ファシズム時代は「いじめ」の時代

先日の知事選もわれわれフツーの市民を落胆させたが,昨日は希代の悪法「国民投票法案」が強行採決された。

この法案の問題点は,もんのすごく短く言うと,最低投票率の規定がないために,特定政党とつるんでるわけのわからん宗教団体とかの組織票があれば一発で憲法を変えられるということである。

おまけにご丁寧に,オイラみたいな教員の類はものを言うな,黙っとれという註釈つきである。

われわれは教員であるとともに,言論を生業としている者である。言論を封殺されたらおまんまの食い上げではございませんか? と小一時間……(まそりゃ安倍とか中川とかには明らかに朗報だろうけど)。

▼おわかりか。この法案は要するに,何だかごちゃごちゃ言ってくるザコ平民どもを黙らせて,支配者の・支配者による・支配者のための美しい国づくりを一気にブルドーザーでやってしまえという飛び道具なのである。それ以上でも以下でもない。

最近,政治家が民主主義にかかる手間ヒマを惜しむんだよねぇ。安直なんだよ!

鳴かずんば,殺してしまえ,不如帰。そんな信長なこの法案の危険性はどれだけ人口に膾炙しているのだろうか。ちょっと詳しく知りたい方には,Wikipediaの記述じゃわからないので

のpdfパンフレットをおすすめしておく。その他にもネット上には

その他もろもろ,ブログレベルでは山のようにドキュメントがある。誰が読んでも,客観的に,「これはダメ法案だろ」というのがわかるようになっている。一度ご覧いただきたい。

▼公職選挙法の縛りで,選挙前には石原の悪口をここに書くことができなかった。悪口とは言ってもホントのことですがね。普通のジャーナリズムだったらホントの悪口なら書いてもよいのだが,オイラは教員なのでひっかかる可能性が高かった。一般人でも例の「きっこの日記」なんかは,石原側に訴えるぞと脅されて日記を削除してたし,フランス語訴訟の件だって記者会見開いたのにほとんど報道されなかったのは,提訴されたというのは選挙と関係ない客観的事実なのに,メディアが自主規制したのだという。

どうゆうことやねん。自主規制て……。

まあそうやって石原の日頃の悪事は隠され,「反省モード」で当選したと思いきや急に悪童に戻る,という予定調和。

ていうか,石原の人格については最初から,Wikipediaを見ただけでもかなりひどいことはわかるぞ。こういうのをボスに迎えてどうするわけ? これはみんなホントに知らなかったのか,知らないふりをしていたのか,石原だと何かトクをすることになっていたのか,むしろそこんとこは愛すべきキャラと思っているのか,もともとヒール(悪役)とかアウトロー(無法者)に萌えるというひねた美意識なのか,ご無体なご主人様に仕えるのが好きなマゾのメイドなだけなのか,科研費をとって調査してみたいところである。

ぶっちゃけ石原でなかったら,ドクター中松でもよかったなぁ,とか。桜金造だったらどうだろうなぁ,とか。思い余って美濃部亮吉Love,とか。妄想してる。うそですよ。浅野も意外に不人気で,一般市民に担ぎだされた割には否定的な評価が多かった。ともかく誰が無害かが実は肝心で,何かいいことしてくれるとは最初から思っていないところは正直あった。

でも石原以外の誰であっても,石原ほど頻繁に人を傷つける暴言は吐かないだろう。それに,思い込みと思いつきばかりトップダウンでごり押しすることはないだろう。それだけで十分かと。どうせ実務は官僚がやってくれるんだしね。週に2~3日登庁しとけばOKだしね(笑)。

▼アメリカではとても最近,スペイン語を「ゲットーの言葉」と呼んだニュート・ギングリッジ下院議長と,黒人の女子大生バスケットボール選手を「縮れ髪の売春婦」と呼んだ人気ラジオ司会者のドン・アイマスが吊るし上げられた。

なぜ,石原もこうならないのか。日本とアメリカの文化の違いというわけではない。答えは簡単。

ヒスパニック系や黒人は,人数的には相当数にのぼる。要はこいつらは「多数者」を敵に回したから吊るし上げられているのである。

かたや石原が攻撃するのは,精神障害者とか,外国人とか,老婦人とか,フランス語教師とかである。つまり,圧倒的な少数者だ。そういうのを傷つけても,敵に回しても,選挙のときの票にも響かないし,自分は痛痒を感じない。そういう人たちが傷つけられているのをはたで見ている他の人々も,基本的には見て見ぬふりだ。まあ他の人々からすると,確かに感情移入しにくい対象が選ばれていると言える。そこが石原の小ずるいところだ。中には石原と同じような差別意識をもった輩もいくらかいて,そいつらは手を打って喜ぶし。

他の連中だって本当は「明日は我が身」なのにね。何でケチつけられるかわからんやん。侮辱されるだけならまだいいけど,都立大なんか潰されちゃって,何人流出したか……。余所に居場所のある有能な先生が多かったのが幸いであるが,要するに整理解雇だからね,あれは。しかも超ワンマン経営の。奴の一存で多くが職を奪われてしまうわけである。そんな横暴許していいと思うか?

本当は,リーダーたる者,(百歩譲って)ポーズだけでも全員のために奉仕する姿勢を示すべきであろう。最初から自分の支持者だけを大事にしてあとは氏ねなんてのは,ネオリベ個人主義の風潮を最大限に活かした(涙)デマゴーグ的やり方でしょうが。

それで,攻撃されたその少数者は,いま裁判で闘っているけれど,ババァ訴訟は棄却。おしまい。フランス語訴訟はこれからだが,微妙に黙殺されつつある。勝ったとしてもね。選挙では数がないから勝てないし,裁判でも勝てないときたもんだ。フランス語訴訟では,本当に問題にしたいのは石原個人の人格,政治家としての資質の問題なのに,裁判では個々の発言しか争点にできないから,すごく矮小なクレームのように見えてしまうし。でそれをわかって石原はどうせ大したことにはならんとタカをくくっている。

この人らの人権とか名誉とかは,誰がどう面倒みてくれるの? 見殺し? 

だよね? だって少数者に向かって「公的」暴言を吐きつづけている,その都知事を多くの都民が支持してるわけだから。

フランス語訴訟の原告団の方,この記事をお読みかと思います。「都民からお金をとることが本意ではない」とのことですが,都民にはきわめて重大な責任があります。請求されている賠償金が一人5万円なんて安すぎます。額を数百倍した方がよろしいかと存じます。都民がその税金で払ってくれるはずです。その決断を彼らはしたはずです。

▼そういえばこの構図,どこかで見たのでは? そう,学校で見た。「いじめ」の構図である。

いじめっ子が誰かをいじめる。周囲のみんなは,気がついても知らん顔している。というか,もし止めようとしたら,逆恨みされて自分がいじめられるんじゃないかと恐れている。だから黙殺する。

マジョリティー(多数者)なんだから,もしもマジョリティーが一斉に声をあげれば,いじめは起こらないはず。起こりようがないはず。いじめっ子だって,マジョリティーを敵に回すことはできない。いじめが黙認され,いじめっ子が罰を受けないままだから,いじめは続くよどこまでも。

ヒトラーを支持したドイツ人というのは,いろいろ意見もあるだろうが,結果論としてだけ言えば,やっぱりバカだったのだ。だからこそ彼らはいま反省しているのだ。だって自分たちがマジョリティーなのに,政治を変えられたのに,黙ってたんだぜ? ユダヤ人がいじめられているのに,黙るという形でいじめに加担してたわけよ? いじめ発覚後に,黙っていたクラスの連中が「ボクたちは止められたのに,止めなかった」と涙ながらに反省するのと同じことである。

本当は,いじめられているユダヤ人にも共感し,連帯して,無茶なボスを諫めるようでないと,一般市民ちゅうしんどい資格は勤まらないのである。そこに「民度」というものがあるのである。

▼だいたい「選挙」というのは,なぜこうもアホの祭典そのものなのだろうか。考えてみれば当たり前だ。候補者がこぞってあのうるさい「街宣車」で走り回っているだけで,彼らの政見や活動や人物像について「官製」の報道しかされない現在の選挙のあり方では,頭を使う機会もろくになく,民度も下がって当然なのである。

宮台氏もいつか嘆いていたけれど,「知的な議論が何もできない」この現状は何とかすべきである。そのためにはまず,立花隆の言うように(2005年の記事なんだなぁ),公職選挙法を改正して,街宣車での活動を制限する一方,そのかわりネット上では自由に議論や論評ができるようにするのがよいのではないか。文字でやりとりできた方が,頭を使って考えられてよいではないか。

荒らし対策がたいへんかもしれないが,候補者の名前を拡声器で刷り込むだけなんて,あまりに寒すぎる。みんながありとあらゆる情報(プラスもマイナスも)を受け取れて,自分の頭で考えられるということが必要なのであって,最初から情報を絞ってくる選挙なんて,平たく考えてダメな制度である。

そういう意味では,都知事選の候補者のうち有力そうな4人だけテレビの討論番組に出たのは公職選挙法違反である,と訴えを起こしたドクター中松は支持してあげたい気分なんですけど。いや彼に特段の思い入れはない。でも確かに平等じゃなかったもんねぇ。それでも裁判は負けるだろうねぇ。

准教授になりました。それがどうした

さて私こと,この4月から「准教授」になった。別にめでたいことはない。フツーである。全国的に呼び名が変わったのである。

今までは,「教授,助教授,〔(専任)講師〕,助手」が日本の大学教員の職階だった(講師は大学によって置いても置かなくてもよい)。これが学校教育法の改正で,「教授,准教授,〔講師〕,助教,助手」となったのだ。まあここまではご存じの方も多くおられるかと思う。

なぜこうしたかというと,いろんな理由があるようだ。まず大きな変更は,旧助手を「助教」と「助手」に分けたこと。「助教」ってあなた。

助教は自ら研究し,教育に関わることもあるが,助手は事務的作業のアシスタントという位置づけ。旧助手ポストでは若い研究者が小間使いにされていたが,それでは彼らも育たなかろうと,もっと自分の研究ができるようにという話である。

まあそう言うならそれはわからんでもない。実際,旧助手が小間使いに使われるといえば理系の話であり,文系のうちでは若い研究者を助手として雇ってはいない。そのために「講師」というのがあるし。だから,助手の待遇については私はそんなによくは知らない。

▼あと,助教授が准教授になるというのがなぜかな?と思わせるだろう。これは要するに,アメリカン・システムに倣えということなのである。訳すときに困るから。

アメリカン・システムでは,「professor(教授), associate professor(協力教授), assitant professor(助教授), research assistant(研究助手)」となっているはず。違うかも。でもだいたいこんな感じである。カッコ書きはそれぞれ直訳。

今までは,「associate professor」はわれわれの「助教授」に対応するから,そのように訳してきた。だけれども「助教授」を直訳すると1コ下のランクと混同されることになる。あー,とにかくややこしい事態になることはご想像のとおりである。

おそらくそのために,「associate professor」に対応する職位の名称を変更したのであろう。しかしながら「assistant professor」を今すぐに「助教授」と呼ぶのは混乱を招くだろう。したがって「助教」というかなり新奇で不自然な名称をもってきたのである(実際にはかなり古い時代にそういう名称の職位があったとのこと)。憶測だが,ほとぼりが冷めたら「助教」は「助教授」にまた変更されるのではないかという気がする。

要するに,これもグローバリゼーションの帰結の一つなのだということ。

▼しかし,じゃあブリティッシュ・システムはどうなんだ。フレンチ・システムはどうなんだというと,アメリカン・システムに統一してはいないわけだ。もっとも,EUで統一しようという動きはあるけれど。

ブリティッシュ・システムについてはこないだイギリス人の同僚に聞いたけどきれいさっぱり忘れたので,ここではフレンチ・システムを紹介すると,常勤の先生は「professeur(教授),maître de conférence(助教授)」しかいないという話だ(「フランス高等教育・その四」)。実は「professeur adjoint」というのもないではない。辞書を引くと載っているが,あちらでは補習などのための補助教員のことらしい。しかもこれが「日本の助教授の訳語としても使われる」とあるから,それは混乱のもとではある。

だいたいprofesseurというと,小学校の先生でも何の先生でもprofesseurだから,語感がだいぶ違うのではないかなあ。とはいえ「Monsieur ホニャララ!」と呼びかけるより「Professeur ホニャララ!」と呼びかける方がかなり敬意が感じられるらしい。「~さん!」じゃなくて「~先生!」といった感じかな? そういえば昔F1で活躍したアラン・プロストは「Professeur」と呼ばれていたよね。坂本龍一が「キョージュ」と呼ばれるようなものだろうか。

▼話をクルリンパと戻して(ああ毒されてる),なんで「準」でなく「准」なのかは,よく質問されるFrequently Asked Questionである。要は法律に「准」と書かれちゃったので,と答えるしかないが,確かに不可解な点も多い。

そもそも「准」は「準」の俗字である。なぜ本字でなく俗字の方が法律みたいな正式なものの中で使われねばならないのか。そこが第一の疑問である。

この字を使っている職位というのは,すぐ思いつくものに「准将」とか「准看護師」というのがある。この2つについて軽く調べてみた。結論的にはよくわからなかった(すまん)。

「准将」のほうは過去の日本の軍隊(空軍は除くのかな?),現在の日本の自衛隊にはない職位であり,逆に2008年の創設が検討されているそうだ(by Wikipedia)。海外の軍隊では少将の下,大佐の上となる。ともかく日本にはない?ものなので,日本の法律の条文にこの「准」の文字があるわけではない。この語が発明されたのは,翻訳語としてということになる。じゃあいつどこの誰が「准将」なる表記をはじめて用いたのか。それについては調べがつかない。

「准看護師」のほうは,戦後の看護師不足を補うための緊急避難的措置としてできた職位ということはわかった。これは日本の法律の条文にある。保健師助産師看護師法だ。が,これもいつどこで誰が決めたのかはよくわからない。

どなたか教えてください。

共通して言えることは,「准」のつく職位というのはあんまり高くは評価されていないということくらいだろう。准将だって「少」将の下だから。准看護師のほうは正看護師と同じ業務なのに給料をケチられてるし。俗字を使われているというのは,バカにされているということなのではないか。

▼と考えると若干寂しい気持ちにもなるが,職名なんかはまあどうでもいい話である。どうでもよくないのは,「誰が文字を管理しているのか」という問題だ。考えてみれば,本字と俗字は本来同じ字であり,どちらか一つでもいいはずだ。つまり,字形の統一ができていないということだ。

字形の統一に際して,何を基準にするか。有名なのは最初の権威『康煕字典』とか,諸橋轍次『大漢和辞典』とかだろう。その統一された結果をわれわれは学校で習うことになるが,そうすると「文字の管理者」は文部科学省ということになるはずである。実際文科省のHPには,漢字の字体の問題を扱っている,とある。

しかしながら,近年では皆がパソコンで文字を書くようになった。パソコンで使う文字は,JISとかシフトJIS……だ。いやまあUNICODEは別として。つまり「日本工業規格」だ。てことは,パソコンの文字を管理しているのはと通商産業省の日本工業標準調査会 (JISC) ,工業技術院,財団法人日本規格協会,ってなもんだ。

だから,文科省が「この字形を本字と見なす」と決めたとしても,JIS規格はそんなものお構いなしなのである。この時代,

日本の文字を決定する権限は,実は文科省ではなく経産省が握っている

のである。

いや。知らんけどね。両者のあいだに話し合いがあるのかもしれない。が,これまでに齟齬が多くあったのは事実で,これはそう簡単に収拾できそうなものではない。

▼たとえば旧字体と新字体の整合性について,文科省は旧字体の部分(偏(へん)や旁(つくり)など)はいじらなかったが,JISはいじっている。たとえば「難」という字は文科省的に正しいが,「灘」という漢字は文科省的には正しくない。正しくは「」だ。さんずいをとった右側は,難の旧字体である。難が新字体になったからといって,灘の「部分」も新字体になるわけではないのだ。

こんなのはまあかわいい方で,最悪なのが「掴」という字だ。こんなのありえないんだけど。だいぶ見慣れてはきたんだけど。正しくは「」であろう。

あと人名によくある漢字で,「遥」という字。ちょっと前までは旧字体の「遙」がパソコンで出なかった。これについて昔『ASCII』(月刊ですよ)だったかに高千穂遙氏が文句を言っていたなあ。

あと,ワタナベさんとかのべ。あの字形の豊富さ(苦笑)は何とかしてほしい。字形の統一に完全に失敗している。先輩に澤邉さんという人がいて,本当はちょっとだけ違う字なのだが,役所で登録するときに「あんたの字はパソコンではこの字しか出ないから,文句があったら裁判を起こすように。以上」と言われたそうである。

個人的に声高に叫びたいのは,「凛」という字。これは「凜」の俗字である。下は「のぎ」なのだ。だけれども,もともと使用頻度が少ない字であることと,パソコンでは先に俗字が出てしまうことで,皆さん「凛」が正しい字だと思っていらっしゃる。そうじゃない。

ちょっと前までは「凛」は人名漢字に使えなかった。「凜」は使えたが。うちの娘は名前にこの字をもっている。これは,正式なところでは正式な文字で登録せよというとても正当なこと。しかしその後,俗字の方を人名漢字に使ってもよいことになった。そうすると,どっちが文科省的にコレクトな字なのかわからなくなってしまった。ペットボトルのお茶とか,日本酒とかに「凛」という字がついている。とどうしても,もっとそこはかとない味わいのある「凜」の字を想起しながら「それはちがうのに」と言いたくなってしまうのである。

こうやって文字というものは変遷していくのか……とも一方で思う。しかし,それでいいのかとも思うわけ。

▼あるいは,こんなふうに私が「文字は統一しようぜ」とか言うと,「統一しないのがいいんじゃん。いろいろあるのが豊かさってもんでしょ?」という人が必ずいる。いや論点はそこじゃないからもうちょっと聞きなさい。

私が問題としているのは,「文字の(ひいては文化の)管理者は誰なのか」ということである。「誰であるべきか」と言い換えてもよい。

それは,国民統合をやっている国家のどこかの部署が担当せねばならないはずだが,こともあろうに経産省に委ねるべきことなのだろうか? 

私は,そういう権限を経産省に委ねるというのは,文化の根底をもネオコンに預けるというのは,そこまでグローバリゼーションの波に押し流されるというのは,すこぶる気持ちが悪い。軍事や産業を牛耳る人たちが,文化までを牛耳ることを許したいとは思わない。

だから,ここでの私の言いたいことは,「文科省さんも,巻き返しをはかったほうがいいんじゃないですか?」ということである。

現在この問題を巡ってこれらの省どうしのバトルがあるのかないのか,私は知らない。が,人を小馬鹿にしてかどうかは知らないが,ともかく,俗字である「准」の字を法律に書き込むようなことは,文科省の人には避けてもらいたかったと思うのである。

※島根県立大学e漢字フォントをお借りしてます。

追記 2007.04.08

テレビを見ていたら,「森鷗外」が「森鴎外」と出ていて,思い出した。そう,これこれ! これはひどい。「鴎」っていう字なんかなかったよねぇ。

そして,そうだった,人名の届出に関しては法務省が管轄だ。

とかいろいろ思って,昔の「文字コード問題」について調べなおした。と,いい記事がいくつかあった。以下に示す以外にもいろいろあるので検索されたい。

これらによれば,要は83年のJIS改正(83JIS改正)が「悪夢」だったということだ。これが「掴」「鴎」「涜」といったありもしない字を創造することにつながったらしい。現在では「摑」「鷗」「瀆」というようなまともな方の字も出るようになっていて,ハッピー。だけど83年製「簡体字」のほうも消えずに居すわることになっている。消えてもいいのにね。結果的に,パソコンが作り出してしまった文字というものがあるわけだ。

上記資料の中,特に3つ目はかなり分量が多く,勉強になる。むしろ多すぎてそう簡単には全部読めない。特に「第3部 JIS X 0213は世界になにを発信したのか?」の「特別編10 表外漢字字体表は、JIS漢字コードをどう変えるのか?」あたりの項目が参考になるだろう。もっとも,この筆者の考えそのものにはあまり共感できないが。

私は上で文字の標準化を望んでいることを吐露したが,標準自体は時代によっていろいろ変遷があるに決まっている。83年に過渡的な「混乱」があったとしても,現在はそれなりに収拾されているように見える。ここまでの歴史は,私はちょっと文句を言ってみたが,これはこれでしかたないと言うしかない。

ただ,議論にかかる時間が長すぎる。83年の混乱を収拾するために出された「表外漢字字体表」は,92年に出されている(これは「文科省の巻き返し」にあたる)。ちょっと時間がかかりすぎである。今後はもう少し議論の主体が限定され,スムーズに改訂が進むことを期待している。

てかユニコードをどうにかして!