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社会分析学ウェブサイト @中野昌宏研究室 - 時事 Archive

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時事 Archive

「失言を産む機械」

ご案内のように,柳沢厚労相の「(女性は)子供を産む機械」との発言が波紋を呼んでいる。そんなこと言うなら,安倍内閣なんか「失言を産む機械」だ。いやガタリふうに言うと「失言を産む機械状無意識」だ。あるいは「失言を産む器官なき身体」とか(わからない人ごめんなさい。てかググりなさい)。

しかしね。そもそもが極右政権なのだから,このくらいの暴言は国民にとっても十分想定内であったはずだろう。石原慎太郎だって同じようなことを言いそうだが,あいつなら絶対に謝罪しないだろう。それでもそういうのを支持する連中も世の中にはけっこういるのである。

それとも,実はボーッとしてた国民が今になって「うわ,こいつらちょっとキてる」と気がついたのだろうか。だとすると不幸中の幸い,ある意味で喜ばしい事態である。

で,民主とかどうするの? 辞任要求なんかするの? こいつ1人に辞任してもらってどうするの? 他だって同じようなやつばっかだぜ? むしろ安倍内閣の顔として居残ってもらって,支持率低下に力を貸してもらった方がいいだろうに。と私なら思う。

「敵に間違いを認めさせる」というのも一つの戦略だが,「敵方のイメージ低下を狙う」という別の戦略もアリですよ,野党議員さん。

柳沢氏は形式的には謝ってはいるけど,誰も真に受けていない。おそらく彼はほんとに女性をそういうものだと思っているだろう。こういう局面で口先だけの謝罪を引き出したりしたって意味がない。辞めさせたってまた似たようなやつが来るだけ,どうせまた同じ人間が任命するんだから。だったらそういう人物にはそのまま内閣に居すわってもらってはいかがか。こちらは余裕の笑みで。

そして,限られた時間をもっと有効に使うべきである。

▼そっちの話より,アパの耐震偽装の件,やっぱりイーホームズの藤田氏やきっこ氏の言うとおりになってきたではないか。こちらのほうが一閣僚の舌禍などよりよほど大きな問題であろう。

マスコミは水落建築士を叩いているが,それ以前に事件を今まで報道せずスルーしてきたマスコミ各社自身の責任や,事件の隠蔽に加担してきた国交省の責任,そしてこれらに圧力をかけてきた黒幕連中の責任を追及していくのがやはり本筋だ。安晋会との関連とか。野党側にはがんばってもらいたいが,それにはまず追及すべき民主側があの鳩山をどうにかすることが前提なんだろうなぁ……(きっこ情報に基づく)。馬淵議員も深入りできないみたいだし。まったくひどい話である。

結論。民主の議員は身辺を綺麗にして,自民党のドロドロの利権構造をすっきり掃除してほしいなぁ。そして「美しい国」(爆)にしてほしいなぁ。ってもやっぱ期待できないかなぁ……。ちなみに皆さん中韓では「美国(メイクォ)」って「アメリカ」のことだって知ってました? 

最近忙しくて電池切れ気味なので,今日はこのへんで。

海外における「正しい」日本食/アイデンティティーの承認をめぐる闘争

スシハウヌだ?今晩のニュース23でもやっていたけれど,「国が『正しい日本食』を決める」ということで,そのことに疑問の声があがっている。筑紫哲也氏もそんなご意見のよう。あるいはライブドア・ニュースの記事もそうだった。

海外で「正しい日本食」を認定してもあまり意味がない?

 ニューヨークでは韓国料理店や中国料理店も寿司を出したり、日本的な寿司と同時にフュージョン寿司も出す「スシ・オブ・ガリ」のような店もあり、ちよだ鮨のような純日本的な寿司店もある。まさに百花繚乱状態で、中には変な日本食店があってもいいではないかと思うのだ。

 一番の賞賛方法は模倣すること、というアメリカの諺がある。日本料理をどんどん模倣して新しい料理を開発して食べさせてくれる店というのも一興ではないだろうか。わたしは遠慮しておくが。

言わせてもらうが,いやいや,そういう問題ではないのである。

私の立場を先にはっきりさせておくと,「正しい日本食」とそうでない日本食とのあいだに線を引こうとしてもらうことは,ちょっとうれしいことである。なぜなのか。説明しよう。

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私の教育改革案「国会を単位制に/議員には哲学を必修化」

さて例の教育基本法だが,まずは資料から。

同時に,そもそも「憲法」とは何なのかを知っておいた方がよい。日本はむちゃくちゃに特殊なのかも知れんが,ごく普通の感覚では憲法というのは国民側が国家にはめる箍(たが)である。国民主権という話で,主権者はいったいどっちなんだという話だ。つまり国家(一部の執行部の人々)が一人一人の国民全員の権利や自由を侵害しないようにするためのルールである。今回のは「基本法」だが,これも憲法に準ずるものという位置づけなので,こんな感じでやってくれという「国民から国家につける注文書」という性格が本来である。教育というのはよくも悪くも一種の「洗脳」なので,ここはきちんと注文をつけておかないとまずいところだ。

今さら何だけども,今回の新案はまさに珍妙である。逆に国家が国民に注文をつけているのだから。というよりも底知れぬ悪意が感じられる。これの草案を作成したであろう東大出もしくは同等に高学歴の本省官僚が(いや誰か知らんけど),憲法の意味も知らないなどありえないことである。「それはちょうど気取った銀行家が,『素人にはデタラメな説明をしておけば十分』とメモ用紙に書いているようなもので」(パース『連続性の哲学』,岩波文庫,p. 127),全く国民をバカにしている。

というわけで,この改正のポイントは,国民が国家にこれだけは守ってやってくれというはずの法律が,国家が国民にこれこれを守らんとしばくぞという法律にまんまとすりかわっているというところなのである。みんな知ってると思うけど。

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マスコミ批判をしてもしょうがない。それよりもやることがあるだろう

今回の記事はいくつかの不穏当な発言を含んでいるかと思うが,どうか真意をご理解いただきたい。

私はいま,留学生が3分の1いるクラスで靖国問題について議論している(英語)。留学生はアメリカ,ドイツ,オランダ,中国,台湾,などなどから来ている。アジア系の留学生がもっと来るのでは,という予想に反し,韓国からの学生がいないのが何とも残念である。やはりこのデリケートなテーマを嫌ったのかもしれない。

中身としては,日本の戦争の歴史,靖国神社の背景,神道とは何か,天皇とは何か,東京裁判とは何か,A級戦犯とは何か,中韓の立場はどうか,アメリカの立場はどうか,日本とドイツの違いは何か,などなど,さまざまのトピックに分けて報告してもらい,議論をしている。学期の半分まできたところだが,当初面白くやっていたのが,どうも議論が盛り上がらない。確かに勉強にはなっていて,特に日本のことをよく知ってもらいたいというこちらの意図自体は大当たりであると言ってよかろう。しかし小泉前首相の靖国参拝について意見を聞いてみても,ほぼ全員が「それはあかんやろ」という反対の方に回ってしまって,支持する者がいない状態である。盛り上がるはずがない。

なあんだ,やっぱりそうなのかと思うと,気が抜ける。ヘタレネット右翼なんて,その名のとおりネット上にしか沸いていないのかもしれない。これだけ情報を仕入れて合理的に考え,国籍を超えて多角的に議論すれば,変な答えなんてそうは出ないものだということなのかと,多少の安堵を覚える次第である。

この件に限らず,どうも皮膚感覚においては,つまり自分のすぐ周囲の状況を見れば,現今の日本において翼賛的言説がそんなに優勢とは思えないのである。にもかかわらず,現実に日本最大の地方政府である東京都は極右知事をいただいているし,国家レベルでもついに極右政権が誕生してしまった。ヨーロッパではルペンでもハイダーでも熱心な支持者がいる半面,大方の国民からは反発を食らっているのに,日本では何の波風もなく安倍がトップになるなんて,このギャップは何なのだろう,と思わざるをえない。

▼一つの仮説として,「情報を仕入れる」ことはきわめて能動的な作業であるので,忙しい日本人にはなかなかやっていられない,だから雰囲気に流されてしまう,ということが考えられる。皆さんご指摘のようにマスコミは全てを報道してはいない。それはインターネット上の情報を詳しく調べてみればすぐわかる。しかしこれはもう一度言うがかなり緻密な能動的作業である。私は仕事の一部だから仕方なくしているわけだが,なかなかしんどいものである。

「マスコミが,権力に屈せず,正しいことも悪いことも報道してくれればよいのに」と私も切に思う。ネット上を眺めてみても,みな異口同音にそう言っているように見える。確かにマスコミを叩くのはたやすい。

しかしもしかしたら,われわれは発想を逆転させねばならないのかもしれない。マスコミの立場になってみよう。現政権の悪口を書くとパージされることが確実であるようなマスコミの立場に。そのとき,プロフェッショナルなら命を張って正しい記事を書くべきだ,と言い切れるだろうか?

ジャーナリストも人の子である。家族もあるだろう。自分の命が危険でも記事は書けるかもしれないが,家族の命が危険なら,記事を書くことはできるだろうか。

で,私は,「それでも書け」というのは酷だと思う。

落ち着いて考えてみれば,この状況で非難されるべきは,書くべきことを書きたくても書けないでいるジャーナリストではなく,恐怖政治を布いている為政者であるに決まっている。

恐怖政治はすでに始まっているのである。だから,逆に考えよう。われわれ国民が,マスコミを政府の圧力や介入から守らなければならないのではないか。われわれがマスコミを擁護しなければ,マスコミは本来の機能を果たせないのではないか。現在マスコミが機能不全であるのは,ジャーナリストたちの安全が保証されていないからで,それはわれわれの力が足りないからではないのか。

それは政府の力は絶大だろうが。あと産経や読売はこの限りにあらずとも思うが。

まあそうは言っても,いずれ一市民ができることは大してない。せいぜいネット検索をして,能動的に情報を集めて,取捨選択して,マスコミも追随できそうな世論にもっていくというような,ある意味遠大な作業か。それでも,嬉しがってマスコミ批判などしていても仕方がないのは確かだ。

▼最近,イーホームズの藤田東吾社長が,まるでドンキホーテさながら,一人で国を相手に闘っている。例のきっこのブログを中心に情報が入ってくる。悪く言う人もいるようだし,本当に信用できる話なのかどうか,私も事態を注視しているところである。

動画でしゃべっている彼の言い分を聞いていると,なるほどそういうことかと思うと同時に,対立する側の国交省やもろもろの当事者の反論を聞きたくなる。対立する側の言い分が全くわからない以上,現在のところ藤田社長の言い分は筋が通っていると聞こえても仕方がない。実際彼の告発を聞くことで,1年前には訳がわからなかった不連続な点と点が線になってきた。

阪神大震災のときにも,某ゼネコンの物件ばかりが選択的に倒れており,その際にも若干いろんなことが噂になったのではあるが,おそらく彼の言うとおり,日本には無数の改竄物件が現に建っており,そこに居住する人々が多数いるということなのだろう。お叱りを受ける覚悟であえて言ってみるが,震度5強以上の地震が起きる頻度は関西では70年に一度である一方,日本の家屋の耐用年数はせいぜい30年そこそこであり,つまりは建物が建っているあいだに強い地震が起こるのは確率論的な問題ということになるので,あまりにも頑強な建物を建てるのは「オーバースペック」だ,と考えることもできるかもしれない。だから震度5強に耐ええなくても30年建ち続ける建物ならばコスト削減ということでまあいいか,という考え方もアリかな,と私も思わなくもない。ただこんな呑気なことを考えられるのも,私の実家(東灘区)がたまたま倒壊しなかったからかもしれない。

しかしいずれ,もちろんルール違反ではあるわけだ。たぶんこんなことは業界では「公然の秘密」であろう。うっすらとした記憶に「50キロのところを57~8キロで……」などとのたまった御仁もいたが,そのような種類の,罪の意識の薄いルール違反だ。世の中にはそうした,えーっと今の今まで赤信号をみんなで渡ってました的な「公然の秘密」はいくらでもある。

もしこんなのを究明してしまっては現政権に絶大なダメージが出る(らしい)。何といっても安晋会が,つまり現首相が絡んでいるというではないか。何人,何十人,下手をすると何百人の,大臣や高官の生首が飛ぶ。これは政府側は何としても避けようとするだろう。政府が藤田氏を早く黙らせるもっとも簡単な方法は,証拠をもって彼を論破することである。それができれば藤田氏は黙るしかないだろう。しかるに,政府は今のところそうできない様子というか,情報がちぐはぐで線にならないので,どうしても疑わしく思えてしまうのである。

本当は,履修不足という「公然の秘密」を暴いたのだから,耐震強度不足という公然の秘密もまた暴かれなければ,公正さを欠くはずだろう。

はっきり言うが(ぜったい怒られるから言いたくないけど),私に言わせれば,履修不足の問題など芥子粒ほどの小さな問題でしかない。全国の高校の校長先生に言いたいが,こんなことは自殺するようなことではない。まあ社会科で手を抜かれるのは確かに困るが,授業をやっていて単位が出ていても現実にどれくらい授業参加がなされているかは全く不透明だからだ。毎回寝てる奴もいるし。学校間格差の問題もあるし。単位が出ていても出ていなくても,そのことは所詮形式的で表面的な問題にすぎない。高校が卒業してよしと判断したレベルなら,それをさらに外野がどうこう言うのは杓子定規すぎるし,大したことない者どうしの足の引っ張りあいにしかならないし,何十年も黙認しといて今さら何だよというのが大学人の本音である。どうせこれも教育基本法改正にもっていきたい安倍流のいやらしい手口かと白けるばかりだ。それでも「悪いことはやっぱり悪い」とおっしゃる方には,どうぞはるかに重大な帰結をもたらしうる耐震偽装問題のほうも,真相を究明せよと声高に叫ぶことをぜひお願いしたい。

▼その教育基本法にしても,やはりわれわれには必要な情報と知識が不足している。ネットにはいろいろ出てきてはいるが,さまざまな知識が人々に浸透する前に「強行採決」が行われている以上,そしてそれが与党の戦略である以上,仕方がない。それはそれとしてあきらめつつ,われわれにはいずれにせよ能動的な研究が必要不可欠である。これについてはまた改めて書こうと思う。

いじめの件について

ご案内のように,このところいじめの被害者たちが自殺している。文科省は毎日届く予告状への対応に苦慮しているらしい。

いじめられた人間が自殺する理由は2つ。(1)いじめられている環境から抜け出せるから。(2)いじめたやつらに抗議できるから,あるいはそいつらを社会的に制裁できるから。自殺というオプションは,この意味で一石二鳥なのである。両方の動機があるからこそ,死ぬのもアリかなと思えてくる。

ということがわかっていれば(想像すれば誰でもわかるよね?),この期に及んで「命を大切に」なんて表層的な言葉が何の意味もないのはわかりきったことである。なのになんでそんな変なこと言ってる人がいるの? 命を大切にして,卒業までは毎日地獄でも耐え抜きなさいとでも言うつもりなのか。サディストだなあ。

予告状への対応は,だから,ちょっとかわいそうだが「むやみに報道しないこと」が正解。それがマスコミに出ず,抗議として成立しないのであれば誰も予告状は出さないし自殺もしない。ヘタをすると無駄死にになるからね。ニュース23の筑紫哲也が言ってたそうだが(自分は見てない),WHOも遺書の公開などはするなと言っているそうだ。

「写真や遺書を公表しない」
「自殺手段の詳細を報道しない」
「自殺の理由を単純化しない」
「自殺の美化やセンセーショナルな報道は避ける」

これも正しい。すでに出てきている予告についても,「今後当分のあいだ,自殺者が出ても報道しない」姿勢をマスコミが明確にすれば,全部は無理だろうが,何割かは防げると思う。

死なないようにしておけば,あとはマル激内藤朝男さん(社会学者。『いじめの社会理論』)の回を参考に。学校内に市民社会のルールを導入せよと。基本的にあれが解である。というか何で今まで放置されてきたのだろう。理解に苦しむ。

知人が自分の学生時代について振り返って,どうだったか話してくれたことがある。「だからな,学校に本物のヤクザがおんねん」とか。爆笑やけど,アホやな。ヤクザなんか学校におったらあかんよ。

政教分離のキモ

ローマ教皇ベネディクト16世の発言が物議を醸しているのは,ご案内のとおりである。教皇が,イスラム教は本質的に暴力を許容するものだ,という内容のことを発言したという話。「バチカンも,バカチンだなあ」などと乾いた笑いを飛ばしているあなたは,はたして事の真相をご存じか。どうも報道がおかしくないか。

と思ってネットでニュースを探し回ること3分,産経とgooニュースに発言の抜粋があった。バチカンの原文も発見したので見比べてみると,どうもgooニュースの方が翻訳としてはよさそうである。

ともかくこの発言中の難点の1つは明らかで,各社報道しているように

皇帝は『ムハンマドがどんな新しいものをもたらしたか、見せてほしい。自分が唱える信仰を剣で広めよという教えをはじめ、邪悪で非人間的なことばかりだ』と言った。

という一文だろう。が,これは「皇帝」の発言だし,ローマ教皇の考えではないのは確かだ。全体の論旨もイスラーム批判とは無関係。ドイツの人たちもそう言って擁護している模様。

ただ,ちょっと刺激が強すぎただろうなとは思う。イラク戦争とかイスラエルの侵攻とかいう情勢のなか,それでなくとも相手は激怒モードなのに,マヌエル2世の言葉を借りているとはいえ邪悪とか非人間的とか言われた日にはなあ。教皇も「空気読め」と言われてもしかたがないな。

というわけで,教皇のお言葉をもう少し検討してみよう。

クーリ教授が編集した7つ目の対話の中で、皇帝は聖戦について触れている。皇帝は(コーランの)第2章256に『宗教に強制はない』と書いてあるのを知っていたに違いない。専門家によると、この章(スーラ)は初期に書かれたもの、ムハンマドがまだ無力で危険にさらされていた時期のものだという。しかしもちろん皇帝は、後に唱えられコーランに記録された、聖戦についての指示も知っていた。皇帝は『聖書』を信仰する者たちと『異教徒』たちへの扱いの違いなど細かな議論には触れず、一般論として宗教と暴力の関係について、驚くほど直接的に、対話相手に問いかける。皇帝は『ムハンマドがどんな新しいものをもたらしたか、見せてほしい。自分が唱える信仰を剣で広めよという教えをはじめ、邪悪で非人間的なことばかりだ』と言った。

皇帝は、自らの考えをこうして力説した後、暴力による布教がなぜ理性に反するのか、その理由を詳細に論じ始める。暴力は、神の本質、魂の本質とは相容れないものだと。皇帝は言う。「神は、流血をお喜びにならない。また理性的でない行動は神の本質に相反するものだ。信仰は魂から生まれるもので、肉体から生まれるものではない。他人を信仰へ導く者は、暴力や脅迫を使わずに、よく語りよく議論できる者でなくてはならない。理性的な魂を説得するには、腕力も武器も必要なく、死をもって人間を脅すようないかなる手段も必要ない』と。

皇帝が対話で、暴力的な布教活動に反対して主張いるのはつまり、こうだ。理性なき行動は、神の本質に反するものだということだ。

(gooニュース 9月16日付より)

ちなみに,gooニュースが抜粋しているのはここで切れているのだが,実はこの直後にこう続いていたりする。

しかしムスリムの教えにとっては,神は絶対的に超越的なのである。神の意志はわれわれ人間のいかなるカテゴリーにも拘束されず,理性というカテゴリーによってすら拘束されないのである。ここでクーリは著名なフランスのイスラーム主義者R・アルナルデスの著作を引用している。アルナルデスが指摘しているのは,イブン・ハズン(原文では Ibn Hazn; ハズム Hazm の誤り?)は,神は自らの言葉にすら縛られないとまで言い,神がわれわれに真理を明かすよう仕向ける強制力は何もないとまで言っている事実である。もしそれが神の意志であるならば,われわれは偶像崇拝をすら行わなければならないのだ。

ここのところにも微妙にトゲがあると言えなくもない。「何しろ理性をも超えちゃってるからね。イスラムの神はね」みたいな。

まあ教皇の論旨は全体として「宗教の名を借りた暴力」批判なのだが,それ以外の要素も伝わってしまわなくもないご発言であった。ていうか,暴力批判の文脈にイスラームを代表例として引き合いに出すだけでも十分やばい気がする。それなら十字軍とかもっと最近の「新十字軍」とかを引き合いに出した方が安全だったろう。……とも思ったが,まあ十字軍の場合は,領地とか褒美欲しさに行ってただけだから,教義のために死ねるイスラームよりももっともっと世俗的なものだったろうけれども。

ではあっても,このイランの人は教皇の発言は読んでないよねきっと。いくらなんでも。読まずに言うのはいかがなものか。

▼さて私自身,イスラームについてそんなに知識があるわけでもない。のに,イスラームに共感的な論考を一筆書いたことがある。書いていた当時はたしか911後,アフガン空爆時だった。5年前の911では,アメリカ人は「なぜこんなに恨まれるのかわからない」と口をポカンと開けていた。長い年月をかけて自らの命をかけて大勢の命と引き換えにしようとするムスリムたちの真意を測りかね,その理解を超えた敵意に恐れ戦(おのの)いていた。多くの人々が,悲憤慷慨し,「テロの危機」を口にし,絶望と不安の淵にいた。要はパニック状態だった。そして人々の不安を煽り,軍備を拡張し,死の商人(自分)の懐を潤し,「すわ好機ぞ。ついでに気に入らん国もつぶしちゃおー」とかいう勢力があったりした。

そんなもん歴史を繙けば,「アメリカがなぜ恨まれているか」はど素人にも30分でわかることだ。ついでにイギリスも。19世紀からこっちを見るだけでいいから簡単だろう(逆におおかたの高校の授業が到達できない鬼門でもあるが)。第1次大戦以降イギリスとアメリカが中東で何をやってきたか。アメリカ人はきっと何も知らないだろうが,けっこうひどいぞ。ついでに昨今のグローバリゼーションだ。そんなに紳士的にやってこなかった以上,勝ち組の方が恨まれるのもある程度仕方ない。

まあともかく,当時の私としては米英一辺倒の論調のバランスをとるためにイスラーム寄りの解説を授業とか公開講座とか論文とかで開陳してきた。いまもその共感はキリスト教徒へのそれに劣るものではない。が,やはり一点だけ,イスラームの教義にまずいところがあると思っている。さて,それは何だろうか。

「全知全能の神」というのも実はパラドックスを生むものだけれど,それはご愛嬌の範囲内だと思う。愛嬌ですまないのは,そう,この記事のタイトルからも察しがつくとおり,「政教一致」を原則としているという点だ。いやまあ,「全知全能」と無関係ではないところだが。

▼ちなみにわれわれ日本人は定着した用語として「政教分離」と言うが,英語では「separation of church and state」と言い,つまり「教会と国家の分離」と言う。「separation of religion and politics」ではないのである(ググってみて,頻度を確認すべし)。

「政教分離」ではなく「教会と国家の分離」と言われると,そこではじめて何やら高校で習った世界史の知識が走馬灯のように蘇り,浮かんでは消え,消えたらもう二度と浮かばない……みたいな錯覚が起こるのではないだろうか。そう,ヨーロッパの歴史は教皇を頂点とする教皇権と,封建君主を頂点とした世俗的な国権との二重構造になっていたというあの話が思い出される。教皇と国王の壮絶なバトルは,はるか後の極東の国,日本の人気テレビ番組「カノッサの屈辱」すらをも生み出したのである。

教皇権と国権はもともと出自の違うものだから,分離といってもある意味当たり前ではある。実際には,長年にわたる権力闘争の末に至った「棲み分け」の原則,落としどころのようなものだろう。

ただ,ここでは「もしそれらが一致していたらどんなことになるか」という想像力が必要となる。もし宗教的な権威が,具体的な権力――警察力や軍事力――を手にしたらどうなるか。かなりなフリーハンドが実現することになるだろう。

ついでに言えばここで重要なのは「宗教」をちょっと広く取っておくべきことである。たとえば,フランス革命時のジャコバン派の考えとか,ヒトラーの優生思想とか,共産主義の思想とか,そういうものはみな「疑似宗教」的に機能したし,こいつらと武力的な実力はセットだったから,とてつもない専横を招いた。だってブレーキがないんだもん。

▼ここで「宗教」と呼ぶべきは,「善」とか「正義」とか「正当性」とか「大義名分」の基準を与える何かである。その教義の体系がどのようなものであれ,もし誰かが十分な数の信者をもった宗教を牛耳り,同時に世俗権力も握れれば,かなりなことができる。死刑が確定した麻原のオウムにしても,そう大きな集団ではなかったにせよ,日本社会に甚大な被害を与ええた。それは,教団内には構造的に「ブレーキ」になるものがなかったからである。

「正義」を握ってしまった人物と対立することは,そのまま自分が「悪」のレッテルを貼られることを意味する。それが社会的な死を意味することもある。昔のカトリックで破門なんてされたら,雪の中で三日三晩,三跪九叩頭の礼を尽くさねばならないほどであった(あれ? そうだっけ?)。加えてその「正義」の人物が警察力をも握ってしまったらどうなるか。自分の意見に合わない人物はどうせ「サタン」なので心おきなく実際に死なせることもできる。すでに「政治犯」ですらないからねぇ。

かくして宗教的権力と世俗国家的権力の二冠王というのは,それだけで十分怖いものなのである。特定個人(集団)が正当性を一手に握ってしまい,「俺がルールブックだ」という状態を作り出してしまうからだ。したがって「政教分離の原則」のキモは,その二冠達成を阻止するということにある,と私は思う。

で,イスラームの教義はやはりここがやばいと思う。ロジックとしては,論文にも書いたようにイスラームの方がすっきりしている。二重権力構造は,つまりは「二重基準(ダブル・スタンダード)」の社会である。それは宗教的な価値という視点から見れば,腐敗・堕落にすぎない。そう言い切れる清廉さは私も理解するし,評価もしたいところである。

イスラーム国家の現状が悪いという批判をしているつもりではない。そうではなくて私が問題だというのは,構造的に,たまたま政権トップがよい人だったら問題ないが,トップの人物に悪意があるとか,極端な思想をもっていたりした場合,誰にもブレーキのかけようがないからなのである。アラファトなども腐敗を糾弾されていたが,あんな腐敗程度で済んでよかったとも言える。パレスチナのような危険地帯を問題ある人物が統括していたら,もっと凄惨な悲劇に結びつく可能性もあったはずだからだ。

逆に,フランスのスカーフ問題などは,禁止された側のムスリムの方々には申し訳ない言いぐさだが,どっちでもよいと思う。上の意味での政教分離(フランスでは政教分離原則のことを「ライシテ Laïcité」という)という話よりは危険性・緊急性が薄いからである。ただしちなみに,私自身はフランス国家と異なり,公立学校内でのスカーフはOKだと考えている。理由は,公立学校も公的な場所であるが,そのへんの道端も公的な場所であるから,学校で禁止するなら道端でも禁止しないと整合性がないと思うからである。で,両方とも禁止するか両方とも許可するかしかないが,現実問題両方禁止するようなことは信教の自由上ありえないだろう。だからスカーフOKという。

▼教会と国家は分離しておいた方がいい。というか分離すべきである。と私は平たく考えるが,「教会と国家の分離」という原則はそういう意味ではないとする説もある(アメリカでは,という意味で)。つまりこれは,国家が特定の教会・教派と結びつくのを禁止するという話なのであって,その点を守れば国家が宗教的なことをしてもいいし,いろんな教派が国家形成に参加するのはむしろいいことだ,という話になるらしい。

まあそう言われればそのような気もするし,それでもいいような気もするが,まあいいかなと思えるのは,国と結びつくのが「いろんな」宗教である場合だけだ。それが単独の宗教(「国教」)だったら,やはり問題だ。それに反する考えを持つことが許されない(控えめに言っても,不利になる)からである。

だいたい,別にその解釈をアメリカに準拠する必要もないのではと。日本では宗教的道義が価値判断の基準になることはあまりない。国家が結びついてはいけないのは「特定の教会」なのか「教会一般」なのかが問題になるような気は正直言ってしない。日本には日本の「政教分離原則」があればよい。

じゃあ日本という国家にとって神道というのがどういう位置づけになるのか,これはなかなか難しい問題である。特に,「死者を弔う」ということを国家がやろうとしたら(そしてもちろん国民がそれを支持する場合),それは定義上宗教的な作法になるのだから,そこは「では,神道で」ということになるのかもしれない。あるいは「いや,仏教で」というのも乙な選択かも。神仏習合。本地垂迹説。神道の単独国教化はやはり気になるので。

でも,霊媒に政策判断をさせたり,祈祷に公金を使ったりするのはちょっとなあ(実際,科研費を祈祷に使っていた人がいて問題になっていた(笑))。

まあそういうことはしないと思うがなあ。宗教と政治が一致するというのは,どうもそういうイメージがあって困る。あとカネの流れが不透明になるのがなあ。

▼教会と国家の二重権力構造。しかし日本にも昔から似たような事情はあったことを思い出さないかい? つまり天皇と,将軍である。維新では天皇が担ぎだされて新体制へと。そこはよかったのかもしれないが,天皇と政府が一致してしまったがゆえに(と言いたい)その後あの戦争に突き進んでゆくのは周知のとおりである。唯我独尊状態にあったから逆に当然とも言えよう。

で,戦後は天皇は神から「象徴」へ,神道は国教から一宗教へ降りたわけだが,今度は天皇の方が宗教性を失ってしまった。というか,道徳的正当性の中心ではなくなってしまった。

小泉首相が靖国神社を参拝し続けることで,いわゆる「靖国問題」がもちあがった。この人こそ唯我独尊の人である。と考えると,逆に天皇に道徳的正当性を担ってもらって,小泉のブレーキになってほしかったと今や思える。あ,「天皇の政治利用」とか言われた富田メモだが,あれを振りかざす手法はここで私が縷々述べた昔ながらのやり方であって,世俗権力である小泉側が文句を言える筋ではないのでよろしくお願いしたい。

安倍次期首相(はっきり書くけどもうええやろ)もかなり「宗教的」な人物である。いくつかの宗教とコネクションがあることもそうだが,彼自身が世俗宗教の教祖となりそうな予感がする。メディアではすでに自民党内での安倍支持票が500票に達しそうだと報じている。この現象はいったい何なのだろう。国民の投票(Yahoo!みんなの政治)では安倍は16%と最下位なのに(この投票には何らかのバイアスがかかっているのだろうか? ありそうなことだが)。

このことは,市井の者の目には見えない,永田町でのみ通用する霊力が安倍に集中していることを意味するのではないか。まことに謎の多い人物である。

誰かこいつのブレーキになってくれるのはいないのか。やっぱアメリカにしかいないのかな。

クラスとメンバーの政治経済学

一見平等にしつらえられている社会だが,まあ皆さん先刻ご承知のとおり,実際のところはそうでもない。力の強い者が強く,弱い者が弱い。ただそれだけ。

ではどういう者が強く,どういう者が弱いか。これが問題だ。

「金持ちは強く,貧乏人は弱い」か。当たらずといえども遠からずだろうが,正解として十分ではない。それは私の考える回答の特殊ケースにすぎない。

あるいは「人民は弱し,官吏は強し」(星新一)なのだろうか。私に言わせると,これもちょっと一面的な特殊ケースの部類である。

要するに,こういうことなんじゃないだろうか。

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