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	<title>社会分析学ウェブサイト @中野昌宏研究室 &#187; 時事</title>
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	<description>青山学院大学 総合文化政策学部（SCCS）から投げる直球。</description>
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		<title>エマニュエル・トッド　国際シンポジウム</title>
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		<pubDate>Sun, 11 Oct 2009 16:41:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>中野昌宏</dc:creator>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>
		<category><![CDATA[時事]]></category>
		<category><![CDATA[研究]]></category>

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		<description><![CDATA[				私の学部主催のシンポジウムがこの15日（木）に開催されます。トッドさんは76年にソ連崩壊を予言し，的中させたことで一躍著名になりましたが，どうやらリーマン・ショックも予言的中といったところで，今後注目されていくのではないでしょうか。ところで私も知りませんでしたが，この人はポール・ニザンの曾孫さんなんですね。
				
				（青学大）エマニュエル・トッド来日　国際シンポジウム
				「帝国以後」の世界――世界経済危機と『デモクラシー以後』
				（藤原書店）
				（大学プレスセンター）
				
				まさに「社会分析学」にふさわしいイベント。ぜひご来場ください！　
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		<title>自衛隊に監視されてたの？</title>
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		<pubDate>Wed, 06 Jun 2007 14:40:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>中野昌宏</dc:creator>
				<category><![CDATA[時事]]></category>

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		<title>ファシズム時代は「いじめ」の時代</title>
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		<pubDate>Fri, 13 Apr 2007 13:43:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>中野昌宏</dc:creator>
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		<title>浅野史郎さんへの出馬要請</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Feb 2007 18:00:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>中野昌宏</dc:creator>
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		<title>「失言を産む機械」</title>
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		<pubDate>Tue, 30 Jan 2007 15:07:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>中野昌宏</dc:creator>
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		<title>海外における「正しい」日本食／アイデンティティーの承認をめぐる闘争</title>
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		<pubDate>Thu, 23 Nov 2006 18:38:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>中野昌宏</dc:creator>
				<category><![CDATA[フランス]]></category>
		<category><![CDATA[時事]]></category>

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		<description><![CDATA[				今晩のニュース23でもやっていたけれど，「国が『正しい日本食』を決める」ということで，そのことに疑問の声があがっている。筑紫哲也氏もそんなご意見のよう。あるいはライブドア・ニュースの記事もそうだった。
				海外で「正しい日本食」を認定してもあまり意味がない？
				
				　ニューヨークでは韓国料理店や中国料理店も寿司を出したり、日本的な寿司と同時にフュージョン寿司も出す「スシ・オブ・ガリ」のような店もあり、ちよだ鮨のような純日本的な寿司店もある。まさに百花繚乱状態で、中には変な日本食店があってもいいではないかと思うのだ。
				　一番の賞賛方法は模倣すること、というアメリカの諺がある。日本料理をどんどん模倣して新しい料理を開発して食べさせてくれる店というのも一興ではないだろうか。わたしは遠慮しておくが。
				言わせてもらうが，いやいや，そういう問題ではないのである。
				私の立場を先にはっきりさせておくと，「正しい日本食」とそうでない日本食とのあいだに線を引こうとしてもらうことは，ちょっとうれしいことである。なぜなのか。説明しよう。
				
				▼ご案内のように，海外での日本食の評価は高まっている。パリに関しても，やはり寿司あたりを中心に人気がある。オペラ座界隈はちょっとした日本人街で，ここは日本食に飢えた日本人長期滞在者などが散財覚悟で食べにきたりするところ，すなわちいわゆる「本物」の日本食が食べられる界隈である。あるいはシャンゼリゼからちょっと入ったところとか，いかにも高級そうな場所にもスノッブな回転寿司屋とか（日本人にはすごい違和感があるがこれで間違いない）がある。
				フランス人たちも大したもので，結構な数の人々がきちんと箸を使えるようだ（見聞きの範囲内）。ただし自宅に招いて日本食を振る舞ったりすると，「どれから食べればいいの？」とか聞かれる。その質問自体に「？」だったが，一瞬のちに納得した。彼らの食事はコースだから，一皿ずつ順番に食べるのが普通なのである。日本では逆に一つの皿を集中的に食べる「ばっかり食べ」は不作法なこととされているわけで，まあこのへんは異文化間コミュニケーションの微笑ましい一コマと言えよう。
				味に関しても，われわれ日本人は「だし」の味に旨みを感じるのに対し，彼らは「脂」の味に感じるらしい。そのため，日本人の好みの味では薄味すぎると感じるらしく，刺身に醤油をドボドボにかけていたりする。見てて「うおー」と思いながら止めないけど。
				そういった違いを乗り越えて，しかし日本食は理解され，評価されているのである。これは驚くべきことであると同時に，率直にうれしいことではなかろうか。私は料理はしないけど。
				これに対して，日本食には「偽物」もある。ものすごくある。パリの日本食屋は8割が「偽物」だとの評判だ（調査には基づいていない）。ライブドア・ニュースの記事には「模倣」されるのはよいことではないか，とあるが，「模倣」というよりも日本食ブームへの「便乗」というのが実情である。現実には多少日本食を知っているアジア系の人々が，「日本料理」という看板で日本食屋をやっているということらしい。
				で，そのような人々がそのような商売をするのは，ある意味個人の自由であるような気もするが，日本人としてはちょっと遺憾な気もする。それはなぜかというと，フランス人に日本のことを誤解されてしまう可能性が大いにあるからである。大したことのない料理で「おお，これが日本食か。こんなもんか」と思われたら気分が悪い。逆に，仮に大した料理だったとしても，それは日本食じゃないんだから，やっぱり気分はよくはない。というか，フランス人に聞いたら聞いた瞬間，「それ日本食じゃないから」と即ツッコミたくなる気分を，少なくとも私はもっている。
				じゃあ，誤解されるのがいやだから，日本を本当には知らない人々（移民の方々ですな）が日本料理の看板で商売をするのを禁じてよいかと言われれば，何とも心苦しいところではある。だが，日本人が外国人に「日本のことをわかってほしい」と思う気持ちというのも，それなりに切実なものであって，今日はあえてそちらを強調してみたいのである。難しい言葉で言えば「アイデンティティーの承認をめぐる闘争」（チャールズ・テイラー）の問題である。
				▼「自分はこれこれこういう人間だ」と思っているときに，人がそのように見てくれないのは，程度の差はあれけっこうつらいことである。自分が自分をどう見ているかという自己認識と，他者が見た自分の像とのあいだのギャップは，何とかして埋めたいと思うものだ。そこで葛藤が起こったり，じたばたもがいてみたり，まあいろんなことがある。
				人が正当な評価を受けていない場合，たとえば自分の自己評価よりも他人の自己評価の方が低い場合，たとえば自分は自分を正直な人間だと思っているのに他人には嘘つきと思われているとか，冤罪なんかで犯罪者だと思われているとか。そういうときは，つらい。あるいは性同一性障害の場合，自分は心は女性だと思っていても，戸籍上・生物学的に男性であることになっていれば，世間はそのように見るだけでなく，女性的な男性，十分に男性でない男性，中途半端な男性，などと見られてしまうことになってしまう（男女逆のバージョンも想像されたし）。これは当人にとってみれば明らかに正当ではない。
				言われなく低く見られること――これは一つの局面として「差別」を含むだろう――の構造の中に置かれてしまったら，その際の苦しみは筆舌に尽くせないものがある。その際，当人には責任があるといえるかどうか。答えはYesでありNoであろう。
				「No」であるというのは，こうだ。人間は，あるがままの自分を見てほしいわけだろう。べつに過大評価をされたいわけではない，その必要はない。ただし「あるがままの自分」は自分が知っている自分にすぎないので，原理的には他人から見た自分と自動的に一致するものではない。だから「No」である。
				しかし，そのギャップを自分で埋めていく――声を上げていく，相手を説得していく，自分の立場をアピールしていく，その責任は当人が負うのが筋だろう。というか，気の毒ではあれ，ほかにそれを担える者は見当たらない。だから「Yes」でもある。
				こんな話をすると大げさに思われるかもしれないが，忘れてはいけない。われわれの誰もが，思春期を通じて，いや大人になってもずっと，こういうことを日々やってきたはずである。そうではないだろうか？　あるのは個人差だけである。条件がよくラクだった人もいれば，条件が悪く壮絶だった人もいるだろう。しかし，そこの構造それ自体に変わりがあるとは思えないのである。
				▼以上がテイラーの議論のうち，私が首肯できる部分である。私は日本や日本人のことをフランス人にきちんと理解してほしいと願う。だから，誤った情報に基づいて「これが日本か」と彼らに納得されてしまうのは，率直に言ってイヤである。だからそういう人々を「それは違うよ」といちいちツッコんだり，「本物」の日本レストランに引っ張って行ったり，妻が許せば自宅に招いて日本食を食わせたり，日本の風景のポストカード（「正しい」やつね。外人向けにデフォルメされてないやつ）とかいろんな日本の文物を配ったり，まあそれは文化の伝達には貢献しましたよホントに。それもこれも日本に対する歪んだイメージを是正するためである。
				ここに私は，自らの「愛国心」を認める。私のもつ「愛国心」とは，このような種類のものである。
				この作業を「国」レベルでやるべきなのかどうか，という議論は確かに可能だ。それはちょっと置いておきたいが，少なくとも私が個人でやっていることと同じ方向のことを別の誰かがやってくれることには歓迎すべき側面がある。いずれにせよ「あまり意味がない？」などと言ってもらっては困る。意味ぐらいある。
				よろしいか。やみくもに〈自己評価が高い〉ということが，愛国的なことではないのである。
				自己批判能力がないために自己評価が高すぎて，「私はこんなに偉大な人間だ。だからお前ごとき虫けらが私を敬わないのはおかしい」などと主張することを，何と呼ぶべきか。夜郎自大。もしくは酩酊。狂気。いずれにせよこのような主張をすることは，恥ずかしいことである。なぜなら，自分で自分を証（あかし）することはできない，というのは論理的に真であるのに，あからさまにそれをやろうとしている愚を犯しているからだ（やるんなら心の中でそっとやりなさい）。他方，愛国者という自己評価をもつ者は，そのような恥ずかしい態度をとるべきではない。愛国者が国辱を行うのは矛盾だからだ（心の中でちょっと思うだけにしときなさい）。
				〈私の評価を正確にやってくれ〉と他者に願うこと，実際にそれを主張し，他者の承認を勝ち取ろうとする原動力としてのある感情。これのほうが数百倍「正しい」自尊感情であり，愛国心なのである。ただしこの場合の「正しい」は「論理的に正しい」という意味である。
				再び原理的に言えば，他者は他者なんだから〈私の評価〉に「正しく」到達できるわけはない。無理なのだ。そもそもこの意味では「正しい評価」とは何かを，正確に定義することすらできない（こちらは価値判断の文脈。論理的文脈とは分けて考えよう）。しかしそれでも無理やり「折り合いをつける」というのが，「ひとのあいだ」と書いて人間，の生きる道なのである。
				▼で，何かね。この「愛国心」というようなものを子どもたちに「教え」ようと言うのかね。
				何だかなあ。むしろ，そういう素朴な感情をはなからもっていない人間というものを，私は想像することができないのだが。
				もちろん，自己評価の低い日本人はけっこういるだろう（「自虐史観」で）。私もその一人である。しかし，「自大史観」とか「自慰史観」とかよりは，他者から見て百万倍はイケてるスタイルであるからこそ，そちらを採用しているのである。謙虚さは日本人の美徳だしね。
				先ほどのテイラーだが，私としては「集団的目標」とかは危険な概念であると考えている。テイラーは，ケベック人としての「アイデンティティーの承認」を，ケベック人たちの「集団的目標」として，カナダ連邦は承認すべきだ，と主張する。ここまでくるとそんな必要あるのかという話である。
				これに対して私の「愛国心」は，個人的なものである。私は個人の資格で，「日本とはこういう国なんだよ」ということを実際に外国人に伝えてきたし，これからもそうするし，私じゃないほかの誰かでも同じようにできるし，実際にしておられる方はたくさんおられる。
				それは純粋に，べつにフツーに，自分というものを理解してもらいたいという，素朴で人間的な感情に基づく行動である。
				特に集団で固まって，みんなが同じ方向を向かんとあかんということを誰かが決める必要はないのである。
				ましてや，みんなに「自大史観」を注入して，国家への忠誠心を涵養し，国旗・国歌への敬意を抱かせ，学校で愛国心を評価しようなどということを言い始めるのはトンチンカンにもほどがあるのである。
				と書いてきて思い出したが，縷々述べたようにこ～んなに愛国的な私なのに，不思議と国旗と国歌には「敬意」はもてない。いや，「愛着」なら確かにもっている。スポーツとかで国旗が揚がって国歌が流れれば，おお，と思う。しかし国旗とか国歌に対する「敬意」って何だ？　外国人は自国の国旗に「敬意」をもっているんだろうか。もっているとしたらどういう意味においてであろうか。こんど聞いてみよう。
				▼「海外で『正しい日本食』を認定してもあまり意味がない？」とか言うが，意味があるかないかという（実利的な？）問題ではなく，宮台氏の言う感情のゲームとして，人が自分を「正しく」認識してくれなきゃ誰でもやっぱりムズムズするのである。
				感情のゲームではあるが，その特殊な感情のゲーム自体は，人間が人間であるという事実に内在する〈構造〉なのだと私は思う。人間がそれを失う可能性はまああると言ってもいいかもしれない，しかしそれを失った場合の「人間」は，われわれが今考えているような人間ではなくなるだろう。
				この話は何も，政府の言うことには何でも聞かなければならない，などという話――どこかの誰かが言っている「愛国心」――とは本質的に無関係である。
				逆に，政府の言うことには何でも反対，という話とも無関係である。にもかかわらずニュース23とライブドア・ニュースはどうもあまりよく考えずこちらの路線に嵌まっているように私には感じられる。
				だから，私もいつもは小泉・安倍政権を批判している立場であるにもかかわらず，今回の件にかぎり部分的に，政府のアクションの肩をもってみる今日この頃なのである。
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		<title>私の教育改革案「国会を単位制に／議員には哲学を必修化」</title>
		<link>http://socioanalysis.net/2006/11/19/230001/</link>
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		<pubDate>Sun, 19 Nov 2006 14:00:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>中野昌宏</dc:creator>
				<category><![CDATA[時事]]></category>

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		<description><![CDATA[				さて例の教育基本法だが，まずは資料から。
				
				現行教育基本法と「新教育基本法案」の比較
				議論のクロスロード：「教育基本法」について知るためのメモ／「新教育基本法案」へのツッコミまとめ
				（成城トランスカレッジ！　―人文系NEWS &#038; COLUMN―）
				
				同時に，そもそも「憲法」とは何なのかを知っておいた方がよい。日本はむちゃくちゃに特殊なのかも知れんが，ごく普通の感覚では憲法というのは国民側が国家にはめる箍（たが）である。国民主権という話で，主権者はいったいどっちなんだという話だ。つまり国家（一部の執行部の人々）が一人一人の国民全員の権利や自由を侵害しないようにするためのルールである。今回のは「基本法」だが，これも憲法に準ずるものという位置づけなので，こんな感じでやってくれという「国民から国家につける注文書」という性格が本来である。教育というのはよくも悪くも一種の「洗脳」なので，ここはきちんと注文をつけておかないとまずいところだ。
				今さら何だけども，今回の新案はまさに珍妙である。逆に国家が国民に注文をつけているのだから。というよりも底知れぬ悪意が感じられる。これの草案を作成したであろう東大出もしくは同等に高学歴の本省官僚が（いや誰か知らんけど），憲法の意味も知らないなどありえないことである。「それはちょうど気取った銀行家が，『素人にはデタラメな説明をしておけば十分』とメモ用紙に書いているようなもので」（パース『連続性の哲学』，岩波文庫，p. 127），全く国民をバカにしている。
				というわけで，この改正のポイントは，国民が国家にこれだけは守ってやってくれというはずの法律が，国家が国民にこれこれを守らんとしばくぞという法律にまんまとすりかわっているというところなのである。みんな知ってると思うけど。
				
				どうも上の方は，何だか言うことを聞かないバカ国民どもにどうすれば言うことを聞かせられるか，という点のみに腐心しているようだ。自分は駄々っ子をしつけようとしている親のつもりなのだ。しかし，そんなのは思い上がりにすぎない。今回のようなトップダウン化は，自由と民主主義に対する挑戦であり（このフレーズどっかで聞いたぞ），同時に「国民が自発的に愛国心をもてるような国はすぐ作れそうにないから，手っとり早く強制しちゃおう」という，要するに政治家の怠慢なのである。
				で，最近しつけと称して子を虐待する親が後を絶たないわけだが，この雲行きでは安倍内閣も国民の虐待に手を染めない保証はないのである。ギリギリと締めつけりゃあ人は言うことを聞くのかと。まったく中国の古典でも読み直していただきたいものである。
				▼てかちゃんと議論をしてくれるのなら私と意見が違うからといってこんなに非難はしない。が，ろくに議論も納得いく説明も何もなしで，誰が納得するかってんだ。
				いや，正確には彼は「説明」らしきことはしている。安倍氏は次のように言っている。以下安倍内閣メールマガジンより引用（余談だが私はこのメルマガに登録した覚えはない。私が登録したのは小泉内閣メールマガジンである。一度「内閣広報室」から配信先アドレスの確認があり，その後勝手に安倍内閣メールマガジンが配信されるようになった。まあとりあえず読んではいるが，実に変な手続きだと思う）。
				●　教育基本法への想い
				　こんにちは、安倍晋三です。
				（前略・引用者）
				　国会では教育基本法改正案の審議が行われています。今なぜ、教育基本法を改正する必要があるのか、私の考えを改めてご説明したいと思います。
				　現在の教育基本法が制定されてから半世紀以上が経過しました。
				　戦後教育は、機会均等という理念のもとで国民の教育水準を向上させ、戦後の経済発展を支えてきました。また、個人の権利や自由、民主主義や平和主義といった理念についての教育も行われてきました。
				　しかし、他方で、道徳や倫理観、そして、自律の精神といったものについての教育はおろそかになっていた点はやはり否めません。
				　現在、子供たちのモラルや学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の低下といった問題が指摘されています。こうした中で、いじめ問題や未履修問題が相次いで表面化し、子供たちも保護者の皆さんも不安を抱き、教育再生の必要性をさらに強く感じているのではないでしょうか。
				　海に平気で空き缶を捨てる子供に対しては、法律で禁止されていなくてもそうした行為は恥ずかしい、やってはいけないのだという道徳や規範意識を身につけさせることが必要です。
				　さらに、利益にならなくても、海に捨てられた空き缶を見つければ拾ってゴミ箱に捨てる、といった公共の精神を培っていくことも必要だと思います。
				　教育は学校だけで全うできるものではありません。道徳を学び、自分を律し、人を思いやる心は、家庭や地域社会の中で人と人のふれあいを通して醸成されるものです。
				　こうした教育に対する基本的な考え方や価値観を、まずはみんなで共有することが大切なのではないでしょうか。毎日様々な問題が発生し、教育のあり方に対する危機感が広く共有されつつある今こそ、家庭が、地域が、学校が、そして一人一人が、自ら何ができるかを考え、自覚することが教育再生の第一歩であると考えています。
				　これが新しい教育基本法の意味なのです。最近起こっている問題に対応していくために必要な理念や原則は、政府の改正案にすべて書き込んであると思っています。公教育の再生や教育委員会のあり方など、具体的な教育政策を今後検討する上でも、一刻も早い改正案の成立を願っています。
				（後略・引用者）
				
				なぜいま教育基本法を改正しなければならないか。それをできるだけ抽出してみる。
				
				半世紀経ったから
				
				従来「機会均等，個人の権利や自由，民主主義，平和主義」については教えてきたが，「道徳，規範意識，倫理観，自律の精神，公共の精神」はおろそかだったから
				
				いじめ・未履修問題・さまざまな問題が毎日あって教育は危機だから
				
				道徳が大事だという価値観をみなが共有すべきだから
				
				
				で，さらにまとめると，さまざまな問題が起こっているのは教育の中で「道徳」が足りないからだと。だから，まず「道徳が必要だ」という価値観を共有するためにこの法律を改正するのだと。まあそのように読める。
				というか，それしか情報がない。いくらなんでもおためごかしとしか言いようがない。だいいち「道徳が足りないから教育が危機だ」という因果関係の分析はどのようにやっているのか。この因果関係を証明するのは自殺の原因がいじめだと認定するよりはるかに厄介だろう。
				だいたい，「道徳」というものをどのように捉えているかが透けて見える。要するに，国家が国を愛せと言えば国を愛すような，国家が白と言えば白と言い，黒と言えば黒と言うような，そういう人間が「道徳」心のある人間だとでも言いたいのであろう。で，「いじめはやめましょうね」という教師の言うことを生徒が聞かないからいじめ問題が起こるのだと。そしてこれだけの単位を履修させろよという文科省の言うことを聞かないから未履修問題が起こるのだと。それだけだろう（というかそう類推する以外に手がかりが全くない）。
				しかしそんなのは普通の人間に言わせれば「道徳」などではない。むしろ悪徳である。上からの命令だからと命令に忠実にしたがって，毎日バリバリユダヤ人を殺し続けたアドルフ・アイヒマン的・官僚的な「陳腐な悪」（ハンナ・アレント）にすぎない。だったら正反対に，上からの命令に逆らって毎日バリバリユダヤ人のためのビザを書いた日本人官僚・杉原千畝の方がよっぽど「道徳」に――ええとですね，ラカンだったらむしろ「倫理」と言うとこなんですが――適っているだろう。
				それはちがう，そんな邪悪なことは私は考えていないと安倍首相が笑って否定されるなら，ぜひとも「国家による愛国心の強制はこれを禁ずる」という文言を，新案の中に含めてほしいものである。中国の古典の話をしたけれども，為政者は力ではなく徳によって国を治めてほしいものだ。「道徳」は国民全般より特に為政者に必要なのである。でないと「美しい国」になんかならんでしょ？　血みどろになっちゃってさ。
				▼さて本題（今ごろかよ）。私は私で教育再生は必要だと思う。それは年来の愚民政策もあってか，最良の国民ですら政治に対して何もできず，無力感に取りつかれ，結局強いものについた方が徳かなーと漠然と考えるしかなくなってしまった。そうではなく自分たち国民がリアルに国家を支えているのだという「公共の精神」を賦活すること。一人一人がシニカルにならないようにすること。ダメな政治家はきっちり落とすこと。知識人は（うわー死語だ），いや多少情報を収集するのに長けている人は，いろんな情報を広めること。
				あと，日本にはあまりにも哲学がなさすぎる。哲学を学ぶということは，哲学者の説を勉強して覚えて云々ということとは全く違う。そうではなく，自分のアタマで合理的かつ批判的に（ものごとをよく吟味して，ということ）考え，問題を発見し，解決策を見出すことのできる力量を涵養することにほかならない（ほらちょっと前に「生きる力」って言ってたアレですよ）。あの横着な政治家連中を見てもわかるように，「道徳」というと，お仕着せのルールに従わせるという発想しかない。これは愚民政策の成果で（いいのかその因果関係は），やはりものを「考える」ということを知らない種類の人間の発想である。つまりは連中には「道徳」の本当の意味がわかっていないということだ。
				いや。右翼政治家だけじゃなくて日教組とかにも同様のことを感じてますよ。私はいわゆるサヨクとかじゃないんですよ。そんなのは全くどうでもいい。
				ルールというのは天から降ってくるのではない。人間が決めるものだ。なぜそれがルールであらねばならないか，それ以外ではありえないのか，それをルールの中で問うことだってできないはずがないのである。そこが民主主義社会ならば（私は核武装についても議論してよいと思うよ。ただし結論は見えているのだから時間と公費の無駄と言いたいだけ）。そしてもしも道徳の根幹を問うならば，それは必然的に倫理学的または哲学的なものになるしかない。哲学は実生活の役に立たないと思っておられる方が日本には数億人おられると思うが（霊を含む），それはまったくの誤りだ。実は哲学こそが，「生きる力」の本体だったのである（おお，まるで『青い鳥』みたいだ）。
				こういうことがホントにわからないかな。いやむしろ「わかりボケ」ではないかな。だって倫理学とか哲学とかまでいかなくとも，そこまではちょっと考えれば普通にわかるレベルのことなのだから。中学生にだってちゃんとわかっている。安倍内閣に，今回の教育基本法改正案はおかしいんじゃないですか，と手紙を送った中学生に，脅迫メールが届いたという話。メールの主はいったい誰なのかなあ。
				匿名の大人が中学生を脅迫
				安倍政権は，ルール自体を問う国民の権利を摘み取ろうとしているように見える。この国が民主主義国家であるというのなら，それを教育基本法とそれにまつわる議論の中でしっかりと示した方がよいはずだ。まずはこのメールがどこの誰から送られたのか，サーバーとアカウントを特定していただきたいものである。別にやろうと思えばすぐできるでしょ。
				もしもわかりボケでないなら，こういう問題は国会議員に基礎的な教育が足りていないから起こっていることになる。逆にもしもわかりボケ＝故意犯なら，国会議員にはマジで「道徳」が足りないことになる。よって，いずれであれ国会を学校化し，単位制を導入し，哲学または倫理学を選択必修にすることを提言したい。もちろん履修漏れには厳しく対応すべきである。
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		<title>マスコミ批判をしてもしょうがない。それよりもやることがあるだろう</title>
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		<pubDate>Fri, 17 Nov 2006 17:52:11 +0000</pubDate>
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		<title>いじめの件について</title>
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		<pubDate>Tue, 14 Nov 2006 14:02:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>中野昌宏</dc:creator>
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		<title>政教分離のキモ</title>
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		<pubDate>Sun, 17 Sep 2006 18:05:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>中野昌宏</dc:creator>
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