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2005-01
パリの年末年始
- 2005-01-28 (金)
- フランス
いくらなんでもそろそろフランスのことについて何か書かないと,本当にパリにいるのかどうか疑われても仕方がないので,文科省向けに書いておく。ウソ。
ハイ。パリの12月というのは,6日に聖ニコラス(サンタクロースのモデル)の祝日があるので,もう上旬からクリスマス気分である。こちらのツリーは日本のように作り物のやつがデフォルトではなく,本物のもみの木 sapin がデフォルトである。街の花屋の店先にずらっと家庭用のものがならび,親子連れがそれを買っていくのだ。
われわれは名古屋経済大学のレギュラシオン派経済学者であるH田さんご夫妻と途中で合流しながらストラスブールのクリスマス・マーケット Marché de Noël を見てきた。たいへん面白いものが売っているわけではないが,とても風情がある。ムチャクチャ寒かったが。ちなみにツリーをクリスマスに飾る風習はアルザス地方の発祥らしい。
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モース『贈与論』復刊投票のお願い
- 2005-01-25 (火)
- お知らせ
豊後大学の亀井雲右衛門と申します。このたび中野様のご厚意に与りましてこの場をお借りして告知申し上げます。
マルセル・モース『贈与論』は,前世紀の社会学・人類学における紛う方なき不朽の名著でありますが,残念なことに今日これを邦語で読むことができません。もちろんフランス語版や英語版は容易にかつ廉価にて入手できますが,この書の日本語版が書店に並んでおりませんことは,わが国での社会学・人類学・その他隣接諸学にとりまして,大いなる損失となっているところであります。
モースの議論の重要性を認識される「社会分析的ブログ」読者諸賢にありましては,ぜひこの窮状をご賢察のうえ,下記リンク先の復刊投票にご協力いただけますよう,伏してお願いする次第でございます。
社会学と人類学 全2巻(マルセル・モース) 復刊リクエスト投票

どうかよろしくお願いいたします。
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安倍・中川はなぜアウトなのか
- 2005-01-25 (火)
- 時事
本日,NHK会長「エビジョンイル」こと海老沢会長が辞表を提出するとのこと。NHK番組改変問題はたいへん大きな問題なので,辞任くらいは当然のことだろう。これにとどまらず,事件全体の真相解明が待たれる。
さて今日は,そうした本質的な問題そのものではなく,安倍晋太郎の息子と中川一郎の息子の発言について。何でも例の番組放送直前に,NHKに「偏っているのではないか。公正・公平な報道を」と言っただけ,と主張したという。安倍氏も中川氏も同趣の発言をしているということで,ここでは一緒くたにしつつ,例によって「この発言」をピンポイントで取り上げ,一つお勉強をしよう。
さて,大手メディアでは何となくNHK対朝日新聞の泥仕合として矮小化されつつあるようだが,ネット上を検索してみると,まあいろいろな立場の人がいろいろな意見を開陳している。「朝日がでっちあげ」派とか,「番組が本当に偏向してた」派(自慰史観派だよね)とか,「NHKは死んだ」派とか,「政治家の介入はけしからん」派とか,いろんな人がいる。そして,慰安婦問題そのものや,女性国際戦犯民衆法廷(覚えられない)についてとか,中川氏の面会の日程とか,長井プロデューサーの経歴とか,いろんな細かいことを皆さんよくお調べである。
にもかかわらず,細かいことはすべて抜いたとしても,安倍・中川両氏がくだんの発言をしたというその一事をもって,この人たちはアウトなのである。なぜだろうか。
ここでのキーワードは,察しのよい方にはすでにお見通しのように,「行為遂行的 performative 発話」というやつである。ジョン・L・オースティン(John L. Austin),その弟子のジョン・サール(J. Searle)を筆頭とする「日常言語学派」と呼ばれる流れの概念だ。
▼その解説の前にまず「人工言語学派」の話をかいつまんでしておこう。こちら派は特にバートランド・ラッセルが有名だが,いわゆる「論理実証主義」の考えと深いつながりがある。彼らの考えは実は比較的理解はしやすい。要は「論理」と「実証」の両方を厳密にしましょう,ということだ。というのも日常的にわれわれが使っているコトバ(「日常言語」)はいろいろと曖昧さを含んでいる。そしてそれがありとあらゆる誤解のもととなっているのであり,スムーズな意思疎通・コミュニケーションの障害となっている。だからしてわれわれの使うコトバをもっと曖昧でない,厳密なもの(「人工言語」)に鍛え上げよう。とまあそんな感じなのである。
これはこれで(意図は)よくわかる話で,彼らは要するに「明晰性」をコトバにとって第一義的なものとして求めているのである。この考えによると当然,言葉はその指示対象に一対一対応しなければならない。もし一対多対応だったらその言葉は曖昧だから。一つの発言は,一つ以上のことを意味してはいけないのだ。しかも,その発言たるや「真理値」(つまり,真か偽か)をもたねばならない。彼らにとって真理値をもたない発言(つまり,実証テストにかけられない発言)は,「意味のない」発言である。とまあそういう考えが一方にあることをまず前提としよう。
これに対して日常言語学派は,曖昧でない言語というものの不可能性を論証することを通じて,この言語のもつ曖昧さこそが,実はコトバというものの豊かさなのだ,とするのだ。われわれはただ発話する,というだけではない。だから言われたコトバの真理値が全てなのではない。日常言語学派は,われわれは発話することによって何かをしている,では何をやっているのか,ということを問題にするのである。
例えば,「約束」という行為などは例としてわかりやすい。「明日○時に,××な」「おう」みたいな会話は,実践的(プラティック)である。つまり役に立つ。こういうことを遂行的(パフォーマティブ)であるという。「私は明日何時にどこそこに行く」というようなことは,そもそも未来への言及であることだし,現在において真理値の量りようがない。にもかかわらず,すでに述べたように,「意味のない」会話ではありえない。この発話は「約束」という行為を担うという意味をバッチリもっているのだ。
▼授業でもよく使う例をもう少し。
授業中に,友達が「消しゴムもってる?」とか聞く。これは,おそらくはあなたが消しゴムをもっているかもっていないかという情報について尋ねているのではなく(そういう場合もあるにはある),(もしもっていたら貸してくれ)と「依頼」しているのである。
書斎か何かで仕事中に,妻が「コーヒー入ったよ」とか言う。これは,おそらくはコーヒーが入ったのか入っていないのかについて,前者であるのだという情報を提供しているのではなくて(そういう場合もあるにはある),(ちょっと休まない?)と「勧誘」しているのである。
まあそんな感じである。同様の例を考えてみてほしい。いくらでもあるはずだ。いずれにしても,その場で「正解」であるような解釈は,「文脈」に依存してしまう。コトバの解釈ということにはいろんなレベルがあって,それらのどれもが正解の一部だ。われわれは,その場その場で瞬時にどう解釈するのが最も妥当なのか(どの深さで読むのが正解なのか)を判断している。いわゆる天然ボケの人にはちょっとつらいみたいではあるが。なおベイトソンは,この種の「文脈」を正しく考慮に入れられない人々こそが精神病者であるとした。これはこれで興味深い指摘である。というのも,だとすると精神病者のコトバは日常言語よりもむしろ人工言語に近いことになるのだからだ(詳しくは別の機会に)。
閑話休題,細かいことはともかく日常言語学派の言いたいことは要するに,コトバというのは情報伝達の媒体というにとどまらない,かなり広範囲な人間行為の媒体だということである。もし日常言語を人工言語なんていう激しく単純なシステムに切り縮めたら,われわれの生活は一変してしまうだろう,いや成り立たなくなるだろう,ということである。というわけで興味のある方はオースティンおよびサールにあたって,「発話行為」「発話内行為」「発話媒介行為」の3区分なども参照されたし。
とまれ,「人工言語学派」対「日常言語学派」の争いは,勝負のつかない泥仕合とはわけが違って,現在では日常言語学派の完全勝利と言える状況である。「そこそこ(←ここ重要)厳密ではあるけれど,日常には使えないような言語」など,ちょっとどうしようもない。しかもそれには,論理実証主義と同じ困難がどうしてもつきまとう。その困難とは,全称命題(「すべての物体は引力を伴う」みたいな「すべての」がついた命題)については厳密な検証が原理的に不可能だということ,などにあるが,要するに全部の発言の真理値なんて決められないからである。仮に百歩譲って決められたとしても,その言語でカバーできない人間活動の範囲が広大すぎるのだから,言語研究の方向性が全面的に日常言語のほうにシフトすることはまったく不思議ではない。言い換えれば,両学派の対立を経て,言語というものがいかに量り知れない「豊かさ」をもっているのか,そしてそれはいかなる類の「豊かさ」であるのか,これこそがまさに言語についての本質的な謎となったのだ。現代の言語哲学者~言語学者は,これを日々探究しているのである。
▼さて,ここらへんで安倍氏の発言に戻ろう。いくつかのブログ(例えば偶然目についたここ)では,「安倍氏の『公正中立に』という発言は放送法を読み上げたのと同じだから,政治的『圧力』をかけたとは言えない」としているようである。もうお分かりであろうが,これらのブロガーは(自覚はないだろうが)人工言語学派に与する人たちである。われわれは,いまや人工言語学派の主張は成立しえないことを知っているので,これとは違う結論に至ることになる。
安倍氏の発言が,放送法の「公布」という行為とか,「放送法を書いた紙を差し出す」(上記ブログ参照)というような(?)行為とは全く性質の異なる「行為」であることは明白である。つまり,安倍・中川両氏は,単なる情報伝達の意味でこの言葉を発したのではない。とにかくこの番組の試写を見て,(偏向しているから変えるべきだ)と思って発言したのである。加えて,その文脈において「公正中立に~」と発言することが,いかなる影響力を行使する発話行為であるのかについて,安倍・中川両氏が知りえなかったはずはない。だから言った。だって自分の発言に影響がないと知っていながら,その状況で「一般論」なんか発言するだろうか? ありえない(宮台ふう)。言ったということは,やはり,影響を与えよう(改編させよう)ということを意図しての発話行為であったことに,疑問の余地はないのである。
もしも万が一,両氏が,とても澄んだ心で(全く言外の意図を抱かず)一般論を述べたのだとしたら,それは「NHKならびに世間様の誤解を招いた」というかどで自ら陳謝すべきことではあれ,「歪曲だ」として朝日新聞を訴える理由にはなりえない。そんな場所でそんなことを言えば,「圧力」と解釈されて当然だからね(この点は毎日の社説がさわやかに正解)。
だいたい,政治家なんだから,圧力をかけるのであっても,言質を取られないために表面的に問題のないコトバを選ぶのは当然の戦略だ。だから「無言の」圧力というのである。
いろんな角度から「圧力」でない解釈をしようとしてみても,そうだとすると意味不明の発言ということになってしまって,やっぱりそういうのは考えられないのである。だから,この2人が頭がおかしいのでなければ,この発話行為は,この発言がこの文脈で出てきた以上,やはり「圧力をかける」「誘導する」という「行為」以外の何ものとも解釈しえないのである。
というわけで,この発言だけをとってみればの話だが,裁判的にはどうか知らないけれども,言語哲学的にはレッドカード以外にない。言語哲学者が100人いたら,150人くらいはレッドカードを出すに違いない。こういうことは,難しいテツガクの話と敬遠せずに皆さんに知っておいてほしいことである。
▼私個人としては,政治的な立場的にもこの両氏とはちょっと友達になれないけれど,言い逃れがお粗末なのもいやだ。大物政治家なんだから,言い逃れをするならもっとクレバーにやってほしいものである。それと,とりあえず検閲前のロングバージョンを見たいぞというPublicityさんの記事に賛同。もとは武田徹さんの意見とのこと。
あとブログを見ていると,安倍・中川・NHK批判を「国を貶める行為」とかって憤っている人がやたら多いように見えるが,あれはいったいどういう気持ちなのかな。日本という国が「政治家が放送局に圧力かけてるのに国民がまったく怒らない国」みたいに見られるほうが私はイヤなのだが。文句の一つも言わないと,バカ国民と思われるでしょ(あ,そうか。「不当な仕打ちに文句を言わない奴はバカ」というのはヨーロッパ的考えかもしれない)。ざっとみたところ,そちら陣営の方はおおむね感情論が中心で,とにかく怒っていて,あまり理路整然と論じているふうではなさそうである。もっと説得的に論じてほしいものである。
結論。私が安倍氏の立場だったら,「私は公正中立にと言っただけ」と正直に言わずに,「私は特に何も言っていない」と言っただろう(別に握りつぶせるでしょ? それに,「純粋に一般論を言った」すなわち「世間話をした」だけならこう言ってもぜんぜんウソじゃないわけでしょ)。この発言がこの状況での正解だったのである。というわけでここは安倍くんと中川くん,残念ながら0点。
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「公的なもの」の供給をどうする
- 2005-01-18 (火)
- 時事
大学における英語教育の記事にはけっこう反響があった。「ダメ人間」呼ばわりなど我ながら大人げなかったけど。改めてもう少し議論を深めてみよう。
もしも大学における教育を,私的な財・サービスの取引と考えると,「消費者」は大学間での競争を歓迎するであろう。まあそれはそれでいいこともありそうである。
ただ,市場では「よい製品」が売れるとは限らない,という点にはつねに注意する必要がある。あるいは「よい製品」は市場価格に比してコストがかかりすぎるために,市場ではフツーに負けてしまうことも考えられる。
経済学で「公共財」と呼ぶ財/サービスというものがある。こういうのは市場原理からは供給される動機(誘因 incentive)がない。だってそれは定義上儲からない財だからだ(「非競合性」「非排除性」というタームでググッてみよ)。私人にはそんなものを提供する動機はないのだ。逆に言えば,もし「公的なもの」が供給され(てい)るとするなら,その動機は消費者のニーズ云々からはいちおう切り離されていないといけない,つまりダイレクトではいけないのである。
たとえばベタベタな公共財の例として,「公園」や「道路」を思い浮かべるとよい。自分がその土地の所有者だったとしたらどうだろう。マザー・テレサとかでなければ進んでそこを市民の憩いの場にしようとはたぶん思わないだろう。普通は建物を建てて自分が住んだり人に貸したり,駐車場をつくってお金を取ったりして自分の生活の足しにするだろう。
しかし,国家や地方自治体は私人ではないので,国民や自治体民のために必要であると考えられる「公園」や「道路」を設置(供給)することも現実にありうる。し,ないと困る。ような気がする。緑の多い東京からすべての公園がなくなったりしたらけっこうしんどいと思うがいかがか。
ここでのポイントは,たぶんそういう行政のエライ人だろうが,当該の公共財が「必要」であるのかないのかを判断する立場の,生身の人間が誰かいる,ということである。
この人が君子であるならば,市民は「公園」によって(金銭的でないところの)便益を得るだろう。ところが,わけのわからん土建屋とかヤ○ザとかがこの人につけこんだり脅したり圧力をかけたりということもまたできてしまう。最近では「公共事業」と言うとその瞬間マイナスイメージが漂うが,そのイメージはここのところの構造的な欠陥を衝いているのである。「公的なもの」の供給は,このように,諸刃の剣なのだ。
▼このところ話題になっているNHKも,「公共放送」の供給者である。というか,「のはずだった」。私としては割と近しい(と私の方では思っている)知人が2人もアナウンサーになっているので,今回のような「事件」は彼らにまことに気の毒だと思うが,告発者である長井さんという方も勇気があるというか,どうするんだろうというか,彼やその家族の身が心配である。ともかく勇気は讃えたい。
ちょうどきっかり10年前,阪神大震災のまさにその折,NHK神戸放送局から寝グセ頭で中継した彼が,就職前に言っていた言葉が思い出される。彼は自分のNHKへの志望理由をこう説明したのだ。いわく,
民放というのは,営利企業である。営利企業というのは,営業し利益を得ることを目的とした組織である。ところで民放各局の主要な収入源は,広告収入である。民放は広告を放送することによって,スポンサーから対価を得ているのだ。ということは実は,民放の仕事の本義は,番組をではなく,コマーシャルを放送することにあるのだ。逆に番組は,視聴者が怠りなくコマーシャルを見るべく,コマーシャルの合間に流されるエサにすぎないのだ。
言うまでもなくNHKはまったく逆である。NHKは(少なくとも建前としては)受信料で成立している(そんなわけないけど)。NHKこそは,真に国民に「必要な」番組を制作し,提供する唯一の組織なのである。
とまあ彼はこう言ってのけたのだ。忘れもしない,下鴨神社横の「からふね屋」(もうないみたい)で。
これを聞いて,私はいたく納得した。皆さんはいかがだろうか。作田先生がここで言われていることに近いようだ。もちろん,営利企業たる民放各局の意義がこの理屈で全否定されるとは思わないし,面白おかしい番組はそれはそれで必要なものである。私自身たいへん好きである。しかし,だからこそというべきか,一方でNHKのような純「公共放送」もやはりなくてはならないものだと得心し感じ入ったのである。種類の違うもの,意義の違うものはいろいろあったほうがきっとよいだろうから。
別の比喩をもってくれば,私は(リアルワールドで)つねづね申し上げているのであるが,この民放とNHKの違いは,定食屋と「料理の鉄人」の違いに似ているのである。つまり両者の違いは,定食屋は客が欲しているものを出すにすぎないのに対し,料理の鉄人は客が欲したことも(想像したことも)ないような,しかし結果的に喜ばしいものを出す,ということに対応している。もちろんこれは定食屋さんより料理の鉄人の方がエライということにはならないはずだ。料理人が全員鉄人でもちょっとオカシイでしょ。それに創造的な作品の中にはハズレがたくさんある。そうではなくて言いたいのは,やってる仕事の種類が似ていて違う,ということである。この手の比喩はいくらでもあって,例えば職人vs.芸術家と言ってもいいだろう。決まりきったパターンを正確に反復する仕事も必要であり,同時に二度とは作れない一回的なものを生み出す仕事もまた必要だ。
▼話を高等教育に戻そう。上にも述べたように,「公的なもの」の供給は消費者ニーズとは別の原理から動機づけられていなければならない。「公的なもの」とは,単純にすでに消費者の頭の中にある欠如(want)の一対一対応物ではない。もし「学生のニーズ」を100%反映する大学ができたとしたら,それは従来の「大学」とは趣旨の違うものになるだろう。それはおそらく職業訓練校とか自動車教習所とかそろばん教室のようなものになるのではないか。ロースクールも,ハイブローだけれど職業に直結するという意味ではこれは職業訓練校である。しつこいようだがそういうのをバカにするのも間違いで,フランスにはuniversitéとは別に職業別のgrandes écolesとか,ENAみたいな特殊な職業訓練校というべきものが存在する。やっぱりそれはそれで必要なのだ。
しかし,それはいいとして,われわれがこのところ抱いているのは,マジで日本から「大学」がなくなる,という危機感なのだ。誰も考えたことがないことについて考えることのできる空間と,それを支える人々と,その営為から紡ぎ出されるえも言われぬ「何か」は,「必要」なのか否か。われわれは「必要ある」と答える(だからそういう職業選択をしたわけで)。しかし世間はけっこうあっさり「必要ない」と答える。われわれは圧倒的な少数派だ。これは困った。
本当は,「大学」は,次世代の国民を教育するための「公共」サービスであるはずである。大学に行った人だけが利益を得るわけではなく,大学に行った人も行っていない人も,国民全体が直接・間接に恩恵を得るのだという思想が教育という「公的なもの」政策のベースには必要だ。逆に,大学に行った人と行かなかった人とのあいだに文化資本の蓄積とか貧富の差の増大があってはそういう思想は崩れてしまう。そして「受益者負担」とかいう貧乏くさい言葉が流布するようになる。ホンマに「貧乏」なのと精神が「貧乏くさい」のは違うつもりなので念のため。
なお,「教育」が必要だと世間をして思わしめなかった大学人にも責任があるのではという声も聞かれる。まあ一理はある。上の世代のことは私は責任とれないけど。これから責任負いますけど。しかし文系の場合は,しばしば政府当局にとってはうるさい批判をしてくる「サヨク」どもにすぎず,学者が政府に嫌われるのは能力とか立場の問題ではなくむしろ構造的な問題である。だから政府がそういう自分をいつまでも飼い続けてくれると考える方がおかしい。それだけは確かである(ちなみに竹中さんは学者というよりは……)。でもって,われわれは政府に嫌われてもいいから大衆にウケないといけない,というジレンマにハマらざるを得ない。でないと今後は生活が不安定になるから。でこれというのは市場主義にまたしても落ちるパスなのである。残念。
▼皆さん大学に授業料を払うので(しかもこれから青天井につり上がるだろうので),元を取ろうと考えていらっしゃるようだが,それはなかなか難しいと思う。私は皆さんが大学に払う授業料は,大学という施設の利用権の対価と,学位(学歴)の対価だと割り切るようおすすめする。個々の授業に一つ一つ単価があると考えると,ムカついてやっていられないと思う。面白い授業だけ出てそいつはそれなりに勉強し,面白くない授業は徹底的に手を抜いてノートを借りて済ませばよいではないか。出席は代返をできる限り利用すること。代返の利かない授業は,これはしょうがない,あきらめるしかない。その時間そこに座ることが単位をもらうという「仕事」の一部と考えればまあ我慢できよう。教員の教科書を無理やり買わされることもあるが,それも金銭でカタのつく話,単位をカネで買おうというのだからもともとそういうものだとあきらめもつく。
要は,自分が大学を(カネを払った分だけ)好きに利用するのであって,その逆ではないということである。自分が客であるということをゆめゆめ忘れないよう,「能動性」を発揮してほしいわけだ(この発想は関西人ゆえなのか?)。使いこなしてこそ,くだらなすぎてどうしようもない大学ですら有用(ないよりはまし)になる。逆にそうしようとしなければ,ダメ大学はダメ大学のままである。宝くじは買わなければ当たらない。前回,そういう気の全くない受動的な人,ただサービスを待っているマグロ状態の人々を「ダメ人間」呼ばわりしたのはこの意味でである。
なお,「授業がめんどくさい」という不届きな教員に対しては,「じゃあ授業は要りませんから単位だけくださいよ(先生がまともに授業をしていないことは教務には黙っときますから)」などと,相互の利害の一致するような悪魔的提案をしてみるテストをすすめる(ものの言い方というのもあるから上手にやってね)。まあどうせ教員もそこまでする(授業そのものを闇に葬る)ほどの覚悟はない小心者だからそういう姑息なことをするのであろうが。それにしてもこれからはそんなのがチクられたら教員もただでは済まない(と思う)ので,なにかと学生側が優位に交渉できると思う。
ちなみに授業料値上げに関して言うと,どっかで読んだ記事にあったことだが,「これから授業料をだんだん下げてゆく予定のない国」は,日本以外には,たしかブルキナファソルワンダとマダガスカル?だけだったと思う。記憶に自信がないのでウラを取ってほしいが。ええ,これらの国々をバカにする気はないけれど,先進国(笑)としてこういうのと同じでいいのかっていう話ではある。ともかく赤旗なんかはそれでなくても日本の授業料は世界一と言っているし,だいたい少子化への強い追い風になってしまうのは明らかなので,政策当局者はよく考えてもらいたいものである。
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コメント欄の書き方
- 2005-01-13 (木)
- お知らせ
ブログの設定を変更して,コメント欄の書き方が変わりましたのでご連絡します。
この変更により,
- 従来改行は反映されませんでしたが,反映されるようになります。
- HTMLはまるで使えなくなります。
- URLはナマで書くとそのままリンクに化けます。
一番目の点について補足しますと,改行が1個入るとbrタグとして,2個つづくとpタグとして解釈されるようです。ですから段落を変えるときは,段落と段落のあいだを1行あけるようにして書くと,幸せになれると思います。よろしくお願いいたします。
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私家版・無意識の論理(1)
- 2005-01-12 (水)
- 研究
えー,Tatarさんのおかげで「無意識の論理」の話が盛り上がりかけなので,火種を絶やさないうちに綴っていきたい。自分でもどういう展開になるかわからないインプロビゼイションで行こう。
われわれは,意識的思考はけっこう論理的かなと思っているが,案外そうでもない面もある。意識的思考が全部キッパリ論理的であったなら,論理学の試験などというものは成立しないだろう。みんなちょっと考えれば答えがわかるから。ついでに白状すると,私は安井先生の論理学の試験で100点満点中5点だったことがある。全く勉強していなかったからだが,やっぱり知らなければできないものである。
▼さて,科学哲学者・戸田山和久先生の『論文の教室――レポートから卒論まで』はいろんな意味で名著だと私は思うが,その中に「間違った推論」の例として,たしかこんなのが出てくる(本が手元にないためうろ覚えで申し訳ない)。
前提1 雨が降ったら,地面が濡れる。 (A→B)
前提2 いま,地面が濡れている。 (B)
結論 ∴雨が降ったのだろう。 (∴A)
この推論は,何だかとても自然な推論(三段論法)に見えるけれども,論理学的にはきっちり間違いである。正しい三段論法は,次のような型に沿ったものでなければならない。
前提1 雨が降ったら,地面が濡れる。 (A→B)
前提2 じっさい,雨が降った。 (A)
結論 ∴地面が濡れている。 (∴B)
こういう三段論法の型を専門用語で「モーポネ(笑)」と言う。「モードゥス・ポーネンス modus ponens」の略である。あるいは,別の正しい型は,
前提1 雨が降ったら,地面が濡れる。 (A→B)
前提2 いま,地面は濡れていない。 (¬B)
結論 ∴雨は降らなかった。 (∴¬A)
こちらは「モートレ(笑)」すなわち「モードゥス・トレンス modus tollens」と呼ばれる。
ハアそうですか。ほなサイナラ。と思われるかもしれないが,お楽しみはここからだ。だって不思議に思わないか? 間違っているはずのいちばん上の三段論法,もう一度書くけれど「何だかとても自然」ではないか? てかこういう考え方をすることも普通にあるだろう。あるいはどこが間違いかわからないという方もおられるほどではないか?
おわかりと思うが,「正しい(妥当な)」推論の「正しさ」はとはいかなるものぞ。それは,100%の正しさのことである。いついかなる場合でも,それは100%正しいのである。ここに挙げたモーポネとモートレに関して,例外がありえないことを確認されたし(妥当な推論は他にもあるよ)。雨だとか何だとか天気の話じゃなくても,つまり「A」という空欄と「B」という空欄に何を入れても,この推論の正しさは100%例外なしなのである。
別の角度から言えば,これら100%正しい推論というのは,無味乾燥というか,意味ないというか,何じゃそらあたりまえやないかという印象をどうしても与える。これは「論理的真理」すなわち「トートロジー」のもつ性質から来ている。「論理的に」(「経験的に」でなく)正しいことは,同じような言葉の反復(同義語反復=トートロジー)と同じだ。「Bachelor is an unmarried man」てなもんである。
▼いちばん上の推論で,最後の結論のところで微妙に「だろう」をつけているのはズルかったかな。これはプラクティカルには,目の前の状況から過去の状況を推論するやり方であり,「あたりまえ」とはちょっと言えない気のする推論である。地面が濡れている理由は,雨が降ったということも確かにありうるが,別の可能性もいろいろと排除できないのだ。例えば(見えている範囲だけ)誰かが水をまいた可能性もある。水道管が破裂してあたりが水浸しになっているとか。それでもやはり,いろいろな可能性の中からたぶんこれだろうという選択肢を見つけられる(と思う)ことは,現実問題としては往々にしてある。
いちばん上の「間違った」三段論法のようなのは,現実的な判断として論理的真理=トートロジーよりも役に立ちそうなのが不思議だ。実は,こういうのこそ,「発見的 heuristic」と呼べる方法ではないのか。つまり確実性を犠牲にはするけれども,トートロジーには全くない種類の「発見」がそこにはあるのではないか。
でもって,こいつこそ,チャールズ・サンダース・パース老師の言う「アブダクション」(演繹,帰納に次ぐ第3の推論形式)にほかならなかったりするのである(今年100周年であるアインシュタインの「光の粒子説」(1905)もアブダクションの実例らしい。知らんかったー)。
実際,社会科学でのコンピューター・シミュレーションという方法も,そういう形式をとる場合が多い。コンピューターでは初期条件Aを入れて回せばBという結果が自動的に出てくる。これを現実社会の「(時間発展)モデル」と捉え,その際出てくるBという結果を,現実社会そのもののありように近似するように,Aを調節してやるのである。すると,この考え方で最終的に得られたAこそ,現実社会そのものの「初期条件」と見なしうるものと言えることになる。結局これはBが与えられていてAを探すという場合。これは推論として論理的な真理を構成するものではない。しかしそれでもわれわれにある洞察をもたらすのだ。
世の中にはどうしようもない間違い,箸にも棒にもかからない間違いというのがある。例えばモーポネやモートレの否定形を考えればよい。すなわち,100%間違いであるような推論だ。こういうのは「矛盾」と呼ばれる。なので,「正しい」か「間違い」か,という括りでいけば,「発見的」(といまわれわれが呼んでいる)推論は「間違い」と一緒くたになる。うーむそれはどうだろう。アブダクションみたいなのをこういう箸にも棒にもかからない間違いと同列に「間違い」とするのは,何だかやっぱり抵抗のあることである。それどころかむしろ,ベイトソンなんて「アブダクションを行うことのできぬ世界では,思考はまったく停止してしまう以外にない」(『精神と自然――生きた世界の認識論』)とまで言っているのである。
「発見的」推論は,100%正解でも100%間違いでもない,80%以上ぐらいオッケー的代物である。正しいときもあるし,まあたぶん間違っているときもあるのである。それはつまり,「可能性」「蓋然性」という次元での推論だ。こういうところにかの有名な「様相論理」というものが要請される必然性があるのである(様相論理とは,真偽の二値に加えて「可能的に」「必然的に」といった記号を用い,通常の論理を複雑化・精緻化したもの)。
▼さて,ではわれわれは「発見的」推論ないしアブダクションというものをいかなるものと考えるべきか。そこが次の問題だ。「発見的」推論は,上の例では,モーポネやモートレの一部を反転することでできている。妥当な推論の前提と結論を入れ換えたり,否定形に置き換えたりすることによって成立する推論である。ある意味でこれは単なる思考の混濁なので,「間違い」と言えばそれはそうだが,そこそこ蓋然的だし,何やら発見的でもある(しつこくてすまない)。この種の入れ替えこそ,マッテ-ブランコらの言う「対称性の原理」で説明のつく問題ではないかと思うのである。(つづく)
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日本人の英語と大学での英語教育
- 2005-01-12 (水)
- 雑文
ガイジン暮らし。日本人としてはやはり外国語の壁というものを強く意識する。日本語は起源からしても韓国語以外に近しい言語のない,孤立した言語である(違いました?)。こればかりは事実だからしかたがない。
さてフランス人の人々は,こちらを日本人と見るや,そしてフランス語がうまくないと見るや,英語に切り換えてきやがる。フランス語修行中の身としてはありがた迷惑である。こういうのは10年前のパリではありえなかった光景である。という意味でこれはこれで感慨深い現象なのであるが,と同時に,連中が「日本人なら英語か?」と考えていることも事実として見て取れるわけである。そうなのか?
蓋し,英語教師の末席を汚し放題に汚している私が言うのも何であるが,日本人の英語も捨てたものではないと思うのである。
例えばよくあるパターンとして,ご主人の仕事の関係でパリに住んでいる奥様方は,突如与り知らぬ事情でパリに送り込まれてきただけなわけで,誰もがフランス語が堪能というわけにはいかない。当然皆さん苦労されている。何しろ日々の買い物がある。学校への子どもの送り迎えがある。学校の先生や,子どもの友達のお母さんとどう意思疎通しよう。というわけで,フランス語がぜんぜんできないのはやはり困ると語学学校などに通われるのが常である。
しかし,まさにその学習の過程においては,フランス語非武装のままマルシェに出陣せねばならないことも多い。そういう奥方たちがどうやって「何とかしている」のかというと,やはり英語を使うのである。
そして,これが,意外なことに,かなり高度な要求も含め,たいていは何とかなるのである。
私の妻も,フランス語についてはまったく丸腰で半年以上を経過したが,店やマルシェでの買い物はもちろん,生きていくうえで必要なことはすべて身振りと英語で乗り切ってきた。英語といってもそれほど流暢なものではない。必要最小限のことを言うまでである。あとは指を差して,これと,これを,これだけ(指を出す)ください,みたいに言う。これでたいていのものは買える。
刺身を食いたいとき,魚屋のおっちゃんに言ってみよう。英語でもいいし,覚えたてのフラ語でもいい。
「ナマで食べれるのはどれですか」。
そしたら教えてくれる。「これと,これ」。
なんだか情けないようでも,それで逆境を十分生きのびて行けるのだから(しかもフランス料理の国で刺身を食うなんて贅沢までできるよ),胸を張ってよいのである。そういう人には「生きる力(笑)」があると言えるのだからである。
文部科学省は「生きる力(笑)」が重要とか何とか言っている。これに照らせば,よく批判される日本の英語教育は現状ですら十分役割を果たしていると私には思われる。だって全くの一般人の英語力(語弊ありますかね)でも海外で生きて行けるということなのだから。突然の外国住まいを強いられたとき,多くの人が何とかやって行けるだけの力をつけている(そりゃ苦労はするだろうけどさ)という動かぬ事実から見れば,現在の英語教育はすでに十分イイのではないか。まさに大学の英語教育として目的を達しているのではないのか。そう思うわけである。
▼コミュニケーションのコツは,しつこく食い下がることだろう。こちらが一生懸命だと,向こうも一生懸命聞き出そうとしてくれる。こちらがうまく言えなくて「えー,あー」とか言っていても,こういうこと?こういうこと?と類推してくれる。重要なのは,コミュニケーションをとろう,とりたいという「姿勢」にほかならないのであって,その姿勢さえあれば細かいやり方は人間ぼちぼち覚えてゆくものなのである。
日本では「協調性があること」が学校などで評価される最大の人格的価値であるが,フランスでは「自己主張ができること」「自分の意思をはっきり言えること」が人格的価値の最大のものなので,まあそもそもガイジンに不利にできているわけだが,そのハンディを克服するためにも「伝わるまでしつこく言い続ける」くらいの根性でちょうどよいわけである。
コミュニケーションというものはえてしてそういうものである。さしあたり店と客の関係であれば,向こうも何か買ってほしいわけだから,向こう側にもコミュニケーションをとろうというインセンティブは働く。
逆に,役所や郵便局などのような,こちらの話など別に聞きたくもないという連中を,こちらの思う通りに動かそうなどと無理なことは考えないほうがよい。そんなことができるのはたぶん日本だけである。その分野は主として「運」が支配する分野である。運悪く相性の悪い相手に当たったら,さっさと引き下がって,別の担当者の列に並ぶのが吉である。これまた一つのおばあちゃんの知恵,「生きる力(笑)」の一つである。
「~語が話せる」などというある種の特殊技能などは,むしろ枝葉末節なのだ。とりあえず話せるだけでは,中身があるとは限らないから。そういう困った人も確かにたくさんいる。このエントリーは,だから,日本人の英語も……というよりは,日本人の「生きる力(笑)」も……という話なのかもしれない。
▼TOEICの点数を上げるための授業を大学でやらんなんという昨今的現実には疑問を感じてきたが,今回フランスに滞在してその思いは強まった。日頃英語を使う必要のない人に,いったいネイティブレベルの英語を教えようというようなことをする必要があるだろうか? 別にないだろう。TOEIC対策授業が役に立つのは,仕事で英語を使うような一部の人間にとってだけだ。むしろ多くの人間には,急に海外赴任が降って湧いても何とかなる程度の実力をつけることこそが,大学でやれる最も的確なサービス提供ではなかろうかと思われる。だいたいそれ以上のことができるためのリソースは,ふつう大学にはないだろう(外大は知りません)。
繰り返すが,ネイティブがペ~ラペラしゃべるのを完璧にヒアリングできないとダメ,とは今の私には思えない。TOEICの点数が高いのはそれはいいことだろうが,そんなことにあんまり意味はない。まくしたてられたら「こっちはガイジンだぜ。ゆっくりしゃべれよ」くらい言えばよいではないか。強気に行こうよ。雰囲気に呑まれてはいけない。それでゆっくりしゃべってくれないようなヒドい相手の話は,そもそも聞かなくてよろしい。相手がネイティブでないときは,さらに条件はイーブンである。相手のほうがデキたとしても,自分もかつては苦労した身ということで,こちらの心をたいへん深く察してくれるものである。そういう体当たりをやってみたことのない者こそが,「使える英語」とか言っているのではないか。
もし本当に「使える英語」というメチャクチャ高度なものを教えるつもりなら,その事業は,マスを相手にしている中学・高校・大学には向いていないのではないかとも思う。どうせのこと,外国語なんて一対一で話さないと話せるようにはならないだろうから。しかしだからといって,学校で英語の時間が全くないのもまずいだろう。あんな何の役に立っているかわからないような授業でも,なければないで人生は全く違ってくる。いや大げさではなくて。現に「そこはかとない」役に立ち方をしている。そしてそういうものこそ,「教養」の名にふさわしいもののはずである。
ともあれ抜本的に状況を変えたければ,やはり幼稚園,小学校からの英語教育ということになるだろう。というのもこちらでできた知人を例に引けば,南米出身なのに英語とフランス語を完璧に話す者が多い。もちろん母語であるスペイン語は構造がフランス語に似ているということもあるが,聞けばやはり小さいころにバリバリたたき込んでいるらしい(しかも小さいからあまり苦痛がないらしい)。「日本語は欧米言語と構造がぜんぜん違うみたいだからたいへんだね」とか何とか話しているうち,「日本人は小学校時代には英語の時間が全くない」と私が言うと,「それだ」と喝破されてしまった。当の外国語の構造が母国語と非常に異なる場合は,早期に習得しないとしんどいのである。言語習得には「臨界期」(それを超えると習得はしんどいんちがう?という時期)というものがある(らしい。反論もあるようだが)。もしこれが本当なら,大学で「使える英語」なんて遅すぎるのである。遅めに高いハードル持ってきてどうする。というわけで,早めに低いハードルを(から順番に)持ってくるのがたぶん正解なのであろう。
▼というかそもそも「大学で習った英語が役に立たない」という「批判」はどこから来るのだろうか。これは「批判」というよりも,私は実はこれは「苦情」とか「文句」の類だと思う。
だいたい,勉強「させられた」としか思っていないから,恨みだけが残るのだ。苦労させられた割には,それで得たわずかのものが役に立たなく感ずる。「もっと役に立つことを教えてくれればよかったのに」。こういう「文句」は,よく子どもが言う「文句」に似ている。「おかあさんは,僕をもっと賢く生んでくれればよかったのに」「私をもっと美人に生んでくれればよかったのに」などなど。
そういうことを言う人間は,やはり,ダメ人間なのである。だいたい自分が勉強したことだぞ。それに文句を言うのか。それに,上に述べたように,大学で得たわずかなものを,現場で必死に駆使し,駆使できている人々がたくさんいるのに,ダメ人間たちはすべてを大学や教師のせいにして,自分が自分のためになすべき努力を省略しようとしている。こういう人間は,ひたすら受動的で他罰的で,したがって幼児的な人間である。「ここにエサを早く入れてください」とばかりに,自分は口を大きくあけて待っているだけの,雛鳥のような人々が最近はデフォルトになりつつあるようで困る。
(ラカンをやっているので思うわけだが,実は例のアラン・ソーカルなどもこの手合いである。自分が理解できないのはすべて相手のせいだというわけだ。本来は,自分の国語力を呪うのが先決なのである。)
「賢者は愚者からも学ぶが,愚者は賢者からも学ばない」(たしか論語)という警句をご存じか。あんたは努力もなしに,魔法みたいなパワーを手渡してもらえると思っているのか。自分が自分で得た知識を(それがいかにわずかであったにせよ)自ら活かそうとしないでどうする。やる気さえ出せば何とかなるだろうに。ツァラツストラはこのように語るのではないだろうか。
皆さん大学時代に勉強したことは「すべて忘れた」とおっしゃるケースが多い。しかし,この英語の例に見られるように,生命の維持に必要な事情がある場合には,その薄れた記憶が賦活されることも大いにありうるのである。私だって学校でしか英語は習っていないぞ。自慢じゃないがフランス語なんて初級を2回も落として中級のほうを先に取ったんだぞ。それでも必要なら何とかしようと思うか思わないかだ。それが「生きる力(笑)」というものなのである。
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