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ひとは「謝る」ことができるか?

15日は60回目の終戦記念日であった。私は命知らずにもなぜか中華レストランで食事をしたのだった。招いてくれたフランス人の友人(彼はこの日がわれわれにとっての終戦記念日だということを完璧に忘れていた)に,今般の日中の軋轢について説明すると,彼は,難しいよね,関係の修復には2世代くらいはかかるだろうな,と答えた。いやそうではなく,いままさに若干の身の危険を感じる,と私は言いたかったのだが(実際にはもちろん何もなかった)。

それはそうと,小泉首相の靖国神社参拝は(米国の圧力で@内田樹の研究室)なかったとのこと。それだけでなく,「小泉談話」では中韓の国名を具体的に挙げて「おわび」までしている。中川経産相の参拝と対照的で,私もはじめは何だこりゃと思ったが,まあ小泉首相としては,アメリカさんに言われたらしょうがない,ということなのだろう。

ただ残念ながら,このように唐突に謝罪されても,中韓の皆さんのほうでは「本質的にはタカ派のくせに,口先ばっか調子いいよね」と思われているようで,よくても「まあ実際の行動を見せてもらおうじゃないの」という反応らしい。そりゃそうであろう。

さあ,これは反日デモのときに考えた,もう一つのネタを開陳するにふさわしいタイミングである。


▼歴史認識の問題については,教科書問題をはじめ,さまざまの議論と立場があるのは周知のとおりである。

日本の側では「いつまで謝ればいいと言うんだ!」と逆ギレしている人もいる。気持ちはわかるが,そもそも一般論として,「謝る」ということはとてもアクロバティックな所作である。そう考えたことはないだろうか? 子どもの頃とかに。あるいは妻を前にして(これは私の場合)。

こちらとしては「謝った」にしても,相手が許してくれなければ実際謝ったことにはならない,というのがシビアな現実である。というか,許すか許さないかは怒っている方が決めることなのである。ということになると,「謝る」状況というのは謝る側が圧倒的に不利だ。

わかりにくければ逆に,自分が烈火のごとく怒っていると仮定して,相手がどう謝ってきたら許す気になるかを考えてみればよい。

  • 相手が,こちらがなぜ怒っているのかがわかっていなかったら,より腹が立つだろう。
  • 相手が,こちらがなぜ怒っているのかをわかっていて,かつ,そもそもやったことを認めなかったら,もっと腹が立つだろう。
  • よしんば相手がやったことを認めても,それだけではやっぱり怒りは収まらないだろう。
  • やったことを認めて,そのうえで謝り,その言動に「誠意」があるように見えれば,怒りが収まることもあるだろうし,収まらないこともあるだろう(ああ,「誠意大将軍」とか思い出したぞ)。
  • やったことを認めて,口では謝っているようでも,行動が従前どおりに見えれば,嘘をつかれたことになるから,またしても怒りは増幅されるだろう。
  • こちらが「謝れ!」と言ったら,相手は謝った。しかしこれでは,いまいち謝ったことにならないだろう。なぜならそれは自発的な謝罪ではないから。
  • こちらが「賠償せよ!」と言ったら,相手が「じゃこの金額払いますねー」てなことでカネを払ってきた。それはいまいち謝罪とは違うぞ,ってなことでやっぱりおさまらないだろう。

ヴァリエーションはまだいろいろあると思うが,どのパスを通っても謝る側の状況はなかなか難しい。怒っている側はすでに怒っているので,相手の態度とか表情とか,些細ないろんなことにすら怒ってしまうものである。

▼以下いろいろ考えてみても,「こうすればうまく謝れる」という解は,絶対に見つからない。実はそれはある意味当然である,なぜなら,もしそんな方法があったとしたら,それはすでに一種の「等価交換」であって,「謝罪」ではないからだ。こういうやりとりは「等価交換」の次元にはないのである。

例えば子どもの頃に,怒られて,「はいはい」などと適当に返事をしていると,「『はい』は一回でいい!」などとさらに怒られた経験は誰にもあるだろう。「はいはい」は謝ったことになるのかというと,答えはイエスでありノーである。見てのとおり文字どおりには謝っている。が言語行為論的には謝ったことにはならない。これは謝ったのではなく,「要求された(と思われる)言葉を発した」だけである。しかも仮にこちらがいやいや答えているのが見え見えである場合,その発話は「僕はあんたの怒りと要求を全面的に呑み込んではいないよ。納得して謝っているわけではないよ。あんたをなだめるためだけに言っているんだよ」ということのサインに図らずもなってしまう。そういう仕儀は大人をよけいに怒らせる結果になる,と誰もが学習したうえで大人になっている。はず。と信じたい。

もしも仮に,百歩譲って「こういう場合にはこう謝ればOK」という方法(アルゴリズム)が,潜在的にであれ存在したとしよう。それを知った誰かがその法則に則って謝ったとしよう。それは「機械的な謝罪」である。受け取る側は,それを受け入れるだろうか? われわれなら,そんな謝罪をする相手(と知っていればだが)を許すだろうか? 許すわけがない。なぜなら,ああ言われたからこう言う,というような機械的な謝罪は,どうがんばっても「誠意のある」謝罪にはなりえないからである。

そういうわけで,どのように考えても「完璧に謝る方法」というものは存在しない。

先生はえらい▼原理をまとめよう。反日デモにおいて損傷を受けた大使館や商店の「原状回復」は,あくまで「謝罪」ではない。それは以上のような意味だ。原状回復は「等価交換」にすぎない。外交上の取引,司法上の取引,そういった「取引」と名のつくすべての場所では,いざこざを「チャラにする」ということは成立しても,「謝る」ということは成立しない。1000円要求したら1000円払ってくれた,という事実によって,人は誰かを許すものではない。

内田樹先生は『先生はえらい』で「沈黙交易」を例にとってこの点を説明されていたが,まあそういうことなのである。「謝る」ということが成立するためには,等価交換を超えた部分にある何か(情動的なもの)が関与しなければならないのだ(注・論旨が何だか内田さんに似てきたなと思った方。まあそうなんですが厳密には違います。ラカンの基本的な考えがそうだからなのです。つまりソースが同じということです)。

▼では実践編。「謝る」ときには,「要求された言葉を発する」だけではダメである。ではどうすればよいのか。上に述べたようにこうすれば必ずOKという方法は原理的にありえないが,子どもの時分に思いを馳せれば,技術的なレベルでは思い当たることもいくつかある。

1. とにかく,「自分が悪かったな」と思った瞬間にサッと謝る

「ごめんなさいと言え!」と言われる前に,「ごめんなさい」を言うのが肝要である。これがもし言われたあとだったら,「要求された言葉を発する」しかなくなってしまう。こうなると事態はより難しくなる。

2. 「ごめんなさい」は「もうしません」という意味である

「ごめんなさい」と言っていたのにまた同じことをしているのでは,「あいつの謝罪は口先だけだ」と解釈されることになる。この言葉を発する相手をわれわれが許す気になるのは,その相手が「もう二度と同じことはしません」という未来への約束を守るであろう可能性に賭けるとき,そのときのみである。すなわち,「謝罪」という言語行為は,「約束」という言語行為の側面もまたもつだろう。

3. 改善の努力(の一部)をかたちにして見せる

信じてもらうことが主眼なので,何か「証拠」が必要だろう。努力している「すがた」とかだけでも。

これ以上思いつかないな。あと,フランスでは同じやり方ではたぶんダメなので(日本と比べると,「謝らないけど許す」文化ではないかと思われる)これは文化に依存するということもある。以下読者諸氏で検討されたし。

ただはっきりしているのは,2.の点で触れたように,「謝る/許す」ということは「信じてもらう/信じる」ということにつながっているということである。相手の謝罪の言葉を信じてよいものかどうか,怒れる者は迷う。他方謝る者は,私の誠意を信じてください,と許してもらえるまでひざまづくしかない(この点,『敗戦後論』で言うと加藤典洋より高橋哲哉の方に理があるでしょうな)。これはいわゆる「命がけの跳躍」である。「ほな許してくれなんだらどないすんねん」という疑問をお持ちの方,そういう場合は,どうしようもないではないか。今までの人生で,そういうことの一度や二度はあっただろう? C’est la vie !

こういう局面で,「もう十分謝ったやないか! いつまで謝ればええねん!」とかひとたびちゃぶ台をひっくり返してしまうと,当初は本気で許してもらおうと謝っていた,まさにその言葉もが,時を遡ってすべて反故になってしまう(ノ・ムヒョン大統領がズバリそう発言していた)。「いまこういうことを言うということは,最初から大して悪いと思ってなくて,こっちをなだめようとしてただけやな,こいつは」ということになってしまう。「信頼」というチャンネルが切れてしまうから。

▼中国・韓国から見れば,日本政府は戦後処理を受け入れていないか,もしくは形式的にいやいやしぶしぶ受け入れているだけで本心はそうじゃないのが見え見え,なのである。小泉首相は反日デモの少し前にも「おわび」演説をしたようだが,このところの日本の言動は明らかに右傾化しているのだから,口で言っても効果はないだろうことは皆さん当然予想されたことであったろう。アジア諸国はいま日本政府を「信じる」ことができない状況にある。その証拠にシンガポールその他の国までが日本政府を批判しはじめている。「ドイツにひきかえ日本は……」と世界中に必ず言われる。「何でオレたちだけが非難されなきゃならないんだ!」と逆ギレする前に,思い当たらねばならない。そもそもオレらはみんなに信用されていないということに。

要するに,ただそれだけのことなのである。あとは,それでいいのか,いかんのか,よく考えないといけない。「おれたちは戦後処理を受け入れてはいないぞ」というような言動の国が,戦勝国側である「連合国 United Nations」の常任理事国になりたいとか言っているから,みんな首をかしげるのである(アメリカに2票渡すのと同じことだから,誰もまともに取り合わないが)。

まあしょうもない結論だが,要するに信頼関係がすべてである。

▼やはり,かつてのドイツとポーランドのように,あるいは「欧州共通教科書」のように,隣国とのあいだで歴史認識のすり合わせをやるのがよいだろう。ご存じのように,反日デモ以降に『未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集』というのが出ている。「歴史認識は各国で違って当然,以上」(小泉)ではちょっと難しい状況である。だいいちお互いよろしくないではないか。歴史認識が違えば両論併記でよいではないか。とても勉強になる教科書ができる気がする。歴史を単に学ぶというだけでなく,多面的に見ることができるし,同時に異文化間コミュニケーションの面白さ・難しさを学ぶことにもなる(我田引水)。

未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集もう一つ,教科書問題に外国から文句があるからといってすぐそれを「内政干渉だ」とか言うのは,恥ずかしいからやめていただきたい。そんなことを言うなら日本が北朝鮮の独裁体制を批判したり,国連やアメリカが中国の人権問題を批判したりするのも内政干渉ということになる。それに,われわれだって中国や韓国の教科書に公式に文句を言ってもいいはずだ。そういうことを言っちゃあいけないのか? どうせ言うだけだし,言うだけなら結構ではないか。いずれにしても「批判」は「干渉」ではない。批判されても,無視するというオプションは残されているからだ,現在のように。本来「干渉」というのは武力その他の強制力で介入するもっと直接的な横やりのことであろう。文句を言われても自分が正しいと思い,かつ嫌われてもいいというなら無視すればよろしい。

ただ,嫌われるのが得策か否か,ということも考えるのが政治ということ,外交ということである。そういう意味で,日本はいままでマジで「外交」ってしたことあるのかな。大いに疑問である。

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