年齢・性別推計,驚きの真実

どなたも別にお知りになりたくない情報でしょうが,個人的に驚いてますので書きます。

以前「なかのひと.jp」について書きました。ブログパーツとして,どの「組織」から当該ブログが見られているかという統計情報を,地図と組み合わせて見せてくれるやつです。それはプロバイダから見ている人は除かれているわけです。

その「組織」というのは,当然構成員がいっぱいいるわけですが,その男女比もだいたいわかる(決まっている)わけですよね。で,それを足し合わせると,計算上の男女比が出てきます。「なかのひと」は,いまどうやらそういうことを新機能として(お試し版ですけど)つけています。

それの結果たるや。とても驚く結果です。

見たいですか?

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准教授になりました。それがどうした

さて私こと,この4月から「准教授」になった。別にめでたいことはない。フツーである。全国的に呼び名が変わったのである。

今までは,「教授,助教授,〔(専任)講師〕,助手」が日本の大学教員の職階だった(講師は大学によって置いても置かなくてもよい)。これが学校教育法の改正で,「教授,准教授,〔講師〕,助教,助手」となったのだ。まあここまではご存じの方も多くおられるかと思う。

なぜこうしたかというと,いろんな理由があるようだ。まず大きな変更は,旧助手を「助教」と「助手」に分けたこと。「助教」ってあなた。

助教は自ら研究し,教育に関わることもあるが,助手は事務的作業のアシスタントという位置づけ。旧助手ポストでは若い研究者が小間使いにされていたが,それでは彼らも育たなかろうと,もっと自分の研究ができるようにという話である。

まあそう言うならそれはわからんでもない。実際,旧助手が小間使いに使われるといえば理系の話であり,文系のうちでは若い研究者を助手として雇ってはいない。そのために「講師」というのがあるし。だから,助手の待遇については私はそんなによくは知らない。

▼あと,助教授が准教授になるというのがなぜかな?と思わせるだろう。これは要するに,アメリカン・システムに倣えということなのである。訳すときに困るから。

アメリカン・システムでは,「professor(教授), associate professor(協力教授), assitant professor(助教授), research assistant(研究助手)」となっているはず。違うかも。でもだいたいこんな感じである。カッコ書きはそれぞれ直訳。

今までは,「associate professor」はわれわれの「助教授」に対応するから,そのように訳してきた。だけれども「助教授」を直訳すると1コ下のランクと混同されることになる。あー,とにかくややこしい事態になることはご想像のとおりである。

おそらくそのために,「associate professor」に対応する職位の名称を変更したのであろう。しかしながら「assistant professor」を今すぐに「助教授」と呼ぶのは混乱を招くだろう。したがって「助教」というかなり新奇で不自然な名称をもってきたのである(実際にはかなり古い時代にそういう名称の職位があったとのこと)。憶測だが,ほとぼりが冷めたら「助教」は「助教授」にまた変更されるのではないかという気がする。

要するに,これもグローバリゼーションの帰結の一つなのだということ。

▼しかし,じゃあブリティッシュ・システムはどうなんだ。フレンチ・システムはどうなんだというと,アメリカン・システムに統一してはいないわけだ。もっとも,EUで統一しようという動きはあるけれど。

ブリティッシュ・システムについてはこないだイギリス人の同僚に聞いたけどきれいさっぱり忘れたので,ここではフレンチ・システムを紹介すると,常勤の先生は「professeur(教授),maître de conférence(助教授)」しかいないという話だ(「フランス高等教育・その四」)。実は「professeur adjoint」というのもないではない。辞書を引くと載っているが,あちらでは補習などのための補助教員のことらしい。しかもこれが「日本の助教授の訳語としても使われる」とあるから,それは混乱のもとではある。

だいたいprofesseurというと,小学校の先生でも何の先生でもprofesseurだから,語感がだいぶ違うのではないかなあ。とはいえ「Monsieur ホニャララ!」と呼びかけるより「Professeur ホニャララ!」と呼びかける方がかなり敬意が感じられるらしい。「~さん!」じゃなくて「~先生!」といった感じかな? そういえば昔F1で活躍したアラン・プロストは「Professeur」と呼ばれていたよね。坂本龍一が「キョージュ」と呼ばれるようなものだろうか。

▼話をクルリンパと戻して(ああ毒されてる),なんで「準」でなく「准」なのかは,よく質問されるFrequently Asked Questionである。要は法律に「准」と書かれちゃったので,と答えるしかないが,確かに不可解な点も多い。

そもそも「准」は「準」の俗字である。なぜ本字でなく俗字の方が法律みたいな正式なものの中で使われねばならないのか。そこが第一の疑問である。

この字を使っている職位というのは,すぐ思いつくものに「准将」とか「准看護師」というのがある。この2つについて軽く調べてみた。結論的にはよくわからなかった(すまん)。

「准将」のほうは過去の日本の軍隊(空軍は除くのかな?),現在の日本の自衛隊にはない職位であり,逆に2008年の創設が検討されているそうだ(by Wikipedia)。海外の軍隊では少将の下,大佐の上となる。ともかく日本にはない?ものなので,日本の法律の条文にこの「准」の文字があるわけではない。この語が発明されたのは,翻訳語としてということになる。じゃあいつどこの誰が「准将」なる表記をはじめて用いたのか。それについては調べがつかない。

「准看護師」のほうは,戦後の看護師不足を補うための緊急避難的措置としてできた職位ということはわかった。これは日本の法律の条文にある。保健師助産師看護師法だ。が,これもいつどこで誰が決めたのかはよくわからない。

どなたか教えてください。

共通して言えることは,「准」のつく職位というのはあんまり高くは評価されていないということくらいだろう。准将だって「少」将の下だから。准看護師のほうは正看護師と同じ業務なのに給料をケチられてるし。俗字を使われているというのは,バカにされているということなのではないか。

▼と考えると若干寂しい気持ちにもなるが,職名なんかはまあどうでもいい話である。どうでもよくないのは,「誰が文字を管理しているのか」という問題だ。考えてみれば,本字と俗字は本来同じ字であり,どちらか一つでもいいはずだ。つまり,字形の統一ができていないということだ。

字形の統一に際して,何を基準にするか。有名なのは最初の権威『康煕字典』とか,諸橋轍次『大漢和辞典』とかだろう。その統一された結果をわれわれは学校で習うことになるが,そうすると「文字の管理者」は文部科学省ということになるはずである。実際文科省のHPには,漢字の字体の問題を扱っている,とある。

しかしながら,近年では皆がパソコンで文字を書くようになった。パソコンで使う文字は,JISとかシフトJIS……だ。いやまあUNICODEは別として。つまり「日本工業規格」だ。てことは,パソコンの文字を管理しているのはと通商産業省の日本工業標準調査会 (JISC) ,工業技術院,財団法人日本規格協会,ってなもんだ。

だから,文科省が「この字形を本字と見なす」と決めたとしても,JIS規格はそんなものお構いなしなのである。この時代,

日本の文字を決定する権限は,実は文科省ではなく経産省が握っている

のである。

いや。知らんけどね。両者のあいだに話し合いがあるのかもしれない。が,これまでに齟齬が多くあったのは事実で,これはそう簡単に収拾できそうなものではない。

▼たとえば旧字体と新字体の整合性について,文科省は旧字体の部分(偏(へん)や旁(つくり)など)はいじらなかったが,JISはいじっている。たとえば「難」という字は文科省的に正しいが,「灘」という漢字は文科省的には正しくない。正しくは「」だ。さんずいをとった右側は,難の旧字体である。難が新字体になったからといって,灘の「部分」も新字体になるわけではないのだ。

こんなのはまあかわいい方で,最悪なのが「掴」という字だ。こんなのありえないんだけど。だいぶ見慣れてはきたんだけど。正しくは「」であろう。

あと人名によくある漢字で,「遥」という字。ちょっと前までは旧字体の「遙」がパソコンで出なかった。これについて昔『ASCII』(月刊ですよ)だったかに高千穂遙氏が文句を言っていたなあ。

あと,ワタナベさんとかのべ。あの字形の豊富さ(苦笑)は何とかしてほしい。字形の統一に完全に失敗している。先輩に澤邉さんという人がいて,本当はちょっとだけ違う字なのだが,役所で登録するときに「あんたの字はパソコンではこの字しか出ないから,文句があったら裁判を起こすように。以上」と言われたそうである。

個人的に声高に叫びたいのは,「凛」という字。これは「凜」の俗字である。下は「のぎ」なのだ。だけれども,もともと使用頻度が少ない字であることと,パソコンでは先に俗字が出てしまうことで,皆さん「凛」が正しい字だと思っていらっしゃる。そうじゃない。

ちょっと前までは「凛」は人名漢字に使えなかった。「凜」は使えたが。うちの娘は名前にこの字をもっている。これは,正式なところでは正式な文字で登録せよというとても正当なこと。しかしその後,俗字の方を人名漢字に使ってもよいことになった。そうすると,どっちが文科省的にコレクトな字なのかわからなくなってしまった。ペットボトルのお茶とか,日本酒とかに「凛」という字がついている。とどうしても,もっとそこはかとない味わいのある「凜」の字を想起しながら「それはちがうのに」と言いたくなってしまうのである。

こうやって文字というものは変遷していくのか……とも一方で思う。しかし,それでいいのかとも思うわけ。

▼あるいは,こんなふうに私が「文字は統一しようぜ」とか言うと,「統一しないのがいいんじゃん。いろいろあるのが豊かさってもんでしょ?」という人が必ずいる。いや論点はそこじゃないからもうちょっと聞きなさい。

私が問題としているのは,「文字の(ひいては文化の)管理者は誰なのか」ということである。「誰であるべきか」と言い換えてもよい。

それは,国民統合をやっている国家のどこかの部署が担当せねばならないはずだが,こともあろうに経産省に委ねるべきことなのだろうか? 

私は,そういう権限を経産省に委ねるというのは,文化の根底をもネオコンに預けるというのは,そこまでグローバリゼーションの波に押し流されるというのは,すこぶる気持ちが悪い。軍事や産業を牛耳る人たちが,文化までを牛耳ることを許したいとは思わない。

だから,ここでの私の言いたいことは,「文科省さんも,巻き返しをはかったほうがいいんじゃないですか?」ということである。

現在この問題を巡ってこれらの省どうしのバトルがあるのかないのか,私は知らない。が,人を小馬鹿にしてかどうかは知らないが,ともかく,俗字である「准」の字を法律に書き込むようなことは,文科省の人には避けてもらいたかったと思うのである。

※島根県立大学e漢字フォントをお借りしてます。

追記 2007.04.08

テレビを見ていたら,「森鷗外」が「森鴎外」と出ていて,思い出した。そう,これこれ! これはひどい。「鴎」っていう字なんかなかったよねぇ。

そして,そうだった,人名の届出に関しては法務省が管轄だ。

とかいろいろ思って,昔の「文字コード問題」について調べなおした。と,いい記事がいくつかあった。以下に示す以外にもいろいろあるので検索されたい。

これらによれば,要は83年のJIS改正(83JIS改正)が「悪夢」だったということだ。これが「掴」「鴎」「涜」といったありもしない字を創造することにつながったらしい。現在では「摑」「鷗」「瀆」というようなまともな方の字も出るようになっていて,ハッピー。だけど83年製「簡体字」のほうも消えずに居すわることになっている。消えてもいいのにね。結果的に,パソコンが作り出してしまった文字というものがあるわけだ。

上記資料の中,特に3つ目はかなり分量が多く,勉強になる。むしろ多すぎてそう簡単には全部読めない。特に「第3部 JIS X 0213は世界になにを発信したのか?」の「特別編10 表外漢字字体表は、JIS漢字コードをどう変えるのか?」あたりの項目が参考になるだろう。もっとも,この筆者の考えそのものにはあまり共感できないが。

私は上で文字の標準化を望んでいることを吐露したが,標準自体は時代によっていろいろ変遷があるに決まっている。83年に過渡的な「混乱」があったとしても,現在はそれなりに収拾されているように見える。ここまでの歴史は,私はちょっと文句を言ってみたが,これはこれでしかたないと言うしかない。

ただ,議論にかかる時間が長すぎる。83年の混乱を収拾するために出された「表外漢字字体表」は,92年に出されている(これは「文科省の巻き返し」にあたる)。ちょっと時間がかかりすぎである。今後はもう少し議論の主体が限定され,スムーズに改訂が進むことを期待している。

てかユニコードをどうにかして!

試験の採点シーズン

採点シーズンである。

ある大学教員の友人から,次のような相談が寄せられた。以下Q&A形式でそのやりとりを紹介する。

Q. 私が担当している遠隔講義で問題が起こったのですが,相談にのっていただけないでしょうか。

実は昨日,遠隔講義担当の職員さんから「○学部の受講生のなかに,毎回,配布資料だけ受け取って,出席カード提出を他の人に頼んで,最初の2,30分で退席している者がいる」という「告発」メールをもらいました。メールには当該学生の学籍番号と名前が記されていました。

私は,基本的に△×キャンパスから講義をしていたので,教室のTVカメラだけでは○学部の教室(※別のキャンパス)の細かい様子は把握できませんでした。また,2回だけ○学部で講義をしたのですが,メールによると,当該学生はその回だけ最後まで受講していたとのことです。

この学生の成績評価をどのように扱えばよいのか迷っています。今までの平常点を鑑みると,期末試験でもそこそこの成績をとって,単位を認めることになると予想されます。

ストレートに出席と試験結果で成績をつければ,こうした問題が表面化することなく無難に済ますことができます。でも,それは私の信念に反する行為ですし,何よりも他のまじめに受講している大半の学生達のことを考えると,「フリーライダー」を認めるわけにはいきません。

また,上記のメールを信じて,当該学生を落とすと本人からのクレイムがあると予想できます。そのとき,証拠は職員さんからのメールだけになります。姑息な手段をとって単位をゲットしようとするような学生ですので,もしかしてその職員さんを巻き込むと,「逆恨み」されかもしれません。ですから,私個人としてはこのメールを証拠に使うのにためらいがあります。

当該学生の期末試験の成績が悪けりゃ何の問題にもならないんですけどね。お忙しいところ恐縮ですが,ご意見をきかせていただけると有難いです。

A. お答えします。

僕だったら,という仮定で話をしますよ。相当ひねくれ者ですよ。大丈夫でしょうか。

結論から言うと,僕だったらC(最低ランク)で通します。

科目の性質もあるかもしれませんが,まず「フリーライダー」は許せないとは僕は思っていません。そういうのでも試験問題が解けるのであれば,僕ならよしとします。同じ結果を出すために労力をはしょったことは,要領がよいと評価すらできるくらいなもんで,まあいいんじゃないかということです。それがいやなら教員のほうで,そういう連中には解けないような試験問題を出すことでコントロールするのが筋であろうかと思います。

また,他の真面目な学生にとって……という話もよく聞きますが,要は単純に授業を真面目に聞いて試験で一定の成績を出す学生と,授業を聞かずに試験で一定の成績を出す学生とがいる,という事実がまずあって,そのなかでいったいどっちが得をしているのかというと,ちゃんと授業を聞いている方ではないのでしょうか? 授業を休むということは,お金も払っているのに,自分が本来受けるべき教育サービス(と仮に言いますが)を受けていないということ,つまり損をするということであると思います。

だから僕は基本的には出席をとりませんし,すすんで出席したいと思っていない人間を教室に括りつけておくのは授業の邪魔にこそなれお互いの益にはならないと思っています。

もしも真面目な学生が不公平を感じるとしたら,授業に出席することがすなわち単なる苦役であり,その苦役をフリーライダーだけが免除されていると考えるからでしょう。そういう学生は,逆に言えば,すすんで僕の話を聞きに来ているわけではないわけで,そういう類の人には逆に言うべき言葉が僕にはありません。何か言うとしたら「人は人,自分は自分や。ガタガタ言うな,勉強せぇ」とだけ言います。

あと,唯一の証拠というか採点の根拠が職員からのメールになってしまうのもよくないと思います。たしかに事実なんでしょうが,それに基づいて落としたりしたら,教員が自らの基準に基づいて公正に判断して評点をつけたことになるのかどうか。だいたい,教室の様子もよくわからないようなユルいシステムを使ってする授業なわけですから,これは構造的な問題で,担当者が責任取れる話ではないんじゃないでしょうか。メールは平常点についてのあくまで参考資料として,自分に見えた範囲で自分が適切に判断すればいいと思います。

まあ平常点から多少引いてやるくらいならいいんじゃないでしょうか。もちろん,試験自体が通るか落ちるかギリギリラインだったら,落としちゃっても問題なく対応可能でしょうね。実力もいまいちで平常点にも疑惑がある以上。

というわけで,試験の成績がある程度よさそうでもCまで落としてやれば,僕だったら満足かなと。何で評価が低いのかは自分の胸に聞いてみろと。そんな感じです。

いかがでしょうか。だいぶひねくれた意見だろうと思いますが。それでも昔ながらの大学教員の考え方じゃないかと思います。

これをご覧の皆さまは,これについてどのようにお考えだろうか。私の考え方はいまやDQS(※非常識のこと)なのであろうか。教えてたもれ。

目のフチが黒すぎる女

今日は試験監督だったが,(内心)ちょっと面白いことがあった。

タイトルのとおり,「目のフチが黒すぎる女」が試験を受けていた。

それは象徴的な表現で,目以外もいろいろと。ヤンキーっぽいというか,地方によくいる感じの人である。こういうタイプの人はちょっと苦手である。

こいつが,いわゆるカンニングっぽい(確認はできない)素振りというか,その黒々と縁取られた,ファラオの申し子みたいな目で,前の席の答案(マークシート)を覗こうとしていたような気配がした。

そのとき教室の一番前で椅子に座っていた私は,それを牽制するために(未遂に終わったほうがいいからね)すくっと立ち上がり,彼女の席のほうへ向かって,いかにも通常モードの机間巡回ですよという風情で近づいていった。

もちろんその女自身は取り繕うような感じだったが,問題はそこではない。

問題は,前の奴の答案である。

前の男子生徒の身体の右側に答案がはみ出ていて,見ようと思えば見られる具合ではあった。しかし,そいつの答案の一番右の欄は

答えが全部Cだった。

おいおい,と心の中でつっこんだが,ここで俄然知りたくなるのが後ろの彼女の答えである。

はたしてこれを丸写ししているんだろうか。

ドキドキしながら覗いてみると……

やっぱり答えが全部Cだった。

orz 脱力……。

瞬間浮かんだのは,「こいつアホや」っていう感想。しかし,「いや待てよ」とも思う。「こいつある意味ちょっと面白いヤツかも」と。顔もツタンカーメンみたいやし。

試験中だから笑いにならないけど,笑いのネタ的にはこのキャラって「美味しいのかも」と。

思いましたとさ。

で,こんなんをカンニングとか言うのも阿呆臭いので,放置。

そのかわりここのネタにしているという。ざまあみろってんだ。

フランスの「アジアン人形」の顔/美とは何か

引越等々のせいで更新が遅くなってしまった。今日は久々のフランスネタ(からいつものようにずるずると脱線してゆく予定だが)。

我が家には,娘が知人からもらった赤ちゃん人形?がある。Corolleというブランドの製品で,日本でいうぽぽちゃんとかメルちゃんとかのフランス版といった感じのものである。これを見て皆さんどう思われるだろうか。私は娘がこれをもらった瞬間,何とか「あ,ありがとう」とは言えたものの,「か,かわいいねぇ」とはどうしても言えなかった。

心臓の弱い人のため,写真そのものは「続きを読む」以降に。勇気のある方はぜひ見られたし。

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貧乏は 悪だと思う 鄙の冬

家が狭くて毎日イライラする。何をどう片づけても片づかない。妻は毎日しゃかりきになって片づけをしているが,やっぱり片づかない。床面積に比べてモノが多すぎるのだからあたりまえだ。

本も多すぎるということで,断腸の思いで処分しようとする。ブックオフに2度ほど売りに行ったが,1冊50円程度にしかならないので非常にヘコむ。われわれブックワームは,書籍というものに商売道具という以上の,強い愛着を抱いている。今後ブックオフでは105円の棚以外では何も買わないぞ(それでもぼったくりやんけ)と心に誓う。

我が家の書斎(離れ)である研究室も,どうにかしないともう狭い。留学中にたまった郵便物やら講義資料やら会議資料やらがテーブルに盛られている。これを片づける時間は私にはない。机の向きも変えたいのだがそれもままならない。

だいたい留学前に使っていたパソコン2台が,帰ってきたらなぜか両方とも動かないというのが腹立たしい。こうなると,赴任時に買ってもらった19インチモニタ(もちろんブラウン管)が邪魔でしかたがない(何も映らないし)。みな捨てたいと思うが制度上そういうわけにもいかない。

どっちにしろしょうがないので,今年度の研究費で新しいパソコンを購入したのだが,これがなかなかうまくいかなかった。というのも,国立大学法人は掛売り(後払い)でものを買うから,売ってくれる相手というのもだいたい決まってしまうからである。

▼ざっと見渡すと,やはりメーカー直販系サイトが,欲しい要素を満たし,要らない要素を削ったカスタマイズ・モデルを提供している。やはりこういう,そこそこ安くて,自分が必要な機能を備えたものを私は欲する。しかしながら,サイトには法人も買えるようなことが書いてあったとしても,購入実績のあるなしによって買うことができないケースが多くて困る。

ということは,カタログに載っているモデルから選んで,「これちょうだい」と出入りの業者に頼むということになる。だがこれだと,かなり高くつくのである。大学が法人化したいま,かつては潤沢だった個人研究費は絶望的なまでにシュリンクしてきているので,その枠内で買うためにぜひ節約したいのである。

にもかかわらず,カタログ・モデルはCPUやメモリに照準して選ぶと,要らないTVチューナーとか変な機能とかが意味なくついてきてしまうし,そういうののないのを選ぶとコアの非力なマシンしか選べない。そう簡単に新しいパソコンは買えない(し捨てられない)のだから,わかっていて非力なものを買うのはたいへん面白くない。

これはよくないだろう。改善しないと。こんなご時世だからこそ,ぜひカスタマイズ・モデルを買うことができるよう,物品請求システムを再構築する必要がある。出入りの業者でも何でもいいから,とにかく買えるように。

▼というかそもそも,「単年度決済」というシステムが,国立大学の無駄遣いを育んできたのである。年間の予算がまず決められ,そのとおりに執行されないと,「あ,あんたとこそんなに要らんのね」ということになり,翌年度から予算が減らされてしまう。これを避けるために不要不急の物品を買い,予算通りの金額をきっちり使いきらねばならないのである。年度末にいたるところでやっている無意味な道路工事と同じ原理である。

文系の場合,研究費で買うものの主なものはもちろん書籍である。しかし毎年書籍を予算通り買っていたら,どんなに広い研究室でもすぐにいっぱいになるのは目に見えている。すでに何十年も勤めている教授は,とうに自分に必要な文献は(新刊を除けば)あらかた手元にもっている。しかたがないので最新鋭のパソコンでも買っておこうか,ということになる。使いこなせるかどうかは問題ではない。ただ予算の消化が至上命令なだけである。

▼ああ! それも書いていてイライラしてくる無駄ではあるがしかし! 無駄とは言うものの,もしこれを節減してしまうと,地方経済に与える負の影響も無視できなくなってくるはずだ。すなわちこの節減を行えば,地元の業者は利益を失う。ものをアホみたいに買っていたところが急に財布の紐を締めれば,経済が縮小し景気が悪くなる。

パソコンを直販で買うということは,地元の小売業者の頭越しに,中央のメーカーに利益をもたらすということである。小売で身を立てている中小の地元業者にとっては死活問題であろう。

だから,こういう無駄遣いは従来,全国から吸い上げた国費を,国立大学という部門を通じて地方の業者へと還流させる,(決して麗しいとは言えない)公共事業ないし再分配システムでもあったわけだ。そしてこのシステムもいま滅びようとしている。そのことは喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。ここで「悲しむべき」と言ったら非難轟々だろうか。

こういう不条理は,都会に住んでいると絶対にわからない感覚である。私もここ大分に就職するまではまったく無関心だった。現状を知れば知るほど「これではいつまでたっても浮かび上がれないぞ」という焦燥感がいや増しに増してくる。

▼物品は研究室に残るものだから,それを自由にできるわれわれ教員はこれまで「不当な」利益を得ていたのか。はたまた大学に物品を卸す業者が,本来は必要ないはずの,莫大なマージンを取る地中海貿易における中世イタリア商人的存在だったのか。

「資本の論理」に従えば,こういうのはすべて「夾雑物」であり,淘汰されるべきところのものであろう。確かに,地元業者との取引を優先するというのは公平性を欠いた(独禁法違反の)行動ではある。しかし「公平」に行動したら中央にしか利益が回らないようになっているシステムというのも,まるっと「不公平」であると言ってはいけないのか。地方は地方で,つましかろうとささやかだろうと,それなりに生きては行けるようになっていないと,やはりおかしいのではないか。

ロールズだとかセンだとか,ああいうことをもっとわれわれは考えてもよろしいんじゃなかろうか。

地方が元気になるようなシステム,またそうなるように奨励する制度を構築しなければ。あるいは何か突破口があるのだろうか。実は私にも一つ策があることはあるのだが……。うまくいくのかどうか,もうちょっと考えてみよう。

納得できないこと

だいたひかるのネタじゃなくて。

最近納得できないこと。

  1. スキーが,いつのまにか全面的に「カービングスキー」に取って代わられてしまってること。
  2. 数人の学生が,スキー帽(ニットのね)をかぶったまま何の疑問も感じずにテスト受けてること。
  3. テストが早く終わって退出するとき,他の受験生に気をつかってそーっと歩いたりドアを開け閉めしたり気をつかうのが普通だと思うのに,そうする奴が150人中1人もいなかったこと。
  4. 年末調整で保険料の資料を付け忘れて(?)確定申告せんならんこと。
  5. 『ブログキャスター』が,大分では発売日に売ってなかったこと。

▼まあ,1とか4とか5はどうでもいいのであるが。2と3については,「どうにかしてくれよ」と私は心の中で叫んでいた。試験監督をしていたときのことである。

だって口に出して言いたくないんだもん。

センター試験ではそんなことはない。受験生たちはむしろみな可愛そうなくらい張りつめている。もっとラクにしていいよ,とこちらが言いたくなるほどである。これが単なる定期試験だと,気が緩むのか,大学生の驕りなのか,何なのか。

スキー帽については,ファッションだとはいえ,部屋の中では脱ぐやろ普通,とこちらは思っているのだが,かぶっている奴は全員デフォルトで脱がないのである。かといって「おいそこのキミ! 帽子を脱ぎたまえ」とはぜひ言いたくない。なぜかというと,気が弱いから♡。ではなくて,頭にケガしてるとか,ストレスで円形脱毛症だとか,そういう可能性も否定できず,もしそうだとするとただ「言う」だけでも気の毒なので,あえて言わないのである。

言いたいが,言いたくない。という当方の葛藤を知ってか知らずか,まっっったく動じることなく,あの日平然とテストを受けていたキミ。

どういうことやねん(普通のツッコミ)。

▼途中退室もそうである。他の受験生に気を遣うのが普通だろうと私は思う。しかし,観察事実によれば気を遣わない方がマジョリティー(てか全員)であった。

試験監督チーフが冒頭で,「早く終わった場合は,周りの迷惑にならないよう,静かに退室してください」とアナウンスしているのにである。

静謐な試験室の中,半脱げで踵を踏んだ靴を「ペッタン,ペッタン」いわしながら自分の答案を提出に来たかと思うと,また「ペッタン,ペッタン」と出口へ向かい,ドアを「ガチャッ」と開け,「バタンッ」と出てゆくのである。

捕まえられるかぎりは,私も声を殺して,「静かにね」と囁いたりもしたのである。

にもかかわらず,今度は「コッツン,コッツン」と歩いて,「ガチャッ」,「バタンッ」なのである(ヒールの場合ね)。

しょうがないので,私は出口のドアまで行った。そして,自らの手で「ガチャッ」と「バタンッ」を,少なくとも「バタンッ」を,防ごうと心に決めた。オレが実力で阻止してやるんだと。

出口ドア脇で実際に学生の行動を見ていると,ドアを開けるところまではいいとして(「ガチャッ」は少しは音が出る),そこからほとんどの者が手を最後まで添えないでドアを閉めている。すなわち,音が出て当然の閉め方をしているのである。

中にはノブを持ってちゃんと閉めようとする者もいて,「よしよし」と思っていると,やはり最後の最後で放してしまい,「ガンッ」とか言わしている。

▼何だか頭がクラクラしたが,しょうがないので,一人ひとりが出るにあたり,彼らの手がドアから離れた後のドアノブを私が引き取り,そーっと閉める。閉めたとたん次の奴が来るので(すでに私の頭の中では学生が「奴」になっていた),むちゃくちゃ忙しいし,神経遣うし,だんだんこんな連中のために神経を減らしていることがアホらしくなってくるのである。

しかたがないので,もしや彼らは最初の試験監督の言葉を忘れたかもしれぬと考えなおし,黒板に

退出時は静かに

と大書した。加えて,素性のよさそうなのにはまた「静かにね」と囁いてみたりした。「わかりました」という表情を作るのが多いが,やはり結局最後は手を離して「バタンッ」なのである。しかも,「バタンッ」の前に「静かにね」と言うこと自体音をたてる行為であって,これはやりにくい。かといって「バタンッ」の後では意味がない。私は完全にジレンマに陥った。

こいつらは,頭がおかしいんや(ボケツッコミ)

と,自分に言い聞かせたが,自分が頭おかしくなったかと思った。

▼よく,「誰にメーワクかけるわけじゃないからいいじゃん」という物言いがある。帽子のケースはそんな感じである。それだって余計なものをもってるってことはカンニングの疑いとかもあるから取れと言うべきかどうか悩んでしまう試験監督にとっては,まぎれもないメーワクなのであるが。

しかしこの場合,全員が堂々と他人にメーワクをかけているわけである。

メーワクをかけられた奴はどう思っているのか? たぶん,じゃあ次の奴に,と思っているのではないだろうか。つまり,後の奴にメーワクをかけられるのは,先に試験を終わった人間の特権である,みたいに。

ホントかよ。

納得できんなー。誰か,納得いく説明を求む。