ヴァレラ会議

2018年7月9日

sorbonne4ずいぶん前のネタですみません。こちらはバカンス中のためネタがないのです。

6月18~20日にソルボンヌで開かれた,フランシスコ・ヴァレラの追悼会議に顔を出してきました。

内容的には,ヴァレラに近しい人たちがそれぞれ報告をするというスタイルでしたが,それなりに面白かったです。あまりに長いので疲れてしまったんですけど。300人近い参加者のうち,日本からの参加はわずか3名。だいたい半分がフランス人でした。もちろん会議自体は全部英語です。そのへんのフランス人とも英語で話したりして,何か妙でした。

個人的には,ヴァレラの人と思想を追ったドキュメンタリー映画「monte grande」がよかったです。何といっても本人が出てるしね。

疑問なのは,欧米でヴァレラに関心をもつ人,こういう会議に参加する人というのは,なぜか「仏教に関心がある」という人が多いのです。仏教といっても禅宗系,というか自力本願のやつ。ヴァレラ自身もチベットに行ったりして,瞑想中の坊さんの脳波を測ってる絵が映画にも出てきます。

こちらが日本人だとわかると彼らは身を乗り出してくるんですけど,しかし,私のように葬式仏教を奉ずる多くの日本人にとっては,これはオリエンタリズムとしか思えないわけです。だいたい日本で最もメジャーなのは他力本願の浄土真宗であって,言い換えると「悟りの宗教」ではなく「救いの宗教」の方でしょう。悟れる人というのはごく一部の人々にすぎない。阿弥陀仏のパワーは無限大なので,どうしようもない凡夫も救ってくれるという話になっているはずです。じゃないと私も困りますし(笑)。

だから,修行中の人間の状態というきわめて特殊な状態を科学的に特定することに,いかほどの意味があるのか,というのが私の疑問です。それはたしかに尋常じゃない状態なのでしょうが,生命現象として普遍的に起こっている状態とは明らかに違うわけじゃないですか。むしろ後者の方を解明しようというのが,生命理論の本来進むべき道ではないのでしょうか。

どうなんでしょうね。まあそれはそれで意義あることなのかなあ。わかんないです。修行(というか解脱というか)ということの本来の意味も,実は特殊な状態にトランスするっていうことじゃないんだろうと思いますし。