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差別したい人の気持ち,戦争したい人の気持ち

フランスでは,移民の若者による暴動がまだ続いているようだ。実に55年のアルジェリア独立戦争以来の非常事態宣言で,それもさらに3カ月延長される見通しらしい。私が胸を借りていたパリ第8大学は,パリの北に隣接するサン・ドニ市にある。このあたりはかなり治安が悪いと聞いてはいたが,今回の暴動の震源となったのもこの近くらしい。というわけで私としても気になる事態である。

一方日本では,例の選挙で自民党一党独裁制が復活し,再軍備に向けての改憲の動きが活発である。そのさなかにも,どういう得があるのかよくわからない首相の靖国参拝強行や,米軍のトランスフォーメーションのために沖縄の基地をなぜか日本が自腹で移転させてさしあげるなど,何だか理解に苦しむ動きがあったりする。自力でよくよく調べないと,われわれ一般市民には,誰が何のために何をしているかわからないところだろう。というか調べてもやはりわからないが。と同時に,2005年体制とか言われているが,実は1955年体制に先祖帰りしているのではないのかとも思われ,文明が進めば野蛮が帰結するという「啓蒙の弁証法」(アドルノ/ホルクハイマー)が蘇ってきたかのような危機感を覚える。

いずれの場合についても,55年という数字,あるいはきっかり50年前という数字,これらがヘンな符合を示しているのは偶然だろうか。そうかもしれないが,何となく「帝国主義」とか「植民地支配」の時代の終焉を,これらの年号が画期しているようにも思える。


▼フランスでの暴動は,どうも情報が不十分なところがあるが,アラブ系やアフリカ系移民の失業や待遇についての不満が爆発した,という説明が現時点で一般的のようである。聞くところによれば,「移民である」「郊外に住んでいる」という2つの条件を満たすと,自動的に仕事には就けないらしい。確かにパリでの就職が難しいのは事実だが,本当なのかどうかはもう少し調べてみないとわからない。

「ゴロつき racaille」発言が問題とされたサルコジ(あるいは親しみもしくは憎しみを込めて「サルコ」)は,どうやら体勢を立て直したようで,再び強気の発言をしている。それはどう受け止められているのかいまいちわからない。が,シラク大統領も,ヴィルパン首相も,破壊活動には「厳しく対処する」と言う一方,「差別はやめようね」とも言っている。それにしてもこれほど暴れるというのは,よっぽど憤懣が溜まっていたということだろうし,そうした憤懣やる方ない若者たちは一部の一般市民の同情を買っているところもあるため,何か発言する上でもちょっとした配慮をしないわけにいかないのだろう。

それでなくてもフランスは――おそらくパリはと言うべきなのかもしれないが――ストレスフルな社会である。個対個のバトルが日常生活のベースにある。何かの手続きのために役所に行けば,そこの役人より自分が詳しくなければたらいまわしにされたり,何ヶ月も待たされたり,とにかく痛い目にあう。ものを売り買いするときにでも,騙されたりはしないか,釣り銭をごまかされたりしないかなど非常に気を遣う。スリや置き引き,窃盗や強盗にも気をつけなければならない。とにかくボーッとしていてはダメで,「被害に遭うやつがバカ」なのである。つねにピリピリしている必要がある。相手がちょっとでもヘンなことを言ったら,すかさず反論しないと。

こんな社会で疎外された人々は,もうどうしようもないだろう,と想像する。頼れる人がいない状況で,どうやって飯を食うかという話だ。なぜ国外へ出ず,フランスにとどまるのかについてはそれぞれの事情があるのだろうが,あえてそんなフランスで食っていこうとする以上は,非合法の世界に足を踏み入れる者も出てきて当然だろう。

▼他方,それを差別する人々の気持ちはどんなだろう。実はこれは,私にも想像できなくもないのである。もちろんそうした気持ちをまるごと正当化するつもりはない。ただ想像力を働かすべきだとは言いたい。

それはつまり「恐れ」「不安」の感情に淵源をもつのである。

初めて会う人間には,にこやかに握手を求める。誰でもそうするものだ。しかしながら,みな心の中では「こいつを本当に信用しても大丈夫か」と自問している。「この男(あるいは女)は,いつか自分をカモにするのではないだろうか?」と。

ゲーム理論をご存じの方はお分かりのとおりだが,実際上も,近所の人にそういう猜疑心を抱くことは比較的少ない。そうした相手は中長期的につきあうことになるので,こちらを騙すことは向こうも仕返しのリスクを負うことだからだ。しかし日本の感覚で,こちらが相手に感情移入しすぎてしまうと,いざというとき相手は意外に冷たくて,ガッカリするということはあるかもしれない。それでなくてもこちらが求める感情的つながりは向こうから見ると「濃すぎる」のだから。

さらに,商売上知り合う人間には,本当にいろんな人間がいる。一度かぎりの取引なら,裏切り戦略が当然有利である。ボられないように身を硬くする。買い物に際していろいろと無駄話などをして,まず仲よくなってしまうという手も考えられるが,仲のよい人のサービスが悪かった場合にはクレームもつけにくいという難点もある。

要するに,よく知らない人間,よそ者,そういう人々を無条件に信用した結果,自分や家族の身体や財産が傷つけられるのを恐れること。これがすなわち私が思うところの「差別」である

▼だからこそ,フランスはあれほどのコネ社会なのである。差別する側も,ある意味自分の身を守ることに必死だからそういうことになるのだ。今回の「若者たち」を心情的には支持する一般市民も,自分がやっとの思いで買い・維持している車に火をつけられたら,どう考えを変えるかと言えば,やはり「悪は悪だ」と切って捨てるサルコに期待をかけることになるだろうと思う。

こうした「差別」が,当初は微小であったとしても,教育機会や就職機会に体系的に効いてくれば,被差別者はそのまま孤立して貧者となる傾向が強まり,最悪の場合犯罪への道に追い込まれるケースも出てきて不思議はない。さらにそうなれば余計に,そうした人々を忌避する人々も増える,という悪循環が生まれる。

言うまでもないが,この悪循環が「差別はやめようね」と言うスローガンで断ち切れるくらいなら,苦労はないのである。フランスでは,教育機会の差別は(それに費用がかからないことから)形式的には大きくないと思うが,就職機会の差別には厳しいものがある。シラク大統領お気に入りの日本人,それも一芸をもった日本人だってそう簡単には働けないのだ。いわんや移民においてをやである。

ご案内のようにアメリカでは公民権運動以来アファーマティヴ・アクション(差別是正措置)が進められてきている。個人的にはこの政策のやり方にはかなり問題があるとは思うが(クォータ制とか最悪である),そんな荒療治でもなければこの悪循環は断ち切れないのかなとも一方で思う。

何だか不思議な話だが,サルコはアファーマティヴ・アクション推進派らしい。はたして彼はフランス共和国の抱えるこの深刻な問題を,どうにかしてくれるのだろうか。あるいは今回のことで,大統領になる以前に失脚するのだろうか。

靖国問題▼ところでフランス国内の暴動を横目に見ながら,高橋哲哉『靖国問題』や小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』を読んでいる。と,やはり「戦争したい人の気持ち」とは何かを考える必要があると感ずるのだが,それは「差別したい人の気持ち」と,それほどかけ離れていなくもないと思える。国内レベルではなく,国際レベルで「やらなければ,やられる」というような不安。不安というものは底無しなだけに,逆向きの推進力としていくらでも使えるのだ。

あるいは,Civilizationという有名なゲームがある。原始時代から都市を造り,文明(国家)を育てていくゲームであるが,ああいうのをやっていても,均衡(膠着状態)を崩すためについ戦争を起こしたくなる。ゲームだから迷わず起こすけど。それに伴う国民の厭戦感情もゲームのパラメータとして入っているが,為政者であるプレイヤーからすればそんな下々の反応などウザいだけである。

政府は,政府のために(「国家のため」とは言ってやらないからね)死にに行ってくれる兵士をぜひとも大量に調達する必要があった。だから隣組といった相互監視体制を活用した。戦前・戦中の相互監視体制下の日本は,戦地に行って戦死というお決まりのコースをたどらなくとも,家族の誰かは死ななければならなかっただろうし,そうでなくても逮捕→投獄→拷問→獄死の「恐れ」「不安」に満ちたストレスフルな社会にほかならなかっただろう。どこかに自分を憎悪する人間が1人いるだけで,密告される危険性は十分にあったのである。こんな中で,自らの矜持を貫けという方が無理である(ていうか命落とすし)。

対外的な「不安」を煽ることで戦闘意欲を備給するいっぽう,国内的には密告の「不安」によって大衆心理をコントロールするという,二重の「不安」の管理。それって,要するに北朝鮮のやり方であろう。

シヴィライゼーション 3 完全日本語版 廉価版▼なぜこの相互監視システムがうまく機能したか。それをつらつら考えてみるに,フランスが個対個のバトルの社会とすれば,日本はルサンチマン先行の社会であると思い至る。フランスが「自由」の社会なら,日本は「平等」の社会というか。いいかげんだがひとまずそう言ってみる。

あるときうちの息子がバイオリンをやっていることが,学校(フランスの)で話題になった。先生は「じゃあ今度もってきて弾いてよ」と言う。しょうがないので,彼はクラスメイトとその親たちの前でバイオリンを弾いた。ら,みな大拍手で,口々に「ブラボー」とか言ってくれる。驚いたことに,どうやら本気で褒めているようなのだ。大人なんて,親の私に握手を求めてくる始末。

こんなことは日本の学校ではありえないので――特に昔と違って――まったく驚いた。なぜなら特定の子にそういう機会を設けることは,最近の日本では「えこひいき」にあたるらしいからだ。よしんばそういう場が設けられ,うまく弾けば弾いたで,「称賛」「羨望」よりも「妬み」「嫉み」を食らうのは必定である。下手ならまあ喜ばれるだろうが。そんなくだらないことはどうでもいいのに。

フランス人は,自分が本当にすごいと思ったら「すごい!」と素直に言えるところがエラいと思う。それも根本的には,自分は自分,他人は他人だからだ。他人が特殊な能力をもつことに,自分が劣等感を抱く必要は(論理的には)ない。世に言う「個人主義」である。日本の精神はこれとは違っている。皆が平等で「なければならない」から,「あんなの大したことないわよ」とか「うちの子だってエレクトーンやってるわよ」となってしまう。そういう問題ではないのに,だ。

▼ところで,個人主義的でわれわれから見れば「わがまま」なフランス人ちゃんたちを,大量に戦地に引っ張ろうとすれば,むちゃくちゃ強力な中央集権が必要である。だから今でもそういうかたちの社会になっている。これはある意味わかりやすい支配-被支配関係である。

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性一方日本は「出る杭は打たれる」社会である。出ている者は足を引っ張られる。「出すぎる杭は打たれない」とどこかの大臣が言ったようだが,それもまた厭味ではありつつ真理である。「出すぎる」ところまで出てしまえば,周りのほうがついてゆかざるを得ない。「泣く子と地頭には勝てぬ」と言うけれど,強権を振るう地頭の言うことにしぶしぶ従うというよりは,地頭の言うことを「率先して」聞かないとちょっとヤバい,という感情によってコントロールされるという。これが北朝鮮流もとい日本流である。

かりに「現人神」とか「将軍様」が「自分の国の戦争に協力しないやつって,非国民だよね」とひとこと言えば,みな「平等」に戦争協力を余儀なくされる。で,「あいつ,むっちゃ非協力的ですぜだんな」とか密告すれば,「そうなの? じゃあポアしとこうかな」というわけで嫌いなやつも簡単に粛清できて便利ーみたいな。かくして「いじめ」みたいに,いじめられたやつがもっと弱いやつをいじめるというような,超感じの悪い構造のできあがりとあいなる。

確かに,チームリーダーの立場から見れば,非協力的なメンバーというのはかなりムカつく存在であるが。しかし,そいつが単に非協力的な不平不満家なのか,耳に逆らう忠言をあえて言ってるのかぐらい,ほんまもんのリーダーは聞き分けなければならないはずだ。だって上述の「感じの悪い構造」ほど総力戦に向かない構造はないのだから(by 小熊氏)。

▼最近,権力を持った人間が謝らなくなった。批判されてもエラそうに居直るばかりだ。批判にまともに答えられない体たらくなのだから支持率が下がってもよさそうなのに,下がらない。その理由は,一つにはそれを見ている市民がそのちぐはぐな答弁に特に問題を感じていない(笑),ということもあるだろうが,それだけとは思えない。

もっと本質的な理由は,まず,そういうエラそうな連中よりも,「公共セクター」の腐敗の方がひどいと信じられているからであろう。これについては山口二郎氏の分析が秀逸である。11月9日の記事「05年11月:日本における左派政治の今後と民主党の役割」より。

私のような左派の学者は、公共セクターが平等をつくるという議論を立ててきた。市民が税金や保険料を出し合って構築される公共セクターが、市民それぞれの収入や地域などの差に関係なく、普遍的で公平な福祉サービスを提供し、平等をつくるというのが政治学や財政学の常識であった。このモデルは公共セクターに対する市民の信頼がないと成り立たない。現在はその信頼がなく、公共セクターこそが不平等の源泉であるという感覚が蔓延しているのである。「官から民へ」のスローガンのもと、小さな政府を作り出すこと、あるいは皆が同じように大きなリスクにさらされる状態を作り出すことが、むしろ「非勝ち組」の中での平等を作り出すという期待がある。

また、従来の自民党お得意の利権政治に対するある種の正義感も、小さな政府待望論の原動力となった。政治腐敗や無駄な公共事業に関する批判が国民に浸透し、田舎の土建屋や農家は政治的コネを使ってうまい汁を吸っているという不信が広がった。大きな政府は、身勝手な少数者が追求する特殊利益に絡め取られており、むしろ小さな政府を作ることによって、特殊利益を超越した本当の公益が実現されるという期待が存在する。

郵政民営化は、そのような意味での「平等」や「正義」を実現する象徴に仕立て上げられた。民営化されたら過疎地の郵便局はなくなるという反論は、ほとんど共感を呼ばなかった。利権の源である特定郵便局は、効率性原理に則って淘汰する方が多数者の利益にかなうと都市住民は考えていたのだろう。正義感や平等主義は消えたのではなく、ゆがんだ形になっている。今回の選挙では結局、こうしたゆがんだ正義感や平等主義が、小泉首相のポピュリズムによって、小さな政府論という象徴を介して、ものの見事に動員されたと私は考えている。

日本が求める「平等」は,山口氏の言う「ゆがんだ平等主義」であってはならない。「ゆがんだ平等主義」とは,他人の足を引っ張るタイプのものだ。都市住民と地方在住者の闘いにおいて,地方在住者は政治的利権に結びついていると見なされていた。それでいて都市住民の方が圧倒的に数が多い。それは当然地方には分がないだろう。

もちろん腐敗はけしからんことであり,指弾されてよいが,単に「けしからん!」という話なのか,「(実は羨ましいぞ! 言えないけど)」という話なのかではちょっと意味が違う。特定個人が利権と結びつくこと自体を正しく責めているのか,現在利権と結びついているのがオレではなくアイツであることが許せないのか,という目に見えない違いがそこには横たわる。いずれ権益の引っ張りあいなら,「正義」とは何ら関係ない話である。

▼私は都市部で生まれ育ち,地方で職に就いた。ので言うが,地方での生活にも確かに魅力はある。物価が安く,自然が豊かであることなどである。とはいえ,やはり不便だし,文化的なものにアクセスできる機会も現状では少ない。都市での生活と地方での生活を天秤にかけると,やはり都市の生活のほうに軍配が上がってしまう。私が「都会のネズミ」だからかもしれないが,都会から田舎へ移り住むということがレアケースと言わざるを得ない現状では,都市部から吸い上げ,地方へ還流させるシステムがなかったら,地方はさびれる一方だ。逆にそれがあれば,都市部の混雑も緩和され,都市住民の生活もより快適になるし,逆に彼自身が「より快適な」地方へ脱出することを検討できるようになるはずなのだ。

今回の選挙戦では、「改革と抵抗」、「民間と官」という単純な二項対立の図式による議論が特徴的であった。もちろん前者が正義であり後者が悪である。人々は、悪と名指しされたものへの攻撃に参加することによって、正義感を満足させることができた。しかし、このような政治論議がさらにエスカレートすれば、日本の政治はどうなるであろうか。

 「都市と農村」、「現役世代と高齢者」など似たような二項対立が設定され、再分配によって生活を支えている後者は、穀潰しの既得権集団と指弾されることであろう。リスクそのものを管理するのではなく、リスクにさらされている人間のゆがんだ平等主義を刺激することによって支持を集めるという政治の手法は、まさにファシズムを招き寄せる。その意味では、日本の政治は大きな危機に直面しているのである。

群衆心理まことに簡にして要を得た叙述である。この手法からは何となくギュスターヴ・ル・ボンの『群集心理』が想起される。断言と,反復と,感染――まさに小泉劇場そのもの。そしてこの書はヒトラーのバイブルであったことも思い出そう。ついでに,社会に負担をかける障害者たちや「劣等民族」たちが,彼によって粛々と切り捨てられたことも。

▼くどいようだが「平等」は相互監視システムから生まれるのではない。「公共セクター」がそれを産み出さなかったら,産み出してくれるところは残念ながらほかにない。公共セクターが腐敗しているなら,その内部にメスを入れるべきで,それをせずにその全体を縮小すればよいというものではない。

何にせよ,ルサンチマンの噴出を目の当たりにしたわれわれとしては,「平等」ということの意味をよくよく考えなければならない。でないと,サルコとかコイズミとかにいいようにコントロールされてしまうだろう。ご主人さまに従順な羊の群れになっている場合ではないのだ。

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