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「風評被害」という詭弁

3.11東日本大震災からはや半年が経とうとしている。この間,レポートの採点に手間取ったことや,家族の事情などがあり,このブログもずいぶんご無沙汰になってしまった。

地震と津波もさることながら,福島第一原発の事故はチェルノブイリを超える世界史上最大の災害となってしまった。自然災害としての地震と津波があまりに大きかったので,原発事故も「想定外」である,しかたがなかったと言う人々もいるが,各方面から指摘のあるように人災の側面も大きい。私は事故そのものよりも,東京電力や政府の事故後の対処こそが,世界史上最悪のものだと思っている。

本当ならば福島での直接の事故処理と同時に,SPEEDIのデータを速やかに活用し,何がどれくらい危険なのかを見定め国民に開示し,可能な方策をテキパキととるのが当然だ。ところが菅政権は,国民に正しい情報を伝えるどころか,メルトダウンはしていないだとか,福島には20年は住めないと言った審議官を更迭するとか,子どもでも年間20mSv(ミリシーベルト)までの被曝なら大丈夫だとか,とにかく被害を過小評価することに躍起になってきた。国民がパニックになるのを恐れたというが,支配層のこういう挙動を「エリート・パニック」と呼ぶ。エリートの方こそがむしろパニックに陥っている状態,ということだ。

「情報化社会」という言葉すら陳腐に響く21世紀に,国民に被害の実情を隠し通すというようなことができるのか,と思ってしまうが,実際どうだろう。政府が急に持ち出した「暫定基準値」は,世界中が驚くような高水準で,われわれの飲み水よりも原発の排水の規制値の方が厳しいというありさまだ。食品に含まれるであろう放射性セシウムについては500Bq(ベクレル)/kgまでが許容されることになるが,この値はチェルノブイリを経験したベラルーシ(37Bq/kg)の10数倍,世界で最も厳しいドイツの乳幼児基準(4Bq/kg)の実に125倍である。こんな値を設定したということは,それ自体ひどいことなのであるが,もっとひどいことは,それくらい汚染された農作物がけっこう出るだろうと政府が考えたうえで,それを国民に隠してしれっと流通させようと考えたということである。この国民の棄て方は,ほとんど北朝鮮に等しい。

原子力災害によって被害が出た場合には,「原子力事業者」が補償をすべしと法律には定められている。すなわち,今回の補償の主体は東京電力である。作物が汚染され,売れなくなったという生産者にも,東京電力が速やかに全面的に補償すべきである。にもかかわらず,消費者が汚染作物を購入しないことを,「風評被害」と言い募り,善良な消費者をデマに惑わされた者,被災地の苦悩に思いをいたさない冷血漢,つまりは悪者に仕立てようとしている。が,このようなレトリックには絶対に騙されてはいけない。

▶さてこのエントリーの言いたいことは,タイトルのとおり,「風評被害」という表現は,典型的な詭弁であるということである。

「風評被害」という語の本義は,「本当はそうではないのに,事実無根の噂で」被害を受ける/及ぼすことだろう。「風評」かどうかは,未来において結論が出て――健康被害が顕在化するとか,逆に取り越し苦労だったことが判明するなど結果が出て――はじめて言えることなのに,「風評被害」を言う人は,その検証もなく「とにかく安全だ」という断定を前提としている。これを伝統的論理学では「petitio principii」(訳:「先決問題要求の虚偽」とか「論点先取の虚偽」)という。

自分が正しいと前提しておいて,自分が言うんだから正しい,という類の詭弁である。こんなの詭弁というまでもなく誰も信じるようなものではない。どこでだったら自衛隊が活動してよいのか,を聞かれているのに「自衛隊が活動しているところが,非戦闘地域である」と言い放った某も,当時問題になった。これは循環論法になってしまうのだ。非戦闘地域でのみ活動できるのが自衛隊なのだから。

データが存在しないということを正確に言い直せば,それは「危険か,危険でないか,わからない」ということである。「危険かどうかわからないもの」とは「危険である可能性のあるもの」「安全が確認されていないもの」のことであり,それを人々が避けるのは,誰が何と言おうと,自然なこと,根拠のあることである。それはけっして「風評」などではなく,通常の「リスク管理」ということでしかない。

▶「差別」も同様だ。たとえば福島県から来た人や,福島県の生産物を「根拠がないのに」忌避するなどの行為が差別にあたるだろう。しかし人々が避けたいのは福島県民や福島県産品ではなく,放射性物質である。福島県から来た人の服や車に放射性物質がついている可能性は高い。ついていない可能性もあるがそんなことは見ただけではわからない。調べないとわからない。だからその人が福島県のほうから来たという事実をもって,人はどうするかを判断せざるをえない。

つまりは,調べてもいないのに「本当は大丈夫」という前提をすべりこませているから,それが「差別」とラベリングされるのである。

調べていないのに安全だとわかるようなら誰も苦労はしない。危険を回避するためには,あるいはリスクを計算するためには,何事もまずは調べることが先決である。調べても数値を出してもいないのに「風評被害だ」「差別だ」という人やメディアは,意図しているか否かにかかわらず,政治的発言をしているのだ。

少なくとも3.11以降今日に至るまで,「風評被害」「差別」という言葉には真実がない。それは善意の意匠をまとった醜悪なレトリックにすぎない。「地獄への道は善意で舗装されている」。騙されてこの言葉を口にする人を別として,こんな言葉を発する者を信用する必要はないだろう。その意味でこの言葉はよいリトマス試験紙となる。

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