Rss Feed Tweeter button Facebook button

内田先生への手紙――時間論としてのアナグラム論

先日内田樹先生のブログにコメントを書き込んだら,本文に私めへのご返答が載っているのを発見した。ご自分が「サイン・イン」できなかったからとのことだが,コメント欄より目立ってちょっとうれしい。TypeKeyさまさまである。

……誰だ「そんなに目立ちたいのか」とか言っている輩は。研究者というものは,自分の議論を目立たせる必要があるのだぞ。そのうえで,中身がなければないで皆さんそっとしておいてくださるのである。とにかく目立たなければ食いついてもいただけないのである。

ちなみに内田先生,ユーザ名とパスワードのうち,むしろユーザ名の方を間違っている可能性もありますよ。私もそれで3日間悩んだことがありました。今は解決していますが。

さて,私としては内田先生がアナグラム論――ソシュール晩年の,あの誰も相手にしない議論――へのご関心を吐露された際,「禿しく同意」の意を表すためにコメントしたのであった。これについて私見を述べることによってお応えしたいと思うが,如何せん「禿しく同意」の脈絡はまだ続いているようである。が,「禿しく同意」というコメントだけではつまらない。長めに書くのでトラックバックとさせていただこうと思う。

~~~~~

内田樹先生,

前略 コメントへのコメント,ありがとうございました。そうです,Y田先生の同僚です。というかむしろ,実はY田先生のおかげで就職できたという経緯がありますので,「同僚」というより「心の舎弟」と言うべきです。

ええまあ,そんな個人的なことはどうでもよいのです。

そんなことより,先生のおっしゃる時間論としてのアナグラム論ですが,私も大いに賛成なのです。だけでは面白くありませんので私なりの観点をつけ加えてこの主題を手前味噌な方向に膨らませてみたいと思います。

私はジャック・ラカンの研究と称して(あっ口が滑りました)こちらに来ていますが,ラカンにおいてとても気になっているのが彼の理論と「論理」もしくは「数学」の関連です。つまりは,後期ラカンということです。このブログでも論理の話を得意気にいくつかしてはいますが,それは実は,論理が全てだと考えているからではなく,むしろ逆に論理の限界は必ずある,ではどこにあるのか,ということを突き詰めたいと常日頃考えているからです。そのためにこそ,論理や数学を勉強する必要を感じています。

おそらく,論理というものの彼岸にこそ,時間はありうるのだろうと思うのです。というのも,通常の意味での論理というものはおよそ無時間的なものの典型であるように思われるからです。A=AというのとA≠Aというのは端的に両立不可能と言われます。確かに両方が「同時に」成立するとするのは矛盾です。

しかし,「時間」というものが滑り込んでくるならば事情は異なります。まずA=Aが成立し,次にA≠Aが成立し,ということが交互に起こるのが工学に言う「振動」であります。ラカンは「スカンシオン(区切り,とかいう意味)」と言いますね。もし回路の中を電子が無限のスピードで動くなら,回路を回るのにかかる時間はゼロですから,振動は起こりえません。例えば光速であっても,有限のスピードで動いているからこそ振動は起こりえます。

そしてこういう仕掛けを使った「発振子」を使うことで,時計は「あたかもそれが空間であるかのように」時間を刻むのです。つまり発振子ないし時計という機械によってはじめて,「空間化された時間」が成立するのだと。

となれば,先生おっしゃる「空間的に表象できない」類の時間とは何か。それは時計によって刻まれる前の時間であり,まさに発振子が発振子となる原初的な局面での時間,ということになるでありましょう。

問題は,「空間的に表象できない」ような時間なるものを,どのようにして取り出せるかですね。そうするには,すでに座標空間がきれいに書かれた空間を想定することなく,まず座標空間を描くのは誰で,どうやってなのかを考えねばなりません。座標空間のないところに座標空間ができる経緯を描いてみないといけない。

こういうことを考えていくとほとんどギリシャの自然哲学みたいになってきます。生成消滅論ですね。秩序がないところに秩序ができるのはどういうわけなのか。どのようにしてなのか。これはまったく3000年来のアポリア中のアポリアです。

他方,できあがった座標空間のなかでだけものを考えているかぎりは,「時間」に関する議論は(いかにそれらしく見えても)すべて空振りだとあえて断言してみましょう。そこで言及されている「時間」なるものは,すべて空間に似た形式によって手なづけられた時間,というようなものにすぎないからです。

ラカンの場合は,「論理的時間~」という論文(あとローマ講演などでも)で囚人のジレンマを例に挙げながら,原初的な時間を取り出します。論理的に破綻した推論から,エイヤっとジャンプするという。彼の弁では本気か冗談か「集団的論理学」とか言ったりしていて,何ぶんダジャレ王の言うこと,話半分で聞くわけですが,やはり他者がいないことには時間が出てこないゼという論は正当なものだと思えます。

まあこういった話をしていると,どうにも抽象的というか,頭でっかちというか,散文的な話になりがちですよね。でも,実はそんなに具体性のない話ではないはずで,われわれは日々そういう生を生きているはずです。例えば話が暴走したときに入れるツッコミとして

「そういう問題やないやろ」(関西弁の場合)

という言い方がありますよね。これは狭い論理の枠内に凝り固まった思考を,ぶっ飛ばしてくれます。ちまちま考えていると答えの出ない問題でも,大局的に見ればおのずと答えは決まっている。そういうことは多々ありますね。ビュリダンの驢馬みたいなのがよい例ですが。私は「善性」のことはまだよくわからないのですが「禅性」のほうは(ああつまらないオヤジギャグ),やっぱりいまの議論に絡んでいると感じています。

ところで私は文学とか映画とか,そちら方面の教養がないのでどうしても理系っぽい話に持っていこうとするのですが,認知科学や脳科学そのものについては先生はどのようなご見解をお持ちなのでしょうか。先回のコメントはその点も少し気になってのことだったのです。あるいはご著書のどこかにすでにお書きになっていますでしょうか? シニフィアンたちの離合集散・順列組み合わせがなぜか意味を不断に生成するわけですが,認知科学などではコンピューターを使ってそういうことを(アナグラムなんかも)考察することがあると思います。先生はこれについてどんなふうにお考えなのでしょうか。

かくいう私は茂木健一郎さんがやっている「クオリアML」で暴れて,アインシュタインTシャツをもらった前科があります(自慢。しかしもうずいぶん前にこのMLはやめてしまいました)。それはそうと,コンピューターというツール自体の限界はさておき,やはり研究者の思想の問題で,できあがった座標空間から一歩も出ない研究が多いように思います。いえ,私としてはこの分野,何か見つけてくれるんじゃないかと期待しているだけに,現状に不満なのです。コンピューターは思考できるか,とか何とかいろいろ議論の焦点がありますが,そういう議論をフォローするにつけても,「だから,そういう問題やないやろ」とか言いたくなるのは私だけかと思いまして。

言いたいことはいろいろありますが,ダラダラ長くなるのも何なので,今回はこれくらいで失礼します。今後ともよろしくご厚誼のほどお願いいたします。

草々

~~~~~

もちろんのことだが,内田先生以外の方のコメントも大歓迎である。ぜひよろしく。

Comments are closed.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。