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シンポジウム報告

この2ヶ月というもの,何話せばいいのかえらく悩んでいたのだが,やっと肩の荷が下りた。文学系の場なので,完全に「アウェイ」な闘い(?)である。会場は,ウィークデーということでちょっと不安な面もあったが,意外にもかなりの盛況。

私は,結果的に「近代」の合理化(「数学化」とか「マクドナルド化」とか)という話を,それってラカン的に言うと「疎外」と「分離」なので,ある程度必然なのよ,という話をさせていただいた。「何でもかんでも経済に取り込まれていって,グローバル化が進んでいくのであるけれど,単純にこれに対抗する道はないでしょうよ。何とか超えられればいいけどけっこうひねった戦略が必要でしょうね」とかいうストーリーで。

村山敏勝さんはジュディス・バトラーの話ということで,当初は話がかみ合うのかとの不安があったが,発表が終わってみれば大きな共通項が見つかる。「予め失われたもの」というのは,「内部」に対する「外部」ということなのね。


▼これについて私の文脈で言えば,経済的なものがますます支配的になるこの世界において,「経済の外部」「経済的でないもの」がこれにあたるだろう。経済システムに載るものと,載らないものがある。こう考えるならば,経済システムの「内部」と「外部」があるということになる。

しかし,「外部」というのはいつもつかみどころのないものである。だってつかめたときにはそれはもう「内部」に取り込まれているのだから。芸術作品には値段はつけられないとよく言うけれど,オークションにかければ値段くらいすぐついてしまう。そうなるとその芸術作品はもはや「商品」として経済の内部に取り込まれる。

お金に「正しさ」はあるのかホリエモンは「カネで買えないものはない」と言い切って注目を浴びたけれども,これに対して「カネで買えないものもある」と言えるのかどうか。言えたとして,では「カネで買えないもの」とは何なのか。何かあるだろ,と誰もが感じていると思うが,「じゃあ何なんだ,言ってみろ!」と言われたら,口ごもる以外にない。「とにかく,何かあるんだよ!」(逆ギレ)みたいな(これは,仲正昌樹さんの『お金に「正しさ」はあるのか』(ちくま新書)のテーマにほかならない。それでいいと思うかどうかはともかく)。

この「外部」というのは,ラカン的には「現実界」とか「もの」とかに関係がある。ルーマン的に言うと,「全体システムの環境」みたいなものか。どちらにしても,それは目に見え手でさわれる具体的なものではない。現象的には,つねにすでに「潜在的」な何かということになる。

これが失われているということは,人間という存在は必然的に「構造的なメランコリー」に耐えなければならない,ということを意味する。フロイトによれば,「喪」と「メランコリー」はほぼ同じ構造をもつけれども,喪と違って,メランコリーでは「何が失われたのか」がはっきりしない。それをバトラーあたりは「予め失われたもの」と表現している(らしい)。特に何が喪われたというわけでなく,しかし何らかの喪われたものがとにかく必ずあるのである。

だから,「経済以外のもの」も潜在的にある。という意味で,「何か違うぞ」と思いつつも「きれいごとだけでは食えない」がゆえにカネ儲けに邁進する日々,というわれわれの境遇は,元気一杯のように見えてさえ構造的メランコリー状態以外の何ものでもないのである。加藤敏さんの発表の中でもこの構造が指摘されていた。ということで,加藤さん・私・村山さんの3人がそれぞれ別分野から出てきて,結論で皆同じ方向を向いてしまったという。

私は,「カネで買えないものもある」と言うべき立場にある。経済にあらゆる価値が一元化することは,人間の生は象徴活動に一元化されるということである。しかし,実感からしても,ラカンの理論からしても,そういうことがよいことだとは思わないし,そうできるとすら思わない。象徴界は現実界を背後にもたなければならないし,そのあいだには想像界が入らないと,象徴システム自体が回っていかない。経済には「経済以外のもの」が必ずなければならないし,人々は現象的にそれが欠けていることの哀しみにある程度耐える必要がある。

でも,ここからもうちょっと違う出口はないのかどうか,探すことは無駄ではないと私は思っている。どうやるつもりかはまた今度。

▼もう一つおまけ。中原中也とメルロ=ポンティがつながるんちゃうかという報告があった。報告者曰く「思いつきなんですが」。中原は「言葉以前のもの」を「言葉にする」というところに詩的創作の本質をみていたという。だとすると,しかしそれは現象学の根本問題なんだからメルポンとつながるのはむしろ当たり前ちゃうんかなと思ったが。しかも「言葉以前のもの」に一定の存在資格を与えるというのも,ベルクソンの信奉者である中原としてはむべなるかなと思う。

そういえば,「道端に咲いているスミレの花をみて,『お,スミレだな』と思ってしまうと,人はもうその花自体をよく見ない。『スミレ』という名辞に惑わされずにその花自体を見ることが大事だ」というような趣旨のことを言っていたのは小林秀雄ではなかったっけ。で小林秀雄と中原中也とは愛憎相半ばする僚友/恋敵であったから,このへんの考え方が部分的に似ていても不思議はないのだが。ともかくこの定式化はとても現象学のそれに酷似している。「事象そのものへ!」と言ったフッサールもさることながら,メルロ=ポンティは,「語られた言葉」としての「スミレ」の方で世界を切り分ける「客観主義的誤謬」を峻拒したのであったと記憶する(『知覚の現象学 12』)。

まあ,そこで発表ではマラルメも同趣のことを言っているとして出てくる。残念ながらマラルメについては私には何の知識もないが,質問者の指摘では,マラルメの流儀としては「言葉以前のもの」も「言葉にする」ことで初めて表出する,つまり「言葉にし」て初めて,「言葉以前のもの」が表現できる,というように逆にポジティブに解釈すべきではないか,というのだった。これはこれでなかなか面白い指摘である。ただ,これも結局は言語哲学(昔は記号論とか言ったなあ)の古くからある問題の一つで,そういう逆の言い方もまた真実なわけだから,またしても当たり前といえば当たり前ではある。

言語以外のもの(指示対象)を言語(シニフィアン)で置き換えるのは,ほかならぬ「疎外」である。名指されたものを置き去りにして,シニフィアンは流通を始めるのだから。シニフィアンが完全に一人で回るようになるならば,それはもう「分離」だろう。このへんのことをイメージでも何でもいいからトータルに理解していれば,上記のように堂々巡りみたいな議論は省略可能ではないかと思ってしまった次第である。

▼結論。まあ,皆さんに「面白かった」と言ってもらえたので,よしとしよう。しかし今度の機会には,終了予定時刻を1時間もオーバーしないでくれー。すいません山田広昭先生(注・山田先生は,16~7年前,「初級フランス語(後期)」を落としていた私に「中級フランス語」の単位を授けてくださった恩師である)。

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