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ミクシィとかウィキペディアとか

最近ひょんなことでミクシィ(mixi)に招待されたので,入会して遊んでいる。ミクシィとは,「ソーシャル・ネットワーキングサイト」を謳う,ネット上の交流サイトである。ネット上といっても自由に参加できるのではなく,招待された人しか入会できないクローズドなサービスである。怪しく言えば「秘密クラブ」的なものと言えるかもしれない。この怪しさがちょっとワクワク感を醸しだすというか。

入会した人は,まず自分のプロフィールを作って,自分をアピールする。そしてミクシィ内に「リアルな」友人知己がいれば,これを「マイミクシィ(マイミク)」(つまりは友人リストみたいなもの)に追加することができる。同時に相手側のリストにも自分が追加されるので,当然相手側の承認が必要だ。このマイミク友人空間を拡げていくことによって,「友人の友人」を「友人」にしていくことが可能である。劇的ではないが,ちょっとずつネット知己を増やしていけるというわけである。

毎日学校や会社で顔を合わせている相手とマイミクして楽しいんかというツッコミはアリだろうが,私のように日本全国に散り散りになっている研究仲間と,例えば昨日身近に起こった面白い話やくだらない話ができるのは,ちょっとはうれしいことである。

▼ネット上(メールや掲示板等)で議論が白熱しすぎて揉めることはよくあることである。特にそういうMLや板の管理者経験のある方にはわかると思うが,そういう場合にはたいてい「オフ会」をすることによってフレームは終息するのである。顔が見えない相手だからこそ距離感がつかみにくく,ついついメール口調が強くなってしまうということはありそうなことである。他方ミクシィというのは,最初から「リアルな」,つまり顔のわかっている人間が徹頭徹尾相手なので,安心感が大きい。だだっぴろい何もないネット空間よりは,ミクシィのしつらえた小振りな箱庭でままごとみたいなことをするほうが明らかに楽しいのである。

また,「足あと」というのが面白い。通常のタイプのホームページを出している人は,アクセスカウンタやアクセス解析を使って,自分のサイトのどのページが人気があるのかないのか調べている人も多いだろう。しかし,自分のサイトを訪ねてきた人の情報は,形式的なこと以外はよくわからないものである。ミクシィでは,自分のプロフィールページへ来たお客さんの「足あと」が残るようになっていて,今度はこちらからそのお客さんのプロフィールのページ(もちろん必ずあるわけだ)に直接飛ぶことができる。知らない人が自分のプロフィールを読んでいる。この人はどんな人だろう? というのでその人のプロフィールが見られるという。

その他,「日記」というのがあって,日々の出来事などを簡単なブログのように書いていけるようになっている。また人の日記にもコメントを書き込めるようになっているので,そこでコンタクトが生まれることもある。さらに,「コミュニティ」というのもあって,これは趣味や学問などでの「同好の士」が集まって議論する場所(掲示板)のことである。そこで議論に参加したり,面白い発言をしている人のプロフィールを見たり……などというように遊ぶ。

▼さぁ,これでどれぐらい遊べるのかなと,興味本位でやってみているのだが,私の場合そのあたりにいた知人を10人ほどマイミク登録したら,そこからぱったり世界が広がらなくなってしまった。コミュニティ経由で来たりする人もいたが,そもそも知らない人だし,一見(いちげん)さんとして私の人生を通りすがっていくようである。こちらも「足あと」をけっこう頻繁にチェックしていて,誰か面白そうなやつは来ないかと,網を張っているクモ状態なのである。まあそんなものであろう。それでいいのだ。

しかし,「営業」と見られる人が中に混じっているのがよくわからない。たいていプロフィール写真がセクシー風味な女性の写真で,日記は外部ブログへのリンクになっていて,飛んでみると「ここのサイト(リンクあり)でエッチしちゃった!」とか書いてあるのだ。はたして,出会い系サイトの宣伝以外の何ものでもないのだ。まったくもってげんなりである。サイコロを振って出た目だけもどる。しかも1回休み。

こういう輩にもいっちょまえに友だちがつながっている。こいつらもみんな出会い系の回し者なのかどうかを調べることは(やる気がないと)できない。もしダミーの友人を多数用意しているのなら,これはスパムを送るなどよりはるかに手間暇のかかる営業戦略であることは明らかで,まったくご苦労さまと言いたくなるわけだが,大量にリンクを撒けば数%でも引っかかってくるのであろう。

▼かたやウィキペディア。実は私も最近初めて,とある項目のフランス語版を日本語に直して投稿してみたら,あっと言う間に「削除依頼」に出されてしまった。投稿時に「仏語版からの翻訳」云々というひとことを添えなかったためである。添えなければならないという規則を知らなかったのである。あとで書き足したのだが時すでに遅しであった。彼らは「履歴」をとても大切にするのだ。

「厳格すぎ!」と思いもしたが,つねにいろんなトラブルがありうるので,まあしょうがないかもしれない。先日などもアメリカでは「名誉棄損問題」なども起こっている。こうしたトラブルはウィキペディアの体制上避けがたいものであるように思われる。

ではウィキペディアのどこに本質的な問題があるのか。

一つには,「合意だけから正解に至ることができるかどうか」という原理的な問題がある。ハーバーマス的「真理の合意説」みたいな話である。これは実際問題としてなかなか難しいのだろうと思う。勢力的に拮抗する二派に分かれていれば,結論は両極に向かって振動するだろう。

また,フリーとは言えば聞こえはよいものの,その実「誰も責任をとる人間がいない」ということが第二の重大問題であろう。ウィキペディア自体はサービスプロバイダにすぎない。プロバイダはコンテンツに対する責任を負わないというのが標準的解釈だ。管理者(ボランティア)は管理するだけなので内容を精査するに荷が重い。では執筆者が責任を負うべきだろうか。しかしフリーと銘打っていながら執筆者を特定するようでは本末転倒だ。確かに書かれたものの著作権を開放する(GFDLというようだ。GPLの文章版というとわかりやすいか)という高邁な理想は理解できるが,クレームがあったときに責任を引き受けられないということでは困る。

▼やはり見解の違う多くの人が寄ってたかって書くよりは,どういった立場であれ(多少偏っていても)一人の専門家が一貫して書いた方が,信頼できる記事にはなるであろう。そして一人の人が一つの記事にやはり責任をもつことにし,ピアレヴュー(これがフリーの強み)だけ寄ってたかってやるのが理想ではないだろうか。

歴史認識関連のページなどはつねにひどい怒号が飛び交っているし,私にとって気になる「ジャック・ラカン」の項目なども,ぜひ実際に参照してみてほしいが,かなり偏った執筆者の意向がにじみ出ていて,こんなのにまともに論争を挑もうという気にはなかなかなれない。フリーであるはずが,「こういう空気の中には入っていけない」というバリアを強く感じさせるのである。

というよりもむしろ, ウィキペディアの人はフリーの百科事典を作ろう!と突然思いついたのではなくて,実は Wiki というシステムが先にあったからこそ,ハイパー辞書みたいなものを作りたくなってしまったのではないだろうか(憶測)。単純に,HTMLよりもはるかに簡単にハイパーテキストが作れてちょっと楽しい――実際に記事を書いてみて,そう感じたことは事実である。

いずれにしても,ウィキペディアに限らず,所詮ネットで見つけたものは「手がかり」にすぎない。それを活用できるかどうかは自分次第,結局自分でウラを取る作業は欠かせない。といつも学生に言っている。これは至極あたりまえの結論ではある。

▼というわけで,この2つのコミュニティの対比は,私には逆説的なものだった。かたやネット上にあえて狭い世界を囲い込み・箱庭化することで,リアルよりも「一回りだけ」大きい世界を作り出したミクシィは,まあまあ楽しめる空間である。他方,あらゆるバリアを取り除く=フリーを身上とするウィキペディアは,ある程度闘うエネルギーのある人しか入り込めないし,結局のところ無責任体制が帰結しており,肝心の記事のクオリティを確保できないでいる。

閉じることによって開かれ,開こうとすることが閉じてしまう逆説。えーと,何だかどっかで聞いた話であることだ。

著作権については思うところもあるので,また今度書こうと思う。

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