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安倍・中川はなぜアウトなのか

本日,NHK会長「エビジョンイル」こと海老沢会長が辞表を提出するとのこと。NHK番組改変問題はたいへん大きな問題なので,辞任くらいは当然のことだろう。これにとどまらず,事件全体の真相解明が待たれる。

さて今日は,そうした本質的な問題そのものではなく,安倍晋太郎の息子と中川一郎の息子の発言について。何でも例の番組放送直前に,NHKに「偏っているのではないか。公正・公平な報道を」と言っただけ,と主張したという。安倍氏も中川氏も同趣の発言をしているということで,ここでは一緒くたにしつつ,例によって「この発言」をピンポイントで取り上げ,一つお勉強をしよう。

さて,大手メディアでは何となくNHK対朝日新聞の泥仕合として矮小化されつつあるようだが,ネット上を検索してみると,まあいろいろな立場の人がいろいろな意見を開陳している。「朝日がでっちあげ」派とか,「番組が本当に偏向してた」派(自慰史観派だよね)とか,「NHKは死んだ」派とか,「政治家の介入はけしからん」派とか,いろんな人がいる。そして,慰安婦問題そのものや,女性国際戦犯民衆法廷(覚えられない)についてとか,中川氏の面会の日程とか,長井プロデューサーの経歴とか,いろんな細かいことを皆さんよくお調べである。

にもかかわらず,細かいことはすべて抜いたとしても,安倍・中川両氏がくだんの発言をしたというその一事をもって,この人たちはアウトなのである。なぜだろうか。

ここでのキーワードは,察しのよい方にはすでにお見通しのように,「行為遂行的 performative 発話」というやつである。ジョン・L・オースティン(John L. Austin),その弟子のジョン・サール(J. Searle)を筆頭とする「日常言語学派」と呼ばれる流れの概念だ。

▼その解説の前にまず「人工言語学派」の話をかいつまんでしておこう。こちら派は特にバートランド・ラッセルが有名だが,いわゆる「論理実証主義」の考えと深いつながりがある。彼らの考えは実は比較的理解はしやすい。要は「論理」と「実証」の両方を厳密にしましょう,ということだ。というのも日常的にわれわれが使っているコトバ(「日常言語」)はいろいろと曖昧さを含んでいる。そしてそれがありとあらゆる誤解のもととなっているのであり,スムーズな意思疎通・コミュニケーションの障害となっている。だからしてわれわれの使うコトバをもっと曖昧でない,厳密なもの(「人工言語」)に鍛え上げよう。とまあそんな感じなのである。

これはこれで(意図は)よくわかる話で,彼らは要するに「明晰性」をコトバにとって第一義的なものとして求めているのである。この考えによると当然,言葉はその指示対象に一対一対応しなければならない。もし一対多対応だったらその言葉は曖昧だから。一つの発言は,一つ以上のことを意味してはいけないのだ。しかも,その発言たるや「真理値」(つまり,真か偽か)をもたねばならない。彼らにとって真理値をもたない発言(つまり,実証テストにかけられない発言)は,「意味のない」発言である。とまあそういう考えが一方にあることをまず前提としよう。

これに対して日常言語学派は,曖昧でない言語というものの不可能性を論証することを通じて,この言語のもつ曖昧さこそが,実はコトバというものの豊かさなのだ,とするのだ。われわれはただ発話する,というだけではない。だから言われたコトバの真理値が全てなのではない。日常言語学派は,われわれは発話することによって何かをしている,では何をやっているのか,ということを問題にするのである。

例えば,「約束」という行為などは例としてわかりやすい。「明日○時に,××な」「おう」みたいな会話は,実践的(プラティック)である。つまり役に立つ。こういうことを遂行的(パフォーマティブ)であるという。「私は明日何時にどこそこに行く」というようなことは,そもそも未来への言及であることだし,現在において真理値の量りようがない。にもかかわらず,すでに述べたように,「意味のない」会話ではありえない。この発話は「約束」という行為を担うという意味をバッチリもっているのだ。

▼授業でもよく使う例をもう少し。

授業中に,友達が「消しゴムもってる?」とか聞く。これは,おそらくはあなたが消しゴムをもっているかもっていないかという情報について尋ねているのではなく(そういう場合もあるにはある),(もしもっていたら貸してくれ)と「依頼」しているのである。

書斎か何かで仕事中に,妻が「コーヒー入ったよ」とか言う。これは,おそらくはコーヒーが入ったのか入っていないのかについて,前者であるのだという情報を提供しているのではなくて(そういう場合もあるにはある),(ちょっと休まない?)と「勧誘」しているのである。

まあそんな感じである。同様の例を考えてみてほしい。いくらでもあるはずだ。いずれにしても,その場で「正解」であるような解釈は,「文脈」に依存してしまう。コトバの解釈ということにはいろんなレベルがあって,それらのどれもが正解の一部だ。われわれは,その場その場で瞬時にどう解釈するのが最も妥当なのか(どの深さで読むのが正解なのか)を判断している。いわゆる天然ボケの人にはちょっとつらいみたいではあるが。なおベイトソンは,この種の「文脈」を正しく考慮に入れられない人々こそが精神病者であるとした。これはこれで興味深い指摘である。というのも,だとすると精神病者のコトバは日常言語よりもむしろ人工言語に近いことになるのだからだ(詳しくは別の機会に)。

閑話休題,細かいことはともかく日常言語学派の言いたいことは要するに,コトバというのは情報伝達の媒体というにとどまらない,かなり広範囲な人間行為の媒体だということである。もし日常言語を人工言語なんていう激しく単純なシステムに切り縮めたら,われわれの生活は一変してしまうだろう,いや成り立たなくなるだろう,ということである。というわけで興味のある方はオースティンおよびサールにあたって,「発話行為」「発話内行為」「発話媒介行為」の3区分なども参照されたし。

とまれ,「人工言語学派」対「日常言語学派」の争いは,勝負のつかない泥仕合とはわけが違って,現在では日常言語学派の完全勝利と言える状況である。「そこそこ(←ここ重要)厳密ではあるけれど,日常には使えないような言語」など,ちょっとどうしようもない。しかもそれには,論理実証主義と同じ困難がどうしてもつきまとう。その困難とは,全称命題(「すべての物体は引力を伴う」みたいな「すべての」がついた命題)については厳密な検証が原理的に不可能だということ,などにあるが,要するに全部の発言の真理値なんて決められないからである。仮に百歩譲って決められたとしても,その言語でカバーできない人間活動の範囲が広大すぎるのだから,言語研究の方向性が全面的に日常言語のほうにシフトすることはまったく不思議ではない。言い換えれば,両学派の対立を経て,言語というものがいかに量り知れない「豊かさ」をもっているのか,そしてそれはいかなる類の「豊かさ」であるのか,これこそがまさに言語についての本質的な謎となったのだ。現代の言語哲学者~言語学者は,これを日々探究しているのである。

▼さて,ここらへんで安倍氏の発言に戻ろう。いくつかのブログ(例えば偶然目についたここ)では,「安倍氏の『公正中立に』という発言は放送法を読み上げたのと同じだから,政治的『圧力』をかけたとは言えない」としているようである。もうお分かりであろうが,これらのブロガーは(自覚はないだろうが)人工言語学派に与する人たちである。われわれは,いまや人工言語学派の主張は成立しえないことを知っているので,これとは違う結論に至ることになる。

安倍氏の発言が,放送法の「公布」という行為とか,「放送法を書いた紙を差し出す」(上記ブログ参照)というような(?)行為とは全く性質の異なる「行為」であることは明白である。つまり,安倍・中川両氏は,単なる情報伝達の意味でこの言葉を発したのではない。とにかくこの番組の試写を見て,(偏向しているから変えるべきだ)と思って発言したのである。加えて,その文脈において「公正中立に~」と発言することが,いかなる影響力を行使する発話行為であるのかについて,安倍・中川両氏が知りえなかったはずはない。だから言った。だって自分の発言に影響がないと知っていながら,その状況で「一般論」なんか発言するだろうか? ありえない(宮台ふう)。言ったということは,やはり,影響を与えよう(改編させよう)ということを意図しての発話行為であったことに,疑問の余地はないのである。

もしも万が一,両氏が,とても澄んだ心で(全く言外の意図を抱かず)一般論を述べたのだとしたら,それは「NHKならびに世間様の誤解を招いた」というかどで自ら陳謝すべきことではあれ,「歪曲だ」として朝日新聞を訴える理由にはなりえない。そんな場所でそんなことを言えば,「圧力」と解釈されて当然だからね(この点は毎日の社説がさわやかに正解)。

だいたい,政治家なんだから,圧力をかけるのであっても,言質を取られないために表面的に問題のないコトバを選ぶのは当然の戦略だ。だから「無言の」圧力というのである。

いろんな角度から「圧力」でない解釈をしようとしてみても,そうだとすると意味不明の発言ということになってしまって,やっぱりそういうのは考えられないのである。だから,この2人が頭がおかしいのでなければ,この発話行為は,この発言がこの文脈で出てきた以上,やはり「圧力をかける」「誘導する」という「行為」以外の何ものとも解釈しえないのである。

というわけで,この発言だけをとってみればの話だが,裁判的にはどうか知らないけれども,言語哲学的にはレッドカード以外にない。言語哲学者が100人いたら,150人くらいはレッドカードを出すに違いない。こういうことは,難しいテツガクの話と敬遠せずに皆さんに知っておいてほしいことである。

▼私個人としては,政治的な立場的にもこの両氏とはちょっと友達になれないけれど,言い逃れがお粗末なのもいやだ。大物政治家なんだから,言い逃れをするならもっとクレバーにやってほしいものである。それと,とりあえず検閲前のロングバージョンを見たいぞというPublicityさんの記事に賛同。もとは武田徹さんの意見とのこと。

あとブログを見ていると,安倍・中川・NHK批判を「国を貶める行為」とかって憤っている人がやたら多いように見えるが,あれはいったいどういう気持ちなのかな。日本という国が「政治家が放送局に圧力かけてるのに国民がまったく怒らない国」みたいに見られるほうが私はイヤなのだが。文句の一つも言わないと,バカ国民と思われるでしょ(あ,そうか。「不当な仕打ちに文句を言わない奴はバカ」というのはヨーロッパ的考えかもしれない)。ざっとみたところ,そちら陣営の方はおおむね感情論が中心で,とにかく怒っていて,あまり理路整然と論じているふうではなさそうである。もっと説得的に論じてほしいものである。

結論。私が安倍氏の立場だったら,「私は公正中立にと言っただけ」と正直に言わずに,「私は特に何も言っていない」と言っただろう(別に握りつぶせるでしょ? それに,「純粋に一般論を言った」すなわち「世間話をした」だけならこう言ってもぜんぜんウソじゃないわけでしょ)。この発言がこの状況での正解だったのである。というわけでここは安倍くんと中川くん,残念ながら0点。

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