第9条の起源

という小見出しがついた、高柳賢三先生(1957年内閣憲法調査会会長)の一節を、2019年の憲法記念日に際してご紹介します。最後の段落だけでもよかったのですが、その前段にもいろいろと資料への言及がありますので、そこも含めて味わってください。〔 〕内は私の補足です。

 先に一言したように、貴族院でわたくしが新憲法の政府案の第9条を初めて読んだときは、これは連合国の日本非武装化政策をより永久化するためのものであろうと素朴的に想像していたが、この想像は全くまとはずれのものであったことが判明した。
(1)米本国政府は日本の降伏前から、日本民主化のため、明治憲法にどのような改正が必要化について具体的に研究していて、その成果はSWNCC 228(国務・陸・海・調整委員会228号)という文書となった。そしてこの文書は、参考のため総司令部に送られていたことは、先に述べた通りであるが、この文書中には、第9条に該当するようなものは全然ふくまれていない。むしろ軍隊の存在を前提とし、ただ英米流の文民統制(シビリアン・コントロール)の原則を確立することを目標としていたのであった。従って、第9条は米本国政府に発するものでないことは明らかである。第9条の発祥地は華府〔ワシントン〕でなく、東京である。
(2)戦争放棄に関する規定を新憲法に入れるという方針は、1946年1月24日マ元帥と幣原首相との会談に起因するものといえる。1月24日のこの会見は、わが国では、幣原首相が肺炎治療のため、マ元帥から贈られたペニシリンのお礼のためであったと伝えられているが、マ元帥によれば、幣原首相は、憲法に関してこの日の会見を求めてきたのである。この会談には通訳もなかったし、またマ元帥の側近ホイトニー准将も立会ってはいないので、2人きりの会談であった。そうして、この会見直後、マ元帥がホイトニー准将に語ったとされることがホイトニー著 “マッカーサー”〔1955。『日本におけるマッカーサー――彼はわれわれに何を残したか』毎日新聞社外信部訳、毎日新聞社、1957〕のうちにやや詳細に書かれている。また、マ元帥のわたくしへの手紙〔1958年12月15日付〕のうちで、マ元帥は “戦争放棄を新憲法に入れるという幣原の提案を聞いて、初めは吃驚した。幣原はわたくしが職業軍人であるので、その提案がどう受取られるか気づかっているようであったが、わたくしがこれに承認を与えると幣原は安心した顔付きになったのが極めて印象的だった” といっている〔この記述はホイットニー『マッカーサー』や、それを借用しているマッカーサー『回想録』とも共通〕。また元帥は米国上院での証言中、感激し立上がって幣原氏にだきついたといっているが、幣原もマ元帥がだきついてきたので吃驚したと、その無二の親友大平駒槌氏に語ったことが、大平氏の息女のとったメモのうちに記録されており、この点は一致している。とにかくこの会談で、戦争放棄のことを新憲法のうちに入れる方針がきめられたことはたしかである。2月初旬、総司令部民政部に対し、モデル草案の起草を命ずるに際し、マ元帥は、起草方針として3原則を示したが(マッカーサー・ノート、マッカーサー3原則)、その第2項に第9条の原型となった戦争放棄の原則がかかげられている。この3原則を渡された際、主な起草委員の一人であったラウエルは、ホイトニーからこの第2項は、“日本政府の提案である” といわれたが、“幣原” の提案とはいわれなかったと陳述している。この第2項はホイトニーによれば、マ元帥と幣原首相の会談の内容を、マ元帥が書いた “ラフ・ドラフト” であった。そしてここに注意すべき点は、この第2項には “自国の安全を保存するためにも” という字句が見いだされることである。なぜかかる字句が入ったのかといえば、幣原首相との会談中 “自衛戦争の名の下に侵略戦争が行なわれた” というようなことを幣原首相がマ元帥に語ったことが、影響したのではないかと推測される。民政部の法律家〔ケーディスと判明している〕がこの第2項を条文の形に直すときに、この字句は除去された。これは、自衛のためにも戦争ができないというのは、いかにも非合理であると考えられたからである。かくして日本政府に渡されたモデル案には “自己の安全を保存するためにも” の字句はなくなっていた。3月6日、日本政府案要綱が公表された後、また政府案の発表された4月17日前の4月5日に、マ元帥は対日理事会の第1回総会に出席して各国代表にたいし演説した。その演説で、マ元帥は占領政策の実施についてのかれの心構えといったものを語っているのだが、その際に右要綱中の戦争放棄条項にふれ、この日本政府の提案は、各国において十分検討に値するものである。なぜなら戦争放棄は “普遍的かつ同時的” でなければならないからという趣旨のことを述べている。つまり日本政府のこの提案は、日本だけで実現できるものではなく、各国ともこの提案に従うことによって、初めて実現しうるものであることを彼は説いているのである。
 第9条の発祥地が東京であり、1月24日のマッカーサー・幣原会談に起因する点は疑われていないが、その提案者が幣原かマッカーサーかについて、日本でもアメリカでも疑問とされていた。調査会における大多数の参考人は、幣原ではなかろうマ元帥だろうと陳述したが、青木得三、長谷部忠など少数の参考人は幣原だと陳述した。そこで念のため、わたくしからマ元帥にこの点をたしかめたが、マ元帥は、従来の言明どおり、幣原だとハッキリと述べ、かつ右に述べたようなそのときの情況をつけ加えた。しからば、幣原はどうかというと、1946年4月以降多くの内外人に向ってしばしば、あれは自分の提案だという趣旨を語っているので、この点についてマ元帥の陳述を裏書していることになる。またこれより先、同年2月初旬に、モデル案の起草を命ぜられた際に、ホイトニーがラウエルに “日本政府の提案” といったというラウエルの陳述、その他の証拠も、その傍証となっている。ところが、幣原首相に近かった多くの人達は、当時幣原がそんなことはおくびにも出さなかったことと、2月22日の閣議で第9条の提案者がマ元帥であるかのごとき発言をしていたので、提案者は幣原ではないと推測したのも無理からぬところである。しかし調査会の集めえたすべての証拠を総合的に熟視してみて、わたくしは幣原首相の提案と見るのが正しいのではないかという結論に達している。じかに幣原氏から自分の提案だと聞いた調査会の参考人長谷部忠氏は、閣僚諸氏は幣原さんにごまかされていたのだったという趣旨のことを述べているが、この長谷部氏の陳述は、当時の事情を背景として考えると、的外れの推定ではないようにわたくしには思われる。

(高柳賢三『天皇・憲法第九条』有紀書房、1963、74–77)

 

多少解説します。

第1条と第9条はバーター(取引)なんだよと言われているのですが、それを裏づける資料があるかと言われると、一つの資料でというのは難しいのですが、いちばん説得力のあるのはやはり「平野文書」かなと思います。これがいちばん深く合理的・理論的な説明を与えてくれます。むしろこれ以外に、なぜこうでなければならなかったのかという「理屈」が書いてあるものがないです。

アメリカが日本政府に憲法改正を急がせた理由は、1946.02.26に発足予定だった極東委員会に関連する国際情勢です。天皇の戦争責任を追及し、かつ天皇制システムそのものを危険視する国が多かったためです(オーストラリア、ニュージーランド、ソ連など)。天皇が最高責任者なのですから、その戦争責任を追及するのがまぁ当然でもあり、アメリカ本国でもその世論のほうが強い。つまりこのままほっとくと天皇制の存続がヤバいという情勢でした。

アメリカは、実質的に自分たちが占領統治するわけですよね。そこでコストをかけたくないわけです。天皇を除いて全国に軍政を敷くのはたいへん。しかし、天皇を残して間接統治すれば比較的ラク。何しろ日本人は天皇の言うことなら何でも聞くんですから……。そういう計算が実は前々からなされていました。つまり、天皇制存置はアメリカの既定路線。問題は「そんなアホな」と言うであろう極東委員会をどうやったら説得できるか、ですが……。

1946.01.24 幣原・マッカーサー会談(人呼んで「ペニシリン会談」)
1946.01.25 マッカーサー、天皇の戦犯除外につきアイゼンハワーに書簡
1946.02.01 毎日新聞による日本政府案スクープ(暴露)
1946.02.03 マッカーサー・ノート(1. 天皇存置 2. 戦争放棄 3. 封建制廃止)
1946.02.04〜12 GHQ案作成作業
1946.02.13 いわゆる「押しつけ」の儀(於・吉田外相邸)
1946.02.21 再び幣原・マッカーサー会談
1946.02.22 会談内容につき閣議報告(→芦田均日記に記録)。受け入れ方針決定。天皇に上奏

このタイムラインの中で、いったい何が起こったのか、自分だったらどう考えて何を提案するか。ここでお示しした資料を全て眺めつつ、皆さんもぜひ想像・推理してみてください。

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