「反日」という表現について

日本の憲法記念日が過ぎ,中国の「五・四運動」記念日が来た。

ご案内のようにこのところ,日中関係がぎくしゃくしている。そしてそれについてまたしても星の数ほどのブログがそれぞれの意見を述べている。

そこへ私がつけるコメントはあまりないわけだが,待っていてもやはり誰も言わないようなので言いたくなったことが2点。

  1. 「反日」という表現は何かアヤシイのではないか
  2. 「謝る」ということは可能なのか(実は不可能である)

今日は第1の点を肴にしたい。

Continue reading

「ゲーム脳」とマスコミと営利主義と大学とトンデモ

いつもながら論点多くて申しわけない。みんなつながった問題だと思うので。

シラバスを書いたり,風邪でダウンしてたり,今どき『冬ソナ』を見ていたりしたため,新規投稿が遅れてしまった。何か書かななーと思っていたところ,「アメリカ学研究所」所長のwatoroさんからトラックバックをいただいた。「世界一恥ずかしい大学,金沢大学」とか。オイオイ辛口だねーと思いつつ(工学部に友人がいるしね),読んでみると,確かにこれはひどそうだ。いや金沢大学じゃなく,森昭雄氏の「ゲーム脳」うんぬんが。

watoroさんは,ちょっとは茶化しているところもあるけれど,大学でこんなトンデモがまかり通るのかとたいへんご立腹の様子である。こういう義憤に満ちた人の存在は,やはりありがたいものである。でもまあ,少し余裕をもってつらつら考えてみようではないか。

「ゲーム脳」なるものについて今まで何も考えたことはなかったが,watoroさんの記事を斜め読みした段階で,この森昭雄という教授は,脳波を調べることでこのゲーム脳の理論を出しているらしいことがわかった。ん? 普通脳の局所的な活動部位を調べる場合はPET(簡単に言うと,放射性物質を血液に混ぜといて,脳内の毛細血管中の放射線量を検出すると,血が集まっているところが濃く映るわけでしょ。そこが活動部位。PETというのはそういうのを見る装置)か何か(あるいはfMRIかな)を使うのが普通ではないのかな。と思って「森昭雄 PET」で検索してみると,お医者さんの立場からラカン派精神分析を使っている斎藤環さんのインタヴューに行き当たった。「PET」が含まれるこのページの前後も通してお読みいただきたい。

なおよく読んでみたらwatoroさんのもと記事にも,PETや,それを実際に利用されている東北大・川島教授のことがしっかり紹介されているのでぜひ参照のこと。

というわけで,私としても森昭雄「ゲーム脳」説についてのコメント終わり。

ていうか私自身もゲームは好きだが,やりたいときには徹夜してでもテッテ的に,飽きるまでやるのがおすすめ。そのあとすっきりして仕事がはかどること請け合いである。我慢してもモヤモヤするだけで解決にならない。

それはともかく,ここは営利主義をめぐって大学やマスコミの抱える問題点を考えたい(何で)。

▼斎藤さんインタヴューでも,インタヴュアーから「何でこんなトンデモがもてはやされるのだろう」という疑問が呈されていた。まずこの疑問から出発しよう。

この話は,結局,「ゲームばっかやってるとアホになるんちゃうか」という不安,ないし罪責感,ないし生活実感を煽るやつがいて,「待ってました」と皆さんがそれに食いついた,というだけの話である。これがもし「食べてすぐ横になると牛になるよ!」というアオリでは皆さん釣られなかったのである(たぶんそっちの方がホントなのにね)。

ここに介在する媒介者として「マスコミ」を捉える。

マスコミは,売れる記事を書きたいわけで,したがって究極的に目指すところは,皆が喜ぶ記事を書くことだけだ。科学的に正しく・かつ面白くないことよりは,科学的には間違っていても(それはどっちでもよくて)とにかく面白いことを書くだろう。このような,儲かりゃ何でもいい,という姿勢,これを「営利主義」と呼ぶことにする。

営利主義的マスコミの媒介によって,われわれ一般大衆は,見たいもののみを見,聞きたいもののみを聞くことになる。われわれ大衆は,われわれ自身の知りたいことをわれわれに知らしめてくれる媒介者=マスコミを産み出し,われわれ自身のイイタイコトを増幅してもらいながらそれをもう一度自分の耳に入れる。

何じゃこりゃ,である。

この「自慰の大いなる円環」は,「ポピュリズム」という別名がついた情けないフィードバック機構であって,ちょっとした思いつきを増幅するアンプリファイアとして機能するものだ。

だから,「何でこんなトンデモが……」という問いへの答えは,「それこそが,皆さん『誰か言ってくれないかな~』と思っていたことだったから」というものになるだろう。こういうのは流行るべくして流行るものである(これ以上に掘ろうとするならば,やはりおなじみ「不安」「罪責感」といった精神分析用語に頼らざるをえない)。

だから,watoroさんとは違って私の意見では,森教授は「社会に害悪をまき散らす馬鹿者」というよりは,単なるアンプだ。そういう説をある意味でもともと皆が待っていたからこそ,すなわち売れるからこそ,この説がマスコミによってまき散らされたのだと思う。神輿が悪いのではなく,神輿を担いでいる連中が悪いと私は思う。

他方,「科学」の仕事,したがって「大学」の仕事は,おそらくは,この不毛の円環に関知しないところで仕事をすべきである。売れようが売れまいが,「ホントのことだから」というだけの理由で,発言すればよい。また,営利主義的でないジャーナリズム/メディアが存在するとすれば,それはここに言う「科学」と同じ機能を果たす可能性がある,とも言える。われわれはこういう種類のものをもっと大事にすべきである。

というか,自慰の大いなる円環からはみ出る別の原理が何かあった方が,生存戦略上も望ましいと思われる。何となれば,われわれの円環と異なる円環をもった集団と,現実の中で対峙することもありうるだろうから。その場合においては,われわれの幻想,われわれの妄想に自ら耽溺しないことこそが,我が身を助く方法の第一の基礎である。北朝鮮に対峙するときであってすら,安倍晋三・中川昭一的陰謀論に惑溺しないことが重要なのである。っていうと怒られるのか。別にいいけど。要するに,円環の中に閉じこもったままでは,現実の敵を知ることができない。己を知り,敵を知ることこそ,百戦を前にした者のなすべきことである。

斎藤氏はこの意味で,脳科学の権威たる人物が研究上正しいとされる見解をきちんと発言すべき,と述べている。実はあとで述べる1点だけ留保したいけれども,全体としてそれはそうだろう。私が「大学というものは学生さんのニーズに応える(のもいいけれど,それ)だけではダメだ」と言うのもまた,同じ意味においてである。ただみんなを喜ばせることが最大の使命,なわけではない。桂三枝を教授に迎えて喜んでいる場合ではないのだ。これが枝雀なら個人的には許すけど。そういう人事は,確かにいろんな人が喜ぶかもしれないが,学問上必要だったり教育上よろしいからといった理由から実現したのではなかろう。皆が喜ぶから実現したのであって,学問とか教育とかは二の次三の次である。これは営利主義にとってむしろ必然の帰結である。皆さんありがたがるアメリカの大学の学科編成などを見ても,そういうポピュリズム的要素はかなり強い。ジャーナリズム学科とか,アートアンド何とか学科とか,そういうのを学問的/教育的/文化的な必然性で作ったのかと小一時間問い詰めれば,どうせそんなことはないのである。人気があるかないかに決まっている。

だいたい理事会が「この人教授にしたいから,よろしくね」とか上から言ってきたら,学部ごときが厳正な資格審査なんてできるだろうか? そもそも審査する権限はあるのか? もしここに「営利主義」が介在するならば,ちゃんとした審査などまず無理だろう。ドイツには「カネを出すものが命ずる」という諺があるそうだ(ホント? 情報求む)が,財務省→文科省,文科省→大学という「あなたの財布,私が握ってます」的権力関係ががある以上(そういえば安倍・中川→NHKもそんな話だなあ,「予算のご説明」なんて),「大学の自治」などというまばゆい理念は,これまでも空語であったけれども,これからもそうであり続けるほかはない。そう,大学人が自治を声高に主張するのは,それを今まで一度も所有したことがないからにほかならない。by ジジェク(うそ)。

「まともな」研究,「まともな」ジャーナリズムは,社会にとって,為政者にとって,耳障りなことを言うこともありうる。社会や為政者が,そこでそれを「聞かなかったことにする」べきなのか,ホンマにそうなのかどうか吟味すべきなのか,答えはおのずから明らかであるように私には思われる。

▼ところで,「精神分析」をまるごとトンデモだという人がいる。これにどう反論するのがいいのかをいろいろ考えてみたのだが,どうも歯切れが悪くなってしまう。これには内在的な理由(後述)があって,反論する労力に比べて実りが少なそう,ということもあるが,こちら陣営の方は皆さんそういう感じなのだろう。だからこちら側からの反論があまり見られないのである。

臨床経験のような一回性の経験を,実証科学者に納得させるのはある意味はじめから不可能である。実証科学者は検証テストにかからないものを「非科学的」なものとして括るわけだが,精神分析の経験は確かにそこに入らないだろう。なぜならそれは厳密な意味では「再現性をもたない」から。実証科学における「再現性」というのは,同じシチュエーションで同じ刺激が与えられれば同じ反応を返すだろう,という仮説と,その検証テストというプロセスに含意されていると思うが,とてもとても微妙で繊細な人間的事象を測るにはこの概念はちょっと力不足すぎる。

だいたい人間というのは,同じ言葉を言われたからといって,いつでも同じ返事を返すわけではない。というか同じシチュエーションを2度経験すること自体人生においてほぼないし(『冬ソナ』以外では),同じ「意味をもつ」シチュエーションを人為的に2度組み立てることすらできないだろうし,百歩譲ってそれができたとして,同じ反応を返し続けるのかといえばそれはどうだろうと思われる(昔の心理学の「刺激-反応モデル」というのは実際そんなものであったが,「パブロフの犬」モデルだけで人間様を語られたのではたまらないのである)。

それにもかかわらず,臨床経験においては異常性というのは変にパターン化しやすいことは不思議である。私のような精神分析界の崖っぷち人間であってすら,スクール・カウンセラーという形,つまり本来の分析とはぜんぜん違う形でではあるが,苦しんでいる人たちの話をたくさん聞いてみればわかるのだからなおのこと不思議である。何でわかるのかな。どこかで誰かが書いていたが(何の情報にもなってなくてスマン),いわゆる「健常」であることは多様性を帯びているが,「異常」であることは逆に画一的な様相を呈するものであるようだ。異常と健常の境界線などない,と言われることもあるが,そう言われるととりあえずあんたもここに座っていろんな人の話を聞いてみたら,と言ってみたくなる。どうせ話は膨らまないから言わないけど。

検証テストに開かれていない仮説は科学ではない,とする実証主義者には,逆に「一度しか起こらなかった事実,これは事実の範疇に入らないのか?」と突っ込んでみることはできよう。彼らにとっては一度しか起こったことのない事実,例えばごく私的な経験は,自分にとって真実であっても,確認のしようがないのだから「科学的な」事実ではなく,夢かうつつかわからない幻影にすぎないのだろう。私的な経験ばかりを主たるフィールドにしている精神分析家に言わせれば,そんなこと言われても困るし,そういう野次は全くもって非建設的で意味のないものにすぎない。「検証できようができまいが,事実は事実じゃボケ」という精神分析の方が,実証科学以上に客観主義的な面があるというのは何とも逆説である。

▼トンデモかトンデモでないか,という境界線,メルクマール,クライテリアというのがなかなか難しい。このことこそ,上に触れた「内在的な理由」の重要ポイントである。皆さん非科学的な言説を排除しようと一生懸命であるが,あんまり一生懸命になるのも変である。なぜ変なのか。

「正常」と「異常」の境界線はどこに引けるのか。私はどこにも引けないと思う。にもかかわらず,確かに「正常」と異常」の区別はありうるのである。というふうにしか思えないのである(いろんな人を見ていると)。

いやいや,私にとってもこれは不思議なのである。だから,何でそうなのかを研究しているのである。

同様に,「まともな科学」と「トンデモ科学」との間に境界線を引くことは極めて難しい。にもかかわらず,トンデモ科学はやはりトンデモ科学なのである。

これはどういうことなのか。

精神分析がなぜトンデモ科学ではないのかと言われると,「だって,文献たくさん読んでみればわかるじゃん」とか言うしかないのである。

精神分析の言葉で少し解説すれば,これは「現実吟味(前もどっかに書いたね)」という問題であって,ある体系的信念が妄想であるか否かを判定する資料自体が,当該の体系的信念の外にあるものではない,という原理的な困難が,精神というものには必ずつきまとうからなのである(初期のフロイト(『科学的心理学草稿』)は神経系モデルでこの問題を考えていた。それの入力というのは神経系の外部から来るわけではないという指摘。それってオートポイエーシスやん,とかちょっと思うでしょ)。

「自分の信じている現実が,丸ごと自分の妄想でないかどうか,いちお心配してみるテスト」というのも,あながち無駄ではないのである。そればっかりでも困るが。それがないと,「自慰の大いなる円環」がまたぞろ現れることになる(ふー,やっとつながったかな)。

世の中には突飛な理論というものがたくさんある。ラカンのそれも,一見するとその候補だろう。しかし,ある程度読みこめば,それが「ホンモノ」かどうかは見当がつく。ボキャブラリーが変わっていることは本質的なことではないから。あるいは学生さんの卒論を見ていると,資料の集め方が手当たり次第だが,それは読書量が足りないからで,一定以上の量を読んでいれば,どれが重要な文献でどれがそうでないか,タイトルや目次を見ただけで瞬時に見当がつくものである。こういう「見当がつく」などという芸当,われわれにとって日常的な経験というのは,われわれ自身にとってすら説明しがたいものである。まして実証科学の人にはとてもわかりにくい(少なくとも,「頭で」わかることができない)現象であろう。

科学と擬似科学の区別というものも,結局はそのようなものなのである。「これこれというものが科学で,これこれのものが擬似科学です」などときちっと「定義」することなど,できないのである。むしろそんなのは,「何だかわからないけど瞬時に判定できる」ものであろう。トンデモ科学をどうにかして特定しようと躍起になっている皆さんの涙ぐましい努力(だって古今東西の名だたる科学者・科学論者が寄ってたかって,いまだかつてどれも「(実証)科学的」といえるレベルで成功してないんだよ! この事実自体が面白いでしょうが)を見るにつけ,このえも言われぬ滑稽さは,もろ精神分析の中心的主題であると感じる今日この頃なのである。だって,彼らが「トンデモ」さんの特徴として抽出した諸々のポイントは,きっかり精神分析が「パラノイア」さんについて抽出した特徴以外の何ものでもないのだから(上のリンク参照)。

あと,擬似科学批判を一生懸命している人は,「それをしないとどんどん信じる人が増えてしまう」と危惧している人である。反対に,私などは,「そんなことを必死でしなくても,ヘンなものは広まりゃしないよ,取り越し苦労だよ」と考えるほうである。実際「ゲーム脳」にしても,学問の世界では何の波風も立っていない状態である。もし仮に何か新しい妙な理論が広まったとしても,それが正しいか間違いかという問題とは別個に,それには何らかの魅力があるわけで,その魅力は何かということも興味深い問題とも言える。「ゲーム脳」についてはぜんぜん面白くないけど。

▼一つ言えることは,トンデモ科学者の方々――「孤立研究者」とも呼ばれることがあるようだが――は,文字どおりその研究を,仲間とのディスカッションなども全くせず,たった1人きりでしているということだ。妄想が病的であるのは,それをその人1人しか信じていない(その人は,他人の言うことを全く信じていないか,他人は悪意をもって自分を騙そうとしているなどと考えている)場合である,と言うことはできないだろうか。

例えばオウム真理教でそうだったように,妄想が集団によって維持されている場合には,個々人についてはそれぞれ病的とは言えない。「尊師ってすごいよね」「そうだよね,すごいよねー」などと互いに確認しあっていたのだろうし,そういう文脈の支配している集団に入れば,麻原を崇拝することはとても「常識的」で「自然」なことだろう。仮に何かの理由で外部から批判されても,「われわれは迫害されている,この迫害に負けないでみんながんばろう!」などと,より集団の結束を堅くしても別におかしなところはない。そして,こういった集団に入ったり出たりすることには正または負の負荷がかかるだろう。だからマインド・コントロール(これをわれわれは「転移」と呼んでいる)を解くのは難しい,とかいう話も至極あたりまえのことで,驚くべきことは何もない。

これに対し,妄想を1人で信じ通すにはたいへんな努力,エネルギーと根本的な動機が必要であることは想像に難くない。何しろ家族から何から全員が実はニセモノ(ロボット)で,そいつらが言うことはみんな自分を惑わそうとしているんだ,騙されないぞーとか,そういう妄想に生きるなんて,しんどすぎる。しかし,当人には,その妄想の方が現実よりもラクなのである。そしてわれわれはそういうケースのみを(輪郭ははっきりしないけれど)「異常」と呼ぶのである。

逆に見れば,本当に先端的な学説を切り開いてきた人物は,この意味での「異常」と紙一重のところにいた,とも言える――結果的に「異常」でなかったと認めれられることにはなったとしても,生前当時の当人の精神状態は限界まで追い詰められていたかもしれない,もしくは本当に「異常」の範疇に入るレベルだったかもしれない。ニュートンが分裂だったとか,カントールが発狂とか,そんな話はゴマンとある。それはある意味では当然のことなのである。彼らは「1人で」何かに気づいてしまったのだから。あるいは「1人で」気づくことのできる精神の強靱さをもっていたのだから。学問への寄与という点では,その人物が正常か異常かはどちらでもよいことである。

精神分析のように,今日研究者の層や経験と議論の蓄積が一定以上あるものについて,その起源から現代の研究に至るそのすべてをトンデモだと言うには,なかなかに厳しい,いや過度に厳しい規準をもってこざるをえないと思うが,どうか。

▼えー,長い回り道だったが,話を大学に戻そう。大学の機能は,営利主義やポピュリズムの円環とは別の原理で動くことが必要で,なおかつ正気を保つために,複数の人間の共同作業の場である必要がある。こういう場に森教授のような人が入っているのは,確かにあまりよくはないとは思う。理由は,共同作業,議論,討論,というか同一手法の研究すらできなさそうだし,そういう人に限られたリソースを取られるのは「効率性」に反するから。こういう人を排除することこそが,大学における研究と教育の「効率化」にほかならないとも思う。

ただし,watoroさんの言うように,そういう人を一人残らず排除するということはなかなか難しい。また,孤立研究者なのかホンモノの最先端の人物なのかを見分けることは,審査している人たちは実は当該分野そのものズバリの専門家ではなく隣接分野の専門家なのだから(当該分野のポストが空いているから募集してるわけで),やはり難しいと思われる。かつて東大で中沢新一さんが不採用になった例の件もある。自分と見解の合わない研究者を「レベルに達していない」とこきおろすことも,「あんなのは学問じゃない」などと難癖をつけることもできる。

また別のパターンとして,研究はすばらしいけれど人格に問題がある人を入れるのか入れないのかというのも悩ましい問題だ。ヴィトゲンシュタインが文科省向けに中期計画の報告書を書いてくれるとは思えない。クリプキに教務委員を任せて大丈夫とも思えない。組織としては,やっぱり困る。だけれども,こういう人をどこかで雇わないのは人類の損失である。

とにかく,どういう人を入れてどういう人を入れない方がよいかは,一般企業でそうであるように,むっちゃくっちゃに難しい問題なのである。

私個人は,そのへんはしょうがないと思う。皆それぞれ自分の立場で信ずることを言うだけ。みんな,あーでもない,こーでもない,こいつはいいと言ったりダメと言ったりするけれど,そういう人の言い分は信じるしか方法がないから。

▼いやー。確かに現在の大学に問題はある。しかしどう直すのがよいのか,われわれだっていろいろ考えてきた。しかし,どう直しても別の問題が生ずる。いまより悪くなるような致命的な問題が。よい案があったら教えてほしいくらいだ。それ教授会で言うから。

長々と書いてきたものの,大学については,結局,どうしていいのかわからん,という結論であった。南無阿弥陀仏。

追記 le 24 mars 2005

流れの悪いところがあったので,一部段落を入れ換えました。

安倍・中川はなぜアウトなのか

本日,NHK会長「エビジョンイル」こと海老沢会長が辞表を提出するとのこと。NHK番組改変問題はたいへん大きな問題なので,辞任くらいは当然のことだろう。これにとどまらず,事件全体の真相解明が待たれる。

さて今日は,そうした本質的な問題そのものではなく,安倍晋太郎の息子と中川一郎の息子の発言について。何でも例の番組放送直前に,NHKに「偏っているのではないか。公正・公平な報道を」と言っただけ,と主張したという。安倍氏も中川氏も同趣の発言をしているということで,ここでは一緒くたにしつつ,例によって「この発言」をピンポイントで取り上げ,一つお勉強をしよう。

さて,大手メディアでは何となくNHK対朝日新聞の泥仕合として矮小化されつつあるようだが,ネット上を検索してみると,まあいろいろな立場の人がいろいろな意見を開陳している。「朝日がでっちあげ」派とか,「番組が本当に偏向してた」派(自慰史観派だよね)とか,「NHKは死んだ」派とか,「政治家の介入はけしからん」派とか,いろんな人がいる。そして,慰安婦問題そのものや,女性国際戦犯民衆法廷(覚えられない)についてとか,中川氏の面会の日程とか,長井プロデューサーの経歴とか,いろんな細かいことを皆さんよくお調べである。

にもかかわらず,細かいことはすべて抜いたとしても,安倍・中川両氏がくだんの発言をしたというその一事をもって,この人たちはアウトなのである。なぜだろうか。

ここでのキーワードは,察しのよい方にはすでにお見通しのように,「行為遂行的 performative 発話」というやつである。ジョン・L・オースティン(John L. Austin),その弟子のジョン・サール(J. Searle)を筆頭とする「日常言語学派」と呼ばれる流れの概念だ。

▼その解説の前にまず「人工言語学派」の話をかいつまんでしておこう。こちら派は特にバートランド・ラッセルが有名だが,いわゆる「論理実証主義」の考えと深いつながりがある。彼らの考えは実は比較的理解はしやすい。要は「論理」と「実証」の両方を厳密にしましょう,ということだ。というのも日常的にわれわれが使っているコトバ(「日常言語」)はいろいろと曖昧さを含んでいる。そしてそれがありとあらゆる誤解のもととなっているのであり,スムーズな意思疎通・コミュニケーションの障害となっている。だからしてわれわれの使うコトバをもっと曖昧でない,厳密なもの(「人工言語」)に鍛え上げよう。とまあそんな感じなのである。

これはこれで(意図は)よくわかる話で,彼らは要するに「明晰性」をコトバにとって第一義的なものとして求めているのである。この考えによると当然,言葉はその指示対象に一対一対応しなければならない。もし一対多対応だったらその言葉は曖昧だから。一つの発言は,一つ以上のことを意味してはいけないのだ。しかも,その発言たるや「真理値」(つまり,真か偽か)をもたねばならない。彼らにとって真理値をもたない発言(つまり,実証テストにかけられない発言)は,「意味のない」発言である。とまあそういう考えが一方にあることをまず前提としよう。

これに対して日常言語学派は,曖昧でない言語というものの不可能性を論証することを通じて,この言語のもつ曖昧さこそが,実はコトバというものの豊かさなのだ,とするのだ。われわれはただ発話する,というだけではない。だから言われたコトバの真理値が全てなのではない。日常言語学派は,われわれは発話することによって何かをしている,では何をやっているのか,ということを問題にするのである。

例えば,「約束」という行為などは例としてわかりやすい。「明日○時に,××な」「おう」みたいな会話は,実践的(プラティック)である。つまり役に立つ。こういうことを遂行的(パフォーマティブ)であるという。「私は明日何時にどこそこに行く」というようなことは,そもそも未来への言及であることだし,現在において真理値の量りようがない。にもかかわらず,すでに述べたように,「意味のない」会話ではありえない。この発話は「約束」という行為を担うという意味をバッチリもっているのだ。

▼授業でもよく使う例をもう少し。

授業中に,友達が「消しゴムもってる?」とか聞く。これは,おそらくはあなたが消しゴムをもっているかもっていないかという情報について尋ねているのではなく(そういう場合もあるにはある),(もしもっていたら貸してくれ)と「依頼」しているのである。

書斎か何かで仕事中に,妻が「コーヒー入ったよ」とか言う。これは,おそらくはコーヒーが入ったのか入っていないのかについて,前者であるのだという情報を提供しているのではなくて(そういう場合もあるにはある),(ちょっと休まない?)と「勧誘」しているのである。

まあそんな感じである。同様の例を考えてみてほしい。いくらでもあるはずだ。いずれにしても,その場で「正解」であるような解釈は,「文脈」に依存してしまう。コトバの解釈ということにはいろんなレベルがあって,それらのどれもが正解の一部だ。われわれは,その場その場で瞬時にどう解釈するのが最も妥当なのか(どの深さで読むのが正解なのか)を判断している。いわゆる天然ボケの人にはちょっとつらいみたいではあるが。なおベイトソンは,この種の「文脈」を正しく考慮に入れられない人々こそが精神病者であるとした。これはこれで興味深い指摘である。というのも,だとすると精神病者のコトバは日常言語よりもむしろ人工言語に近いことになるのだからだ(詳しくは別の機会に)。

閑話休題,細かいことはともかく日常言語学派の言いたいことは要するに,コトバというのは情報伝達の媒体というにとどまらない,かなり広範囲な人間行為の媒体だということである。もし日常言語を人工言語なんていう激しく単純なシステムに切り縮めたら,われわれの生活は一変してしまうだろう,いや成り立たなくなるだろう,ということである。というわけで興味のある方はオースティンおよびサールにあたって,「発話行為」「発話内行為」「発話媒介行為」の3区分なども参照されたし。

とまれ,「人工言語学派」対「日常言語学派」の争いは,勝負のつかない泥仕合とはわけが違って,現在では日常言語学派の完全勝利と言える状況である。「そこそこ(←ここ重要)厳密ではあるけれど,日常には使えないような言語」など,ちょっとどうしようもない。しかもそれには,論理実証主義と同じ困難がどうしてもつきまとう。その困難とは,全称命題(「すべての物体は引力を伴う」みたいな「すべての」がついた命題)については厳密な検証が原理的に不可能だということ,などにあるが,要するに全部の発言の真理値なんて決められないからである。仮に百歩譲って決められたとしても,その言語でカバーできない人間活動の範囲が広大すぎるのだから,言語研究の方向性が全面的に日常言語のほうにシフトすることはまったく不思議ではない。言い換えれば,両学派の対立を経て,言語というものがいかに量り知れない「豊かさ」をもっているのか,そしてそれはいかなる類の「豊かさ」であるのか,これこそがまさに言語についての本質的な謎となったのだ。現代の言語哲学者~言語学者は,これを日々探究しているのである。

▼さて,ここらへんで安倍氏の発言に戻ろう。いくつかのブログ(例えば偶然目についたここ)では,「安倍氏の『公正中立に』という発言は放送法を読み上げたのと同じだから,政治的『圧力』をかけたとは言えない」としているようである。もうお分かりであろうが,これらのブロガーは(自覚はないだろうが)人工言語学派に与する人たちである。われわれは,いまや人工言語学派の主張は成立しえないことを知っているので,これとは違う結論に至ることになる。

安倍氏の発言が,放送法の「公布」という行為とか,「放送法を書いた紙を差し出す」(上記ブログ参照)というような(?)行為とは全く性質の異なる「行為」であることは明白である。つまり,安倍・中川両氏は,単なる情報伝達の意味でこの言葉を発したのではない。とにかくこの番組の試写を見て,(偏向しているから変えるべきだ)と思って発言したのである。加えて,その文脈において「公正中立に~」と発言することが,いかなる影響力を行使する発話行為であるのかについて,安倍・中川両氏が知りえなかったはずはない。だから言った。だって自分の発言に影響がないと知っていながら,その状況で「一般論」なんか発言するだろうか? ありえない(宮台ふう)。言ったということは,やはり,影響を与えよう(改編させよう)ということを意図しての発話行為であったことに,疑問の余地はないのである。

もしも万が一,両氏が,とても澄んだ心で(全く言外の意図を抱かず)一般論を述べたのだとしたら,それは「NHKならびに世間様の誤解を招いた」というかどで自ら陳謝すべきことではあれ,「歪曲だ」として朝日新聞を訴える理由にはなりえない。そんな場所でそんなことを言えば,「圧力」と解釈されて当然だからね(この点は毎日の社説がさわやかに正解)。

だいたい,政治家なんだから,圧力をかけるのであっても,言質を取られないために表面的に問題のないコトバを選ぶのは当然の戦略だ。だから「無言の」圧力というのである。

いろんな角度から「圧力」でない解釈をしようとしてみても,そうだとすると意味不明の発言ということになってしまって,やっぱりそういうのは考えられないのである。だから,この2人が頭がおかしいのでなければ,この発話行為は,この発言がこの文脈で出てきた以上,やはり「圧力をかける」「誘導する」という「行為」以外の何ものとも解釈しえないのである。

というわけで,この発言だけをとってみればの話だが,裁判的にはどうか知らないけれども,言語哲学的にはレッドカード以外にない。言語哲学者が100人いたら,150人くらいはレッドカードを出すに違いない。こういうことは,難しいテツガクの話と敬遠せずに皆さんに知っておいてほしいことである。

▼私個人としては,政治的な立場的にもこの両氏とはちょっと友達になれないけれど,言い逃れがお粗末なのもいやだ。大物政治家なんだから,言い逃れをするならもっとクレバーにやってほしいものである。それと,とりあえず検閲前のロングバージョンを見たいぞというPublicityさんの記事に賛同。もとは武田徹さんの意見とのこと。

あとブログを見ていると,安倍・中川・NHK批判を「国を貶める行為」とかって憤っている人がやたら多いように見えるが,あれはいったいどういう気持ちなのかな。日本という国が「政治家が放送局に圧力かけてるのに国民がまったく怒らない国」みたいに見られるほうが私はイヤなのだが。文句の一つも言わないと,バカ国民と思われるでしょ(あ,そうか。「不当な仕打ちに文句を言わない奴はバカ」というのはヨーロッパ的考えかもしれない)。ざっとみたところ,そちら陣営の方はおおむね感情論が中心で,とにかく怒っていて,あまり理路整然と論じているふうではなさそうである。もっと説得的に論じてほしいものである。

結論。私が安倍氏の立場だったら,「私は公正中立にと言っただけ」と正直に言わずに,「私は特に何も言っていない」と言っただろう(別に握りつぶせるでしょ? それに,「純粋に一般論を言った」すなわち「世間話をした」だけならこう言ってもぜんぜんウソじゃないわけでしょ)。この発言がこの状況での正解だったのである。というわけでここは安倍くんと中川くん,残念ながら0点。

「公的なもの」の供給をどうする

大学における英語教育の記事にはけっこう反響があった。「ダメ人間」呼ばわりなど我ながら大人げなかったけど。改めてもう少し議論を深めてみよう。

もしも大学における教育を,私的な財・サービスの取引と考えると,「消費者」は大学間での競争を歓迎するであろう。まあそれはそれでいいこともありそうである。

ただ,市場では「よい製品」が売れるとは限らない,という点にはつねに注意する必要がある。あるいは「よい製品」は市場価格に比してコストがかかりすぎるために,市場ではフツーに負けてしまうことも考えられる。

経済学で「公共財」と呼ぶ財/サービスというものがある。こういうのは市場原理からは供給される動機(誘因 incentive)がない。だってそれは定義上儲からない財だからだ(「非競合性」「非排除性」というタームでググッてみよ)。私人にはそんなものを提供する動機はないのだ。逆に言えば,もし「公的なもの」が供給され(てい)るとするなら,その動機は消費者のニーズ云々からはいちおう切り離されていないといけない,つまりダイレクトではいけないのである。

たとえばベタベタな公共財の例として,「公園」や「道路」を思い浮かべるとよい。自分がその土地の所有者だったとしたらどうだろう。マザー・テレサとかでなければ進んでそこを市民の憩いの場にしようとはたぶん思わないだろう。普通は建物を建てて自分が住んだり人に貸したり,駐車場をつくってお金を取ったりして自分の生活の足しにするだろう。

しかし,国家や地方自治体は私人ではないので,国民や自治体民のために必要であると考えられる「公園」や「道路」を設置(供給)することも現実にありうる。し,ないと困る。ような気がする。緑の多い東京からすべての公園がなくなったりしたらけっこうしんどいと思うがいかがか。

ここでのポイントは,たぶんそういう行政のエライ人だろうが,当該の公共財が「必要」であるのかないのかを判断する立場の,生身の人間が誰かいる,ということである。

この人が君子であるならば,市民は「公園」によって(金銭的でないところの)便益を得るだろう。ところが,わけのわからん土建屋とかヤ○ザとかがこの人につけこんだり脅したり圧力をかけたりということもまたできてしまう。最近では「公共事業」と言うとその瞬間マイナスイメージが漂うが,そのイメージはここのところの構造的な欠陥を衝いているのである。「公的なもの」の供給は,このように,諸刃の剣なのだ。

▼このところ話題になっているNHKも,「公共放送」の供給者である。というか,「のはずだった」。私としては割と近しい(と私の方では思っている)知人が2人もアナウンサーになっているので,今回のような「事件」は彼らにまことに気の毒だと思うが,告発者である長井さんという方も勇気があるというか,どうするんだろうというか,彼やその家族の身が心配である。ともかく勇気は讃えたい。

ちょうどきっかり10年前,阪神大震災のまさにその折,NHK神戸放送局から寝グセ頭で中継した彼が,就職前に言っていた言葉が思い出される。彼は自分のNHKへの志望理由をこう説明したのだ。いわく,

民放というのは,営利企業である。営利企業というのは,営業し利益を得ることを目的とした組織である。ところで民放各局の主要な収入源は,広告収入である。民放は広告を放送することによって,スポンサーから対価を得ているのだ。ということは実は,民放の仕事の本義は,番組をではなく,コマーシャルを放送することにあるのだ。逆に番組は,視聴者が怠りなくコマーシャルを見るべく,コマーシャルの合間に流されるエサにすぎないのだ。

言うまでもなくNHKはまったく逆である。NHKは(少なくとも建前としては)受信料で成立している(そんなわけないけど)。NHKこそは,真に国民に「必要な」番組を制作し,提供する唯一の組織なのである。

とまあ彼はこう言ってのけたのだ。忘れもしない,下鴨神社横の「からふね屋」(もうないみたい)で。

これを聞いて,私はいたく納得した。皆さんはいかがだろうか。作田先生がここで言われていることに近いようだ。もちろん,営利企業たる民放各局の意義がこの理屈で全否定されるとは思わないし,面白おかしい番組はそれはそれで必要なものである。私自身たいへん好きである。しかし,だからこそというべきか,一方でNHKのような純「公共放送」もやはりなくてはならないものだと得心し感じ入ったのである。種類の違うもの,意義の違うものはいろいろあったほうがきっとよいだろうから。

別の比喩をもってくれば,私は(リアルワールドで)つねづね申し上げているのであるが,この民放とNHKの違いは,定食屋と「料理の鉄人」の違いに似ているのである。つまり両者の違いは,定食屋は客が欲しているものを出すにすぎないのに対し,料理の鉄人は客が欲したことも(想像したことも)ないような,しかし結果的に喜ばしいものを出す,ということに対応している。もちろんこれは定食屋さんより料理の鉄人の方がエライということにはならないはずだ。料理人が全員鉄人でもちょっとオカシイでしょ。それに創造的な作品の中にはハズレがたくさんある。そうではなくて言いたいのは,やってる仕事の種類が似ていて違う,ということである。この手の比喩はいくらでもあって,例えば職人vs.芸術家と言ってもいいだろう。決まりきったパターンを正確に反復する仕事も必要であり,同時に二度とは作れない一回的なものを生み出す仕事もまた必要だ。

▼話を高等教育に戻そう。上にも述べたように,「公的なもの」の供給は消費者ニーズとは別の原理から動機づけられていなければならない。「公的なもの」とは,単純にすでに消費者の頭の中にある欠如(want)の一対一対応物ではない。もし「学生のニーズ」を100%反映する大学ができたとしたら,それは従来の「大学」とは趣旨の違うものになるだろう。それはおそらく職業訓練校とか自動車教習所とかそろばん教室のようなものになるのではないか。ロースクールも,ハイブローだけれど職業に直結するという意味ではこれは職業訓練校である。しつこいようだがそういうのをバカにするのも間違いで,フランスにはuniversitéとは別に職業別のgrandes écolesとか,ENAみたいな特殊な職業訓練校というべきものが存在する。やっぱりそれはそれで必要なのだ。

しかし,それはいいとして,われわれがこのところ抱いているのは,マジで日本から「大学」がなくなる,という危機感なのだ。誰も考えたことがないことについて考えることのできる空間と,それを支える人々と,その営為から紡ぎ出されるえも言われぬ「何か」は,「必要」なのか否か。われわれは「必要ある」と答える(だからそういう職業選択をしたわけで)。しかし世間はけっこうあっさり「必要ない」と答える。われわれは圧倒的な少数派だ。これは困った。

本当は,「大学」は,次世代の国民を教育するための「公共」サービスであるはずである。大学に行った人だけが利益を得るわけではなく,大学に行った人も行っていない人も,国民全体が直接・間接に恩恵を得るのだという思想が教育という「公的なもの」政策のベースには必要だ。逆に,大学に行った人と行かなかった人とのあいだに文化資本の蓄積とか貧富の差の増大があってはそういう思想は崩れてしまう。そして「受益者負担」とかいう貧乏くさい言葉が流布するようになる。ホンマに「貧乏」なのと精神が「貧乏くさい」のは違うつもりなので念のため。

なお,「教育」が必要だと世間をして思わしめなかった大学人にも責任があるのではという声も聞かれる。まあ一理はある。上の世代のことは私は責任とれないけど。これから責任負いますけど。しかし文系の場合は,しばしば政府当局にとってはうるさい批判をしてくる「サヨク」どもにすぎず,学者が政府に嫌われるのは能力とか立場の問題ではなくむしろ構造的な問題である。だから政府がそういう自分をいつまでも飼い続けてくれると考える方がおかしい。それだけは確かである(ちなみに竹中さんは学者というよりは……)。でもって,われわれは政府に嫌われてもいいから大衆にウケないといけない,というジレンマにハマらざるを得ない。でないと今後は生活が不安定になるから。でこれというのは市場主義にまたしても落ちるパスなのである。残念。

▼皆さん大学に授業料を払うので(しかもこれから青天井につり上がるだろうので),元を取ろうと考えていらっしゃるようだが,それはなかなか難しいと思う。私は皆さんが大学に払う授業料は,大学という施設の利用権の対価と,学位(学歴)の対価だと割り切るようおすすめする。個々の授業に一つ一つ単価があると考えると,ムカついてやっていられないと思う。面白い授業だけ出てそいつはそれなりに勉強し,面白くない授業は徹底的に手を抜いてノートを借りて済ませばよいではないか。出席は代返をできる限り利用すること。代返の利かない授業は,これはしょうがない,あきらめるしかない。その時間そこに座ることが単位をもらうという「仕事」の一部と考えればまあ我慢できよう。教員の教科書を無理やり買わされることもあるが,それも金銭でカタのつく話,単位をカネで買おうというのだからもともとそういうものだとあきらめもつく。

要は,自分が大学を(カネを払った分だけ)好きに利用するのであって,その逆ではないということである。自分が客であるということをゆめゆめ忘れないよう,「能動性」を発揮してほしいわけだ(この発想は関西人ゆえなのか?)。使いこなしてこそ,くだらなすぎてどうしようもない大学ですら有用(ないよりはまし)になる。逆にそうしようとしなければ,ダメ大学はダメ大学のままである。宝くじは買わなければ当たらない。前回,そういう気の全くない受動的な人,ただサービスを待っているマグロ状態の人々を「ダメ人間」呼ばわりしたのはこの意味でである。

なお,「授業がめんどくさい」という不届きな教員に対しては,「じゃあ授業は要りませんから単位だけくださいよ(先生がまともに授業をしていないことは教務には黙っときますから)」などと,相互の利害の一致するような悪魔的提案をしてみるテストをすすめる(ものの言い方というのもあるから上手にやってね)。まあどうせ教員もそこまでする(授業そのものを闇に葬る)ほどの覚悟はない小心者だからそういう姑息なことをするのであろうが。それにしてもこれからはそんなのがチクられたら教員もただでは済まない(と思う)ので,なにかと学生側が優位に交渉できると思う。

ちなみに授業料値上げに関して言うと,どっかで読んだ記事にあったことだが,「これから授業料をだんだん下げてゆく予定のない国」は,日本以外には,たしかブルキナファソルワンダとマダガスカル?だけだったと思う。記憶に自信がないのでウラを取ってほしいが。ええ,これらの国々をバカにする気はないけれど,先進国(笑)としてこういうのと同じでいいのかっていう話ではある。ともかく赤旗なんかはそれでなくても日本の授業料は世界一と言っているし,だいたい少子化への強い追い風になってしまうのは明らかなので,政策当局者はよく考えてもらいたいものである。

世界がもし100人の村だったら考

ダグラス・ラミスという人は,以前からなかなか鋭い人だと思ってはいた。もと津田塾の政治学者で,護憲派の論客,現在は沖縄在住とのこと。これはまた政治的に微妙な土地であるよ。今日も琉球新報の,彼の手になる明瞭簡潔な(しかもかなり古い)記事を発見して,思わず快哉を叫びながら溜飲を下げた私こと中野であった。

……ともかく,彼が関係している本のなかで最も売れている(amazon調べ)のがこの本,ご存じ「ネットロア」代表の,『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス)である。この本は,趣旨はたいへん高邁であり,教育上もよろしいものであるが,不肖私としてはちょっと気になる点もなくはないのである。

「誰かがすでにコメントしていたらもう言わんとこう」というか,「そんなん言うのは野暮」みたいな,そんな細かいことである。しかしGoogleのロボットが巡回する範囲では,今に至るまで誰もコメントしていないようなのである。うーんどうしたものか。

Continue reading

日本語の「は」と「が」の違い(2)

先日の「は」と「が」の違いについての記事にいくつかコメントをいただいた。それについてつらつら考えるに,前記事に少し補足したいことが出てきた。コメント欄で答えるには長いので新たにエントリーを作ろうと思う。

筑摩屋松坊堂さんという方のコメント,一読して趣旨が取れなかったのだが,ブログの方を拝読して問題にされていることがわかった。なるほど。おっしゃる要点は,「実際のやりとりのなかでは『は』としか首相は言っていないのに,『が』に置き換えている新聞記事は捏造記事である」ということであろうと思う。

うーん。これはいい質問(ちがうか)である。

ある意味,この方は「は」と「が」ははっきり違うということを前提とされているわけで,その点では共感できる部分もある。もし私の記事でそのことに気づかれたのだとしたら,望外の喜びとまずは言うべきである。

ただこの件についての私の回答(ちがうのに)は,もちろん議事録本文も全部読んでみたが,残念ながら「これは捏造とは言えない」である。簡単に言うと,要するに国語の時間に習うように「文字どおり読むことだけが能じゃない」ということだ。松坊堂さんもまさにおっしゃるように,前後の文脈が肝心であって,「(本人の意図として)言わんとすること」や,「(本人の意図とは離れて)言ってしまっていること」も総合的に受け取らないとダメである。

▼具体的に見るとこの場合,まず岡田さんは「イラク特措法における非戦闘地域の定義を言ってください」と尋ねている。これに小泉さんは「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域なんです」と答えている。このやりとりは明らかにちぐはぐであるが,2つの解釈が可能である(これ以外にはたぶんないと思う)。

1. 小泉さんは質問に答え,非戦闘地域の定義として「自衛隊が活動している地域」と言っている。
2. 小泉さんは質問に答えず,意味のない回答をしている。

多くの新聞は,「は」を使っているメディアも含めて,1.の解釈に立っている。だからこそ問題になっているわけだが,もしこちらの解釈が正しい(小泉さんの発言は「定義」(=語義を1つに絞ること)である)とすると,先日の記事に書いたように

「非戦闘地域とは,自衛隊が活動している地域である」
「自衛隊が活動している地域が,非戦闘地域である」

という2つの書き方が,最も冗長性と曖昧さの少ないよい表現である。だから日経の記者は気を利かせて,首相の意を汲み,より正確な表現に置き換えただけだということになる(彼らの仕事は「そのまま書くこと」ではなくて「要約すること」なのだから)。

他方,松坊堂さんのおっしゃるように,もしこの助詞を変更することで本来の趣旨が損なわれるとするなら,われわれは2.の解釈に立つことになる。つまりこれは定義を答えているのではなく(「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域である」だと,「非戦闘地域」の「定義」にはなりえない!)自身の演説をしているだけ,要するに単なる苦し紛れ,という。この可能性も高そうだが,となるとこれはこれで問題のある答弁であることは動かない。「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域なんだ!」と何度も強調しておきながら,「非戦闘地域」の定義を言えない(小難しく言うと,述語の外延を決められない,ということ)というのでは,この文全体が空疎なものになる(「自衛隊が活動している地域は,何とも言えん地域である」?)。岡田さんはこっちへ,つまり「ほら,言えてないじゃないか」と攻めようとしたようである。まあそれもわかるが。

というか,仮にこちら(2.)のほうが正解だったとしても,「非戦闘地域」の内容が積極的に何も言えていない以上,やはり「それは自衛隊が活動している地域」としか首相は言っていないことになる,と受け取る側は捉えるほかないのではないか。空疎な内容と強い語気。これはまさにトートロジー(同義語反復)にふさわしい。多くの人にとって,「自衛隊が活動する地域は非戦闘地域である,これがイラク特措法の趣旨なんです」という小泉さんの強い言葉は,(「それはまずいんじゃない?」という印象とともに)結果的に1.と読めてしまうのは,だから,やはり無理もないところなのである。

いずれにせよ,このケースで「は」を「が」と書くことは,「捏造」と呼べるような大層な話ではないのだ。言っている内容的には「が」のほうが限りなく正解に近いのだから。

▼なお,イラク特措法の文言も確認したが,この中に「非戦闘地域」というものの定義は特に書かれていない。首相の言う「自衛隊が活動している地域」は,この文言の中のおそらく「人道復興支援活動又は安全確保支援活動」(ひっくるめて「対応措置」と呼ぶ)が行われる地域,というのに対応し,その対応措置が行われるべき地域というのは,「我が国領域及び現に戦闘行為(……)が行われておらず,かつ,そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる……地域」と言われている。岡田さんが言ったとおりである。

ところで議事録から見るに,岡田さんは,小泉さんがまずこれをちゃんと答えることを想定したそのうえで,「サマワで今後1年間戦闘行為が起こらないという根拠はどこにあるのか」を問い質したかったのである。ところがそこに行くまでに小泉側で勝手にコケているので,まったくもって調子狂っちゃっているのである。

また「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域である」という小泉さんの言う「趣旨」は文言上からは確認できない。が,「対応措置を実施する区域」すなわち「実施区域」は,防衛庁長官が決められることになっている。おそらくだが,いざとなれば自衛隊をどこにでも動かせるようこの法案が作られたのは本当ではあろう。その点小泉さんは正直だったと言えるかもしれない。こういうのがフロイト的「言い間違い」(Freudian slip)というやつである。しかもあとで,「いい答弁だった」とか言って自画自賛している。無理しちゃって。本気でそうは思ってないはずだ。彼もバカじゃないんだから。

小泉さん側としては,「戦闘地域」も「非戦闘地域」も本来テクニカルタームではない(法律上定義のはっきりしたものではない)のだから,いっそつじつまのあうように自分で適当に考えて言えばよかったのにね。単純に「まさに戦闘が起こっていない地域が非戦闘地域です」くらいに。で「サマワはそれに該当します」で何とかかわせそうだが,無理かな?

うーん,しかしまあ,全体としてどうでもいいような話ではあるなあ。首相個人がどう言ったかとかはなぁ。いや問題なのは問題なのだが,言った言わないで揉めてる局面でもないのですよねぇ。人が死んでるのに……。

日本語の「は」と「が」の違い

日本語の「は」と「が」はきっちり違う。先日から論理学な話をロンリー(©内井惣七?)にやっているが,今日はこれを論理学的に攻略してみたい(別に私は論理学の専門家じゃないのだが)。

禿しくガイシュツの可能性もあると思われググッてみたが(やめろよその口調),ともかくよくわからないという意見が多いようだ。

Continue reading