若者の静かな憤怒

前のエントリーについて,偶然にも内田先生のブログにヒントが書かれていて,納得できないことが納得できてきた。間接的にであるが。

そうだった。「等価交換」が現代日本のキーワードなのである。以前も同趣の指摘を拝読したことを忘れていた。

激高老人先生のブログにも,「等価交換」の原理(市場主義の原理,規制緩和の原理,新自由主義の原理,何と呼んでも同じであるが)についての指摘があった。こちらは安部晋三が「ライブドア事件は教育のせい」とか言っている発言を批判するのが本旨であるが,「等価交換」が現今の日本の屋台骨であるとの認識は,共通している。

小泉=竹中構造改革と,ホリエモン率いるライブドア快進撃とは,古い常識と慣習を打破し,弱肉強食の世界こそ理想の世界と喝破しつつ,もっとも効率的な金儲けを志向するという点で,軌を一にしている。ホリエモンが逮捕されても,彼が時代の寵児であるという事実は,実はさほど揺らいでいないのである。

▼研究人生を歩みだしてからずっと貨幣論をいじくり倒してている私に言わせれば,「労働」と「不快」を等置したりとか,「不快」を「貨幣」と呼ぶとか,そういうところに用語の混乱はあるのは確かである。とはいえ,内田先生のご指摘の本旨(そしてそのもとになる諏訪哲二さんの概念化)は確かに傾聴に値する卓見である。

ちなみに「不快」は経済学的に言えば「不(負)効用」のことである。そして,「労働」→「不効用」ではあるが,「不効用」→「労働」ではなく,したがって「労働」=「不効用」ではない。なぜなら「労働」は通常「生産活動」を意味するから。例えば我慢大会で暑いのを我慢しても,それは「不効用」ではあれ「労働」ではない。

また「貨幣」は「価値尺度」であるべきメディアなので,「不快」のような不定形なものを「貨幣」と呼ぶことに無理はある。というか私の観念ではピンと来ない。

にもかかわらず,「不快」と「労働」が取り違えられねばならない必然性は,生活実感の中に確かにあると感じる。それはなぜだろう。ともかく,たぶん取り違えられている。

▼昔私らが学校へいやいや行ったり,受験勉強をしたりしたときには,「努力は報われる」ということがさかんに言われた。し,半信半疑であれ,われわれもちょっとは信じていた。で,ちょっとそのとおりになることもあった。よい学校に入れればよい大学に入れ,よい大学に入れればよい会社に入れ,よい会社に入れればよい収入が得られる時代だった。おおむね。こういう時代には,「いまの苦労は,将来の自分のための投資」と考えられていた。

学生にしばしばエラそうに言うことだが(考えたら私がエラいんでも何でもない),私が学部を卒業するころ(92年ごろ)などはバブルの絶頂期であり,労働市場はいまの学生には想像もできないような売り手市場だった。

下宿で寝ころんでいても,ひっきりなしに企業からの電話がある。「新○鐵ですが,会っていただけませんか」「三菱○○ですが,進路はどうされる予定ですか」「住友××○○ですが,(以下略)」という状態で,まるで私は電話番のようであった。うかうか寝てられないじゃないか。

しかも,「住友××○○」には,大学院進学の意向を伝えると,何だか不機嫌そうな担当者に「本当に他の会社とは会わない,と約束してくれないと。約束してくれますか?」とか凄まれ,気弱な私としては「は,はい,約束しますです」と言わされた。電話を切ったあと,何でオレが,要りもしない電話をかけてこられて,見も知らん奴に説教されて変な約束させられんならんのか,腹が立ってきたが。いま思えば,おそらく勧誘する人物にもノルマのようなものがあったのであろう。「お前の後輩,○人連れてこい」みたいな。

こんななか私は,父に大学院に進学したいと言った。そしたら大反対された。もちろんそれでも強く押したら父は仕方なく折れたわけだが(二十歳越えてる人間に言ってもどうせ聞かんわな),捨てぜりふに

理解に苦しむ……

とか言われた(笑)。

まあそんな時代であった。多くの学生が希望の会社に入れた時代の話である。おとぎ話のようである。

▼いまの学生にとってはどうだろう。希望の会社になんか入れるのだろうか。入った企業の待遇は,十分なものなのだろうか。その企業はずっと彼/女を雇ってくれるのだろうか。途中で潰れてしまわないだろうか。M&Aで吸収合併とかされて,突如人生が狂ったりしないだろうか。ライブドアみたいにうまくやっている(た)会社ですら,ホリエモンよろしく経営者が脱法行為をしていたら一発で路頭に迷うことになりかねない。企業の方は,正社員の生首を飛ばすのはさすがに避けたいので,いざというときに切れる派遣社員や契約社員,アルバイトといった流動的な労働力を確保する方向にある。というか,「正社員」という概念が怪しくなってきているのではないかと思うのだが,どうか。

公務員志望は依然として根強いが,それとて安定神話はもはや崩れている。天下り可能なキャリア組はともかく,試験でがんばってどうにか公務員になれたとしても,国立大学の独立行政法人化みたいにトカゲの尻尾切りにあったり,でなくても定員削減にあう可能性もある。国家公務員の給与も世間が思っているようには高くない(そう思われているのはこれまでの公務員のサービスの質が低かったためと見た)。世間の賃金水準に合わせて人事院勧告が天から下されるだけ。すでに公務員じゃなくても。今の公務員人気は親の世代からの刷り込みが効いているのだろう。たぶんもう一世代下ではこうは行かないのではないか。

「希望格差」じゃないけれど,「いま苦労して,その苦労が何になる」という意識が,彼らの心の奥底にはあるんじゃないだろうか。

言い換えれば,苦労ばかりを強いられている(と少なくとも主観的に感じている)人々は,「いまの苦労」を「いま」取り返すべき,債権者の位置に立っている(つもりな)のではないか。

なるほど。だからヤクザっぽくなってくるのね(殴)。フランスでの暴動も思い出されるし。希望がないから自棄(やけ)のヤンパチなのか。

さてどうなのか。全部疑問文ですな。申しわけない。

▼かつては将来償還できるはずの「投資」であった「苦役」が,いまや返してもらえるかどうか不明な「苦役」となった。いつ返してくれるんや。はよ返さんかい。いますぐ返せゴルァ。そういうオーラを彼らがるる放出していたとしても,彼らの非にあたるのかどうか。

「将来の展望を,現在の努力」へと織り込むという,時間を「先取り」する思考のサイクル――むしろ「意志」――が消えてしまって,「現在の債務を,いますぐ取り立てる(しかない)」という刹那主義へ。

これって言い換えれば,「時間」が止まったということではないか。

未来がない,ということはそういうことである。

ということはこれは「終末」?

▼ともかく「等価交換」について指摘しておきたいことがある。

経済活動というのはすべてが「交換的正義」(「配分的正義」の対義語。詳しくはググってね)で覆われているように見える。しかし,「等価交換」というのはそんなきれいごとばかりではない。「交換」を成立させるためには必ず力関係が作用する。「これこれの交換をしてください」とお願いする側がつねに下手に出なければならない。自分とこの商品を消費者に買ってほしい企業は,どうしても消費者に媚びることになる。商品を期限までに一定数量確実に卸してほしい問屋は,メーカーさんにお願いするしかない。力関係やタイミングによっては同じものを安く買いたたかれたり,高く売ることができたりする。それはべつだん常識的なことである。「等価交換」には,その裏側がある。それが必ず正義を保証するわけではない。

宿題やレポートを課すことすら,いまや教師はやりにくい。「これやって,ほんとに学力は伸びるんだろうな」という,学生や父兄や文部科学省の声が電波に乗って聞こえてくる。「伸びなかったらダメ教師だからな」と念を押す声も。教師はこう言うしかない。「騙されたと思ってやってみてください。お願いします。学力アップの保証はできないんですけどね。ハハ」とか。要するに「等価交換」を期待されてたら,こっちは「お願い」するかたちになってしまう。

▼しかし世の中には,「交換」の原理だけではなく,「贈与」の原理というものもある。「贈与」には,「時間」が大いに関与する。例えば誰かからプレゼントをもらってその瞬間に返礼をしたら,角が立つ。それだと先方は「贈与」するつもりだったのに,「交換」になってしまうからだ。「交換」されたら,その場で人格的な関係は終わる。貸し借りがなくなるから。先方は人間的な関係を築こうとしてプレゼントを贈ったのに,善意を帳消しにされてしまったら,それは不愉快だろう。

プレゼントをもらったときは,その場はありがたく頂戴しておいて,その「ありがたいと思う気持ち」を記憶しておき,しばらくたって別の機会に,その気持ちを込めつつプレゼントを返す,というのが正しい(レヴィ=ストロースの言う「限定交換」の場合)。あるいは,もらった人とは違う人に,何かあげるのもよい(「一般交換」の場合)。『ペイ・フォワード』という映画をご存じだろうか。あんな感じである。すると,受け取った善意が順送りされていって,世界を遍く覆うということになる。マルセル・モースの『贈与論』の世界である。

このシステムのポイントは,「時間を-与える」(デリダ)ということである。すなわち,いまあげたプレゼントの返礼が,いま返って来なくてもよい,という構えが,全員に必要である。

いずれ返ってくることを(見返りを)期待していていいから,しかし,いまその債権を取り立てることのないように,という,一種の余裕の構えである。

▼こういう余裕は,「等価交換」のみの世界の住人には,もてないだろう。私はそういう人たちばかりの世界では,生きたくない。

いま苦労したことが,後々になって生きてくることは多々ある。それを信じることができない若者にも問題はあるかもしれない。が,未来を信じることができないような,グチャグチャでドロドロで絶望的な現実を産み出した大人たちにも責任があるはずだ。

で,オイラはどっちに入るのかな?(笑) どっちであれ,私は未来は変えられると信じて仕事をするだけだ。

納得できないこと

だいたひかるのネタじゃなくて。

最近納得できないこと。

  1. スキーが,いつのまにか全面的に「カービングスキー」に取って代わられてしまってること。
  2. 数人の学生が,スキー帽(ニットのね)をかぶったまま何の疑問も感じずにテスト受けてること。
  3. テストが早く終わって退出するとき,他の受験生に気をつかってそーっと歩いたりドアを開け閉めしたり気をつかうのが普通だと思うのに,そうする奴が150人中1人もいなかったこと。
  4. 年末調整で保険料の資料を付け忘れて(?)確定申告せんならんこと。
  5. 『ブログキャスター』が,大分では発売日に売ってなかったこと。

▼まあ,1とか4とか5はどうでもいいのであるが。2と3については,「どうにかしてくれよ」と私は心の中で叫んでいた。試験監督をしていたときのことである。

だって口に出して言いたくないんだもん。

センター試験ではそんなことはない。受験生たちはむしろみな可愛そうなくらい張りつめている。もっとラクにしていいよ,とこちらが言いたくなるほどである。これが単なる定期試験だと,気が緩むのか,大学生の驕りなのか,何なのか。

スキー帽については,ファッションだとはいえ,部屋の中では脱ぐやろ普通,とこちらは思っているのだが,かぶっている奴は全員デフォルトで脱がないのである。かといって「おいそこのキミ! 帽子を脱ぎたまえ」とはぜひ言いたくない。なぜかというと,気が弱いから♡。ではなくて,頭にケガしてるとか,ストレスで円形脱毛症だとか,そういう可能性も否定できず,もしそうだとするとただ「言う」だけでも気の毒なので,あえて言わないのである。

言いたいが,言いたくない。という当方の葛藤を知ってか知らずか,まっっったく動じることなく,あの日平然とテストを受けていたキミ。

どういうことやねん(普通のツッコミ)。

▼途中退室もそうである。他の受験生に気を遣うのが普通だろうと私は思う。しかし,観察事実によれば気を遣わない方がマジョリティー(てか全員)であった。

試験監督チーフが冒頭で,「早く終わった場合は,周りの迷惑にならないよう,静かに退室してください」とアナウンスしているのにである。

静謐な試験室の中,半脱げで踵を踏んだ靴を「ペッタン,ペッタン」いわしながら自分の答案を提出に来たかと思うと,また「ペッタン,ペッタン」と出口へ向かい,ドアを「ガチャッ」と開け,「バタンッ」と出てゆくのである。

捕まえられるかぎりは,私も声を殺して,「静かにね」と囁いたりもしたのである。

にもかかわらず,今度は「コッツン,コッツン」と歩いて,「ガチャッ」,「バタンッ」なのである(ヒールの場合ね)。

しょうがないので,私は出口のドアまで行った。そして,自らの手で「ガチャッ」と「バタンッ」を,少なくとも「バタンッ」を,防ごうと心に決めた。オレが実力で阻止してやるんだと。

出口ドア脇で実際に学生の行動を見ていると,ドアを開けるところまではいいとして(「ガチャッ」は少しは音が出る),そこからほとんどの者が手を最後まで添えないでドアを閉めている。すなわち,音が出て当然の閉め方をしているのである。

中にはノブを持ってちゃんと閉めようとする者もいて,「よしよし」と思っていると,やはり最後の最後で放してしまい,「ガンッ」とか言わしている。

▼何だか頭がクラクラしたが,しょうがないので,一人ひとりが出るにあたり,彼らの手がドアから離れた後のドアノブを私が引き取り,そーっと閉める。閉めたとたん次の奴が来るので(すでに私の頭の中では学生が「奴」になっていた),むちゃくちゃ忙しいし,神経遣うし,だんだんこんな連中のために神経を減らしていることがアホらしくなってくるのである。

しかたがないので,もしや彼らは最初の試験監督の言葉を忘れたかもしれぬと考えなおし,黒板に

退出時は静かに

と大書した。加えて,素性のよさそうなのにはまた「静かにね」と囁いてみたりした。「わかりました」という表情を作るのが多いが,やはり結局最後は手を離して「バタンッ」なのである。しかも,「バタンッ」の前に「静かにね」と言うこと自体音をたてる行為であって,これはやりにくい。かといって「バタンッ」の後では意味がない。私は完全にジレンマに陥った。

こいつらは,頭がおかしいんや(ボケツッコミ)

と,自分に言い聞かせたが,自分が頭おかしくなったかと思った。

▼よく,「誰にメーワクかけるわけじゃないからいいじゃん」という物言いがある。帽子のケースはそんな感じである。それだって余計なものをもってるってことはカンニングの疑いとかもあるから取れと言うべきかどうか悩んでしまう試験監督にとっては,まぎれもないメーワクなのであるが。

しかしこの場合,全員が堂々と他人にメーワクをかけているわけである。

メーワクをかけられた奴はどう思っているのか? たぶん,じゃあ次の奴に,と思っているのではないだろうか。つまり,後の奴にメーワクをかけられるのは,先に試験を終わった人間の特権である,みたいに。

ホントかよ。

納得できんなー。誰か,納得いく説明を求む。

書き物とシンポの告知

13日に悪寒がしたのは,やっぱり微熱のせいだった。胃腸の調子もかなり悪い。これは何らかの風邪に違いない。ただ,それ以外には何の症状もないのがありがたいところである。咳も,鼻も,何もない。とりあえず仕事はできる。18日まで突っ走れれば,一息つけることだろう。

昨日15日はEU研究会にて,「フランスの子育て事情と少子化対策」と題して報告した。私自身この問題について専門家というわけではなく,自分の体験+少しの調査+主義主張というレベルで「話題提供(笑)」したつもりだったが,これが意外に盛り上がる。聴衆はさまざまな分野の研究者たちなので,こういう場合むしろ専門家にきっちり論理展開されてもかえってツッコミどころがなくなるのかもしれない。さまざまな質問や指摘・感想,皆さんそれぞれの留学体験などが飛び交い,たいへん勉強になった。ご参加の皆さん,ありがとうございました。

▼閑話休題,ここで告知。短い記事(1500字程度)2つと単著1冊,国際シンポ1つ。立て込んでます。

  • 2月20日(月)発売 「『産めよ増やせよ』はダメなのか」,『ブログキャスター』(東洋経済・480円)
  • 2月23日(木)刊行予定 『貨幣と精神――生成する構造の謎』(ナカニシヤ出版・3,150円)
  • 3月5日(日)店頭配布 「著書を語る(407)」,『書標』(ジュンク堂書評誌・無料)
  • 3月17日(金) 「新自由主義と拝金主義――ラカン的視座から」,『精神分析的視点の可能性――文学,歴史,共同体』,第4回LACシンポジウム(会場:東大駒場)

『貨幣と精神』については,店頭に並ぶのはもうちょっとあとかな? 出たらまた宣伝させていただきます。

シンポについては,我輩は第1セッションの報告者である。内容はまだ無い。すいません原さん。

フランスに学ぶ少子化対策(その2)

ジュンク堂の書評誌『書標』の「著書を語る」コーナーの原稿も2月15日締め切りだった。が,先に仕上げてこれは済(店頭配布は3月5日からだそうだ)。

その締め切りである2月15日に,学内の「EU研究会」で,フランスの少子化対策について報告することになっている。

2月18日には学外のとある研究会で,ネグリの『マルチチュード』について報告することになっている。

で3月17日には駒場のとあるシンポで「新自由主義と拝金主義――ラカン的視座から」というのを報告する予定(また今度告知します)。

頼まれると「あっ,いいッスよ」とつい言ってしまう気のいいオイラだが,うっかりここまで重なってしまった。私の労務管理の敗北である。試験は終わったが成績評価がまだだし。なんだか悪寒がしてくるし。

しかしながら,今日はフランスの少子化対策について,おさらいがてらもう一度まとめてみたい。ブログなんて書いてる場合ではないけれど,15日の資料づくりに資するテーマということで。

Continue reading