役」が,いまや返してもらえるかどうか不明な「苦役」となった。いつ返してくれるんや。はよ返さんかい。いますぐ返せゴルァ。そういうオーラを彼らがるる放出していたとしても,彼らの非にあたるのかどうか。

「将来の展望を,現在の努力」へと織り込むという,時間を「先取り」する思考のサイクル――むしろ「意志」――が消えてしまって,「現在の債務を,いますぐ取り立てる(しかない)」という刹那主義へ。

これって言い換えれば,「時間」が止まったということではないか。

未来がない,ということはそういうことである。

ということはこれは「終末」?

▼ともかく「等価交換」について指摘しておきたいことがある。

経済活動というのはすべてが「交換的正義」(「配分的正義」の対義語。詳しくはググってね)で覆われているように見える。しかし,「等価交換」というのはそんなきれいごとばかりではない。「交換」を成立させるためには必ず力関係が作用する。「これこれの交換をしてください」とお願いする側がつねに下手に出なければならない。自分とこの商品を消費者に買ってほしい企業は,どうしても消費者に媚びることになる。商品を期限までに一定数量確実に卸してほしい問屋は,メーカーさんにお願いするしかない。力関係やタイミングによっては同じものを安く買いたたかれたり,高く売ることができたりする。それはべつだん常識的なことである。「等価交換」には,その裏側がある。それが必ず正義を保証するわけではない。

宿題やレポートを課すことすら,いまや教師はやりにくい。「これやって,ほんとに学力は伸びるんだろうな」という,学生や父兄や文部科学省の声が電波に乗って聞こえてくる。「伸びなかったらダメ教師だからな」と念を押す声も。教師はこう言うしかない。「騙されたと思ってやってみてください。お願いします。学力アップの保証はできないんですけどね。ハハ」とか。要するに「等価交換」を期待されてたら,こっちは「お願い」するかたちになってしまう。

▼しかし世の中には,「交換」の原理だけではなく,「贈与」の原理というものもある。「贈与」には,「時間」が大いに関与する。例えば誰かからプレゼントをもらってその瞬間に返礼をしたら,角が立つ。それだと先方は「贈与」するつもりだったのに,「交換」になってしまうからだ。「交換」されたら,その場で人格的な関係は終わる。貸し借りがなくなるから。先方は人間的な関係を築こうとしてプレゼントを贈ったのに,善意を帳消しにされてしまったら,それは不愉快だろう。

プレゼントをもらったときは,その場はありがたく頂戴しておいて,その「ありがたいと思う気持ち」を記憶しておき,しばらくたって別の機会に,その気持ちを込めつつプレゼントを返す,というのが正しい(レヴィ=ストロースの言う「限定交換」の場合)。あるいは,もらった人とは違う人に,何かあげるのもよい(「一般交換」の場合)。『ペイ・フォワード』という映画をご存じだろうか。あんな感じである。すると,受け取った善意が順送りされていって,世界を遍く覆うということになる。マルセル・モースの『贈与論』の世界である。

このシステムのポイントは,「時間を-与える」(デリダ)ということである。すなわち,いまあげたプレゼントの返礼が,いま返って来なくてもよい,という構えが,全員に必要である。

いずれ返ってくることを(見返りを)期待していていいから,しかし,いまその債権を取り立てることのないように,という,一種の余裕の構えである。

▼こういう余裕は,「等価交換」のみの世界の住人には,もてないだろう。私はそういう人たちばかりの世界では,生きたくない。

いま苦労したことが,後々になって生きてくることは多々ある。それを信じることができない若者にも問題はあるかもしれない。が,未来を信じることができないような,グチャグチャでドロドロで絶望的な現実を産み出した大人たちにも責任があるはずだ。

で,オイラはどっちに入るのかな?(笑) どっちであれ,私は未来は変えられると信じて仕事をするだけだ。

研究

Posted by 中野昌宏