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フランス語/日本語文法について四の五の考える

最近いろいろなことが重なって,「言語習得」について考える機会が多かった。

「小学校での英語教育はいらん」と言う人もいたし。どうかなぁ。

石原慎太郎都知事が「フランス語は数を勘定することができない言語」とのたまったことについて,フランス語学校校長から裁判が起こされた話は皆さんご存じと思う。

そして最近,明大教授らがフランス語のできない知事に「フランス語学習セット」をプレゼントした。「抗議うんぬんより,フランスのエスプリを示したかった」とのことだが,まあどうなのであろうか。

明大教員:「仏語は国際語失格」石原知事に学習セット贈呈

 「フランス語は数の勘定ができず、国際語として失格」などと発言した石原慎太郎・東京都知事にフランス語を勉強してもらおうと、明治大学のフランス語専任教員の有志が26日、都庁を訪れ、教科書や辞書、電卓の「学習セット」をプレゼントした。

 政治経済学部の小畑精和教授ら13人。石原知事は28日まで休暇のために不在だが、「勘定の仕方を含めて言語は多様。違いを認めることが国際理解の第一歩であることも学んでください」などとする要望書とともに、都民の声課の担当者にセットを手渡した。

 「コツコツ勉強すれば、数は数えられるようになる。難しければ、われわれが個人教授いたします」とメンバーたち。小畑教授は「抗議というより、フランスのエスプリを示したかった。知事にはぜひフランス語を理解してほしい」と話した。

 石原知事の発言は名誉き損に当たるとして、フランス語学校長ら21人が13日、謝罪広告や損害賠償を求めて東京地裁に提訴している。【猪飼順】

毎日新聞 2005年7月26日 12時37分 (最終更新時間 7月26日 12時56分)

ちょっとだけ面白いけど……。でもフランス人が訴訟を起こしているよりも,スマートな反撃ではある。

それにしても,週に2~3日しか働かないのにヴァカンスとは,あのおっさん実はフランスかぶれなのではないか?

▼まず石原知事が言いたいことをきちんと確認しないと,この手のやりとりは面白くならない(「何でも面白くせよ」が関西人の格律である)。

彼の気持ちとしては,「フランス語教員なんてけったくそわるいわ(首大に反対してるから)」というだけのことで,今回のフランス語発言など単なる言いがかり,言いっぱなしの毒舌,揶揄のための揶揄にすぎない。だから,「フランス語が数を勘定できないというのは事実だと認めますか?」(石原知事への公開質問状の一節)などと突っ込んでみても,いまいち意味が(迫力が)ないのである。あのオヤジに啖呵切るなら迫力こそが大事であろう。

ま,だから本当は,彼の発言を解釈する意味はそれ以上ないのだが,何か言い返したいというかぎりで考えてみると,まず「フランス語は,数を勘定することができない言語だ」にはいくつかの解釈が可能であることに思い至る。

1. これが文字どおり「誰もがフランス語で数を勘定することができない」を意味する(全称否定)なら,これはもちろん事実に合致しない。フランス語学校の校長さんたちはここを突いたのだが,はなから真面目な発言でないのでオヤジは鼻で笑うにちがいない。

2. 「私はフランス語で数を勘定することができない」(特称否定)が,文法的にも実際の意味上も正しいだろう。しかし彼がそれをわざわざエラそうに言うわけはない。ただ,自分ができないことはみんなにもできない,と考える(特称と全称をわざと混同する)なら話は別であるが。例えば特称否定命題「私はラカンを理解できない」を全称否定命題「誰もラカンを理解できない」にしれっと「汎化」する論法,これを私は「ソーカル論法」と名づける。もちろんこの論法自体は偽だが,使っている人たちはそんなことを気にしない傾向がある。

3. まともな解釈としていちばん蓋然性が高いのは,「誰もが(特に外国人にとって)フランス語で数を勘定するのは難しい」と言っているという解釈である。フランス語の運用に困難さを感じる人が1人でも存在すれば,この命題は真になる。そうすると,話のフォーカスがフランス語修得の困難さというところに移るのである。「フランス語は国際語としては失格だ」という結論になるのは,それは「(特に)外国人(あるいは私)がフランス語を修得するのが困難だからだ」ということで,いちおう辻褄は合っている。

▼石原自身の反論は,こんなのであった。石原慎太郎公式サイトの中の「石原都知事定例会見語録集」(2005年7月15日)を参照のこと。

「例えば、電話はこのごろプッシュホンになったよね。昔みたくダイヤルをぐるぐる回すのは別だけど。プッシュホンでポンポンと押していくときに、「ちょっとそこで読み上げてもらいたいんだけど、何番?」と言ったとき、例えば局番が91というときに、カトル…で4を押しちゃったら、もうだめなんだよ。ちゃんと聞かないと。4つの20の11と言ったらね、つまり全部聞かないと。こんな言葉はやっぱりあかん。

「やっぱりあかん」て関西弁か? それはともかく,「キャトル」と言われた時点で4を押すことはありえない。なぜなら,フランス語では長い数字列は2桁ずつ読むのが常識だからである。「04」なら「ゼロ・キャトル」となるはずだから,相手が「キャトル……」と口火を切ったら,「キャトル・ヴァン……」しかありえない。

まあそれでも80代か90代の数字,という当たりがつく程度で,キャトル・ヴァンの次を聞かないといけないのは確かである。ディス(10)以上ならまず9を,それ以下ならまず8を押すことになるが,んーそうじゃなくてやっぱり数字は2桁ずつ固まったものとして認識しているのである。

確かに,電話番号を書き取るフランス人の手を見ると,60以上の数字については2桁言い終わるまで待ってから,書いていた。普通に10進法の数体系よりはちょっと難しいところはある。だけど,わかるよそんなもん。

 だから、かつて外交官の公用語としてフランス語というのは幅をきかせたけれども、世界が狭くなっていろいろな問題が出てきてね。特に非常に国際関係で重要な要因である科学技術の討論をしたり協定したりするときに、非常に厄介なんでね。そういうことからだんだん外れていったんですよ。

これについては化学を専攻する友人から聞いたが,形容詞が後ろからかかる点が,かなりイヤな感じらしい。例えて言えば,こちらが「水酸化ナトリウム」と思っている物質が,フランス人の頭の中では「ナトリウム水酸化」と認識されているといった感じである。数字というよりはそういうところの問題ではないか。

 私はね、フランス文学が好きで、フランス語が好きで、本当は京都大学の仏文に行こうかなと思ったら親父が死んだんで、公認会計士になりなさいというので、違う大学に行ったんだけどね。リラダン(ヴェリエ・ド・リラダン:フランスの作家)なんて、まあ人が読まなかったことも私は読んでいて、当然訳したことはある。齋藤磯雄さん(仏文学者)の名訳がありますがね。

 それから、まあ、死んだ村松剛君(文芸評論家)と仲よかったし、マルロー(アンドレ・マルロー:フランスの作家、政治家)が来たとき私がアテンドしたりね。私はフランス文化、非常に愛着もあるし尊敬もしているけどもね。こういう時間的、空間的に狭くなった世界で、フランス語の厄介さというのはだんだん疎外要因になってね。

ここは自慢話。マルローとの会話には数字は一切出てこなかったと見た。

結局、私があの問題のことを話したのは、たしか首都大学東京の改革に反対している先生の多くは語学の先生だった。調べてみたら、8~9人かな、10人近いフランス語の先生がいるんだけど、フランス語を受講している学生が1人もいなかった。ドイツ語の先生が12~13人いてね、ドイツ語を受講している学生が4~5人しかいなかった。たしか、正確な数字は忘れましたけれども。私は、ある慨嘆を持って報告を聞いたんだけども。

この数字は記憶違いかどうか知らないが,全くウソであった(てか数字自体に弱いのでは)。

 まあこれはね、イギリスが十進法と十二進法のペンスとシリングですか、ああいう通貨の使い分けをしていて、非常にその周りが不便でね。外国から言われて、結局十進法に統一したんでしょうかね。やっぱりそういう努力を、国語の改革というものにも施さないと、言語そのものが、何か不便さで忘れられていくというのは非常に残念な気がいたしますね、私は。

 ということを申し上げたので、フランス語の先生たちはうっぷんやる方ないかもしらぬけれども、それだったらフランスの政府に文句を言ったらいいんでね。まあ、政府がそれをどう受けとめるか知らないけれども。私はフランス語を愛し、フランスの文化を愛した人間として、先進国の東京の首都大学で語学に対する学生たちの需要というのも、フランス語に関しては皆無に近いということは、残念だけじゃなしに、フランスもそういう事実というものを認めて。私は、それから先どうしろこうしろと言う資格はありませんがね。

 ただ、本当に繰り返して言うけど、タヒチとか、かつてフランスの属領だったところ、今でも植民地かな、あそこに行くと原住民たちは実に合理的にフランス語を変えて使っていますよ。セッタント、ユイッタントということはフランスでは使わないんだけどね。私は、それが生きている言葉だと思うけどね」

「国語の改革」とはまた微妙な論点である。少なくとも右翼の発言とは思えない(ウソだが)。

便利な言い方に変わるのが「生きた言語」なのか,「言葉の乱れ」なのかという論争は常にありうる。日本語の「ら抜き表現」(「食べれる」みたいな慣用表現)のようにである。

フランス人はフランス語に誇りをもつがゆえに,そうした「言葉の乱れ」を警戒するのだ。セッタント,ユイッタント,ヌヴァントなんて許しがたい邪道な数え方なのである。言っておくがベルギーもセッタント,ユイッタントの国で,それがゆえにフランス人には常にバカにされているのである(不当だけどね)。

何しろパソコン用語に政府がいちいち邦訳をつけて回るような国である。ディスプレイは「エクラン」,キーボードは「クラヴィエ」,マウスが「スーリ」などはかわいい方である。ネットワークは「レゾー」だしダウンロードは「テレシャルジェ」だし。文書を保存(セーヴ)することを「ソヴギャルデ」というとはちょっとわかりにくい。厄介なのはこういうのは辞書に載ってないことである。私の知るかぎり,英語のままの名前をもつ周辺機器は,scannerのみである(しかも「スキャネール」とか発音する)。フランスはIT後進国なので,新技術とともに入ってくる単語はいちいち英語だ。政府もさぞかしたいへんだろう。

まあ,こんなことをするのも,ひとえに「ほっとくとヤバい」という危機感があるからである。移民でいろんな文化が入ってくるし,対外的な文化圧力とか,合理化圧力といったものがとても敏感に感じ取られていると思う。

▼私はかつて,ノートをとるのに中国簡体字を使っていたことがある。日本人が使う漢字よりやや画数が少ないので,マシンガントークの先生の言うことを書き取るには便利なものと思われた。がそれを知った中国人の知人に,「簡単だからって,便利だからってそれを使うのか」と言われた。君の国の字を使ってますよ,と言えば喜んでくれるかと思ったらそういう反応で,ちょっと意外だった。

聞けば彼自身,中国政府が文字を簡略化したその政策に不満をもっているようだった。シンプルにするということは合理化するということであり,実用性が増すということではある。しかしながら,失われるものも出てくる。20年もすれば繁体字(台湾で使用されているやつ)を読み書きできない人間がごろごろ出てくるのは目に見えている(いやもともと識字率も高くないが)。それでいいのか,何か大事な文化的なものが失われるのではないか,というのが彼の考えであったと思う。

同様の考え方からだと思うが,フランス人も,フランス語を「守る」ことにはたいへん熱心である。彼らは幼少時から自国語文法をかなりきっちりたたき込まれる。普通の教科書のほかにBescherelleという赤い本があり,こういうので国語文法のお勉強をするのである(ググるとここにちょっとした説明(日本語)が)。この本を開けて見ると,われわれが大学で習うのと全く同じ文法事項が目白押しである。しかもフラ語で(当たり前)。

フランス政府がやっているのは,こちら向きの「努力」なのである。つまり外国人にとって便利だからセッタント,ユイッタントなどに「変えてゆく」という「努力」ではなく,伝統あるフランス固有の言い方であるソワサント・ディス,キャトル・ヴァンを「守ってゆく」という「努力」なのである。

▼それを笑うべきことかどうかはさておこう。ひるがえって,日本の国文法の教育事情たるや惨憺たる現状ではなかろうか。

実は私とその妻は,10年以上受験産業の手先として「国語」を教えてきた(へんなキャリアでしょ)。なので古典文法・現代語文法(正確には教科書文法,したがって概ね大槻・橋本文法)については一定の知識がある。と言うより今の日本で,教える立場でもなければ誰が日本語文法なんて体系的に勉強するだろうか。なので知識量ではおそらくパリの日本人の中では屈指のはずである(思い上がり)。

というわけで先日,妻が「パリで最大」を謳う某日本語学校で2週間の研修を受け,「外国人に対する日本語教育」のディプロムをもらってきた。

その過程で明らかになった衝撃の事実とは。

外国人に日本語を教えるときの文法は,われわれが学校で習う文法とは全く別物だという事実である(正確を期せば,大学で日本文学などをやっている学生のみが,われわれと同じ文法を勉強しているとのこと)。

まず,品詞区分からして違う。例えばわれわれは活用する形容詞と活用しない連体詞を知っているが,これらは皆形容詞に括られる(確かに訳すといっしょになるからね)。それはいいとしても,形容詞の連用形だけが副詞に入れられるのが気持ち悪くて(訳すとそうなるわな)。

で,日本語では動詞は「活用しない」らしい。五段活用などもってのほかである。というのは印欧語での屈折(活用)は,人称と時制によってなされるものだから,日本語のように直後の単語によって活用するというのは,外国人を混乱に陥れるという。

▼全般的に,何でこんななのか。それは「学校文法は外国人にはわかりにくい」からだそうである。ではわかりやすくするにはどうするか。要するに,インド=ヨーロッパ語の文法に対応させるかたちで,日本語を括っていくことである。

こういうのはどうであろうか皆さん。

われわれがフラ語を勉強するときには,いや英語でもいい,それを話す人々も同じ文法を学んでいるのである。しかしながら,日本語を学ぶ外国人は,われわれとは異なる,よりユルい文法体系(だって,うまくまとまるわけないじゃん)を学んでいるのである。確かに,世界3大習得困難な言語と噂される日本語。3種類の文字を頻繁に使い分ける日本語である。外国人に難しいのはわかるが――。

「何で負けてやらんとあかんのか」とは妻の言である。われわれはベシュレルと同じ文法を苦労して勉強しているのにだ。われわれは,とりあえず使える日本語ではなくて,本当の日本語を,一人でも多くの外国人に教えねばならないのではないか。しかしここパリで教えられている日本語は,何かユルユルだぞ。

国辱ものであろう,と私は思う。しかしながら,では学校文法を外国人に粛々と教えることができるかと問われれば,言わせてもらえば私と妻はできるけれど,それ以前にわれわれはまずもって日本語文法をまともに習得した日本人があまりにも少ないということを恥じねばならない。

これではあかんだろう。少なくとも,学校でもっとちゃんと教えようよ。ていうか,すべての大学で入試に出そうよ。そしたらみんなアホのように勉強するにちがいない。実際,私が受験産業の片棒を担いでいた頃は,「入試に出ない」という理由で国文法は疎かにされていたが,きっと今もそうだろう。政府が「大学入試では国文法の問題を○%以上出すこと」という法律でも作ればいいのに。

▼日本語の文法について,日本人がもっと真剣にならねばならない。フランスに住んでいてそういうことを感じる。石原はフランス語文法を不便だ,文句があるならフランス政府に言えと言うが,どちらの政府が自国語を大事にしているかと言えば,答えは明らかなのである。

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