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ココロの浮気,カラダの浮気(18禁)

堅い話題が多いので,ここらでぐっと軟らかくしてみたり。18歳未満の読者にあっては以下自重していただければ幸いである。

さて昔,ある友人と酒の席で出た疑問に,「ココロの浮気とカラダの浮気とはどちらが罪が重いのか」というのがあった。これは考えれば考えるほど難問,というかパラドックスである。

普通に考えると,一見当然「ココロの浮気」の方が罪が重そうだ。一夜の過ちを犯したとしても,依然として心は妻(夫)のもとにあると。「カラダの浮気」にすぎないと。まあそう言い訳できそうな(するしかない)状況が想像される。

「身体的なものよりも精神的なものを重く見る」ということがこの考えの基底にある。まずこれがポイント。

ならば,である。彼/彼女というものがありながら,それ以外の異性,例えばテレビのタレントなどに「萌え」るのは,立派に「ココロの浮気」ではないのか? あるいは特に男の場合(?),現実の彼女に(だけ)でなく,画面上のAV女優の行為に欲情しているというのは,それだけで言い逃れのできない「ココロの浮気」ではないのか?

これに対して,(違法だけれど)カネで女を買って一発やるのは「カラダの浮気」にすぎない。心まで相手に奪われたわけではないから。所詮これは「売買」を通じた関係であって,情緒的な関係ではないから。

あるいは「割り切ったおつきあい」を標榜する出会い系で知り合った異性との「おつきあい」も,それが一種の「契約」に基づくと考えられるケースでは,その関係はやはり情緒的なものではないだろう。相互にマスターベーションの手伝いをしているにすぎない。

結果として,「精神的・情緒的なものの価値が現実的・身体的なものの価値よりも重い」が真実だとすると,実際に買春することよりも,AVを見ることの方がより罪が重いということになってしまう。

そうなのか?

▼私自身,一度だけ「夢の中で」恋愛をしたことがある。恋愛というのかなそんなの。しかし,鳥肌の立つようなリアルな夢であった。

相手は,少し年上で既婚のダンサー(むしろ「踊り子」というイメージか)だった。陰のある婦人だった。私にも彼女(すなわち現在の妻)がいたわけで,だから結果的に不倫。「ココロの不倫」である。

あらゆる登場人物の顔が不鮮明であるにもかかわらず,この女性の存在がとても鮮明で,しかもその夢のあいだじゅう私を惹きつけたのだった。気になって気になってしかたがないという,まあ青臭い話だ。が,そんなことが現実の中でなく,夢の中で起こったのである。

目が覚めてとても奇妙な感覚に襲われた。まず,夢でこんな感情を持つことがあるのかという驚き。そしてそのような感情を持ったことについての,現実の彼女に対する罪悪感。夢の中だろうが何だろうが,感情そのものは真実だったから。

もちろん,当の現実の彼女は,申し訳ながる私の告白を一笑に付した。現実でないことに責任を負う必要はない,ということだろう。だが私は考え込んでしまった。

フロイトならこういうのを,「心的現実」と言う。心の中のことではあれ,それはそれでその人の(その人「という」)現実の一部であることは動かない。そんな意味である。ココロの外で起こっていないことでも,それは当人にとっては,やはり「真実」なのである。

▼なぜ「ココロの浮気」の方がより罪が重い感じがするのか。それは「ココロの浮気」がその人の「真実」に接点をもつからだ。人格というものの核心に触れているからだ。

逆に「カラダの浮気」が罪が重いというロジックも成立する。「カラダの浮気は目に見えるが,ココロの浮気は目に見えない」ということで。現にAV鑑賞は違法ではないが,買春は違法である。法は,われわれのモラル(「道徳」)を反映している。

法は目に見える行為を取り締まるものである。だから法は「カラダの浮気」の方を取り締まるだけだ。しかし「ココロの浮気」の方は,その本人を除いて,誰も取り締まれない。

だからこそ,ここで当人を責めるもの,罪責感の源泉となるもの,良心とも呼ぶべきもの,「倫理」が要請されるのではないか。もしそれがなかったらそいつの人格はだいぶ幼稚だと言わざるをえないだろう。規範が内面化されていないということだから。

そういうわけで,この問いがパラドックスに見えるのは,「道徳」と「倫理」とが似通っていながら,実は逆向きのベクトルをもっているからではないかと思われる。

▼まあそのようにラカンは考えたのだろうと思う。セミネール第7巻あたりで。とりあえずこの話に「想像界」「象徴界」「現実界」というキーワードを当てはめてみていただきたい。

ちなみにおそらくフーコーの主体化=従属化の理論も,まさに外からの「道徳」→内なる「倫理」,という話なわけだが,あまりこれを平板に理解してはいけないのだろうと思う。それは外から与えられる規範=「道徳」が個々人に押しつけられるという話でもある(こちらはいつも強調される)と同時に,そのこと自体がその個人の人格の一部(「倫理」)をかたちづくるのだという話でもあるはずだ(こちらはあまり聞いたことがない)。ということは,「主体化というのはね,実は従属化のことなんだよ」という言い方もできるし,「従属化というのはね,とりもなおさず主体化のことなんだよ」というまったく逆の言い方もできてよい,ということだろう。順序を入れ換えただけなので。

何だか,軟らかい話じゃないよなあ。お後がよろしいようで。

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