初ツッコミ

明けましておめでとうございます(当方喪中ですが)。

前の記事が異様に重かったので,新年のご挨拶とともに,細かくムカつくことにツッコんで,2006年のスタートをスッキリ切りたいと思う。

▼「ピアニッシモ・ペシェ・メンソール・ワン」なるタバコが発売されている。とある販売店さんのサイトをご覧あれ。

ペシェとはフランス語で「ピーチ(桃)」の意味。名前のとおり、ふんわり漂うピーチの香り。

ここでカチーン。

違うよ。違うんだよ!

どう違うか聞きたい?

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人生最悪のクリスマス――証明できない真実の歯ぎしり

こんなことがあっていいのか。悔しいやら,情けないやら……。

また詳細を順次書いてゆこうと思うが,今日は概略しか書けない。

親友のフランス人,Dが日本に3ヶ月半ほど滞在していた(短期滞在ビザで3ヶ月,延長申請でプラス15日)。Dは,私のパリ滞在中にできた,家族ぐるみでの親友であり,恩人である。

彼は精神が細やかで,異常に鋭い感性をもち,なのでかなりの器用貧乏で,そしてパリジャンに辟易していた日本人の対人感覚にとても近い感覚をもった,フランスで出会った数少ない信頼できる人物である。

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ミクシィとかウィキペディアとか

最近ひょんなことでミクシィ(mixi)に招待されたので,入会して遊んでいる。ミクシィとは,「ソーシャル・ネットワーキングサイト」を謳う,ネット上の交流サイトである。ネット上といっても自由に参加できるのではなく,招待された人しか入会できないクローズドなサービスである。怪しく言えば「秘密クラブ」的なものと言えるかもしれない。この怪しさがちょっとワクワク感を醸しだすというか。

入会した人は,まず自分のプロフィールを作って,自分をアピールする。そしてミクシィ内に「リアルな」友人知己がいれば,これを「マイミクシィ(マイミク)」(つまりは友人リストみたいなもの)に追加することができる。同時に相手側のリストにも自分が追加されるので,当然相手側の承認が必要だ。このマイミク友人空間を拡げていくことによって,「友人の友人」を「友人」にしていくことが可能である。劇的ではないが,ちょっとずつネット知己を増やしていけるというわけである。

毎日学校や会社で顔を合わせている相手とマイミクして楽しいんかというツッコミはアリだろうが,私のように日本全国に散り散りになっている研究仲間と,例えば昨日身近に起こった面白い話やくだらない話ができるのは,ちょっとはうれしいことである。

▼ネット上(メールや掲示板等)で議論が白熱しすぎて揉めることはよくあることである。特にそういうMLや板の管理者経験のある方にはわかると思うが,そういう場合にはたいてい「オフ会」をすることによってフレームは終息するのである。顔が見えない相手だからこそ距離感がつかみにくく,ついついメール口調が強くなってしまうということはありそうなことである。他方ミクシィというのは,最初から「リアルな」,つまり顔のわかっている人間が徹頭徹尾相手なので,安心感が大きい。だだっぴろい何もないネット空間よりは,ミクシィのしつらえた小振りな箱庭でままごとみたいなことをするほうが明らかに楽しいのである。

また,「足あと」というのが面白い。通常のタイプのホームページを出している人は,アクセスカウンタやアクセス解析を使って,自分のサイトのどのページが人気があるのかないのか調べている人も多いだろう。しかし,自分のサイトを訪ねてきた人の情報は,形式的なこと以外はよくわからないものである。ミクシィでは,自分のプロフィールページへ来たお客さんの「足あと」が残るようになっていて,今度はこちらからそのお客さんのプロフィールのページ(もちろん必ずあるわけだ)に直接飛ぶことができる。知らない人が自分のプロフィールを読んでいる。この人はどんな人だろう? というのでその人のプロフィールが見られるという。

その他,「日記」というのがあって,日々の出来事などを簡単なブログのように書いていけるようになっている。また人の日記にもコメントを書き込めるようになっているので,そこでコンタクトが生まれることもある。さらに,「コミュニティ」というのもあって,これは趣味や学問などでの「同好の士」が集まって議論する場所(掲示板)のことである。そこで議論に参加したり,面白い発言をしている人のプロフィールを見たり……などというように遊ぶ。

▼さぁ,これでどれぐらい遊べるのかなと,興味本位でやってみているのだが,私の場合そのあたりにいた知人を10人ほどマイミク登録したら,そこからぱったり世界が広がらなくなってしまった。コミュニティ経由で来たりする人もいたが,そもそも知らない人だし,一見(いちげん)さんとして私の人生を通りすがっていくようである。こちらも「足あと」をけっこう頻繁にチェックしていて,誰か面白そうなやつは来ないかと,網を張っているクモ状態なのである。まあそんなものであろう。それでいいのだ。

しかし,「営業」と見られる人が中に混じっているのがよくわからない。たいていプロフィール写真がセクシー風味な女性の写真で,日記は外部ブログへのリンクになっていて,飛んでみると「ここのサイト(リンクあり)でエッチしちゃった!」とか書いてあるのだ。はたして,出会い系サイトの宣伝以外の何ものでもないのだ。まったくもってげんなりである。サイコロを振って出た目だけもどる。しかも1回休み。

こういう輩にもいっちょまえに友だちがつながっている。こいつらもみんな出会い系の回し者なのかどうかを調べることは(やる気がないと)できない。もしダミーの友人を多数用意しているのなら,これはスパムを送るなどよりはるかに手間暇のかかる営業戦略であることは明らかで,まったくご苦労さまと言いたくなるわけだが,大量にリンクを撒けば数%でも引っかかってくるのであろう。

▼かたやウィキペディア。実は私も最近初めて,とある項目のフランス語版を日本語に直して投稿してみたら,あっと言う間に「削除依頼」に出されてしまった。投稿時に「仏語版からの翻訳」云々というひとことを添えなかったためである。添えなければならないという規則を知らなかったのである。あとで書き足したのだが時すでに遅しであった。彼らは「履歴」をとても大切にするのだ。

「厳格すぎ!」と思いもしたが,つねにいろんなトラブルがありうるので,まあしょうがないかもしれない。先日などもアメリカでは「名誉棄損問題」なども起こっている。こうしたトラブルはウィキペディアの体制上避けがたいものであるように思われる。

ではウィキペディアのどこに本質的な問題があるのか。

一つには,「合意だけから正解に至ることができるかどうか」という原理的な問題がある。ハーバーマス的「真理の合意説」みたいな話である。これは実際問題としてなかなか難しいのだろうと思う。勢力的に拮抗する二派に分かれていれば,結論は両極に向かって振動するだろう。

また,フリーとは言えば聞こえはよいものの,その実「誰も責任をとる人間がいない」ということが第二の重大問題であろう。ウィキペディア自体はサービスプロバイダにすぎない。プロバイダはコンテンツに対する責任を負わないというのが標準的解釈だ。管理者(ボランティア)は管理するだけなので内容を精査するに荷が重い。では執筆者が責任を負うべきだろうか。しかしフリーと銘打っていながら執筆者を特定するようでは本末転倒だ。確かに書かれたものの著作権を開放する(GFDLというようだ。GPLの文章版というとわかりやすいか)という高邁な理想は理解できるが,クレームがあったときに責任を引き受けられないということでは困る。

▼やはり見解の違う多くの人が寄ってたかって書くよりは,どういった立場であれ(多少偏っていても)一人の専門家が一貫して書いた方が,信頼できる記事にはなるであろう。そして一人の人が一つの記事にやはり責任をもつことにし,ピアレヴュー(これがフリーの強み)だけ寄ってたかってやるのが理想ではないだろうか。

歴史認識関連のページなどはつねにひどい怒号が飛び交っているし,私にとって気になる「ジャック・ラカン」の項目なども,ぜひ実際に参照してみてほしいが,かなり偏った執筆者の意向がにじみ出ていて,こんなのにまともに論争を挑もうという気にはなかなかなれない。フリーであるはずが,「こういう空気の中には入っていけない」というバリアを強く感じさせるのである。

というよりもむしろ, ウィキペディアの人はフリーの百科事典を作ろう!と突然思いついたのではなくて,実は Wiki というシステムが先にあったからこそ,ハイパー辞書みたいなものを作りたくなってしまったのではないだろうか(憶測)。単純に,HTMLよりもはるかに簡単にハイパーテキストが作れてちょっと楽しい――実際に記事を書いてみて,そう感じたことは事実である。

いずれにしても,ウィキペディアに限らず,所詮ネットで見つけたものは「手がかり」にすぎない。それを活用できるかどうかは自分次第,結局自分でウラを取る作業は欠かせない。といつも学生に言っている。これは至極あたりまえの結論ではある。

▼というわけで,この2つのコミュニティの対比は,私には逆説的なものだった。かたやネット上にあえて狭い世界を囲い込み・箱庭化することで,リアルよりも「一回りだけ」大きい世界を作り出したミクシィは,まあまあ楽しめる空間である。他方,あらゆるバリアを取り除く=フリーを身上とするウィキペディアは,ある程度闘うエネルギーのある人しか入り込めないし,結局のところ無責任体制が帰結しており,肝心の記事のクオリティを確保できないでいる。

閉じることによって開かれ,開こうとすることが閉じてしまう逆説。えーと,何だかどっかで聞いた話であることだ。

著作権については思うところもあるので,また今度書こうと思う。

ココロの浮気,カラダの浮気(18禁)

堅い話題が多いので,ここらでぐっと軟らかくしてみたり。18歳未満の読者にあっては以下自重していただければ幸いである。

さて昔,ある友人と酒の席で出た疑問に,「ココロの浮気とカラダの浮気とはどちらが罪が重いのか」というのがあった。これは考えれば考えるほど難問,というかパラドックスである。

普通に考えると,一見当然「ココロの浮気」の方が罪が重そうだ。一夜の過ちを犯したとしても,依然として心は妻(夫)のもとにあると。「カラダの浮気」にすぎないと。まあそう言い訳できそうな(するしかない)状況が想像される。

「身体的なものよりも精神的なものを重く見る」ということがこの考えの基底にある。まずこれがポイント。

ならば,である。彼/彼女というものがありながら,それ以外の異性,例えばテレビのタレントなどに「萌え」るのは,立派に「ココロの浮気」ではないのか? あるいは特に男の場合(?),現実の彼女に(だけ)でなく,画面上のAV女優の行為に欲情しているというのは,それだけで言い逃れのできない「ココロの浮気」ではないのか?

これに対して,(違法だけれど)カネで女を買って一発やるのは「カラダの浮気」にすぎない。心まで相手に奪われたわけではないから。所詮これは「売買」を通じた関係であって,情緒的な関係ではないから。

あるいは「割り切ったおつきあい」を標榜する出会い系で知り合った異性との「おつきあい」も,それが一種の「契約」に基づくと考えられるケースでは,その関係はやはり情緒的なものではないだろう。相互にマスターベーションの手伝いをしているにすぎない。

結果として,「精神的・情緒的なものの価値が現実的・身体的なものの価値よりも重い」が真実だとすると,実際に買春することよりも,AVを見ることの方がより罪が重いということになってしまう。

そうなのか?

▼私自身,一度だけ「夢の中で」恋愛をしたことがある。恋愛というのかなそんなの。しかし,鳥肌の立つようなリアルな夢であった。

相手は,少し年上で既婚のダンサー(むしろ「踊り子」というイメージか)だった。陰のある婦人だった。私にも彼女(すなわち現在の妻)がいたわけで,だから結果的に不倫。「ココロの不倫」である。

あらゆる登場人物の顔が不鮮明であるにもかかわらず,この女性の存在がとても鮮明で,しかもその夢のあいだじゅう私を惹きつけたのだった。気になって気になってしかたがないという,まあ青臭い話だ。が,そんなことが現実の中でなく,夢の中で起こったのである。

目が覚めてとても奇妙な感覚に襲われた。まず,夢でこんな感情を持つことがあるのかという驚き。そしてそのような感情を持ったことについての,現実の彼女に対する罪悪感。夢の中だろうが何だろうが,感情そのものは真実だったから。

もちろん,当の現実の彼女は,申し訳ながる私の告白を一笑に付した。現実でないことに責任を負う必要はない,ということだろう。だが私は考え込んでしまった。

フロイトならこういうのを,「心的現実」と言う。心の中のことではあれ,それはそれでその人の(その人「という」)現実の一部であることは動かない。そんな意味である。ココロの外で起こっていないことでも,それは当人にとっては,やはり「真実」なのである。

▼なぜ「ココロの浮気」の方がより罪が重い感じがするのか。それは「ココロの浮気」がその人の「真実」に接点をもつからだ。人格というものの核心に触れているからだ。

逆に「カラダの浮気」が罪が重いというロジックも成立する。「カラダの浮気は目に見えるが,ココロの浮気は目に見えない」ということで。現にAV鑑賞は違法ではないが,買春は違法である。法は,われわれのモラル(「道徳」)を反映している。

法は目に見える行為を取り締まるものである。だから法は「カラダの浮気」の方を取り締まるだけだ。しかし「ココロの浮気」の方は,その本人を除いて,誰も取り締まれない。

だからこそ,ここで当人を責めるもの,罪責感の源泉となるもの,良心とも呼ぶべきもの,「倫理」が要請されるのではないか。もしそれがなかったらそいつの人格はだいぶ幼稚だと言わざるをえないだろう。規範が内面化されていないということだから。

そういうわけで,この問いがパラドックスに見えるのは,「道徳」と「倫理」とが似通っていながら,実は逆向きのベクトルをもっているからではないかと思われる。

▼まあそのようにラカンは考えたのだろうと思う。セミネール第7巻あたりで。とりあえずこの話に「想像界」「象徴界」「現実界」というキーワードを当てはめてみていただきたい。

ちなみにおそらくフーコーの主体化=従属化の理論も,まさに外からの「道徳」→内なる「倫理」,という話なわけだが,あまりこれを平板に理解してはいけないのだろうと思う。それは外から与えられる規範=「道徳」が個々人に押しつけられるという話でもある(こちらはいつも強調される)と同時に,そのこと自体がその個人の人格の一部(「倫理」)をかたちづくるのだという話でもあるはずだ(こちらはあまり聞いたことがない)。ということは,「主体化というのはね,実は従属化のことなんだよ」という言い方もできるし,「従属化というのはね,とりもなおさず主体化のことなんだよ」というまったく逆の言い方もできてよい,ということだろう。順序を入れ換えただけなので。

何だか,軟らかい話じゃないよなあ。お後がよろしいようで。

フランス語/日本語文法について四の五の考える

最近いろいろなことが重なって,「言語習得」について考える機会が多かった。

「小学校での英語教育はいらん」と言う人もいたし。どうかなぁ。

石原慎太郎都知事が「フランス語は数を勘定することができない言語」とのたまったことについて,フランス語学校校長から裁判が起こされた話は皆さんご存じと思う。

そして最近,明大教授らがフランス語のできない知事に「フランス語学習セット」をプレゼントした。「抗議うんぬんより,フランスのエスプリを示したかった」とのことだが,まあどうなのであろうか。

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自然な人工物/人工的な自然物

なぜ私がアール・ヌーボーに関心をもつのか,自分でも最近わかってきた。これはいま私がやろうとしている研究に関連があるのだ(って,あとから気づくことかよ)。

まず「自然物を模した人工物」,言い換えれば「人工的な自然物」というコントラディクション(矛盾)が心をくすぐる。それは,「自然とは何か,人工とは何か,それらの境界とは何か」という哲学的問題を惹起するからである。

(注意。以下ホントに哲学的なので好きな人以外は読み飛ばしてください)

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アールヌーヴォー:ムダって言うなよ,そういうのを

楽器博物館ブリュッセルに行ってきた。ここはフランス語とオランダ語の2言語を話す国の首都。そしてEUの中心。つまり国際都市の代名詞といって過言でない街である。しかし別の顔として,「アールヌーヴォーの都」という側面がある。エクトール・ギマールの建築に関心を持つ私は,やはりそちらの側面に興味があった。

この街でパリにおけるギマールのように著名なのは,ヴィクトール・オルタである。彼の産み出す建築およびデザインというのは,やはりギマールと決定的にテイストが違う。私としては連続性を期待して行ったのに,そして作品群をじろじろ眺めながら連続性をしつこく探したのに,厳然としてそうでないので,小さな驚きを覚えたのだった。

なおこの写真はオルタではなく,ポール・サントノワの旧オールド・イングランド百貨店(現・楽器博物館)。

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