「L型大学」に学問は要らないか

2021年1月27日

例によって文科省界隈からトンデモコメントが出てきて、みんなでのけぞっています。楽しい毎日です。

「L(ローカル)型大学」というのは、「G(グローバル)型大学」と対をなす新造語です。これを提唱しているのは冨山和彦という方のようですが、この方は経営コンサルタントをやっていらっしゃるのでしょうか。おそらく悪意はなく、単純に安価で良質な労働力がほしい人なのでしょう、教養市民層はいろいろ知恵がついていて扱いにくいですからね。今回の提言は要するに「L型大学は今後職業訓練校になるべき」との提言となっています。

この、「L型大学に学問は要らない」という明快なメッセージに対して、いろいろ思うところはあるのですが、私自身の経験から言うと、大学は「何かを教えてくれる場所」ではなくて、「自分が何かを学ぶ環境」でした。学生にとって授業は「おっさんがしゃべりたいことをしゃべっている時間」であって、自分の勉強時間ではない。自分の勉強時間とは、自分が知りたいことについておっさんに質問したり、帰ってから、授業で聞いた話(刺激)を受けて、図書館や自宅で自分で文献にあたったりする時間のことです。ここを大半の学生さんが間違えていることは事実です。

しかも「自分が学び得たこと」を実生活に活かせるかどうかは、その個人の責任であって、大学は関係ないですよね。むしろ学生がどういう了見で大枚はたいて大学なんぞに来るのかという姿勢の問題であって。

「学問」がそういうものだとすれば、それは「生きる力」そのものなのですから、それを必要としない人が世の中に1人でもいるのかという話です。まああまりグダグダ言いたくないので、2001年(13年前ですねぇ)に前任校で書いた文章を全文転載します。私のこの考えは今も大きくは変わりません。

人文分野 *コアI:「人と思想」

「思想なんか勉強して,何の役に立つんだ?」という人がいます。たとえば,そう,そこのあなたです。

そういう無粋でカチンとくる質問に対して,とある昔のエライ人は,「生まれたばかりの赤ん坊が,何の役に立つか知っていますか?」とやり返した(それによって,「役に立つ」ことがすべてではない,と言おうとした)そうです。が,私自身はちょっと違った考えをもっています。それはつまり,「思想」はわれわれの生活の中で,むしろ日々実際にすでに「役立っ」ている,という考えです。

そもそも,いったい人は百パーセント理由なく行動するということができるでしょうか。ドラマや小説などによくでてくる犯罪捜査ではおなじみですが,どんな不可解な行動の背後にも少しは理由や動機というものがあるもので(「泥棒にも三分の理」──ちょっと違うか),結局は「こうしよう」とか「こうしたい」とか思うことで人は行動を起こしているのではないでしょうか。逆に言えば,私たちが何の気なしにしている些細な行為の一つ一つにも,何らかの意味が必ずあるということです。

一方,自らの行動の意味について何も考えず,自覚しないまま生きていくこと,これはもちろん可能です。でも別の面から見ると,私たちはどんな行動をとってもよいはずですが,おそらく最低限,自分の行動に責任をもつべきではあるでしょう。自分は何をしたいのか,自分がこのように行動するとどういう効果がもたらされるのか,まるきり何も考えないでしたい放題に行動するとしたら,まあ「無責任」となじられても仕方ないですよね。思想をもつというと,何か大変なことのように聞こえるかもしれませんが,まずは要するに反省すること,思考すること,無思慮でないこと,そういうことが第一義ではないかと思います。英語では“philosophy”と言いますが,それは何も「哲学」といったような大層なものではなく,「しっかりした考え」とか「行動指針」,あるいは「ポリシー」のようなものに近いです。こうしたものは実は,責任倫理の一部として,あまり自覚されていないながらも,むしろやはり現実に日々すでに「役に立っ」ているものなのです。そういうものについて,眉間にしわを寄せて日がな一日考え抜く必要はないにしても,たまには少しばかり腰を据えて考えてみたところで,いっこうバチは当たらないのではないでしょうか?

この分野の講義を受講するみなさんは,昔のいろいろな人の思想をちょっとばかり勉強することになるでしょう。考えるということは,たとえばモグラが土を掘ることに似ていると思います。最初に土の中を掘り進んでいくのはたいへんですが,一度掘ったトンネルは二度目からは走って通れます。ラクですね。トンネルの進路を変えたければ,必要な場所から修正すればよい。無から掘るならたいへんであるばかりか,とんでもなく間違った方向に掘り進めてしまうこともありえます。ですからみなさんは,誰かがすでに掘ったトンネルを,誰かがすでに考えた道筋を,まずは借りてみるのがよいというわけです。

ただし,なにも他人の考えについての知識自体が直接何かの「役に立つ」わけはありません。結果的にそういうこともありえますが,あらかじめそれを期待しないでください。あくまでもその勉強を通じて自分が自分の思想を「編み出し」,そして自分の生活に「役立てる」ということが大切です。くれぐれも,苦労して勉強した成果を本当に「役に立たない」ものにはしないでください! そうなったとしたら,それはあなたの責任ですよ。