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日本人の英語と大学での英語教育

ガイジン暮らし。日本人としてはやはり外国語の壁というものを強く意識する。日本語は起源からしても韓国語以外に近しい言語のない,孤立した言語である(違いました?)。こればかりは事実だからしかたがない。

さてフランス人の人々は,こちらを日本人と見るや,そしてフランス語がうまくないと見るや,英語に切り換えてきやがる。フランス語修行中の身としてはありがた迷惑である。こういうのは10年前のパリではありえなかった光景である。という意味でこれはこれで感慨深い現象なのであるが,と同時に,連中が「日本人なら英語か?」と考えていることも事実として見て取れるわけである。そうなのか?

蓋し,英語教師の末席を汚し放題に汚している私が言うのも何であるが,日本人の英語も捨てたものではないと思うのである。

例えばよくあるパターンとして,ご主人の仕事の関係でパリに住んでいる奥様方は,突如与り知らぬ事情でパリに送り込まれてきただけなわけで,誰もがフランス語が堪能というわけにはいかない。当然皆さん苦労されている。何しろ日々の買い物がある。学校への子どもの送り迎えがある。学校の先生や,子どもの友達のお母さんとどう意思疎通しよう。というわけで,フランス語がぜんぜんできないのはやはり困ると語学学校などに通われるのが常である。

しかし,まさにその学習の過程においては,フランス語非武装のままマルシェに出陣せねばならないことも多い。そういう奥方たちがどうやって「何とかしている」のかというと,やはり英語を使うのである。

そして,これが,意外なことに,かなり高度な要求も含め,たいていは何とかなるのである。

私の妻も,フランス語についてはまったく丸腰で半年以上を経過したが,店やマルシェでの買い物はもちろん,生きていくうえで必要なことはすべて身振りと英語で乗り切ってきた。英語といってもそれほど流暢なものではない。必要最小限のことを言うまでである。あとは指を差して,これと,これを,これだけ(指を出す)ください,みたいに言う。これでたいていのものは買える。

刺身を食いたいとき,魚屋のおっちゃんに言ってみよう。英語でもいいし,覚えたてのフラ語でもいい。

「ナマで食べれるのはどれですか」。

そしたら教えてくれる。「これと,これ」。

なんだか情けないようでも,それで逆境を十分生きのびて行けるのだから(しかもフランス料理の国で刺身を食うなんて贅沢までできるよ),胸を張ってよいのである。そういう人には「生きる力(笑)」があると言えるのだからである。

文部科学省は「生きる力(笑)」が重要とか何とか言っている。これに照らせば,よく批判される日本の英語教育は現状ですら十分役割を果たしていると私には思われる。だって全くの一般人の英語力(語弊ありますかね)でも海外で生きて行けるということなのだから。突然の外国住まいを強いられたとき,多くの人が何とかやって行けるだけの力をつけている(そりゃ苦労はするだろうけどさ)という動かぬ事実から見れば,現在の英語教育はすでに十分イイのではないか。まさに大学の英語教育として目的を達しているのではないのか。そう思うわけである。

▼コミュニケーションのコツは,しつこく食い下がることだろう。こちらが一生懸命だと,向こうも一生懸命聞き出そうとしてくれる。こちらがうまく言えなくて「えー,あー」とか言っていても,こういうこと?こういうこと?と類推してくれる。重要なのは,コミュニケーションをとろう,とりたいという「姿勢」にほかならないのであって,その姿勢さえあれば細かいやり方は人間ぼちぼち覚えてゆくものなのである。

日本では「協調性があること」が学校などで評価される最大の人格的価値であるが,フランスでは「自己主張ができること」「自分の意思をはっきり言えること」が人格的価値の最大のものなので,まあそもそもガイジンに不利にできているわけだが,そのハンディを克服するためにも「伝わるまでしつこく言い続ける」くらいの根性でちょうどよいわけである。

コミュニケーションというものはえてしてそういうものである。さしあたり店と客の関係であれば,向こうも何か買ってほしいわけだから,向こう側にもコミュニケーションをとろうというインセンティブは働く。

逆に,役所や郵便局などのような,こちらの話など別に聞きたくもないという連中を,こちらの思う通りに動かそうなどと無理なことは考えないほうがよい。そんなことができるのはたぶん日本だけである。その分野は主として「運」が支配する分野である。運悪く相性の悪い相手に当たったら,さっさと引き下がって,別の担当者の列に並ぶのが吉である。これまた一つのおばあちゃんの知恵,「生きる力(笑)」の一つである。

「~語が話せる」などというある種の特殊技能などは,むしろ枝葉末節なのだ。とりあえず話せるだけでは,中身があるとは限らないから。そういう困った人も確かにたくさんいる。このエントリーは,だから,日本人の英語も……というよりは,日本人の「生きる力(笑)」も……という話なのかもしれない。

▼TOEICの点数を上げるための授業を大学でやらんなんという昨今的現実には疑問を感じてきたが,今回フランスに滞在してその思いは強まった。日頃英語を使う必要のない人に,いったいネイティブレベルの英語を教えようというようなことをする必要があるだろうか? 別にないだろう。TOEIC対策授業が役に立つのは,仕事で英語を使うような一部の人間にとってだけだ。むしろ多くの人間には,急に海外赴任が降って湧いても何とかなる程度の実力をつけることこそが,大学でやれる最も的確なサービス提供ではなかろうかと思われる。だいたいそれ以上のことができるためのリソースは,ふつう大学にはないだろう(外大は知りません)。

繰り返すが,ネイティブがペ~ラペラしゃべるのを完璧にヒアリングできないとダメ,とは今の私には思えない。TOEICの点数が高いのはそれはいいことだろうが,そんなことにあんまり意味はない。まくしたてられたら「こっちはガイジンだぜ。ゆっくりしゃべれよ」くらい言えばよいではないか。強気に行こうよ。雰囲気に呑まれてはいけない。それでゆっくりしゃべってくれないようなヒドい相手の話は,そもそも聞かなくてよろしい。相手がネイティブでないときは,さらに条件はイーブンである。相手のほうがデキたとしても,自分もかつては苦労した身ということで,こちらの心をたいへん深く察してくれるものである。そういう体当たりをやってみたことのない者こそが,「使える英語」とか言っているのではないか。

もし本当に「使える英語」というメチャクチャ高度なものを教えるつもりなら,その事業は,マスを相手にしている中学・高校・大学には向いていないのではないかとも思う。どうせのこと,外国語なんて一対一で話さないと話せるようにはならないだろうから。しかしだからといって,学校で英語の時間が全くないのもまずいだろう。あんな何の役に立っているかわからないような授業でも,なければないで人生は全く違ってくる。いや大げさではなくて。現に「そこはかとない」役に立ち方をしている。そしてそういうものこそ,「教養」の名にふさわしいもののはずである。

ともあれ抜本的に状況を変えたければ,やはり幼稚園,小学校からの英語教育ということになるだろう。というのもこちらでできた知人を例に引けば,南米出身なのに英語とフランス語を完璧に話す者が多い。もちろん母語であるスペイン語は構造がフランス語に似ているということもあるが,聞けばやはり小さいころにバリバリたたき込んでいるらしい(しかも小さいからあまり苦痛がないらしい)。「日本語は欧米言語と構造がぜんぜん違うみたいだからたいへんだね」とか何とか話しているうち,「日本人は小学校時代には英語の時間が全くない」と私が言うと,「それだ」と喝破されてしまった。当の外国語の構造が母国語と非常に異なる場合は,早期に習得しないとしんどいのである。言語習得には「臨界期」(それを超えると習得はしんどいんちがう?という時期)というものがある(らしい。反論もあるようだが)。もしこれが本当なら,大学で「使える英語」なんて遅すぎるのである。遅めに高いハードル持ってきてどうする。というわけで,早めに低いハードルを(から順番に)持ってくるのがたぶん正解なのであろう。

▼というかそもそも「大学で習った英語が役に立たない」という「批判」はどこから来るのだろうか。これは「批判」というよりも,私は実はこれは「苦情」とか「文句」の類だと思う。

だいたい,勉強「させられた」としか思っていないから,恨みだけが残るのだ。苦労させられた割には,それで得たわずかのものが役に立たなく感ずる。「もっと役に立つことを教えてくれればよかったのに」。こういう「文句」は,よく子どもが言う「文句」に似ている。「おかあさんは,僕をもっと賢く生んでくれればよかったのに」「私をもっと美人に生んでくれればよかったのに」などなど。

そういうことを言う人間は,やはり,ダメ人間なのである。だいたい自分が勉強したことだぞ。それに文句を言うのか。それに,上に述べたように,大学で得たわずかなものを,現場で必死に駆使し,駆使できている人々がたくさんいるのに,ダメ人間たちはすべてを大学や教師のせいにして,自分が自分のためになすべき努力を省略しようとしている。こういう人間は,ひたすら受動的で他罰的で,したがって幼児的な人間である。「ここにエサを早く入れてください」とばかりに,自分は口を大きくあけて待っているだけの,雛鳥のような人々が最近はデフォルトになりつつあるようで困る。

(ラカンをやっているので思うわけだが,実は例のアラン・ソーカルなどもこの手合いである。自分が理解できないのはすべて相手のせいだというわけだ。本来は,自分の国語力を呪うのが先決なのである。)

「賢者は愚者からも学ぶが,愚者は賢者からも学ばない」(たしか論語)という警句をご存じか。あんたは努力もなしに,魔法みたいなパワーを手渡してもらえると思っているのか。自分が自分で得た知識を(それがいかにわずかであったにせよ)自ら活かそうとしないでどうする。やる気さえ出せば何とかなるだろうに。ツァラツストラはこのように語るのではないだろうか。

皆さん大学時代に勉強したことは「すべて忘れた」とおっしゃるケースが多い。しかし,この英語の例に見られるように,生命の維持に必要な事情がある場合には,その薄れた記憶が賦活されることも大いにありうるのである。私だって学校でしか英語は習っていないぞ。自慢じゃないがフランス語なんて初級を2回も落として中級のほうを先に取ったんだぞ。それでも必要なら何とかしようと思うか思わないかだ。それが「生きる力(笑)」というものなのである。

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