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社会分析学ウェブサイト @中野昌宏研究室 - 2005-01-12

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2005-01-12

私家版・無意識の論理(1)

えー,Tatarさんのおかげで「無意識の論理」の話が盛り上がりかけなので,火種を絶やさないうちに綴っていきたい。自分でもどういう展開になるかわからないインプロビゼイションで行こう。

われわれは,意識的思考はけっこう論理的かなと思っているが,案外そうでもない面もある。意識的思考が全部キッパリ論理的であったなら,論理学の試験などというものは成立しないだろう。みんなちょっと考えれば答えがわかるから。ついでに白状すると,私は安井先生の論理学の試験で100点満点中5点だったことがある。全く勉強していなかったからだが,やっぱり知らなければできないものである。

▼さて,科学哲学者・戸田山和久先生の『論文の教室――レポートから卒論まで』はいろんな意味で名著だと私は思うが,その中に「間違った推論」の例として,たしかこんなのが出てくる(本が手元にないためうろ覚えで申し訳ない)。

前提1 雨が降ったら,地面が濡れる。 (A→B)
前提2 いま,地面が濡れている。 (B)
結論  ∴雨が降ったのだろう。 (∴A)

この推論は,何だかとても自然な推論(三段論法)に見えるけれども,論理学的にはきっちり間違いである。正しい三段論法は,次のような型に沿ったものでなければならない。

前提1 雨が降ったら,地面が濡れる。 (A→B)
前提2 じっさい,雨が降った。 (A)
結論  ∴地面が濡れている。 (∴B)

こういう三段論法の型を専門用語で「モーポネ(笑)」と言う。「モードゥス・ポーネンス modus ponens」の略である。あるいは,別の正しい型は,

前提1 雨が降ったら,地面が濡れる。 (A→B)
前提2 いま,地面は濡れていない。 (¬B)
結論  ∴雨は降らなかった。 (∴¬A)

こちらは「モートレ(笑)」すなわち「モードゥス・トレンス modus tollens」と呼ばれる。

ハアそうですか。ほなサイナラ。と思われるかもしれないが,お楽しみはここからだ。だって不思議に思わないか? 間違っているはずのいちばん上の三段論法,もう一度書くけれど「何だかとても自然」ではないか? てかこういう考え方をすることも普通にあるだろう。あるいはどこが間違いかわからないという方もおられるほどではないか?

おわかりと思うが,「正しい(妥当な)」推論の「正しさ」はとはいかなるものぞ。それは,100%の正しさのことである。いついかなる場合でも,それは100%正しいのである。ここに挙げたモーポネとモートレに関して,例外がありえないことを確認されたし(妥当な推論は他にもあるよ)。雨だとか何だとか天気の話じゃなくても,つまり「A」という空欄と「B」という空欄に何を入れても,この推論の正しさは100%例外なしなのである。

別の角度から言えば,これら100%正しい推論というのは,無味乾燥というか,意味ないというか,何じゃそらあたりまえやないかという印象をどうしても与える。これは「論理的真理」すなわち「トートロジー」のもつ性質から来ている。「論理的に」(「経験的に」でなく)正しいことは,同じような言葉の反復(同義語反復=トートロジー)と同じだ。「Bachelor is an unmarried man」てなもんである。

▼いちばん上の推論で,最後の結論のところで微妙に「だろう」をつけているのはズルかったかな。これはプラクティカルには,目の前の状況から過去の状況を推論するやり方であり,「あたりまえ」とはちょっと言えない気のする推論である。地面が濡れている理由は,雨が降ったということも確かにありうるが,別の可能性もいろいろと排除できないのだ。例えば(見えている範囲だけ)誰かが水をまいた可能性もある。水道管が破裂してあたりが水浸しになっているとか。それでもやはり,いろいろな可能性の中からたぶんこれだろうという選択肢を見つけられる(と思う)ことは,現実問題としては往々にしてある。

いちばん上の「間違った」三段論法のようなのは,現実的な判断として論理的真理=トートロジーよりも役に立ちそうなのが不思議だ。実は,こういうのこそ,「発見的 heuristic」と呼べる方法ではないのか。つまり確実性を犠牲にはするけれども,トートロジーには全くない種類の「発見」がそこにはあるのではないか。

でもって,こいつこそ,チャールズ・サンダース・パース老師の言う「アブダクション」(演繹,帰納に次ぐ第3の推論形式)にほかならなかったりするのである(今年100周年であるアインシュタインの「光の粒子説」(1905)もアブダクションの実例らしい。知らんかったー)。

実際,社会科学でのコンピューター・シミュレーションという方法も,そういう形式をとる場合が多い。コンピューターでは初期条件Aを入れて回せばBという結果が自動的に出てくる。これを現実社会の「(時間発展)モデル」と捉え,その際出てくるBという結果を,現実社会そのもののありように近似するように,Aを調節してやるのである。すると,この考え方で最終的に得られたAこそ,現実社会そのものの「初期条件」と見なしうるものと言えることになる。結局これはBが与えられていてAを探すという場合。これは推論として論理的な真理を構成するものではない。しかしそれでもわれわれにある洞察をもたらすのだ。

世の中にはどうしようもない間違い,箸にも棒にもかからない間違いというのがある。例えばモーポネやモートレの否定形を考えればよい。すなわち,100%間違いであるような推論だ。こういうのは「矛盾」と呼ばれる。なので,「正しい」か「間違い」か,という括りでいけば,「発見的」(といまわれわれが呼んでいる)推論は「間違い」と一緒くたになる。うーむそれはどうだろう。アブダクションみたいなのをこういう箸にも棒にもかからない間違いと同列に「間違い」とするのは,何だかやっぱり抵抗のあることである。それどころかむしろ,ベイトソンなんて「アブダクションを行うことのできぬ世界では,思考はまったく停止してしまう以外にない」(『精神と自然――生きた世界の認識論』)とまで言っているのである。

「発見的」推論は,100%正解でも100%間違いでもない,80%以上ぐらいオッケー的代物である。正しいときもあるし,まあたぶん間違っているときもあるのである。それはつまり,「可能性」「蓋然性」という次元での推論だ。こういうところにかの有名な「様相論理」というものが要請される必然性があるのである(様相論理とは,真偽の二値に加えて「可能的に」「必然的に」といった記号を用い,通常の論理を複雑化・精緻化したもの)。

▼さて,ではわれわれは「発見的」推論ないしアブダクションというものをいかなるものと考えるべきか。そこが次の問題だ。「発見的」推論は,上の例では,モーポネやモートレの一部を反転することでできている。妥当な推論の前提と結論を入れ換えたり,否定形に置き換えたりすることによって成立する推論である。ある意味でこれは単なる思考の混濁なので,「間違い」と言えばそれはそうだが,そこそこ蓋然的だし,何やら発見的でもある(しつこくてすまない)。この種の入れ替えこそ,マッテ-ブランコらの言う「対称性の原理」で説明のつく問題ではないかと思うのである。(つづく)

日本人の英語と大学での英語教育

ガイジン暮らし。日本人としてはやはり外国語の壁というものを強く意識する。日本語は起源からしても韓国語以外に近しい言語のない,孤立した言語である(違いました?)。こればかりは事実だからしかたがない。

さてフランス人の人々は,こちらを日本人と見るや,そしてフランス語がうまくないと見るや,英語に切り換えてきやがる。フランス語修行中の身としてはありがた迷惑である。こういうのは10年前のパリではありえなかった光景である。という意味でこれはこれで感慨深い現象なのであるが,と同時に,連中が「日本人なら英語か?」と考えていることも事実として見て取れるわけである。そうなのか?

蓋し,英語教師の末席を汚し放題に汚している私が言うのも何であるが,日本人の英語も捨てたものではないと思うのである。

例えばよくあるパターンとして,ご主人の仕事の関係でパリに住んでいる奥様方は,突如与り知らぬ事情でパリに送り込まれてきただけなわけで,誰もがフランス語が堪能というわけにはいかない。当然皆さん苦労されている。何しろ日々の買い物がある。学校への子どもの送り迎えがある。学校の先生や,子どもの友達のお母さんとどう意思疎通しよう。というわけで,フランス語がぜんぜんできないのはやはり困ると語学学校などに通われるのが常である。

しかし,まさにその学習の過程においては,フランス語非武装のままマルシェに出陣せねばならないことも多い。そういう奥方たちがどうやって「何とかしている」のかというと,やはり英語を使うのである。

そして,これが,意外なことに,かなり高度な要求も含め,たいていは何とかなるのである。

私の妻も,フランス語についてはまったく丸腰で半年以上を経過したが,店やマルシェでの買い物はもちろん,生きていくうえで必要なことはすべて身振りと英語で乗り切ってきた。英語といってもそれほど流暢なものではない。必要最小限のことを言うまでである。あとは指を差して,これと,これを,これだけ(指を出す)ください,みたいに言う。これでたいていのものは買える。

刺身を食いたいとき,魚屋のおっちゃんに言ってみよう。英語でもいいし,覚えたてのフラ語でもいい。

「ナマで食べれるのはどれですか」。

そしたら教えてくれる。「これと,これ」。

なんだか情けないようでも,それで逆境を十分生きのびて行けるのだから(しかもフランス料理の国で刺身を食うなんて贅沢までできるよ),胸を張ってよいのである。そういう人には「生きる力(笑)」があると言えるのだからである。

文部科学省は「生きる力(笑)」が重要とか何とか言っている。これに照らせば,よく批判される日本の英語教育は現状ですら十分役割を果たしていると私には思われる。だって全くの一般人の英語力(語弊ありますかね)でも海外で生きて行けるということなのだから。突然の外国住まいを強いられたとき,多くの人が何とかやって行けるだけの力をつけている(そりゃ苦労はするだろうけどさ)という動かぬ事実から見れば,現在の英語教育はすでに十分イイのではないか。まさに大学の英語教育として目的を達しているのではないのか。そう思うわけである。

▼コミュニケーションのコツは,しつこく食い下がることだろう。こちらが一生懸命だと,向こうも一生懸命聞き出そうとしてくれる。こちらがうまく言えなくて「えー,あー」とか言っていても,こういうこと?こういうこと?と類推してくれる。重要なのは,コミュニケーションをとろう,とりたいという「姿勢」にほかならないのであって,その姿勢さえあれば細かいやり方は人間ぼちぼち覚えてゆくものなのである。

日本では「協調性があること」が学校などで評価される最大の人格的価値であるが,フランスでは「自己主張ができること」「自分の意思をはっきり言えること」が人格的価値の最大のものなので,まあそもそもガイジンに不利にできているわけだが,そのハンディを克服するためにも「伝わるまでしつこく言い続ける」くらいの根性でちょうどよいわけである。

コミュニケーションというものはえてしてそういうものである。さしあたり店と客の関係であれば,向こうも何か買ってほしいわけだから,向こう側にもコミュニケーションをとろうというインセンティブは働く。

逆に,役所や郵便局などのような,こちらの話など別に聞きたくもないという連中を,こちらの思う通りに動かそうなどと無理なことは考えないほうがよい。そんなことができるのはたぶん日本だけである。その分野は主として「運」が支配する分野である。運悪く相性の悪い相手に当たったら,さっさと引き下がって,別の担当者の列に並ぶのが吉である。これまた一つのおばあちゃんの知恵,「生きる力(笑)」の一つである。

「~語が話せる」などというある種の特殊技能などは,むしろ枝葉末節なのだ。とりあえず話せるだけでは,中身があるとは限らないから。そういう困った人も確かにたくさんいる。このエントリーは,だから,日本人の英語も……というよりは,日本人の「生きる力(笑)」も……という話なのかもしれない。

▼TOEICの点数を上げるための授業を大学でやらんなんという昨今的現実には疑問を感じてきたが,今回フランスに滞在してその思いは強まった。日頃英語を使う必要のない人に,いったいネイティブレベルの英語を教えようというようなことをする必要があるだろうか? 別にないだろう。TOEIC対策授業が役に立つのは,仕事で英語を使うような一部の人間にとってだけだ。むしろ多くの人間には,急に海外赴任が降って湧いても何とかなる程度の実力をつけることこそが,大学でやれる最も的確なサービス提供ではなかろうかと思われる。だいたいそれ以上のことができるためのリソースは,ふつう大学にはないだろう(外大は知りません)。

繰り返すが,ネイティブがペ~ラペラしゃべるのを完璧にヒアリングできないとダメ,とは今の私には思えない。TOEICの点数が高いのはそれはいいことだろうが,そんなことにあんまり意味はない。まくしたてられたら「こっちはガイジンだぜ。ゆっくりしゃべれよ」くらい言えばよいではないか。強気に行こうよ。雰囲気に呑まれてはいけない。それでゆっくりしゃべってくれないようなヒドい相手の話は,そもそも聞かなくてよろしい。相手がネイティブでないときは,さらに条件はイーブンである。相手のほうがデキたとしても,自分もかつては苦労した身ということで,こちらの心をたいへん深く察してくれるものである。そういう体当たりをやってみたことのない者こそが,「使える英語」とか言っているのではないか。

もし本当に「使える英語」というメチャクチャ高度なものを教えるつもりなら,その事業は,マスを相手にしている中学・高校・大学には向いていないのではないかとも思う。どうせのこと,外国語なんて一対一で話さないと話せるようにはならないだろうから。しかしだからといって,学校で英語の時間が全くないのもまずいだろう。あんな何の役に立っているかわからないような授業でも,なければないで人生は全く違ってくる。いや大げさではなくて。現に「そこはかとない」役に立ち方をしている。そしてそういうものこそ,「教養」の名にふさわしいもののはずである。

ともあれ抜本的に状況を変えたければ,やはり幼稚園,小学校からの英語教育ということになるだろう。というのもこちらでできた知人を例に引けば,南米出身なのに英語とフランス語を完璧に話す者が多い。もちろん母語であるスペイン語は構造がフランス語に似ているということもあるが,聞けばやはり小さいころにバリバリたたき込んでいるらしい(しかも小さいからあまり苦痛がないらしい)。「日本語は欧米言語と構造がぜんぜん違うみたいだからたいへんだね」とか何とか話しているうち,「日本人は小学校時代には英語の時間が全くない」と私が言うと,「それだ」と喝破されてしまった。当の外国語の構造が母国語と非常に異なる場合は,早期に習得しないとしんどいのである。言語習得には「臨界期」(それを超えると習得はしんどいんちがう?という時期)というものがある(らしい。反論もあるようだが)。もしこれが本当なら,大学で「使える英語」なんて遅すぎるのである。遅めに高いハードル持ってきてどうする。というわけで,早めに低いハードルを(から順番に)持ってくるのがたぶん正解なのであろう。

▼というかそもそも「大学で習った英語が役に立たない」という「批判」はどこから来るのだろうか。これは「批判」というよりも,私は実はこれは「苦情」とか「文句」の類だと思う。

だいたい,勉強「させられた」としか思っていないから,恨みだけが残るのだ。苦労させられた割には,それで得たわずかのものが役に立たなく感ずる。「もっと役に立つことを教えてくれればよかったのに」。こういう「文句」は,よく子どもが言う「文句」に似ている。「おかあさんは,僕をもっと賢く生んでくれればよかったのに」「私をもっと美人に生んでくれればよかったのに」などなど。

そういうことを言う人間は,やはり,ダメ人間なのである。だいたい自分が勉強したことだぞ。それに文句を言うのか。それに,上に述べたように,大学で得たわずかなものを,現場で必死に駆使し,駆使できている人々がたくさんいるのに,ダメ人間たちはすべてを大学や教師のせいにして,自分が自分のためになすべき努力を省略しようとしている。こういう人間は,ひたすら受動的で他罰的で,したがって幼児的な人間である。「ここにエサを早く入れてください」とばかりに,自分は口を大きくあけて待っているだけの,雛鳥のような人々が最近はデフォルトになりつつあるようで困る。

(ラカンをやっているので思うわけだが,実は例のアラン・ソーカルなどもこの手合いである。自分が理解できないのはすべて相手のせいだというわけだ。本来は,自分の国語力を呪うのが先決なのである。)

「賢者は愚者からも学ぶが,愚者は賢者からも学ばない」(たしか論語)という警句をご存じか。あんたは努力もなしに,魔法みたいなパワーを手渡してもらえると思っているのか。自分が自分で得た知識を(それがいかにわずかであったにせよ)自ら活かそうとしないでどうする。やる気さえ出せば何とかなるだろうに。ツァラツストラはこのように語るのではないだろうか。

皆さん大学時代に勉強したことは「すべて忘れた」とおっしゃるケースが多い。しかし,この英語の例に見られるように,生命の維持に必要な事情がある場合には,その薄れた記憶が賦活されることも大いにありうるのである。私だって学校でしか英語は習っていないぞ。自慢じゃないがフランス語なんて初級を2回も落として中級のほうを先に取ったんだぞ。それでも必要なら何とかしようと思うか思わないかだ。それが「生きる力(笑)」というものなのである。

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