「進化しすぎた脳」と無意識の論理

進化しすぎた脳池谷裕二『進化しすぎた脳――中高生と語る[大脳生理学]の最前線』(講談社ブルーバックス)だが,やはり面白かった。もちろんわれわれの研究とはジャンル違いだが,ヒントが隠れている。

特に,次の引用部分はわれわれがいま取り組んでいる方法論に密接な関係がある。

学生U  とすると,ゆらぎは何のために存在するでしょうか?

池谷  いくつか理由はあると思う。たとえば,これも僕の仮説なんだけど,揺らぎがもたらす不確実性が生物には必要だと思うわけ。たとえば,2つの選択肢A,Bがあったときに,普通に考えると選択肢Aのほうがよいと思えても,たまにはBを選ばなきゃいけない状況というのはいっぱいあるよね。

 環境は絶えず変わるから,当初はAという選択がベストだったとしても,将来は損する可能性がある。ということは,たまにはBを選んで,Aと比較しないといけない。だから,一度Aを選んだら「俺は一生ずっとAだ」と決め付けるんじゃなくて,ときどきゆらいでBを選択することも必要だ。このように選択行動にファジー性を含有させることに,脳の自発活動が関係しているのかもしれない。

 実は,こういう問題意識をもっている研究者は僕だけじゃないらしい。2006年の『ネイチャー』に掲載されたユニークな論文があるんだ。実験者は当たり確率が違うスロットマシンを4台用意して,それを人間がどう選ぶかを調べた。スロットマシンの当たり確率は一定ではなく,ゆっくりと変わっていく。しかもバラバラのタイミングで。つまり,被験者は最初に選んだベストのスロットマシンを選び続けるといずれは損するから,ときどきスロットマシンを変えなくてはいけない。こうした実験をやらせて,fMRI(機能的核磁気共鳴画像法)で脳の活動を測定していく。すると,当たっているスロットマシンを選び続けているときに活動する特定の部位と,ふと違うスロットマシンを選びたくなるときに働く部位が異なることがわかってきた。もしかすると,脳にはこうした不確実性を内発的に生み出すしくみがあるようなんだ。

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クラスとメンバーの政治経済学

一見平等にしつらえられている社会だが,まあ皆さん先刻ご承知のとおり,実際のところはそうでもない。力の強い者が強く,弱い者が弱い。ただそれだけ。

ではどういう者が強く,どういう者が弱いか。これが問題だ。

「金持ちは強く,貧乏人は弱い」か。当たらずといえども遠からずだろうが,正解として十分ではない。それは私の考える回答の特殊ケースにすぎない。

あるいは「人民は弱し,官吏は強し」(星新一)なのだろうか。私に言わせると,これもちょっと一面的な特殊ケースの部類である。

要するに,こういうことなんじゃないだろうか。

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フランスの「アジアン人形」の顔/美とは何か

引越等々のせいで更新が遅くなってしまった。今日は久々のフランスネタ(からいつものようにずるずると脱線してゆく予定だが)。

我が家には,娘が知人からもらった赤ちゃん人形?がある。Corolleというブランドの製品で,日本でいうぽぽちゃんとかメルちゃんとかのフランス版といった感じのものである。これを見て皆さんどう思われるだろうか。私は娘がこれをもらった瞬間,何とか「あ,ありがとう」とは言えたものの,「か,かわいいねぇ」とはどうしても言えなかった。

心臓の弱い人のため,写真そのものは「続きを読む」以降に。勇気のある方はぜひ見られたし。

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シンポジウム報告

この2ヶ月というもの,何話せばいいのかえらく悩んでいたのだが,やっと肩の荷が下りた。文学系の場なので,完全に「アウェイ」な闘い(?)である。会場は,ウィークデーということでちょっと不安な面もあったが,意外にもかなりの盛況。

私は,結果的に「近代」の合理化(「数学化」とか「マクドナルド化」とか)という話を,それってラカン的に言うと「疎外」と「分離」なので,ある程度必然なのよ,という話をさせていただいた。「何でもかんでも経済に取り込まれていって,グローバル化が進んでいくのであるけれど,単純にこれに対抗する道はないでしょうよ。何とか超えられればいいけどけっこうひねった戦略が必要でしょうね」とかいうストーリーで。

村山敏勝さんはジュディス・バトラーの話ということで,当初は話がかみ合うのかとの不安があったが,発表が終わってみれば大きな共通項が見つかる。「予め失われたもの」というのは,「内部」に対する「外部」ということなのね。

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若者の静かな憤怒

前のエントリーについて,偶然にも内田先生のブログにヒントが書かれていて,納得できないことが納得できてきた。間接的にであるが。

そうだった。「等価交換」が現代日本のキーワードなのである。以前も同趣の指摘を拝読したことを忘れていた。

激高老人先生のブログにも,「等価交換」の原理(市場主義の原理,規制緩和の原理,新自由主義の原理,何と呼んでも同じであるが)についての指摘があった。こちらは安部晋三が「ライブドア事件は教育のせい」とか言っている発言を批判するのが本旨であるが,「等価交換」が現今の日本の屋台骨であるとの認識は,共通している。

小泉=竹中構造改革と,ホリエモン率いるライブドア快進撃とは,古い常識と慣習を打破し,弱肉強食の世界こそ理想の世界と喝破しつつ,もっとも効率的な金儲けを志向するという点で,軌を一にしている。ホリエモンが逮捕されても,彼が時代の寵児であるという事実は,実はさほど揺らいでいないのである。

▼研究人生を歩みだしてからずっと貨幣論をいじくり倒してている私に言わせれば,「労働」と「不快」を等置したりとか,「不快」を「貨幣」と呼ぶとか,そういうところに用語の混乱はあるのは確かである。とはいえ,内田先生のご指摘の本旨(そしてそのもとになる諏訪哲二さんの概念化)は確かに傾聴に値する卓見である。

ちなみに「不快」は経済学的に言えば「不(負)効用」のことである。そして,「労働」→「不効用」ではあるが,「不効用」→「労働」ではなく,したがって「労働」=「不効用」ではない。なぜなら「労働」は通常「生産活動」を意味するから。例えば我慢大会で暑いのを我慢しても,それは「不効用」ではあれ「労働」ではない。

また「貨幣」は「価値尺度」であるべきメディアなので,「不快」のような不定形なものを「貨幣」と呼ぶことに無理はある。というか私の観念ではピンと来ない。

にもかかわらず,「不快」と「労働」が取り違えられねばならない必然性は,生活実感の中に確かにあると感じる。それはなぜだろう。ともかく,たぶん取り違えられている。

▼昔私らが学校へいやいや行ったり,受験勉強をしたりしたときには,「努力は報われる」ということがさかんに言われた。し,半信半疑であれ,われわれもちょっとは信じていた。で,ちょっとそのとおりになることもあった。よい学校に入れればよい大学に入れ,よい大学に入れればよい会社に入れ,よい会社に入れればよい収入が得られる時代だった。おおむね。こういう時代には,「いまの苦労は,将来の自分のための投資」と考えられていた。

学生にしばしばエラそうに言うことだが(考えたら私がエラいんでも何でもない),私が学部を卒業するころ(92年ごろ)などはバブルの絶頂期であり,労働市場はいまの学生には想像もできないような売り手市場だった。

下宿で寝ころんでいても,ひっきりなしに企業からの電話がある。「新○鐵ですが,会っていただけませんか」「三菱○○ですが,進路はどうされる予定ですか」「住友××○○ですが,(以下略)」という状態で,まるで私は電話番のようであった。うかうか寝てられないじゃないか。

しかも,「住友××○○」には,大学院進学の意向を伝えると,何だか不機嫌そうな担当者に「本当に他の会社とは会わない,と約束してくれないと。約束してくれますか?」とか凄まれ,気弱な私としては「は,はい,約束しますです」と言わされた。電話を切ったあと,何でオレが,要りもしない電話をかけてこられて,見も知らん奴に説教されて変な約束させられんならんのか,腹が立ってきたが。いま思えば,おそらく勧誘する人物にもノルマのようなものがあったのであろう。「お前の後輩,○人連れてこい」みたいな。

こんななか私は,父に大学院に進学したいと言った。そしたら大反対された。もちろんそれでも強く押したら父は仕方なく折れたわけだが(二十歳越えてる人間に言ってもどうせ聞かんわな),捨てぜりふに

理解に苦しむ……

とか言われた(笑)。

まあそんな時代であった。多くの学生が希望の会社に入れた時代の話である。おとぎ話のようである。

▼いまの学生にとってはどうだろう。希望の会社になんか入れるのだろうか。入った企業の待遇は,十分なものなのだろうか。その企業はずっと彼/女を雇ってくれるのだろうか。途中で潰れてしまわないだろうか。M&Aで吸収合併とかされて,突如人生が狂ったりしないだろうか。ライブドアみたいにうまくやっている(た)会社ですら,ホリエモンよろしく経営者が脱法行為をしていたら一発で路頭に迷うことになりかねない。企業の方は,正社員の生首を飛ばすのはさすがに避けたいので,いざというときに切れる派遣社員や契約社員,アルバイトといった流動的な労働力を確保する方向にある。というか,「正社員」という概念が怪しくなってきているのではないかと思うのだが,どうか。

公務員志望は依然として根強いが,それとて安定神話はもはや崩れている。天下り可能なキャリア組はともかく,試験でがんばってどうにか公務員になれたとしても,国立大学の独立行政法人化みたいにトカゲの尻尾切りにあったり,でなくても定員削減にあう可能性もある。国家公務員の給与も世間が思っているようには高くない(そう思われているのはこれまでの公務員のサービスの質が低かったためと見た)。世間の賃金水準に合わせて人事院勧告が天から下されるだけ。すでに公務員じゃなくても。今の公務員人気は親の世代からの刷り込みが効いているのだろう。たぶんもう一世代下ではこうは行かないのではないか。

「希望格差」じゃないけれど,「いま苦労して,その苦労が何になる」という意識が,彼らの心の奥底にはあるんじゃないだろうか。

言い換えれば,苦労ばかりを強いられている(と少なくとも主観的に感じている)人々は,「いまの苦労」を「いま」取り返すべき,債権者の位置に立っている(つもりな)のではないか。

なるほど。だからヤクザっぽくなってくるのね(殴)。フランスでの暴動も思い出されるし。希望がないから自棄(やけ)のヤンパチなのか。

さてどうなのか。全部疑問文ですな。申しわけない。

▼かつては将来償還できるはずの「投資」であった「苦役」が,いまや返してもらえるかどうか不明な「苦役」となった。いつ返してくれるんや。はよ返さんかい。いますぐ返せゴルァ。そういうオーラを彼らがるる放出していたとしても,彼らの非にあたるのかどうか。

「将来の展望を,現在の努力」へと織り込むという,時間を「先取り」する思考のサイクル――むしろ「意志」――が消えてしまって,「現在の債務を,いますぐ取り立てる(しかない)」という刹那主義へ。

これって言い換えれば,「時間」が止まったということではないか。

未来がない,ということはそういうことである。

ということはこれは「終末」?

▼ともかく「等価交換」について指摘しておきたいことがある。

経済活動というのはすべてが「交換的正義」(「配分的正義」の対義語。詳しくはググってね)で覆われているように見える。しかし,「等価交換」というのはそんなきれいごとばかりではない。「交換」を成立させるためには必ず力関係が作用する。「これこれの交換をしてください」とお願いする側がつねに下手に出なければならない。自分とこの商品を消費者に買ってほしい企業は,どうしても消費者に媚びることになる。商品を期限までに一定数量確実に卸してほしい問屋は,メーカーさんにお願いするしかない。力関係やタイミングによっては同じものを安く買いたたかれたり,高く売ることができたりする。それはべつだん常識的なことである。「等価交換」には,その裏側がある。それが必ず正義を保証するわけではない。

宿題やレポートを課すことすら,いまや教師はやりにくい。「これやって,ほんとに学力は伸びるんだろうな」という,学生や父兄や文部科学省の声が電波に乗って聞こえてくる。「伸びなかったらダメ教師だからな」と念を押す声も。教師はこう言うしかない。「騙されたと思ってやってみてください。お願いします。学力アップの保証はできないんですけどね。ハハ」とか。要するに「等価交換」を期待されてたら,こっちは「お願い」するかたちになってしまう。

▼しかし世の中には,「交換」の原理だけではなく,「贈与」の原理というものもある。「贈与」には,「時間」が大いに関与する。例えば誰かからプレゼントをもらってその瞬間に返礼をしたら,角が立つ。それだと先方は「贈与」するつもりだったのに,「交換」になってしまうからだ。「交換」されたら,その場で人格的な関係は終わる。貸し借りがなくなるから。先方は人間的な関係を築こうとしてプレゼントを贈ったのに,善意を帳消しにされてしまったら,それは不愉快だろう。

プレゼントをもらったときは,その場はありがたく頂戴しておいて,その「ありがたいと思う気持ち」を記憶しておき,しばらくたって別の機会に,その気持ちを込めつつプレゼントを返す,というのが正しい(レヴィ=ストロースの言う「限定交換」の場合)。あるいは,もらった人とは違う人に,何かあげるのもよい(「一般交換」の場合)。『ペイ・フォワード』という映画をご存じだろうか。あんな感じである。すると,受け取った善意が順送りされていって,世界を遍く覆うということになる。マルセル・モースの『贈与論』の世界である。

このシステムのポイントは,「時間を-与える」(デリダ)ということである。すなわち,いまあげたプレゼントの返礼が,いま返って来なくてもよい,という構えが,全員に必要である。

いずれ返ってくることを(見返りを)期待していていいから,しかし,いまその債権を取り立てることのないように,という,一種の余裕の構えである。

▼こういう余裕は,「等価交換」のみの世界の住人には,もてないだろう。私はそういう人たちばかりの世界では,生きたくない。

いま苦労したことが,後々になって生きてくることは多々ある。それを信じることができない若者にも問題はあるかもしれない。が,未来を信じることができないような,グチャグチャでドロドロで絶望的な現実を産み出した大人たちにも責任があるはずだ。

で,オイラはどっちに入るのかな?(笑) どっちであれ,私は未来は変えられると信じて仕事をするだけだ。

自然な人工物/人工的な自然物

なぜ私がアール・ヌーボーに関心をもつのか,自分でも最近わかってきた。これはいま私がやろうとしている研究に関連があるのだ(って,あとから気づくことかよ)。

まず「自然物を模した人工物」,言い換えれば「人工的な自然物」というコントラディクション(矛盾)が心をくすぐる。それは,「自然とは何か,人工とは何か,それらの境界とは何か」という哲学的問題を惹起するからである。

(注意。以下ホントに哲学的なので好きな人以外は読み飛ばしてください)

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ブラひも,あるいは自己と非自己の境界について

今回はとても難解な哲学的テーマを扱いたい。敷居が高いかもしれないので苦手な方は読み飛ばしていただきたい。

さて今日の最初の話題は「ブラひも」である。「ブラひも」とは何だろうか。それは,「ブラ(ジャー)」の「(肩)ひも」である。

このわかりやすい,明晰判明な事実が,フランスではえてして忘れられがちである。ここフランスでは,それはむしろ,ほとんど空気のような存在なのだ。そしてその事実自体がわれわれを当惑させる。

灼けつく太陽,急な夏の到来。スプリングコートを脱いだ女たちが,濃いサングラスとともに次に身に纏うのは,できるだけ肌を出せるタンクトップやキャミソールである。もちろん,ヒップハガーのジーンズとのあいだに覗くのは,白いまたは黒い下腹部だ。いろいろな理由があるが,老若を問わず,またスタイルを問わず,稚内(わっかない)よりはるか北に位置するパリの女性たちは,こよなく太陽を好むのだった。

日本でも女性の「ヘソ出しルック」(何か古い言い方のような――なぜか「ホンダミナコ」という名前が連想される――まあそういう世代ではある)は流行っていると聞く。しかし,全体としてのこちらのような眺めは,日本では決して見られないだろうとぼんやり思う。それはいったいなぜなのか?

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