Rss Feed Tweeter button Facebook button

政教分離のキモ

ローマ教皇ベネディクト16世の発言が物議を醸しているのは,ご案内のとおりである。教皇が,イスラム教は本質的に暴力を許容するものだ,という内容のことを発言したという話。「バチカンも,バカチンだなあ」などと乾いた笑いを飛ばしているあなたは,はたして事の真相をご存じか。どうも報道がおかしくないか。

と思ってネットでニュースを探し回ること3分,産経とgooニュースに発言の抜粋があった。バチカンの原文も発見したので見比べてみると,どうもgooニュースの方が翻訳としてはよさそうである。

ともかくこの発言中の難点の1つは明らかで,各社報道しているように

皇帝は『ムハンマドがどんな新しいものをもたらしたか、見せてほしい。自分が唱える信仰を剣で広めよという教えをはじめ、邪悪で非人間的なことばかりだ』と言った。

という一文だろう。が,これは「皇帝」の発言だし,ローマ教皇の考えではないのは確かだ。全体の論旨もイスラーム批判とは無関係。ドイツの人たちもそう言って擁護している模様。

ただ,ちょっと刺激が強すぎただろうなとは思う。イラク戦争とかイスラエルの侵攻とかいう情勢のなか,それでなくとも相手は激怒モードなのに,マヌエル2世の言葉を借りているとはいえ邪悪とか非人間的とか言われた日にはなあ。教皇も「空気読め」と言われてもしかたがないな。

というわけで,教皇のお言葉をもう少し検討してみよう。

クーリ教授が編集した7つ目の対話の中で、皇帝は聖戦について触れている。皇帝は(コーランの)第2章256に『宗教に強制はない』と書いてあるのを知っていたに違いない。専門家によると、この章(スーラ)は初期に書かれたもの、ムハンマドがまだ無力で危険にさらされていた時期のものだという。しかしもちろん皇帝は、後に唱えられコーランに記録された、聖戦についての指示も知っていた。皇帝は『聖書』を信仰する者たちと『異教徒』たちへの扱いの違いなど細かな議論には触れず、一般論として宗教と暴力の関係について、驚くほど直接的に、対話相手に問いかける。皇帝は『ムハンマドがどんな新しいものをもたらしたか、見せてほしい。自分が唱える信仰を剣で広めよという教えをはじめ、邪悪で非人間的なことばかりだ』と言った。

皇帝は、自らの考えをこうして力説した後、暴力による布教がなぜ理性に反するのか、その理由を詳細に論じ始める。暴力は、神の本質、魂の本質とは相容れないものだと。皇帝は言う。「神は、流血をお喜びにならない。また理性的でない行動は神の本質に相反するものだ。信仰は魂から生まれるもので、肉体から生まれるものではない。他人を信仰へ導く者は、暴力や脅迫を使わずに、よく語りよく議論できる者でなくてはならない。理性的な魂を説得するには、腕力も武器も必要なく、死をもって人間を脅すようないかなる手段も必要ない』と。

皇帝が対話で、暴力的な布教活動に反対して主張いるのはつまり、こうだ。理性なき行動は、神の本質に反するものだということだ。

(gooニュース 9月16日付より)

ちなみに,gooニュースが抜粋しているのはここで切れているのだが,実はこの直後にこう続いていたりする。

しかしムスリムの教えにとっては,神は絶対的に超越的なのである。神の意志はわれわれ人間のいかなるカテゴリーにも拘束されず,理性というカテゴリーによってすら拘束されないのである。ここでクーリは著名なフランスのイスラーム主義者R・アルナルデスの著作を引用している。アルナルデスが指摘しているのは,イブン・ハズン(原文では Ibn Hazn; ハズム Hazm の誤り?)は,神は自らの言葉にすら縛られないとまで言い,神がわれわれに真理を明かすよう仕向ける強制力は何もないとまで言っている事実である。もしそれが神の意志であるならば,われわれは偶像崇拝をすら行わなければならないのだ。

ここのところにも微妙にトゲがあると言えなくもない。「何しろ理性をも超えちゃってるからね。イスラムの神はね」みたいな。

まあ教皇の論旨は全体として「宗教の名を借りた暴力」批判なのだが,それ以外の要素も伝わってしまわなくもないご発言であった。ていうか,暴力批判の文脈にイスラームを代表例として引き合いに出すだけでも十分やばい気がする。それなら十字軍とかもっと最近の「新十字軍」とかを引き合いに出した方が安全だったろう。……とも思ったが,まあ十字軍の場合は,領地とか褒美欲しさに行ってただけだから,教義のために死ねるイスラームよりももっともっと世俗的なものだったろうけれども。

ではあっても,このイランの人は教皇の発言は読んでないよねきっと。いくらなんでも。読まずに言うのはいかがなものか。

▼さて私自身,イスラームについてそんなに知識があるわけでもない。のに,イスラームに共感的な論考を一筆書いたことがある。書いていた当時はたしか911後,アフガン空爆時だった。5年前の911では,アメリカ人は「なぜこんなに恨まれるのかわからない」と口をポカンと開けていた。長い年月をかけて自らの命をかけて大勢の命と引き換えにしようとするムスリムたちの真意を測りかね,その理解を超えた敵意に恐れ戦(おのの)いていた。多くの人々が,悲憤慷慨し,「テロの危機」を口にし,絶望と不安の淵にいた。要はパニック状態だった。そして人々の不安を煽り,軍備を拡張し,死の商人(自分)の懐を潤し,「すわ好機ぞ。ついでに気に入らん国もつぶしちゃおー」とかいう勢力があったりした。

そんなもん歴史を繙けば,「アメリカがなぜ恨まれているか」はど素人にも30分でわかることだ。ついでにイギリスも。19世紀からこっちを見るだけでいいから簡単だろう(逆におおかたの高校の授業が到達できない鬼門でもあるが)。第1次大戦以降イギリスとアメリカが中東で何をやってきたか。アメリカ人はきっと何も知らないだろうが,けっこうひどいぞ。ついでに昨今のグローバリゼーションだ。そんなに紳士的にやってこなかった以上,勝ち組の方が恨まれるのもある程度仕方ない。

まあともかく,当時の私としては米英一辺倒の論調のバランスをとるためにイスラーム寄りの解説を授業とか公開講座とか論文とかで開陳してきた。いまもその共感はキリスト教徒へのそれに劣るものではない。が,やはり一点だけ,イスラームの教義にまずいところがあると思っている。さて,それは何だろうか。

「全知全能の神」というのも実はパラドックスを生むものだけれど,それはご愛嬌の範囲内だと思う。愛嬌ですまないのは,そう,この記事のタイトルからも察しがつくとおり,「政教一致」を原則としているという点だ。いやまあ,「全知全能」と無関係ではないところだが。

▼ちなみにわれわれ日本人は定着した用語として「政教分離」と言うが,英語では「separation of church and state」と言い,つまり「教会と国家の分離」と言う。「separation of religion and politics」ではないのである(ググってみて,頻度を確認すべし)。

「政教分離」ではなく「教会と国家の分離」と言われると,そこではじめて何やら高校で習った世界史の知識が走馬灯のように蘇り,浮かんでは消え,消えたらもう二度と浮かばない……みたいな錯覚が起こるのではないだろうか。そう,ヨーロッパの歴史は教皇を頂点とする教皇権と,封建君主を頂点とした世俗的な国権との二重構造になっていたというあの話が思い出される。教皇と国王の壮絶なバトルは,はるか後の極東の国,日本の人気テレビ番組「カノッサの屈辱」すらをも生み出したのである。

教皇権と国権はもともと出自の違うものだから,分離といってもある意味当たり前ではある。実際には,長年にわたる権力闘争の末に至った「棲み分け」の原則,落としどころのようなものだろう。

ただ,ここでは「もしそれらが一致していたらどんなことになるか」という想像力が必要となる。もし宗教的な権威が,具体的な権力――警察力や軍事力――を手にしたらどうなるか。かなりなフリーハンドが実現することになるだろう。

ついでに言えばここで重要なのは「宗教」をちょっと広く取っておくべきことである。たとえば,フランス革命時のジャコバン派の考えとか,ヒトラーの優生思想とか,共産主義の思想とか,そういうものはみな「疑似宗教」的に機能したし,こいつらと武力的な実力はセットだったから,とてつもない専横を招いた。だってブレーキがないんだもん。

▼ここで「宗教」と呼ぶべきは,「善」とか「正義」とか「正当性」とか「大義名分」の基準を与える何かである。その教義の体系がどのようなものであれ,もし誰かが十分な数の信者をもった宗教を牛耳り,同時に世俗権力も握れれば,かなりなことができる。死刑が確定した麻原のオウムにしても,そう大きな集団ではなかったにせよ,日本社会に甚大な被害を与ええた。それは,教団内には構造的に「ブレーキ」になるものがなかったからである。

「正義」を握ってしまった人物と対立することは,そのまま自分が「悪」のレッテルを貼られることを意味する。それが社会的な死を意味することもある。昔のカトリックで破門なんてされたら,雪の中で三日三晩,三跪九叩頭の礼を尽くさねばならないほどであった(あれ? そうだっけ?)。加えてその「正義」の人物が警察力をも握ってしまったらどうなるか。自分の意見に合わない人物はどうせ「サタン」なので心おきなく実際に死なせることもできる。すでに「政治犯」ですらないからねぇ。

かくして宗教的権力と世俗国家的権力の二冠王というのは,それだけで十分怖いものなのである。特定個人(集団)が正当性を一手に握ってしまい,「俺がルールブックだ」という状態を作り出してしまうからだ。したがって「政教分離の原則」のキモは,その二冠達成を阻止するということにある,と私は思う。

で,イスラームの教義はやはりここがやばいと思う。ロジックとしては,論文にも書いたようにイスラームの方がすっきりしている。二重権力構造は,つまりは「二重基準(ダブル・スタンダード)」の社会である。それは宗教的な価値という視点から見れば,腐敗・堕落にすぎない。そう言い切れる清廉さは私も理解するし,評価もしたいところである。

イスラーム国家の現状が悪いという批判をしているつもりではない。そうではなくて私が問題だというのは,構造的に,たまたま政権トップがよい人だったら問題ないが,トップの人物に悪意があるとか,極端な思想をもっていたりした場合,誰にもブレーキのかけようがないからなのである。アラファトなども腐敗を糾弾されていたが,あんな腐敗程度で済んでよかったとも言える。パレスチナのような危険地帯を問題ある人物が統括していたら,もっと凄惨な悲劇に結びつく可能性もあったはずだからだ。

逆に,フランスのスカーフ問題などは,禁止された側のムスリムの方々には申し訳ない言いぐさだが,どっちでもよいと思う。上の意味での政教分離(フランスでは政教分離原則のことを「ライシテ Laïcité」という)という話よりは危険性・緊急性が薄いからである。ただしちなみに,私自身はフランス国家と異なり,公立学校内でのスカーフはOKだと考えている。理由は,公立学校も公的な場所であるが,そのへんの道端も公的な場所であるから,学校で禁止するなら道端でも禁止しないと整合性がないと思うからである。で,両方とも禁止するか両方とも許可するかしかないが,現実問題両方禁止するようなことは信教の自由上ありえないだろう。だからスカーフOKという。

▼教会と国家は分離しておいた方がいい。というか分離すべきである。と私は平たく考えるが,「教会と国家の分離」という原則はそういう意味ではないとする説もある(アメリカでは,という意味で)。つまりこれは,国家が特定の教会・教派と結びつくのを禁止するという話なのであって,その点を守れば国家が宗教的なことをしてもいいし,いろんな教派が国家形成に参加するのはむしろいいことだ,という話になるらしい。

まあそう言われればそのような気もするし,それでもいいような気もするが,まあいいかなと思えるのは,国と結びつくのが「いろんな」宗教である場合だけだ。それが単独の宗教(「国教」)だったら,やはり問題だ。それに反する考えを持つことが許されない(控えめに言っても,不利になる)からである。

だいたい,別にその解釈をアメリカに準拠する必要もないのではと。日本では宗教的道義が価値判断の基準になることはあまりない。国家が結びついてはいけないのは「特定の教会」なのか「教会一般」なのかが問題になるような気は正直言ってしない。日本には日本の「政教分離原則」があればよい。

じゃあ日本という国家にとって神道というのがどういう位置づけになるのか,これはなかなか難しい問題である。特に,「死者を弔う」ということを国家がやろうとしたら(そしてもちろん国民がそれを支持する場合),それは定義上宗教的な作法になるのだから,そこは「では,神道で」ということになるのかもしれない。あるいは「いや,仏教で」というのも乙な選択かも。神仏習合。本地垂迹説。神道の単独国教化はやはり気になるので。

でも,霊媒に政策判断をさせたり,祈祷に公金を使ったりするのはちょっとなあ(実際,科研費を祈祷に使っていた人がいて問題になっていた(笑))。

まあそういうことはしないと思うがなあ。宗教と政治が一致するというのは,どうもそういうイメージがあって困る。あとカネの流れが不透明になるのがなあ。

▼教会と国家の二重権力構造。しかし日本にも昔から似たような事情はあったことを思い出さないかい? つまり天皇と,将軍である。維新では天皇が担ぎだされて新体制へと。そこはよかったのかもしれないが,天皇と政府が一致してしまったがゆえに(と言いたい)その後あの戦争に突き進んでゆくのは周知のとおりである。唯我独尊状態にあったから逆に当然とも言えよう。

で,戦後は天皇は神から「象徴」へ,神道は国教から一宗教へ降りたわけだが,今度は天皇の方が宗教性を失ってしまった。というか,道徳的正当性の中心ではなくなってしまった。

小泉首相が靖国神社を参拝し続けることで,いわゆる「靖国問題」がもちあがった。この人こそ唯我独尊の人である。と考えると,逆に天皇に道徳的正当性を担ってもらって,小泉のブレーキになってほしかったと今や思える。あ,「天皇の政治利用」とか言われた富田メモだが,あれを振りかざす手法はここで私が縷々述べた昔ながらのやり方であって,世俗権力である小泉側が文句を言える筋ではないのでよろしくお願いしたい。

安倍次期首相(はっきり書くけどもうええやろ)もかなり「宗教的」な人物である。いくつかの宗教とコネクションがあることもそうだが,彼自身が世俗宗教の教祖となりそうな予感がする。メディアではすでに自民党内での安倍支持票が500票に達しそうだと報じている。この現象はいったい何なのだろう。国民の投票(Yahoo!みんなの政治)では安倍は16%と最下位なのに(この投票には何らかのバイアスがかかっているのだろうか? ありそうなことだが)。

このことは,市井の者の目には見えない,永田町でのみ通用する霊力が安倍に集中していることを意味するのではないか。まことに謎の多い人物である。

誰かこいつのブレーキになってくれるのはいないのか。やっぱアメリカにしかいないのかな。

Comments are closed.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。